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寄り添えば

作者: toto

(1)

世界の最奥に、彼はいた。

動く人影はたった一つ。

他には、なにもなかった。

全てがまるで「無」のように沈黙を守っていた。

時折なにかをめくるようなかすれた音だけが、この世界が生きている、唯一の標だった。


世界の最奥に、彼はいた。

彼は、とある高名な賢者だった。

ほんの少し前から、ヒトとの交流を絶ち

里を離れて、この地へとやってきたのであった。

知識人によくある、人間不信という奴か

はたまた、賢者ゆえの重責に耐えられなかったのか

それは彼のみが知る事で、誰もこの高名な賢者が引きこもった理由を知らない。




さてさて、賢者が引きこもって早3年。

時間の流れの違う地上では、もう何十年という時が経っていた。

いつもと変わり映えのしない朝を賢者は迎えようとしていたときだった。賢者は慌てて駆け出した。

それもこれも、人里とこの最奥の地を繋ぐ道の辺りに違和感を感じたからであった。

この最奥の地全体に張りめぐされた賢者の結界がそれを察知したのだ。

しかしいくら気付くのが早かったとはいえ、賢者の足は、はっきり言って遅かった。

普段からあまり運動するタイプでなかったので、こと走ることについては、かめと競え合えるような速さである。

よって、賢者が違和感を感じた場所につく前に。

それを生じさせた張本人が彼の元へとやってくる方が早かった。

その人物は、まだ幼い娘で、彼を見るなり驚いたように目を丸くした。

娘は珊瑚の欠片と真珠をあしらったドレスを着ており、随分良い身なりをしていた。

しかし彼はそんなことを気にもした風もなく、賢者は、早くこの娘を追い出し静かな時間を過ごしたかったので、わざと―いや、久しぶりに己の声を発すると言う行為をしたために、自然にこうなったのかもしれないが―昔よりもむっつりとした低い声で呟くように声を漏らした。


「…迷い込んだのか…?」


 すると、娘は大きな大きな空の瞳を更にまんまるにして、じっと彼を見つめてきた。

 そしてにらみ合うように向かい合って、数秒後。娘はけたけたと、とても上品とはいえない笑い声をあげた。


「まさか!!こんな辺境に迷い込むマヌケなんて、ソウソウいませんってばぁ。私がここに来たのは賢者殿にお願いがあるからなんです。」


 賢者はその言葉を聞いた途端、鬱陶しそうに娘を追い払うようにしっしっと片手を振った。

 初めて己の結界を壊して中に侵入してきた人物が、一体どんな奴なのだろうと多少なりとも興味を引かれていたが、まさか、こんな小娘とは考えていなかった。

 賢者は、己の怠慢を叱咤した。

 ここ暫く、結界の調整を怠っていたことを思い出したからであった。

 彼の不躾な対応にも娘は何とか耐えて、花のような笑顔を作った。


「う、うふふ~。お話に聞いてた以上の照れやさん☆」

「…帰れ!」


 その笑顔は国宝だ、と称された娘の笑顔だったが、この偏屈かつ高名な賢者の態度を柔和にするには、はるかに役不足だったらしい。それどころか、どこか引きつったような表情を賢者は浮かべていた。

 それでも娘は挫けずに、半ば意地で笑顔を貼り付けたまま、言葉を続けた。


「…こほん!えーと、私はノーサリス皇国の第二皇女エリティスと申します。賢者ウォルエフ殿はどこにいらっしゃいますでしょうか?」

「目の前に…?」

といってから、賢者は思い切り後悔した。

 このまますっとぼけ、居留守を使い、さっさと娘を追い返した方が良かった事に気付いたからだった。

 まさに後の祭り。

 青ざめて苦悶する賢者とは対象に、自称皇女らしい娘はきらりっと顔をめいいっぱい輝かせて彼を食い入るように見つめた。


「うそっ!!ええ、賢者ウォルエフ殿は私のおじい様と同じ年齢だって聞いたのに!!どうみたって20代じゃないですか!さ、さ、詐欺だ~~~~!!!!」


 一人大騒ぎする皇女を陰鬱な気分で賢者は眺めていた。

 地上の時間の流れと、この地の時間の流れが大幅に違うと言うことすら知らずにこの地に足を踏み入れた皇女の無知さ加減に呆れつつ、賢者はくるりっと踵を返し己の巣へと帰ろうと一歩足を踏み出した。

 そのときだった、皇女の言葉の中に気になる単語が含まれていたことに気付いたのは。 ノーサリス皇国。

 おじい様、同じ年齢。

 ノーサリス皇国は、まだ賢者が賢者たるものでなく、一介の術師だった頃によく世話になっていた国であった。

 そして、同じ年齢の、ノーサリス皇国皇女のおじい様。つまり、先々代の皇太子。

 いつも賢者に面倒なことを押し付け、軽やかに笑っていた金の髪に、青い空のような瞳を持った、あの少年。何故か憎みきれない、不思議とヒトを、賢者さえも惹きつけた強烈な魅力を持ったあの皇太子。

 賢者は、振り返って、娘をじっと眺めた。

 そうして呟いた。


「……セオリーズ…?」

「あ、それ、おじい様の名前!…やっぱり、知り合いなわけです?」


 賢者は眉を顰め、嘆息した。

 なるほど。


 あの小生意気な少年は、じいさんになってまでも、己に迷惑を押し付ける気らしい。


(2)


 最奥の地にぽつんと建てられた小さな小屋が、賢者ウォルエフの唯一の住処だった。

 小屋の中は、かなりの勢いで散らかされており、茶色味を帯びた紙が幾重にも、大量に積み重ねられていた。と思えば、中身が入ったままの飲みかけのカップが放置されていたり、脱ぎっぱなしの服が散らかっていたり、と、案外だらしない賢者の私生活の様子に、皇女エリティスは開いた口が塞がらない、という心境だった。

 一気に、イメージが崩れ去る。

(…うう、賢者って、こう、なんていうか…!!崇高なイメージが!!)

 とエリティスが苦悩している傍で、ウォルエフは面倒くさそうに、カップを二つ取り出して、それに珈琲を注いだ。

 それは、いつもとは違う風景だった。


 毎朝沸かす珈琲は一人分。けれど、今日に限っては二人分。


 ウォルエフは机の上に広がっていた、書きかけの文献をゴミでも扱うかのように横へと寄せ、そこに珈琲カップを置いた。

 エリティスはぺこんっと小さく会釈をすると、ゆっくりとそれをすする。

「…で、あの、話のお返事は…?」

 おそるおそるエリティスは尋ねた。

「…却下。」

「ええええええ!!な、なんでですかぁー!!」

 ウォルエフの簡潔すぎる答えに、エリティスは即抗議の声を上げた。

 旧友の孫と言う事で、ウォルエフは、皇女を己の住処に迎え入れ、珈琲まで入れた。彼にできる精一杯のもてなしをした。できることなら聞いてやりたかったが、娘の要求は、賢者にとって受け入れ難いものだった。


「あんたを弟子にすることなんて、できない。第一、なんで皇女が賢者の弟子になりたがるんだ。生活に困ってぇ、とか妙なことは言うなよ。…たまにいるんだ。そういう奴。皇国では、あんた以上に恵まれた生活が出来る奴なんていないんだぞ。」


 そうまくしたてる賢者を、エリティスは一瞬きょとんっと眺めた。

 無口だと思っていたけれど、案外そうではないらしい。

 話の内容はとかもかく、エリティスは、少しだけ嬉しくなって、小さく笑みを作った。

「…何にやけてるんだ。気持ち悪い奴だな…。」

 その後、賢者の小さな小屋を介して、肉を叩くような痛々しい音が、大きく響いた。







おじい様…

エリティスは、賢者に会う事が出来ました…

でも!!



「…せっかく、仲良く出来るかと思ったのに…!」


 皇女は、憤っていた。

 ぶつぶつと悪態を呟きながら早足に大地を駆ける。

 右も左も関係無い。とにかく怒りをおさめるためには、身体を動かすのが一番だと、侍女から聞いた事があったので、それを実行する彼女だった。

 しかし、勢いに任せて賢者の小屋を飛び出してきたのは良いものの、皇女には行く宛てなどなかった。


「…叩いてしまったのは、悪かった、かなぁ…。」


 ふと、手に残る生々しい感触を思い出していた。

 生まれてこの方16年。

 他人に手を上げるなどと言う行為なんて初めてだった。

 エリティスは今更ながら、深く後悔していた。

 いくら頭にきたとはいえ、暴力に訴えるなんて、最低の行為をしてしまった。

 ぎゅっとひりひりとする右手を、エリティスは自身の左手で握った。

 きっと、叩かれた方は、賢者の方はもっと痛かったのだろう。

 そう考えると、今にも謝りたいような、後ろ暗い気分だった。


「…どうしよう…。と、言いますか、私…。」


 ふと、辺りを見回して、皇女は溜息をついた。

 見知らぬ風景が、そこには広がっていた。ありていに言えば、迷った事に気が付いたのだった。ここは、世界の最奥の地。辺りは何もない平原で、そよそよと涼しげな風だけが吹いていた。何の陰も見当たらない、寂しい光景だった。己がたった一人ぽつんと佇んでいる姿を想像する。

 誰もいない。誰も頼れない。たった一人、取り残されたような。

 世界の最奥とは、そういうところだった。

 エリティスは、途方にくれた。

 こんなところで、あの賢者はずっと一人で過ごしてきたのか。

 一体どんな気分だったのだろうか。

 エリティスのように、きっと寂しいなんて思わなかったのかもしれない。

 なにしろ、自ら進んでこの地へと、あの賢者は去っていったのだから。


「…でも…きっと、泣きたくなる…この場所に、たった一人…。」


 足に顔を埋めて、エリティスは呟いた。

 賢者はエリティスを探しになんて来ないだろう、きっと、今ごろ喜んでいるに違いない。ずっと迷惑そうな顔をしていた。それでもエリティスは、引き下がるわけには行かなかったのだ。

 彼に知恵を授かるまでは。


「…迷ったのか…?」


 ふいに耳を掠めたのは、低い音。

 半信半疑でエリティスは視線を上げた。絶対来ないと思っていた人物が、そこにいた。

 新雪のような白く繊細な髪を、風に乗せて、草原の緑に似た深い瞳の賢者が。そこに。

「…~迷ってなんかいませんもん!!ほっといてください!」

 エリティスは、そっぽを向いてそう言った。

 その言葉に、賢者が気分を悪くしたことが、雰囲気で伝わってくる。

 それでも、エリティスはそっぽを向きつづけた。

「そうか…なら、勝手にしろ。」

 賢者がくるりと踵を返し、帰ろうと足を踏み出したとき、くんっと彼は何かに引っ張られ、それ以上進む事が出来なかった。

 ゆるりと賢者は振り向いて、冷ややかな視線で皇女を見下ろした。

 物凄く強い力で、エリティスは賢者のローブの裾を握っていた。


「言葉と行動が違ってるのだが…?」

「……。…私、怒ってるんです!」


 この期に及んで、視線を合わさないように目を逸らすエリティスを呆れたように、眺めて、賢者はゆっくりとした歩調で歩き出した。

 エリティスも、それに続いた。

 ずっとずっと続いている、永遠にも思える平原。

 今、人影が二つ。

 最奥の地に長い長い影を作っていた。


「…理由くらい、聞いてやる。」


 沈黙を破るように、突然発せられた言葉。

 エリティスは不思議そうに賢者の後姿を見ていた。

「なんのです?」

「…あんたな…。俺の弟子になりたいと言っていただろう。その、理由。」

 ふっと顔を緩めて、エリティスは賢者の隣に並んだ。

 そして、日に照らされた彼の横顔を見上げる。


「…おじい様の事、お話してください。」


 唐突な彼女の発言に、賢者は横目で彼女を見下ろした。

 そして、苦笑を溢す。

 あまりに、似ていたからかもしれない。

 明るく無邪気な皇太子に。

 優しく穏やかなあの人に。


「……あまり上手くは話せないぞ…?」


 きまぐれな風が、ふわりっと二人の間を駆け抜けていった。

 その風に遠い過去への想いを託して、賢者は目を閉じた。


(3)


 これは、まだ賢者が賢者たるものでなかった時のお話で

 賢者がノーサリス皇国の皇太子のお守を不覚にも押し付けられていたときのお話です。




  という語り口調で、賢者の話は始った。

 まるで子どもに聞かせる昔話のような、そんな出だしで。

 エリティスは、自然と期待を寄せて、賢者を見上げた。けれど、すぐに、皇女の胸には、期待よりも不安が広がった。

 あまりにも、賢者の瞳が遠くを眺めていたから、かもしれない。





 ノーサリス皇国の皇太子は、今年で恩歳15歳。

 そろそろ結婚も考えていいくらいのお年頃。皇族の結婚は基本的に早いのだ。

 いつ何があるかあるか分からない。

 いつも彼は危険に取り囲まれている状況にあった。


 皇国の後継者は、この皇太子ただ一人だったからだ。暗殺など物騒な事は日常茶飯事で、普通の神経ならば怯えて日々を過ごしても仕方がないような日常だった。

 だが、この皇太子。幸いな事に、繊細な容姿とはうらはらに、かなり図太い神経の持ち主だった。


「……あっの馬鹿太子…また逃げやがって…。」



 と呟いたのは、賢者の前身である、皇太子のお守を押し付けられたイタイケナ少年ウォルエフだった。――ここで、エリティスがくすくすと笑ったが、賢者は聞こえないフリをして続けた――ウォルエフは、不幸な事によくふらふらと姿をくらます皇太子を見つけ出す名人だった。よって、もっぱら消えた皇太子を探す役目はウォルエフに回ってきたのだ。


「…まったく…今までの行動パターン及び記録を参照していけば、おのずと彼がいる場所なんて数箇所だと、すぐに特定できるはずなのに…。なんで誰もこんな簡単なことに気付かないんだよ…」


 わざと人に聞こえるような大きな声で、ウォルエフは罵倒を繰り返していた。

 そうして、あの皇太子がよくふらついている、城の庭園にさしかかったときだった。

「あ…。」

 思わず、そう漏らした。

 そこに思わぬ客人がいたからだった。


 その客人は、ウォルエフよりも少しだけ年下の、見事な金色の巻き毛をした、美しい少女だった。ふっくらとした薄い桃色の唇に、薔薇色の頬。その抜けるような白い肌は、まるで陶器のようで。ぱっちりとした瞳を縁取る淡い橙色の睫はすっと長く伸びていた。

 まるで一流の職人が幾人もの魂を込めて、丁寧に作られた人形のような少女だった。


「あら…ウォルエフ。あなたもセオリーズを探しているの?」


 その可愛らしい唇から発せられる声は、まるで小鳥のように涼やかで。

 ウォルエフはどきまぎとして、なんとかこれだけ言った。


「…??…え、なんで、俺の名前を…」

「ふふ…だって、セオリーズがあなたのこと、いつもいつも話すのですもの!!想像していたとおりの子だわ。わたくしはエリーシア。親しい人はエリィって呼ぶわ。よろしくね、可愛らしい術師さん!」


 同じくらいの年頃の少女に、可愛らしいと言われて、嬉しいと思う男子がいるわけなく、ウォルエフは先程の戸惑いを忘れて、憮然とした表情でエリーシアを睨んだ。

 特に悪びれた様子もなく、エリーシアはくすくすと笑った。


「ふふ。そんな仏頂面していたら、折角の綺麗な顔が台無しだわ?ね、こっちにきて、お話しましょうよ!」

「…嫌だよ。俺、これから皇太子探しに行かなきゃいけないし…」

「そんなのいいじゃない。どうせ見つかりっこないわよ。」

「大丈夫。名人だから」

「セオリーズ探しの?残念。彼、言ってたわよ?あなたにすぐ見つかるようになったから、今度は特別な場所に隠れるんだって。凄い、意気込みなの。おかしいわね。」


 こっそりと秘密の話をするように、エリーシアはウォルエフに耳打ちをしていった。

 思わずどきっとするくらい、近くで見た彼女は綺麗だった。

 ウォルエフが、かあっと頬に血が上ることを意識したとき、がさがさっと庭園の植木から、一人の繊細な容貌の少年が、服や髪の毛に葉っぱをつけたまま現れた。


 彼こそが、ウォルエフが皇太子、セオリーズだった。

 突然のセオリーズの登場と、彼のお世辞にも格好良いとはいえない姿を目の当たりにして、二人は吹き出すのを辛抱強く我慢した。

 そんな二人を憮然とした様子で眺め、セオリーズは拗ねたように言う。


「笑わないでくださいよぅ、エリィ。それに、ウォルエフ。」

 そこで、はっと我に返り、ウォルエフはセオリーズを指差して言った。


「…見つけたけど?」

「違いますっ。これは、僕が出てきたんですから無効です!」

 必死に抗議する彼を見て、エリーシアはますます笑みを溢して破顔した。

 やがて、若い三人の笑い声が、庭園に響き渡る。

 これが懐かしく楽しかった時間の、始まりで

 その後、俺達はよく三人で会い、話をするようになった。









「…へえ…エリーシア…つまり、あなたはおばあ様とも友人だったのですね!」

「……。……ああ。あんたのじいさんは手におえない悪ガキだったな。」


 どこか素っ気無く、賢者は答えた。

 そんな彼の対応に珍しくも不満を抱かず、興奮気味にエリティスはぶんぶんっと賢者の服の裾を掴んでいない方の手を振り回す。

 とても皇女とは思えない振る舞いに、賢者は改めて呆れを覚えた。

 彼女はそんなことを意にも返さず、無邪気に言った。


「私、あなたに会えて良かったです!」

「…!」



『ねえ、ウォルエフ…』

『なに?エリィ。』

『あのね、あのね…わたくし、あなたに会えて良かったと思えますの。』



 賢者は、小さく舌打ちをした。

 余計なことまで、思い出してしまった。


「いっぱい、いっぱい、おじい様のこと聞けて、嬉しかった。ありがとうございます、賢者ウォルエフ。」

「…過去に意味などない。」

 ウォルエフは冷たく言った。

「知ったところで、何も起こらない。ましてや、思い出に浸るなど、愚か者のすることだ。」

 驚いたように、エリティスは賢者を見上げた。

 先程まで、あんなに楽しそうに話していた人物とはとても思えない言い草だった。

 エリティスは、首をかしげて尋ねるように言った。


「…あなたは?」


「俺は、愚か者ではないよ。」


 さらりっと賢者はなんでもない、という風に言い放った。

 きっと、多分、彼は気付いてはいないと思うけれど。

 驚くほど柔和な、表情をしていた。



『――だから、祝福してね。私達のこと…』



 エリィ。

 君は、幸せだったかい?


(4)


 置いていかれるとでも思っているのだろう、エリティスは未だ賢者の服の裾を放そうとはしなかった。


「…。着いたぞ。」


 賢者の住処の前に来て、ようやくエリティスはその手をぱっと、気恥ずかしげに放した。

 扉を開ける賢者に向かって、皇女はゆっくりと声をかけた。

 これは、言ってはいけないことなのかもしれない。

 けれど、言わずにはいられなかった。

 皇女は目を瞑り、賢者を見ないように努めた。


「…友人なら…どうして、おばあ様のお葬式、来てくれなかったんですか。」


 微かな皇女の呟きを背中に受けて賢者はふっと目を細めた。

 ぱたんっと開きかけていた扉を閉めて、皇女の前に立つ。体力がない割に、賢者の背は高く、目の前に立たれると、まるで壁が出来てしまったような錯覚に陥る。


「そうか…」


 掠れた低い声。

 どこか気が抜けた、不安にさせる声だった。

エリティスは躊躇いがちに賢者へと見上げた。


「……死んだ、のか…エリィ…」


 自嘲さえ含んだ、寂しげな笑みを浮かべて、賢者は言った。

 エリティスには汲み取れ切れないほどの、深い感情がそこにはあった。

 なんとか理解しようと、エリティスはそっと賢者の頬に触れた。だが手を介して伝わってくるのは賢者の冷えた体温だけで、他にはなにもあるはずかなくて。理解できない事に、不思議とエリティスは苛立ちを覚えていた。

 触れられた手を、賢者はぐいっと掴み、振り払った。


「…人とは、儚い生き物だな…。」


 賢者はエリティスから視線を逸らし、ぽつりと呟いた。

 振り払われた手を、ぎゅっと握ってエリティスは言った。


「そうですか?でもおばあ様は幸せそうでした。だから…」

「目に見えることだけが真実じゃない。ずっと傍にいても分からない事はある。そう、習わなかったか…?」

 厳しい視線を受けて、エリティスは一瞬怯んだ。

 だが、納得がいかないという風に俯いて、数度首を横に振った。

 先ほどの、賢者の言い草では、まるで


「まるで…あなたは、おばあ様の人生が不幸だったみたいに、言ってるけど…。そんなこと、あなたが決め付けないでください!」


 エリティスは叫ぶようにそう言った。

 賢者の固い雰囲気が、ふっと和らいだ。いや、和らいだのではなかった。なくなったのだ。

 先ほどまでの強烈な存在感が、なくなっていた。薄い水の膜に覆われて、世界から隔離されてしまっているような。今にも風に溶け込んで消えてしまいそうな。そこにいたのは、頼りなげな表情をした、ただの青年だった。


「…そう思いたかっただけだ。…気にするな。」


 彼の白く色素の薄い髪を風がさらう。

 世界の果ての、最奥の。この地に吹く風は心地よい。

 なにもかもを、優しく包んでくれるような。母のような柔らかなもの。けして何かを語ったりはしないけれど、安らぎを与えてくれる。

 ここにいたら、悲しいことなんて忘れてしまえそうだ。

 エリティスは、ふと、そう思った。


「…もう、帰れ。あまり、ここに長くいると…良くない。」


 まるでエリティスの心を見透かしたような言葉だった。ほんの一瞬だけ、ここにずっといられたら、とエリティスは思ってしまった。

 一歩、後ろに下がって、皇女は自らの胸に手を当てた。

 とくんとくんっと脈打つ己の心音を確かめるように、強い力を込めて。


「…ダメ。弟子にしてもらわなきゃ、帰れません。」

「……何故そこまでこだわる…?」


 賢者には理解できなかった。

 一国の皇女が、自身のような術師に一体何を学び請うというのだろう。

 賢者と呼ばれているとはいえ、所詮は彼女の考えているような崇高な人物ではないのだ。

 それを、痛いほど彼は理解していた。

 戸惑う賢者を前にしても、皇女は言葉を止めなかった。


「おじい様を…助けたいのです。おじい様が、急に原因不明の難病に侵されて…。

 国中の医者がさじを投げました…みんな、首を振るばかりで…。その時でした。

 おじい様が弱弱しい口調で、あなたの…賢者、あなたの名前を呼んだのは。」


 必死に伝えようとする彼女に、自然と賢者は耳を傾けた。


「あなたの知識があれば、なんとかなるかもしれない…と。おじい様は言いました。

 だから、私は、あなたの知識が欲しい!!」


 それで、全てを言い切ったのか、エリティスはがっくりと力なく項垂れた。

 賢者は深いため息をつくと、冷淡とでもいえる言葉を放った。


「…なら尚更、帰れ。」

「……~~!!なんで!私を馬鹿にしているのですか!?」


 ぐっと体勢を持ち直し顔を上げて、エリティスは賢者を睨むように見据えた。

 それすら冷ややかに一瞥して、賢者は空を仰いだ。


「残念だが…俺の知識の中に、人の生命を操るものなどない…。それに、先程も述べたが、あまり長く滞在しない方が良い。…ここの土地は、あんたの国のある地とは時間の流れの速さが違う。つまり、あんたが帰ったときには、じいさんは土の中、なんてこともありえないことじゃない…。

 ……さっさと帰れ。」

「い…いや…!!絶対、私、助け…!」


 ぽろぽろと手に零れ落ちた雫を、呆然とエリティスは眺めた。

 しゃくりでる嗚咽を止めようと喉に手を当てて、必死に涙を隠そうとエリティスは空を見上げた。

 きっと、呆れたように賢者はこちらを見ている。

 そうして溜息をつくのだ。泣く事しか出来ない無能な彼女を蔑むように。


 そんなのは、嫌だった。


 エリティスは溢れるそれを隠そうと、目の前を蒼一色に染めた。

 流れる雲をいとおしげに抱きしめる青い空は、どこまでも続いていた。


「…おい。」

「…!!な、泣いてなんていませんからね!!!」


 突然、賢者からかけられた低い声に、びくっとエリティスは身体を震わすと、慌ててもう一歩、後ろへととんだ。その拍子に、乾きかけてきたはずの、両の瞳から、ぽろりと雫が転がり落ちた。

 声にならない悲鳴をあげて、誤魔化すようにエリティスは自分の顔を両手で覆った。

 そんな様子を呆れを含んだ複雑な表情で眺め、賢者は、あとずさるエリティスの手を取った。

 同時に露わになる空色の瞳からは生暖かな雫が止め処なく流れていた。

 賢者は、そっと溜息をついた。


「…国まで連れて行ってやる。だから…帰ろう…?」


 その言葉の中に、蔑みの色は、含まれてはいなかった。


(5)


 この国に、この街に、この城に。

 足を踏み込むのは何年ぶりだろう。

 賢者は、感慨深げに、城門を見上げた。


 彼の感覚としては、三年ぶりということになるのだが、いかんせん外の世界ではかなりの時が経っていた。なにせ、あの若々しく元気だった皇太子が、もう孫を持つ年齢になるくらいなのだから。おそらく賢者を知る人物は相当少なくなっているだろう。

 ふいに、賢者はまとわりつくような視線を感じた。

 ゆうるりと振り返り、賢者は、己の背中にぴったりとくっついている少女を見下ろした。


「……なんだ?」

「…うう…。ね、ねえ、城に入るのはもうちょっと後にしませんか…!わ、私、まだ心の準備が…」


 事情を聞く限り、この国の第二皇女であるエリティスは、天皇である親に無断で城を飛び出したらしく、城の前に来ると、急に居心地悪そうに身を竦めた。

 そんな彼女の姿を物珍しげに眺めた後、賢者はふっと笑みを浮かべた。


「さあ、行こう。」

「爽やかな顔して、い、意地、悪い…っ!!」


 やはり上品とはいえない地団駄を踏んで、エリティスは悔しそうに賢者を見上げた。

 軽く肩を竦めてみせると、賢者は言った。


「とは言うものの、正門から入って行くのは、実は俺も気まずい。…西の隠し通路を通っていこう。」


 ぱちくりっと目を瞬かせて、エリティスは首を捻った。

 要するに、隠し通路とは、奇襲に備え皇族やその他大切な客人を逃がすための、通常使わない通路の事らしい。しかし、そんな通路があるとはつゆ知らなかったエリティスはたいそう驚いた。

 賢者は苦笑いをこぼすと、暗く湿った、かび臭い通路の中でエリティスに尋ねた。


「…ところで、セオリーズ…あんたのじいさんの居場所、分かるか?」

「はい。場所が移されていなければ、城の西に位置する第三の塔二階の一番日当たりの良い小部屋です。」

 エリティスの答えを聞き、ほぅっと頷いて、賢者は言った。

「ふーん…先代の寝室にしては随分扱いがアレだな…。」

「おじい様自ら場所を指定なされたんですよ。なんでも一番元気になれる場所だとか…」


 何度かの分かれ道を経て、賢者と皇女はひとつの階段の前に立っていた。賢者の記憶が正しければこの階段を登っていけば第三の塔のどこかに通じているらしい、とのことだった。

 階段を、一歩一歩登って行く。

 足を踏み出すたびに、密かに賢者の緊張は膨れ上がっていた。

 カビとコケで滑りやすくなった階段は意外と短く、すぐに二人の目の前に小さな小さな隠し扉が現れた。

 くすっとエリティスが笑いを漏らしながら、その扉に手を伸ばした賢者に声をかけた。


「この先にすぐおじい様がいらっしゃったら…なんていうか、もう、運命って感じじゃありません?」

「…世の中、そんな運命がごろごろしているわけないだろう?」

 半ば呆れながらも、言葉を発して、賢者は扉をぐいっと押した。




































 扉の先は、小さな小さな、日当たりの良い小部屋であった。

 質素…いや、簡素といってもいいその部屋の中には必要以上のものは何も置いてはなかった。あるのは、小さなテーブルと椅子と、そして小さなベット。

 そのベットの上に、座っていたのは、小さな老人だった。

 微かに、賢者は呟いた。


「…嘘だろ…。」


「おじい様!!!起きてても大丈夫なの!?」


 同時に、エリティスはそう叫んで、ベットの上の老人の元へと駆け寄って行った。

 そこに腰掛けていたのは、先代天皇であり、賢者の友であったセオリーズ、その人だった。

 突然現れ、駆け寄ってくる孫に驚いた様子もなく微笑んで迎え入れる老人の姿に、賢者は幼い少年だったセオリーズを重ね合わせる。

 忘れるはずがない。

 彼のその微笑みは、何年、何十年経とうと、変わらない温かなものだった。


「ありがとう、エリティス…賢者を連れてきてくれたんだね。」

「うん!私、約束はちゃんと守るのよ!おじい様、だからぜったぁい元気になって?」


 無邪気にエリティスは微笑んで、老人の頬に可愛らしくキスをした。

 老人はすまなさそうにエリティスを見遣ると、綺麗に微笑んだ。


「…すまないが、エリティス、少し席をはずしてくれないか?」

「え?」

「少しだけ…。彼とゆっくり話がしたいんだ。…おまえには感謝しているよ。本当に、ありがとう。愛してるよ。」


 エリティスは、自分の祖父とまだ隠し扉の入り口に佇む賢者を交互に見比べた。

 少しだけ、不服そうな視線を賢者に向けた後、とんっと身軽な動作で立ち上がると、スカートの裾を持ち、貴婦人らしい礼を一つした。


「うん、おじい様、分かったよ。ウォルエフ、くれぐれもおじい様の事、よろしくお願いしますね?…それでは…」


 そう言って、エリティスはしぶしぶながらも、扉を開けて、第三の塔へと消えていった。

 その姿を見送った後、賢者はゆっくりとした歩みで、老人の待つベットの方へと近づいていった。


「…よぅ。随分、老け込んでしまったな…セオリーズ…いや、じい様とでも呼ぼうかね。」


 にぃっと普段の賢者からは想像も出来ないような、幼い笑みを浮かべて、彼は老人を覗き込んだ。老人は暫く黙っていたが、ふいに、にやりっと口を歪ませると、とんっと賢者の肩を叩いた。


「……この馬鹿が…。一体、何年ぶりだと思ってるのですか…。」


 叩かれた、その力が驚くほど弱弱しい事に、賢者は不安を覚える。


「さぁ?…俺としては、三年ぶり、な感覚…なんだけど?」

「…儂からすれば…もうン十年ぶりですよ。まったく…連絡のひとつもよこさないで…」


 老人は、すっかり色素の抜けてしまった自らの白い髪をさらりと撫でると、賢者を見上げた。


「…エリィも…心配してましたよ…。

 もう、一足先に、逝ってしまいましたけどね…」

「知っている。」


 そうして、二人の間に、長い沈黙が落ちた。

 一人は、自然の法則にまかせるままに、穏やかな時間を過ごした老人で。

 一人は、世界の最奥で、たった一人生きてきた青年。

 二人は、同じ時を過ごした懐かしい日々を、感じていた。

 言葉は無意味だった。

 その存在こそに意味があった。

 幸せだった時間。

 三人過ごした、もうあのころのようになることは不可能で。

 戻る事も出来ないけれど。

 今、こうして過去を感じる事が出来る。

 それは、分け合えるたった一つの財産だった。


「…俺も…愚か者か…。」


 ぽつり、と賢者は呟いた。

 もう夕日が沈もうとしていた。やがて優しい夜の女神がやってくる。

 ふいに、ウォルエフは立ち上がった。

 老人は、くんっと彼のローブの裾を引っ張った。

 血は争えないとでも言うのだろうか、エリティスと同じことをするセオリーズを、苦笑交じりにウォルエフは見た。


「……すまなかった。ウォルエフ…。僕は…君から、エリィを…」


 老人の、しわがれた声だった。

 ゆっくりと瞼をとじる老人は不思議と穏やかな、けれどどこか苦しみを抱いたような表情をしていた。

 老人の言葉を止めるように、ウォルエフは、ぽふっと彼の白くなった金髪を撫でた。


「あんたらしくないぞ?…幸せだったんだろう?彼女は…」


 賢者は老人から、ゆっくりと離れ、扉へと向かう。

 老人は、ただそれを見守っていた。

 扉に手をかけて、そのまま引いて、そこでウォルエフは老人の方へと振り返った。

 悪戯っぽい笑みを浮かべて。


「ああ、それと…もう、か弱いふりをするのは止せ。

 そんないい歳になっておきながら、孫に心配なんてさせるなよ…。

 大体、あんたの病気を治せる奴なんてこの世には存在しないんだからな。」


 老人は、一瞬きょとんっとしたのち、軽く微笑んだ。


「…ああ、ばれてました?」


 特に悪びれた様子もなく、唇に人差し指をあてて、老人はウィンクをする。


「でも君は治してくれましたね?」

「………。仮病なんて治したって、なんの自慢にもならん。」


そうして、ぱたんっと、静かに扉は閉められた。

安らかな顔をした老人だけが、その部屋に残された。


(6)


 ノーサリス皇国に、夜がやって来た。


 多くの国民達が、今日一日の疲れを癒すために穏やかな時間を過ごして行く。

 ある者は、ひっそりと眠りについて。

 ある者は、風呂に入り、鼻歌を歌い。

 ある者は、夜の町へと繰り出して、飲めや歌えやの大騒ぎ。

 さて、そんな夜、世界の果ての地に住む賢者はと言うと…。







「…こんなところにいたのですか。もう、帰ってしまったのかと思いました。」


 月の柔らかな光を反射して、闇の中でなお、映える金の髪の少女は、第三の塔の上でぼんやりと佇む人影に向かってそう言い放った。

 しっとりとした空気が広がる、闇夜の中、真白の髪を揺らして、彼は少女に背中を向けたまま、なんの返事も返そうとはしなかった。

 その後も何度か少女は声をかけてみたが、人影は沈黙を守ったままであった。


 むっと顔を顰めて、少女は危なっかしい足取りで、塔の上へとよじ登ろうと、外付の階段へと足を伸ばす。

 幸いにして、強い風は吹き付けておらず、思ったよりも楽に登り進む事が出来た。

 少女は、ふっと息を吐くと、塔の一番上へと登りきる。

 相変わらず背中だけしか見せない彼の方へと、溜息混じりに近づいていき、すとんっと彼の隣に腰掛けた。地上は遥か遠いところにあり、落ち着けるところのない足をぶらぶらとさせながら、少女は夜の闇へと視線を向けた。


「…返事くらい、してくださいよ。賢者ウォルエフ。」


 賢者は、ちらりと少女へと視線を向けた。

 ノーサリス皇国の第二皇女、エリティス。友人の大切な孫娘だった。

 別れた時よりも、少しだけ、彼女の顔がやつれてみえ、ウォルエフは微かに口を歪めた。


「…その様子では、随分しぼられたようだな…。」

「…うっ。そのとおりですよ。こってりとしぼられた上に、きつ~いお灸まで据えられましたよっ。」


 苦虫を噛み潰したような、渋い表情でエリティスは顔を顰めた。

 だが、次の瞬間には、どこか晴れ晴れとした様子で、こういった。


「けれど…ここの景色、見たら、なんかどうでも良くなっちゃいました。」

 綺麗、と小さくエリティスは呟いた。

 こんなに高い場所から、街を見下ろしたのは初めてだった。


 エリティスは、こんな変な場所にいてくれた賢者に、何故かむしょうに感謝したい気分になった。その時、ふと思い出す。わざわざ賢者を探していた目的を。


「……そういえば、おじい様となんのお話をしていらしたのですか?」


 賢者と会ってから、驚くほど元気になった彼女の祖父が、笑って教えてくれなかったことを、賢者に尋ねてみる。

 賢者は彼女の祖父以上に意地が悪いので、多分教えてくれないだろうな、と思いつつも、エリティスは言葉を切り出した。

 一瞬だけ、賢者は優しい顔をした。

 ゆっくりと冷えた石の屋根の上に寝転がって、賢者は星がちりばめられた空を見る。

 すっと目を閉じ、瞼に月の淡い光を見出す。


「…人の心というものは、難しいな。」


 まるで独り言のように、賢者は言葉を紡いだ。

 それを静かに、皇女は耳を傾ける。


「誰も手に入れることは出来ない、不可侵の存在。

 時に、持ち主の思惑に反乱を起こす、やっかいなもの。」


 久しぶりに会った、今はもう幸せに歳をとった皇太子をみて、懐かしさを感じた。

 けれど嫉妬…それもあった。

 だが、それ以上に、喜びと安らぎが賢者を満たした。


「自由かつ奔放なそれは、持ち主にすら御する事はできない。

 だからこそ、ひとは最後に一人となる。」


 両手を宙に投げ出して、賢者は残された老人を想う。

 人に、あの青空のような永遠などないのだ。

 いずれ絶対的な別れが待っている。

 ふと気が付けば、隣にいた人が消えている。

 それは当たり前の事。

 避けられない事。

 自然の理。


「…?…ウォルエフ、なに言ってるんですか?」


 きょとんっとエリティスは賢者の顔を覗き込んだ。


「人は一人ぼっちになんて、なりませんよ?

 気付かないだけで、たくさんの人が、ココロが、世界にはあるのですから。」

「…そこに、ある、だけさ。」


 賢者は深い緑の瞳をうっすらと開けて、エリティスの永遠を感じさせる空の瞳に映る、己の姿を見た。

 そう、そこに、自分はいただけだった。


「そうですね、何も、しなければ…。そこにあるだけ。賢者、あなたの言うとおりです。」

 でも…と、エリティスは続けた。


「ココロって、想いって、不朽のものだと思うんです。

 たとえ、肉体がなくなっても、ずっと傍で、寄り添っていられるような。」


月の灯りに照らされた、少女の指先は淡く光って、そっと彼の頬を撫でる。

その感触が何故か心地よくて、賢者は、再び目を閉じた。


(Epilogue)


「さて…ここでお別れだな。」

「…そうですね。」

「しかし…一国の皇女に送ってもらえるとは、俺も出世したものだな。」

「……。むぅ、なんでそんなに明るいんですかー!もっと、こう、別れを惜しんでくれてもいいんじゃないですかぁ。」

「そうか?」

「そうです!」

「…なにか、こう、仕組まれていたような感が強いんだ…」

「はあ?何をですか…」

「……さあ。」

「…うう。そんなに私とお別れするのが嬉しいのですね。ふん、もうどーぞ、ご勝手に!」

「……へえ、あんたは俺とお別れすることが、悲しいのか?なるほど。」

「なっ!!そ、そんな…わけ……。…そーですよ、悪かったですね!!」


「…………エリティス。」

「……え?あ、は、はい…?」







「…エリィ。君は、今はもう彼のところにいるのかな…?」

「どうしたのですか、先代様。」

「…いや。エリィのことを、思い出していてね…。」

「…奥様のことですか?」

「いやいや、違うよ。」

「?」

「ほんの少し前に、飛び出していった、小さな小さな孫娘のことさ。」





 世界の最奥に、彼等はいた。

 また、この地にも、いつもと同じ毎日が始まりが訪れる。

 まったく変わることの無い穏やかな奥地。

 けれど、ほんの少しだけ、変化があった。

 賢者の住処がちょっぴり狭くなった事や

 静まり返っていた地に、賑やかな声が、響いている事。

 そして、賢者が


 明日から、毎日、二人分の珈琲を用意する事。


先日HDの中身をあさっていたところ、十年ほど前に書いた小説が出てきたので、そのまま掲載しました。

若気の至りですが、昔から似たような話ばかり書いていたようです。

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