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無貌の者

作者: 群馬 浩光

「何故俺は死ねない」

 街外れにある洒落たジャズバーの片隅で、一人の男がふいに漏らしたある言葉ワード

 “死ねない”

 それは激しく私の好奇心を刺激した。

 男はくたびれた背広を着てカウンターの端席へ腰掛け、グラスに注がれた酒を煽っていた。その顔は赤く、酔いが回っているのは明らかだ。が――。

「……どうして死ねないんだ」

 ――虚空を眺めるその瞳は酔いを知らない。知ろうとしていない。

「お話、聞かせてもらってもよろしいかな?」

 無精髭を生やし着古したスーツで酔えもしない酒を煽る中年男。漏らした言葉は何故死ねない。

 これほどの人物を前にして、私が黙っているなどできようはずもなく、隣席へ腰掛けると私は男に訊ねてみた。どういう経緯でそのような言葉を漏らしたのかと。

「……他人に話すつもりはない。消えろ」

 男は私の頼みを頑なに断った。まあ、想定の範囲内だ。おいそれと軽々しく話す内容ではないだろうし、ましてや酒を飲む男の話を誰が真面目に聞くというのか。

 それでも、私がしつこく頼み込むと男はしぶしぶと語り始めた。これも想定の範囲内だ。

 人は悩み答えを求める。が、えてして答えとは自身で持っている場合が多い。

 要するに求め方の問題だ。自問自答で答えを出すか、他人の口から答えが出るのを待ってみるか。

 この男の場合は後者だ。でなければ、何故死ねないなどと口から漏れることはありえない。

「マスター、ウォッカ、ストレートだ。さて、どこから話したものか……あれはたしか――」

 グラスの酒を飲み干し新たにウォッカを注文した男は、視線を遠くし語り始めた。


 フランスの片田舎に男の子が生まれた。名をルシアン・オルトロス。

 ルシアンは生まれつき肺を病んでいた。なので幼少期のほとんどを家内で過ごすことになる。

 必然といえば必然か、いつからかルシアンは家の地下に集められた蔵書を読み漁るのが日課になっていた。教師代わりの母親から勉強を教わる一方、ルシアンはこの世の様々なことを本で知り、その全てに想いを馳せた。

 家から見える湖よりも遥かに大きい海。庭から望める丘よりも遥かに高い山々。見たこともない動植物。

 蔵書の殆どを読破した頃、ルシアンは成人を二年後に控えた立派な青年となっていた。が、肺の病は好転の兆しを見せずルシアンを蝕み続けた。

 ある日、ルシアンは地下室の中で更なる地下へ続く隠し扉を見つけた。

 ルシアンが生まれ育った家は、それなりに歴史がある。古くはどこぞの貴族が別荘として建設し、以来様々な人間の手を渡りルシアンの父が所有するに至る。

 綻び具合から見て相当の年代が経っているであろう隠し階段を、ルシアンは迷うことなく下りていく。

 ルシアンに恐れはない。あるのは好奇心と探究心だけだ。

 階段を下り辿り着いた地の底は、一言で表せば禁域だった。

 古今東西ありとあらゆる魔・妖・幻の類を問わず蒐集された禁書の数々。白日の下では即座に処分されるそれらは、しかしルシアンの心を掴み離さず完膚なきまでに叩き潰し魅了という名で再構築させた。

 運命の分岐点である。

 鮮血で書き下ろされた“悪魔召喚術入門書”人の皮を使って表紙作られた“生贄作法大全”大きな図解を用いて実にわかりやすく解説している“闇に葬られた拷問の数々”。

 ルシアンは喚起に打ち震え、禁書の全てを隅々まで読み漁った。

 こんな、これほどの、なんという――!

 平和で変わり映えがなく退屈極まりない今までの世界。それが一歩外へ出ればこれほどまでに刺激に満ちた世界に変わるなんて!

 しかしルシアンは悲しみと絶望にも打ちひしがれていた。

 ルシアンは肺を患っている。それは彼と家とを繋ぐ楔だ。

 どれだけ世界が刺激に満ちていようと、どれほど世界が魅力的であろうと、自分には見て聞いて触って感じることができない。

 生まれたときからわかっていたことだが、感動が大きかった分その落差も激しかった。

 失意に沈むルシアンの眼に、一冊の本が映りこむ。

 初めからそこにあったのか、それともひとりでに移動したのか、ともかく一見するとなんの変哲もない黒の本が妙に気になったルシアンは、大して考えもせずその本を手に取り、そして我が眼を疑った。

 世に蔓延る魔導書の大部分は紛い物だ。そして数少ない本物はと言えば、焚書されたり厳重に封印されたりと日の目を見ることはない。

 しかし、だがしかし、あるのだ。間違いなく今ここに、ルシアンの手の中に。

「――ニャル・シュタン、ニャル・ガシャンナ、ニャル・シュタン、ニャル・ガシャンナ……?」

 偶然開いたページに書かれていた偶然眼に留まった文字列を、ルシアンは何気なしに口走る。

 するとどうだ、たちまち辺りは煙に巻かれみたこともない異世界へ! などということはなく、別段何が起きるわけでもなかった。

 静寂に包まれたルシアンは、溜息を吐き出し黒の本を無造作に放り投げる。その顔にどことなく失意を漂わせて。

「……なんの本だったんだ?」

「電話帳さ」

 唐突に耳元で囁かれ、驚きのあまり呼吸を忘れそうになったルシアンは、二、三度深呼吸をすると、背後に立っているであろう人物へ振り返らず問いかけた。

「……誰だ? 天使か? 悪魔か? 死神か?」

「んー、どれでもないかな。這い寄る混沌やら大いなる使者やら百万の愛でられしものの父やら色々と呼び名はあるけど、まあ好きに呼んでくれたらいいよ」

 男とも女ともとれる声の主は、あくまで軽妙に、それでいて確かな重圧をルシアンに与えつつ返答した。

「では大いなる使者よ。何故ここにいる? 何が目的だ?」

「何故って、呼ばれたからさ」

「呼ばれた? 誰にだ」

「君にだよ。唱えただろ?」

「……さっきの言葉か」

「理解できたならさっさと願い事言ってくれる? こう見えて忙しいんだよね」

「……願い事? 言えば叶えてくれるのか?」

「そうそう。早く言ってくれないとどっか行っちゃうよ?」

 数瞬考え込むルシアンだったが、せっかく望みを叶えてもらえるのに心変わりを起こされてはたまらないと願いを口にした。

「肺の病を治して健康な身体にしてくれ」

 ルシアンの願いに、他称大いなる使者はニヤリと笑い了承した。


「そもそも願いなんて口にしたのが間違いだったんだ!」

 男――ルシアンは自暴自棄にウォッカを飲み干し、カウンターに力強く叩きつけた。割れはしなかったがそれなりに大きな音を立ててしまい、周囲の人々から奇異の視線を向けられてしまう。

「ああ、そうさ。願いは叶ったよ。肺の病は無くなったし身体も健康になった。今じゃどれだけ運動しようと息ひとつ乱れない」

 ルシアンは私にではなく、自分に語りかけるような口ぶりで話を続けた。

「アメリカ合衆国マサチューセッツ州アーカムにあるミスカトニック大学へ知人の紹介で入学した俺は、そこでヤツの正体を知ることになる。なんのことはない、ヤツは邪神だ。忌むべき存在だ。人に破滅を齎す旧支配者だったんだよ」

 旧支配者? 結局、そいつの名前はわかったのか?

 そんな私の問いかけに、彼は鼻で笑って答えてくれた。

「ナイアーラソテップ、ナイアーラトテップ、ニャルラトホテプ、ニャルラトテップ……呼ばれ方は様々だが、一様に口にするのも憚りならんクソッタレな名前さ。ヤツのおかげで俺は死ねなくなったんだからな。まったく、ありがたすぎて涙が出るよ」

 ようやく話は本題へ辿り着いた。私が聞きたかったのはそれだ。

「ああ、そうさ。死ねないんだよ。あれから様々な事が起きた。船に乗れば転覆して漂流するし、飛行機に乗れば墜落する。大学の考古学研究で冒険に出たときなんて、この世の出来事とは思えない現象を幾度も眼にしたよ。罠や化け物で死にそうになりながらね。それでも俺は死ななかった。いや、死ねなかったんだ」

 運が良かっただけじゃ? なんて私の問いは一笑に付されてしまった。

「運がいいだけじゃ助からない傷も何度もあった。腹に大穴が開いたことだってある。これを見ろ。自殺しようと手首を切った痕だ。それでも死ねなかった。俺はな、誰もが望みつつもなれなかった不死者になっちまったんだよ。クソッタレが」

 彼が服をめくり見せてくれた腹部には、確かに痛々しげな傷の痕があった。手首にも無数の切り傷がある。なるほど、確かに彼は死ねないようだ。

 一瞬、暗転。


 バーにトラックが突っ込んできたと知ったのは、ルシアンが姿を消した後だった。

 右手に握っていた紙幣と殴り書きされたメモを見るに、どうやら私はルシアンに助けられたらしい。無用な気をまわしてくれたものだ。

 不死者とやらになると他人の命の方が大事になるのだろうか?

 メモに書かれていたのは、謝罪の言葉だった。

『迷惑をかけてすまない。代わりと言ってはなんだが、これで飲みなおしてくれ』

 思わず笑いがこみ上げてきてしまう。

 彼は知っているのだろうか?

 私が彼の望みを叶えた者だということを。私が千の無貌と呼ばれていることを。

「気まぐれで病を治してやっただけなのに、とんだ勘違いをされてしまったものだ。しかしまあ、いい酒の肴になったよ」

 ルシアンはこれからも死ぬことがないだろう。死を望んでいながらも、その実死ぬ気などこれっぽちもないのだから。

 故に、彼は不死者足りえるだろう。寿命が来るその日まで。

「さて、次の肴でも漁りに行こうかな」

 ほとほと呆れるほどに無知で愚かで醜い存在。なのにたまに驚かされる。

 だから人間は大好きだ。


いつもニコニコ這い寄る混沌、ニャルラトホテプさんの提供でお送り致しました。

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[一言] なるほど、有難迷惑様だったのか。
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