そして、悪役令嬢は私になった。
どうしようもなく好きだった、彼のことが。
わたくしたちの関係は、婚約者。それも、政略によるものでした。
それでもわたくしは構いませんでした。一目見たときから彼に恋をして、彼の傍に居ることができるだけで、十分でした。例え彼がわたくしを見てくれなくても、いつか、その笑顔を、ほんの少しだけわたくしに向けてくれれば、誰よりも幸せになれると、信じていました。
この関係は政略の元に成り立つだけあり、わたくしたちの婚約は、わたくしたちの心だけでどうにかなるものではなかったのです。わたくしは分かっていました。彼の心はわたくしに向いていないということを。それでも良かったのです。他の誰かを愛そうとも、形だけは傍にいてくれれば、表面上は穏やかに事が進むことを分かっていましたから。愛する人に幸せになってほしい、愛する人に自分の傍に居てほしい、という相反する気持ちを抱え、眠れぬ夜を過ごしました。
彼の隣にいる彼女について、何も思わないと言えば嘘になります。けれど、それも仕方のないことだと自分自身に言い聞かせて、なにもせずに、穏やかに振る舞っていました。
なのに、何故。
「私は君に失望したよ、エミリア。」
どうして貴方は、そんなに冷たい目でわたくしを見るのですか。
彼の口から発される言葉は、身に覚えのない言葉ばかり。
わたくしは、わたくしは貴方を愛しているからこそ、彼女には一切何もしなかったというのに。ただ見守って、穏やかに、知らない振りをしていたというのに。
どうして肯定してしまうのですか。
わたくしが何を言おうと聞く耳を持たず、わたくしを責め立てる言葉ばかり。
この先彼が何を言うのか想像するのは簡単です。
その言葉は決して冗談でも言ってはいけないし、それに、わたくし自身、彼からその言葉を聞いたら平常心を保てなくなるでしょう。
だから、彼女を愛するのは構わないから、言わないで。
わたくしは貴方の愛なんておこがましいものを望んでいません。ただ、貴方の幸せと、そこに私の存在が少しでもあれば、それで良いのです。身勝手なことは分かっています。本当に愛しているなら―――この婚約が、純粋な心で解消できるものなら、わたくしは身を引いていたでしょう。
必死に言葉を紡いでも、わたくしの言葉は届きません。
だから、彼は言ってしまうのです。
「私は彼女のことを愛しているんだ。
―――……だから、君との婚約は破棄させて貰う」
がしゃり、と硝子が壊れる音がした。
▽
私がこの世界を再び認識した時、私は図書館から見下ろした先にいる男女を真っ直ぐと見つめ、涙を流していた。頭には忙しなく今までの記憶と私の記憶が流れ込んでくる。私はそれに混乱することはなく、ただ今を受け入れ、理解した。
「嗚呼、可哀想なエミリア」
彼女は美しく、そして、脆いあまり壊れてしまったのだろう。これから務める役目さえ放棄して。否、壊れたというより、もういなくなってしまった。
私がこの世界に生を受けて、自我を持ち、自らの状況を把握した時には、自分が『転生者』だということを十分に理解していた。この世界は私が前世読んでいたファンタジー恋愛小説の世界で、私、公爵令嬢エミリアは、ヒーローの婚約者でヒロインの恋敵、所謂悪役令嬢だったのだ。
この世界で始まる物語は、一国の王子と平民の少女の恋物語。魔法という概念が存在するこの国は、大いに魔法の恩恵を受けて成り立っていた。魔法には光・闇・炎・水・雷・地・風という七つの属性があり、その中でも光と闇は特別な時にしか生まれない。残りの五つを司る一番の魔術師は五帝と呼ばれ、代々その称号を彼らの中で受け継いでいた。魔法によって恵まれたといっても、必ずしも全員が魔法を使えるというわけではない。使えるのはほんの一握り。ただ、その一握りの、魔法が使える住民は、学園に必ず通うことになっている。そこで魔法についてや、必要最低限の知識を学ぶのだ。無論、平民であれど魔法が使えるのなら義務として通わなければならない。その学園で出会うのが、この国の王子、物語のヒーローであるアランと、ひょんなことから魔法が使えることが判明して学園に入学したヒロインのシーラだ。
初めは相反する身分から衝突をしたりしていた二人だが、次第に惹かれ合って、やがて恋に落ちる。そこで障害になるのが、私、エミリアだ。
エミリアとアランは政略的な目的で婚約を結ばれたが、エミリアは本気でアランのことを愛していた。だからこそ、シーラとアランの仲を認めなかったのだ。具体的には、言葉でそれを言ったり、何かとヒロインに張り合ったりと、可愛い部類だと思うけれど。
前世の私はエミリアのことが結構好きだったし、「あんな男なんてやめておけばいいのに。私ならもっと幸せになるようにするのに」と言っていたものだ。だって、婚約者がいる状態で平民の少女といちゃついて、そしてエミリアに文句を付けて別れようとするなんて、酷い男じゃない?まだ頭を下げたりして誠意を見せるならまだしも。そんな男を一途に想っていたエミリアは可哀想だと思ったし、嫌いにはなれなかった。
―――なにより、酷く婚約破棄されたことで傷心したエミリアが、闇の魔術師に心を操られ、それを救ってもらったから彼らを認めて改心してしまう、というのがどうしても許せなかった。
エミリアは特別な魔法を使える人間だ。だから、この国の王子と結婚させることによって、国の平和を守ろうとしていた。万が一が起こらないようにという、そういう意図があった。そんなエミリアの強さは規格外なので、そこを魔術師に目をつけられたのだろう。
では何故そんなエミリアを救うことができたのか?それは簡単である。シーラが、実は光の魔法を使うことができる者だった、という、実にありきたりな設定だからだ。それが判明するのが、エミリアと対峙した時。シーラは操られていたエミリアを光の力で闇から救う。そして、どうしてこんなにもエミリアが弱ったのかを聞いて、そこでアランはエミリアが自分を本当に愛していたことを知り、二人は和解。エミリアはそんな彼らを涙ながらに認め――というよく分からないお涙頂戴展開。むしろ、エミリアが都合の良いキャラ扱いされていたことに対して泣いた。
そこから闇の魔術師との戦いが始まっていくのだが、彼らに力を貸したエミリアは勿論大活躍する。……ただ、最期にはアランを庇って死ぬのだから可哀想としか言いようがない。
そう、ここまで分かっているのだから、私は転生に気付いた時に、アランに恋はしないだろうと思った。というか、ここまで分かっていて恋をするほど酔狂な人間ではない。
ただ、現実は違った。
――――私はアランを見た瞬間眠りにつき、エミリアが彼に恋をした。
物語と同じように、彼に恋をして、シーラとアランの姿を見て、悲しんだ。それは私でもあったけれど、彼に恋した少女は私ではなく、あのエミリアだっただろう。これはシナリオの強制力か、はたまた私の中に二つの人格があったのか、今となっては分からない。
だって、エミリアはもういなくなってしまったのだから。
エミリアが過ごしていた時間を思い出し、私はいくつかの相違点に気付く。
まず一つ、エミリア謂れのないことをアランから責められていた。
シーラを虐めていただとか。これはおかしい。記憶にあるように、エミリアは一切そのようなことはしていない。私が誓おう。……となると、エミリアに虐められたと言っていたシーラは怪しい。
そしてもう一つ、エミリアは彼らに干渉をしなかったこと。
これは物語と大幅に違う。彼女は知らぬ振りを突き通していた。まるで、そうすればひとまずは彼と結婚できると信じているかのように。これは先程の相違点とつながって、エミリアが知らぬ振りをしたから、物語で起こるはずだったことが起こらず、シーラが痺れを切らして、なんてことも考えられる。まあ、彼女が転生者だろうがそうじゃなかろうが、私には関係ないけど。
最後に一つ、私が目覚めたこと。
アランに冷たい言葉を浴びせられたエミリアは、人気のない図書館に逃げ込んで一人泣きはらす。そうしているうちに気が付けば闇の魔術師に声をかけられているのだけれど―――
――――そうなる前に、私が目覚めてしまった。
ちなみに、私は傷心でも何でもないので、操られるわけがない。そもそも、エミリア程の魔術師が操られるなんて、よっぽど心に隙があったとしか思えない。
つまり、だ。アランから別れを告げられた今、国が私を縛る方法は一切なくなり、危険人物が野に放たれたも同然なのだ。『これから国に何があっても、国に愛着は無い、むしろ無関心な私は、助けなんてしない』。私がもしアランの婚約者のままであったなら、私は最低限は力を貸していただろうけど。
エミリアはどこかで分かっていたのだろう。アランとエミリアが婚約者でないと、私は彼らに絶対に力を貸さないということを。正直、エミリアがいるといないとでは、彼らが保有する力が全く異なる。自分の力を過信しているかもしれないけど、私がいないと、物語のようなハッピーエンドは迎えられないと断言できる。いつ自分が私になるのかなんて分からないから、私になったときでも彼が幸せになれるように―――彼の幸せを望む故に、形だけでも婚約者であることを望んだのだろう。物語のエミリアは彼の心も欲しがったけれど、このエミリアは違った。愛する人の幸せを一番に願ったのだ。だからこそ、知らない振りをして、穏やかに、彼らを見守った。
まあ、その努力も虚しく、こうして私が此処にいるのだけど。
▽
「エミリア、どうか力を貸してはくれないだろうか」
「エミリアさん……お願いします……っ!」
目の前で私に頭を下げるのは、かつての婚約者アランと、その婚約者を奪った女シーラ。
エミリアが操られなかったことで、別の形で闇の魔術師との戦いが始まった。シーラは光の魔法が使えることが判明したが、それでもなお、今彼らは劣勢に苦しんでいる。当然だ。重要人物であるエミリアが仲間ではないのだから。
私――――光と闇、両方の魔法を使える、この国で一番とも謳われる魔術師に助けを乞うのも仕方ない。闇を連想させる漆黒の髪に、そこを差す光かのように輝く金色の瞳。幼い頃からそんな奇特な見た目をしている私は、ほどなくして光と闇の両方の魔法が使えることが判明したのだ。そんな人間、どこを探したっていない。国にいれば力となっただろうし、逆に言えば、国から出て行かれるととんだ害悪になる可能性だってある。
そんな私を手放したのは、お前たちだろうと言ってやりたい。
「私が貴方たちに貸す力など無いわ」
そう言うと、二人は驚いたように目を見開いた。まさか、断られるなんて、思ってなかった表情。
「ど、どうして……?!エミリアさんは、アランさんのことが好きだったのでしょう?」
何故この女は私のことを知った口をきくのだろう。
「確かに、エミリアはアラン様のことを愛していたでしょうね」
「だったら……!」
「でも、それを踏みにじったのは貴方たちでしょう」
ようやく、ようやくこの日が来た。
私は言葉を続ける。
「エミリアがアラン様を愛しているからこそ、貴方たちのことを見て見ぬ振りをしていたというのに。そんなエミリアに謂れの無い悪行を押し付けたのは貴女よ、シーラ。そして、そんな彼女の嘘を信じたのは、貴方でしょう?アラン。そして、彼女を責め立てた上で婚約を破棄して、彼女を傷付けた。
そもそも、こういう可能性も見越しての婚約だったはず。決して貴方一人の心で変えて良いものではなかったのよ。エミリアもそれを分かって、せめて婚約者という形だけでも、と思ったのに。
何も分かってない馬鹿な貴方たちに、私が力を貸すはずがない。帰って頂戴。
……シナリオ通りに行くと思った?浅はかね」
最後の一言は、小声でシーラに言ってあげた。予想通りシーラは顔を醜く歪めて、そんなの、シナリオがあると思ってましたと言ってるようなものなのに。どこまでも頭が回らない人だ。
「エミリアは……エミリアは、そんなことを言う人じゃなかった」
茫然とアランは呟く。
そうでしょう。あの優しかった悪役令嬢は、私になってしまったのだから。
「貴方が、エミリアを殺したのよ」
これで少しは、彼らに一矢報いることができただろうか。
▽
「……本当に、良かったのか」
「ええ」
私に疑問を投げかけるのは、五帝の一人。水を司る魔術師、クラース。私の幼い頃の友人で、小説ではアランの友人という立ち位置の、重要人物だった。
「貴方こそ、ご友人はよかったのかしら?」
「なにを戯言を」
クラースは肩を竦める。まるで手を貸す気が一切無いという風に。
というのも、この件について五帝と私は中立を貫くことを決めていた。
光と闇を司る者は数少なく、だからこそ良くも悪くも異質な目で見られることが多い。他の属性はある程度身内で統率が取れているが、数が少ない光と闇はそうもいかず、また、強い力を持つ彼らを従わせるのは困難だった。今回の闇の魔術師のように、面倒事を引き起こす輩が多いのである。
その点、両方を有しながらも公爵令嬢であるエミリアは、幼い頃から高い身分で育てられ、そのことを口酸っぱく言われ、早くから魔術師との交流が続いていた。誰も文句を付けない力と社会的地位を持つエミリアがゆくゆくは五帝を統べ、国との橋掛け役としても役割も持つ、という予定であった。彼らの中では。そのためには、エミリアを脅かす存在がいないに越したことはない。
――――要は、光の魔法は使えど平民、しかもエミリアからこの国の王子である婚約者を奪ったシーラと、問題を起こす件の闇の魔術師が邪魔だった。
中立であるということは、闇の魔術師は裁かれるから取るに足らないとしても、シーラと相討ちに、あるいはシーラを消耗させようという狙いがあった。力は闇の魔術師の方が上。自分たちが手を出すのは、犠牲が出るだけ出てからでも良いという判断だ。闇の魔術師が無関係の国民の命を狙っていない、というのも大きい。
私がこの事実を知ったのは、エミリアが壊れた時に流れてきた情報からだ。物語の裏にはこんな陰謀があったなんて、笑ってしまった。表面上は幸せそうなあの二人も、一歩間違えれば殺されたっておかしくなかったのだ。勿論、エミリアはこのことを知っていたし、アランのために穏便に済ませようとしていた。
そんな、一途に彼を想い続ける愚かさと美しさを持った少女を、私はどうしても嫌いになれない。きっと本当に彼女の幸せを願うなら、私が手を貸してあげるのが最善だということは分かる。
けれど、幼い頃は『私』であったし、エミリアが壊れてからの今は『私』なのだ。私は物語の、いや、それ以上に優しい心を持った少女ではない。私にとって、彼らは無価値だ。それは何故か、答えは簡単で、エミリアが交流を持っていただけで、私は一切彼らと交流したことがなかったから。見知った相手ではないのだから、沸く情も無い。エミリアは私に彼らを助けることを望んだのに、エミリアが彼らを独占したからこそ私に彼らを助ける気が起きなかったというのも、おかしな話だ。
結局のところ、こうなったときに『エミリア』が誰であるかで、全てが決まるようにできていたように思える。物語に沿って婚約破棄をするのか、物語を覆すのか。まあ、物語に沿っても、その後私というイレギュラーに全てを覆されるのだから、この現実に物語なんて存在してないのかもしれない。
エミリアは何を思い、生きていたのだろう。
きっとどうなっても彼女自身が幸せになる道はなかったはずだ。
私であって私じゃない少女のことを思い浮かべ、哀れむ気持ちになる。
嗚呼、可哀想なエミリア。
どこまでも優しい貴女に悪役なんて向いていない。
だから貴女は悪役から降ろされたのでしょうね。
そして私に、彼らを見限る役目が与えられた。
物語の主人公を見捨てた私は、上品な笑みを浮かべていたことだろう。