彼女が妹の命を救うためのお金を男友達に貢いだので、俺は警察に通報した
小川菜月と付き合って六年。彼女はよく、困っている人がいたら助けてあげなきゃ、と言っていた。
去年の冬、俺が三十九度を超える熱で点滴を受けていたときも、三浦亮介から「失恋したから飲みに付き合ってほしい」と連絡が入ると、菜月は俺を置いて出かけていった。
そして今度は、妹の心臓手術に備えて貯めていた三百万円を、勝手に亮介へ送金した。
借金の返済に困っているから、という理由だった。
二人がいる高級レストランへ行くと、個室の引き戸が少し開いていた。
「菜月、あれって美緒ちゃんの治療費だろ? 拓海さんにバレたらどうするんだよ」
俺は足を止め、スマホの録音を始めた。
菜月は亮介の皿に、殻をむいたエビを載せていた。
「美緒ちゃんの手術は明日じゃないでしょ。病院には相談できるけど、亮介の借金は今日中なんだよね?」
「でも、三百万だぞ」
「稼げるようになったら返せばいいじゃん。拓海には投資で失敗したって言っとくから」
テーブルには豪華な料理とワインが並んでいた。
数時間前、十七歳の妹は病院のベッドで、手術が終わったら学校へ戻れるかな、と俺に聞いていた。
俺はスマホを握ったまま、個室の引き戸に手をかけた。
1
勢いよく戸を開けると、菜月の手元でワイングラスが揺れた。こぼれた赤ワインが白いテーブルクロスに広がり、亮介も箸を止めてこちらを見た。
「拓海? どうしてここにいるの? 電話してくれればよかったのに」
俺は席につかず、スマホをテーブルに置いた。銀行口座の取引履歴が表示されている。昨日まであったはずの金が、三百万円ちょうど減っていた。
「金、どこにやった?」
「……何の話?」
「俺の口座から三百万、出ていってる。亮介のところに送ったんだろ」
菜月は画面をのぞき込み、亮介に目を向けた。グラスを置くと、声を落とした。
「ちょっと、大きな声出さないでよ。隣にもお客さんいるんだから」
「だったら答えてくれ」
しばらく黙っていた菜月が、観念したように息を吐いた。
「……私が振り込んだ。だって、今日も取り立ての電話が来てたんだよ」
「だからって、俺に黙って?」
「明日話すつもりだったってば」
履歴には、午前二時四十五分から三回に分けて振り込まれた記録が残っていた。
その夜、俺は病院から戻るなり、着替えもせずに寝てしまった。菜月と暮らすようになってから、銀行の支払いを手伝ってもらったことはある。家賃や部屋の設備代を払うために、振込限度額を変更したこともあった。
それでも、亮介に金を貸すと承諾した覚えはない。
「俺が寝てる間に、スマホ使ったんだな」
菜月は視線をそらした。
「亮介が事業を立て直せば、返してもらえると思ったの。今だけどうにかすればいいって」
「美緒が来週、術前検査を受けるのは知ってるよな」
「知ってるよ。でも、今も病院でちゃんと診てもらってるでしょ? 明日いきなり手術するわけじゃないんだし……」
菜月は亮介のほうを見た。
「こっちは、あの人たちが本当に来るって言ってるんだよ」
俺はテーブルに並んだ料理を見た。大皿のシーフードにステーキ、開けたばかりのワイン。デザートまで注文してある。
「取り立てが怖いって言いながら、こんな店で食事してるのか」
亮介が慌てて箸を置いた。
「拓海さん、本当にすみません。菜月がそこまでするなんて、知らなくて……。お金は必ず返します」
「いつ?」
「事業がまた動き出せば……」
「いつ動くんだよ」
亮介は答えられず、うつむいた。
すると菜月が箸を置き、苛立った顔で俺を見た。
「拓海、そんなに責めなくてもいいでしょ。亮介、ただでさえ参ってるんだから」
「美緒の金だぞ」
「返さないなんて言ってないじゃない。亮介は今、精神的に不安定なの。お医者さんにも、なるべくストレスをかけないようにって言われてるんだよ」
亮介が椅子から立ち上がり、上着をつかんだ。
「もういいよ、菜月。俺がいるから揉めるんだろ。汐原を出ていけば、取り立ての連中にも見つからないし」
上着を羽織りながら、小さくつぶやいた。
「こんなことになるなら、いっそ消えたほうがいいのかな……」
「亮介、やめてよ!」
菜月は彼の腕をつかみ、椅子に座らせた。それから、俺を責めるように見た。
「ほら、こうなるじゃん。拓海は亮介に何かあっても平気なの?」
「三百万のうち、今すぐ返せる分は?」
「もう債権者に振り込んだよ。手元には残ってない」
「だったら相手の連絡先を教えてくれ。いくら返して、まだいくら残ってるのか確認したい」
「もう、しつこい!」
菜月はバッグをつかんで立ち上がり、亮介の腕を引いた。
すれ違うとき、亮介が小さく頭を下げる。
「……すみません、拓海さん」
けれど足は止まらなかった。
戸口で菜月が振り返った。
「少し落ち着いたら連絡して。今の拓海とは話にならない」
二人が去ったあと、俺はテーブルに置いたスマホを手に取り、録音を止めた。
店員が戸口からおそるおそる声をかけてきた。
俺は食事をするつもりがないと伝え、必要な精算を済ませて店を出た。
時計はもう八時近かった。
病院には、まだ美緒がいる。
2
汐原市立総合医療センターに戻ったのは、九時少し前だった。
美緒は循環器内科の病棟に入院している。最近になって重い不整脈を何度か起こし、医師たちが手術に向けて詳しい検査を進めていた。
病室の引き出しには、通院費や退院後の生活費を計算したメモが入っている。予定が変わるたびに、俺は金額を書き直していた。病院では必要な治療が続けられていたが、退院後の生活まで含めて考えると、今後の支出が気がかりだった。
病室へ入ると、美緒はまだ起きていた。
スマホにはクラスのグループチャットが開かれ、文化祭の準備をしている動画が流れている。
「お兄ちゃん、ご飯食べた?」
「食べたよ」
「またコンビニ?」
「今日はちゃんと食べたって」
美緒は俺の顔をじっと見た。
「仕事、もうちょっと減らしたら? 看護師さんが言ってたよ。昨日、廊下の椅子で寝ちゃってたって」
俺は枕元の水差しを確かめ、コップに水を足した。
「手術が終わったら、少し休むよ」
「それ、前も聞いた」
美緒は笑って、また画面に目を戻した。
今年十七歳になる妹は、生まれつき心臓が弱い。俺たちの両親が亡くなってからは、ずっと二人で暮らしてきた。
動画に映る教室を見ながら、美緒が尋ねた。
「文化祭、行けるかな」
「先生と相談してからな。行けそうなら、俺も付き合うよ」
「え、お兄ちゃんも来るの?」
「嫌なのか?」
「別に。でも、変なこと言わないでね」
そんな話をしているうちに、美緒は眠そうに目をこすり始めた。
消灯前に病室を出ると、エレベーターの前でスマホが何度も震えた。
大学時代の友人たちが入っているLINEグループだった。
菜月が長いメッセージを送っている。
亮介の借金を返すため、俺に断らず貯金を使ったことは認めていた。ただ、そのあとは亮介がどれほど追い詰められているかという話が続き、レストランで俺が責めたせいで具合を悪くしかけた、とまで書いてあった。
最後はこう締めくくられていた。
『拓海が妹さんを心配してるのはわかるよ。でも亮介だって、本当に困ってるんだよ。私は友達を助けたかっただけなのに。六年も付き合ってるんだから、少しくらいわかってくれると思ってた』
すぐに何人かが反応した。
『亮介、最近かなり大変そうだったもんな。拓海も少し落ち着けよ』
『お金は返してもらうとしてさ、二人ともちゃんと話し合いなよ。菜月だって悪気があったわけじゃないだろうし』
金のことで六年の付き合いを壊すのはもったいない、という書き込みもあった。
学生時代から菜月は友達の面倒見がよく、誕生日にはプレゼントを用意し、飲み会でも率先して会計をしていた。
その支払いには、俺の銀行口座から引き落とされる決済サービスが使われることもあった。同棲を始めた頃、食費や日用品を買うために、菜月にも使えるようにしていた。
月末になると生活費が足りなくなり、結局は俺が穴埋めする。
今までは、いずれ結婚するつもりなのだから細かいことは言うまいと考えていた。
俺は壁際に移動し、グループに返信した。
『あの三百万円は、美緒の治療のために貯めていた金です。今も入院中で、手術の準備をしています。菜月は俺に断らず、夜中に口座から全額を送金しました』
少し考えて、もう一通送る。
『亮介を助けたいなら、自分のお金を貸してあげてください。美緒のための金を、俺に相談もなく使っていい理由にはならないと思います』
それまで続いていた書き込みが止まった。
数分後、菜月から個別にメッセージが来た。
『みんなの前でそこまで言う必要ある? 勝手に使ったのは悪かったって認めてるじゃん。まだ何か言いたいの?』
俺は返事をせず、グループの通知を切った。
そのまま銀行へ連絡し、身に覚えのない送金について相談した。口座の利用を制限してもらい、ログイン方法や認証の設定も見直す。
菜月が使える状態になっていた決済サービスについても、利用停止や権限の変更を進めた。普段の買い物用に登録してあった支払い方法も、一つずつ確認していく。
すべて終えた頃には、病棟の廊下はすっかり静かになっていた。
翌朝、銀行の窓口へ行こう。
三百万円がどう動いたのか、まずは記録をそろえなければならない。
3
翌朝、会社に休みをもらって銀行へ向かった。
本人確認を済ませ、正式な取引明細を出してもらう。三百万円は二日前の深夜、三回に分けて振り込まれていた。振込先の名義は、三浦亮介。
俺は送金を承諾していないことを説明し、調査を依頼した。担当者は経緯を記録し、警察にも相談するよう勧めてくれた。
書類を封筒にしまって銀行を出たところで、菜月から電話がかかってきた。
「拓海、決済サービス、使えなくした?」
「止めたよ」
「なんで一言も言ってくれないの? さっき亮介の買い物をしようとしたら支払えなくて、レジで恥かいたんだけど」
「俺の口座から払うようにしてたんだろ」
「それはわかってるけど、急に使えなくすることないじゃん」
「これからは自分で払ってくれ」
菜月はしばらく黙っていた。
「……病院に行くから。ちゃんと話したい」
それから三十分ほどして、病院の一階で二人と顔を合わせた。
菜月はきれいに着飾り、ブランド物のバッグを持っていた。亮介は少し後ろを歩いている。
「もう、何なの? 支払いは止めるし、パスワードも変えるし。LINEでもあんなこと書いて……。私たち、まだ別れてないよね?」
「金を送る前に、俺に聞いてくれたか?」
「またその話? ちょっとは話を聞いてよ」
菜月は亮介を隣に立たせた。
「亮介、昨日もほとんど眠れなかったんだって。今のアパートも狭いし、外もうるさくてさ」
「それで?」
「ほら、月見野にあるご両親の家。今、誰も住んでないでしょ?」
「何が言いたいんだ?」
「前に、あの家を買いたいって人がいたじゃない。まだ話、残ってないかな?」
「その金で亮介の借金を返せって?」
「全部使うわけじゃないよ。美緒ちゃんの分だって残せると思うし……」
月見野にある家は、両親が残してくれたものだった。
今は汐原で暮らしているが、毎年お盆には美緒と帰っている。父が庭に植えた柿の木も、母が使っていた古い食卓も、そのまま残してあった。
菜月も何度か泊まりに来たことがある。
「三百万持っていったうえに、今度は家を売れって?」
「そういう言い方しないでよ。普段は誰も住んでないじゃない」
「父さんと母さんの家なんだよ」
「でも、今お金が必要なんでしょ?」
亮介が菜月の袖を引いた。
「もういいよ、菜月。俺のせいで喧嘩しないで。自分でどうにかするから」
少し間を置いて、彼は続けた。
「汐原を出ていけば、取り立ての連中にも見つからないと思うし。こんなことになるなら、いっそ……」
「亮介、変なこと言わないで!」
菜月は彼の手を握り、俺に向き直った。
「拓海、お願い。亮介を助けてくれない?」
「無理だ」
即答すると、菜月は目を見開いた。
「……そんな人だったんだ」
俺は何も言わなかった。
「困ってる友達を見捨てる人とは、もう付き合えない。別れよう」
以前も、菜月は何度か別れ話を持ち出したことがある。
俺の賞与を使って亮介にパソコンを買ったときもそうだった。勝手に家賃を三か月分肩代わりしていたことがわかったときも、俺が問いただすと「信用してくれないなら別れる」と言った。
結局、いつも俺が謝って終わっていた。
「わかった。別れよう」
「……え?」
「菜月とは別れる。三百万は返してもらうけど」
俺はスマホを取り出した。
「銀行で記録も取ってきた。これから警察に相談する」
菜月が慌てて手を伸ばした。
「待ってよ! 本気で警察に行くの? 六年も一緒にいたんだよ?」
俺は少し距離を取り、書類の入った封筒を持ち直した。
「警察に相談する。もう決めたんだ」
菜月の顔色が変わった。
「拓海、お願い。そこまでしなくても……」
「俺は美緒の金を返してほしいだけだよ」
俺は病院を出て、近くの警察署へ向かった。
菜月と亮介も、少し遅れてついてきた。
警察署の入り口が見えたところで、亮介が菜月の袖を引いた。
「……菜月、拓海さんは警察に行くような人じゃないって言ってたよな?」
菜月は答えなかった。
4
警察署に入り、受付で事情を説明すると、担当の警察官に案内された。
俺は銀行の取引明細を見せ、菜月に送金を頼んでいないこと、亮介に金を貸すつもりもなかったことを伝えた。
菜月は最初から、恋人同士の金銭トラブルだと言い張っていた。
「六年も一緒に住んでるんです。生活費だって普段からお互いに使ってました。確かに先に言わなかったのは悪いですけど、友達に貸しただけなんです」
警察官は、送金したときの状況を尋ねた。
「前から私が支払いを手伝うこともあって……。拓海のスマホも使えました。今回は寝てるときに、ちょっと借りて操作したんです」
「送金することについて、ご本人の了承はありましたか?」
菜月は俺を見た。
「……あとで話すつもりでした」
警察官はそれを記録し、続けていくつか質問した。
俺は菜月とのメッセージや、レストランで録音した会話も提出した。銀行側で確認が必要な記録もあるため、詳しい事情はそれぞれ別に聞かれることになった。
亮介が急に口を挟んだのは、そのときだった。
「あの、俺は菜月から借りただけです。拓海さんの口座から出したなんて知りませんでした」
菜月が振り向く。
「亮介? 昨日、話したよね?」
「菜月が何とかしてくれるって言ったんだろ。勝手に振り込んだなんて聞いてないよ」
「知ってたじゃん!」
「知らないって!」
二人が言い争い始めると、警察官は話を止め、それぞれ順番に説明するよう求めた。
その後、俺はいつ金を貯め始めたのか、口座を誰が使っていたのか、送金に気づいた経緯などを詳しく聞かれた。
銀行側の記録を確認するには時間がかかる。俺が持ってきた書類は、必要なものを提出した。
手続きが終わる頃には、外はもう明るい午後の日差しになっていた。
廊下へ出ると、長椅子に菜月が座っていた。
俺を見つけるなり立ち上がる。
「拓海」
足を止めると、菜月はしわになったハンカチを握りしめた。
「美緒ちゃんに迷惑かけるつもりじゃなかったの。お金のこと、二人で何とかできない?」
「返済の話ならするよ。警察には、あったことをそのまま話す」
「私が捕まってもいいの?」
「俺に聞かれても困る」
菜月は何か言いかけたが、そのとき職員に名前を呼ばれた。
俺は待たずに警察署を出た。
その夜、菜月の父親、小川正和から電話があった。
明日、少し会えないかという。
菜月の両親は、以前から俺との交際にあまり賛成していなかった。給料が高くないことも、病気の妹の面倒を見ていることも、気に入らなかったらしい。
結婚の話が出た頃、母親の恵子には、美緒の生活費をいつまで出すつもりなのかと何度も聞かれた。
会う気にはなれなかったが、金を返してもらうには家族と話す必要もあるかもしれない。
翌日、駅前のカフェで待ち合わせた。
二人は約束の時間より早く来ていたらしく、テーブルには飲みかけのコーヒーが並んでいた。
「拓海くん、座ってくれ。菜月のことは聞いたよ」
正和は立ち上がり、俺に席を勧めた。
隣の恵子は目を赤くしていた。
「あの子、人に頼られると断れないところがあって……」
恵子はそこで言葉を切り、夫の顔を見た。
「三浦って人に、うまく利用されたんじゃないかと思うの」
「それでも、俺の口座から金を送ったのは菜月です」
恵子は小さく頷いた。
「それは本当に悪かったと思ってるの。お金も、私たちが何とかするから……。もう一度だけ、菜月にチャンスをくれないかしら」
「まず、返金について話したいです」
俺は取引明細をテーブルに置いた。
「三百万円です。いつ、いくら返せるのか、はっきりさせてください」
正和が何度も頷いた。
「わかってる。できるだけ早く用意する。ただ、菜月はまだ若いだろう。仕事にも影響が出るだろうし……」
「美緒は十七歳です」
二人が黙った。
「菜月は、妹が入院しているのを知ってました」
恵子は俯き、目元を拭った。
「拓海くん、六年も付き合ってきたのに、本当にもう戻れないの?」
「菜月とは別れました。考え直すつもりはありません」
話し合いの末、正和はまず用意できる分を返し、残りは弁護士を通して相談すると約束した。
俺も民事の返還請求について相談するため、弁護士に連絡した。
亮介がどこまで事情を知っていたのか、送金された金がどこへ消えたのかについては、警察の調査を待つしかない。
帰りの電車で、賃貸住宅の物件情報を開いた。
菜月と暮らしている部屋から、出ていこうと思った。
5
賃貸マンションに戻ると、菜月はいなかった。
スマホには、もう一度話したいというメッセージが何通も届いていた。返事はせず、クローゼットを開ける。
六年前、ここへ引っ越してきたばかりの頃は、折りたたみ椅子が二脚と小さなテーブルしかなかった。床に座ってコンビニ弁当を食べながら、次はソファを買おうとか、猫を飼えたらいいねとか、そんな話をしていた。
今では家具も増え、菜月が去年買った高いフロアライトまで玄関に置かれている。
俺は両親の写真、パソコン、仕事の資料を段ボールへ詰めた。共同で買った家具はそのままにして、まず自分のものだけ運び出すことにした。
机の引き出しを片づけていたとき、以前の支払いのことが気になった。スマホで家計用の決済サービスを開き、利用履歴をさかのぼってみる。
食費や日用品の買い物は菜月に任せきりだった。これまでは月々の合計額を見る程度で、一件ずつ確かめたことはほとんどなかった。
ところが、画面をスクロールしているうちに、何件か見覚えのない支払いが出てきた。
亮介が体調を崩して病院に付き添う、と菜月が言っていた夜に、ホテルの宿泊代が決済されている。
汐原の中心部にある高級ホテルでは、飲食代と合わせて十万円を超える支払いまであった。
俺は利用履歴の日付を、菜月が当時送ってきたメッセージと照らし合わせた。
ある夜、菜月は「亮介が薬を飲んで寝たから、朝まで様子を見る」と送ってきていた。
その日に払われていたのは、ホテルの宿泊代だった。
俺はスマホを机の上に置いたまま、しばらく動けなかった。
やがて必要な記録を保存し、弁護士に渡すためのファイルにまとめた。
菜月と亮介がホテルで何をしていたのか、本人たちに問いただす気にはなれなかった。
共同で利用していた配信サービスなども整理し、俺が支払う契約を見直した。引っ越し先は会社から近いワンルームを選び、必要な荷物だけ先に運ぶ。
大学のLINEグループでは、何人かが個別に連絡してきた。
事情を知らずに余計なことを言ったと謝る人もいれば、菜月が警察に連れていかれたのか、詳しく教えてほしいと聞いてくる人もいた。
ホテルの利用履歴を見せるつもりはなかった。
俺はグループに最後のメッセージを送った。
『三百万円の送金については、警察に届け出て調査をお願いしています。菜月が俺に断らず口座から送った金で、妹の治療に備えていたものです。事情を知らないまま、あれこれ言い広めるのはやめてください』
それだけ書いて、グループを抜けた。
菜月の勤務先にも連絡しなかった。仕事のことは、必要な事実がわかってから会社が判断するだろう。
その夜、新しい部屋で布団を敷いていると、美緒からビデオ通話が来た。
「お兄ちゃん、引っ越したの?」
「うん。ちょっと狭いけど、会社には近いよ」
「菜月さんは?」
段ボールの上にスマホを立て、俺は答えた。
「別れたんだ」
美緒は少し黙った。
「……私のせい?」
「違うよ」
「本当に?」
「俺と菜月の問題だから。美緒は気にしなくていい」
美緒は画面の向こうで、俺の背後を眺めた。
「じゃあ、これから自分でご飯作らなきゃね。また冷凍餃子ばっかりになりそう」
「そんなに食べてないだろ」
「この前、冷凍庫に三袋あったじゃん」
思わず笑うと、美緒も少しだけ笑った。
通話を終えてから、最後の段ボールを壁際に寄せる。
部屋には寝る場所と小さな机しかない。玄関から台所まで、ほんの数歩だった。
俺はこれから必要になる治療費と生活費を書き出し、弁護士に渡す資料を整理してから電気を消した。
6
医療費の見通しは立っていたが、突然三百万円がなくなったことで、退院後の暮らしや通院費用まで考えると余裕はなかった。
手元の貯金を計算し直し、短期の仕事をもう少し引き受けようかと考えていた頃、片桐社長に呼ばれた。
社長は五十代で、普段は社員の私生活にあまり立ち入らない人だ。
最近休みが増えた件かと思って部屋に入ると、机の上には二枚の書類が置かれていた。
「藤原、妹さんの話を聞いたよ。大変だったな」
「ご迷惑をおかけしてすみません」
「それはいい。担当してた案件、まだ賞与が精算されてない分があるだろ。経理に確認したら、少し早めに支給できそうなんだ」
社長は書類を一枚こちらへ寄せた。
「あと、会社から金を借りられる制度もある。人事に話はしておくから、一度相談してみろ」
「社長……ありがとうございます」
「今は妹さんのことを優先しろ。仕事はチームで回せばいい」
片桐社長はそこで少し笑った。
「前の案件じゃ、遅くまで頑張ってくれただろ。こういうときくらい会社を頼ってくれ」
前倒しで支給された賞与と社員貸付、それに残っていた貯金を合わせ、当面の費用を準備することができた。
美緒は医師たちが立てた治療計画に沿って手術を受けた。
手術室の前で待っている間、時計を何度見たかわからない。執刀医が出てきて、予定していた手術は終わったこと、しばらく注意深い経過観察が必要なことを説明してくれた。
俺は壁に手をつき、ようやく肩の力を抜いた。
美緒は術後、集中して観察を受ける病室に入り、状態が安定してから一般病棟へ戻った。
はっきり会話ができるようになった日、俺がベッドのそばに座っていると、かすれた声で話しかけてきた。
「お兄ちゃん、私、そんなに寝てた?」
「ちょっと長かったな」
「なんでお兄ちゃんのほうが顔色悪いの?」
「昨日、あんまり寝られなくて」
美緒は笑いかけて、痛そうに顔をしかめた。
「じゃあ帰って寝なよ。私、ちゃんといるから」
俺はその手を握り、頷いた。
その頃、送金の件にも動きがあった。
弁護士から連絡があり、確認できた範囲の事情を聞いた。
亮介が話していた事業は、実際にはほとんど動いていなかったらしい。ほかにも借金を重ね、違法なオンライン賭博に金を使っていた疑いがあるという。
菜月には、投資に失敗しただけだと説明していたらしい。
もう少し資金があれば立て直せる。そう言って何度も金を借りていた。
三百万円の大半も、以前の借金返済に使われていたという。
亮介が金の出どころをどこまで知っていたのか、菜月をだますつもりで事業の話をしていたのかについては、引き続き調べられていた。
後になって、菜月の父親を通じて、亮介が友人に送っていたメッセージの内容も知った。
亮介は、菜月の前で困った顔をしていれば金を用意してくれる、と友人に話していたらしい。
菜月もそのことを知り、以前のように亮介をかばわなくなったという。
数週間後、小川正和から弁護士へ連絡があった。
菜月の両親が一部の返済金を用意したので、先に返したいという話だった。残額については改めて協議することになった。
ただ、菜月自身にも借金の問題が残っていた。
以前、亮介の借入れの一つで保証人になっていたらしく、亮介が返せなくなると、今度は菜月に請求が来るようになった。
中には金利や請求内容に疑問のあるものもあり、彼女は別の弁護士に相談していた。
両親も返金のために貯金を取り崩し、弁護士費用まで負担していた。
ある日、正和から電話が来た。
「拓海くん、残りのお金も何とかする。月見野にある家を売ることも考えてるんだ」
それは、二人が老後に住むつもりで買っていた家だった。
「菜月も仕事のことでいろいろあってな。最近はあまり元気がなくて……」
「返済については、引き続き弁護士さんと話してください」
俺が答えると、正和は短くわかったと言った。
菜月の勤務先も、捜査が進むなかで出勤状況などを確認し、社内規定に沿って雇用関係を整理したと聞いた。以前の安定した収入はなくなったらしい。
その後、警察は関係資料を検察へ送った。
それぞれにどのような法的責任が認められるのかは、まだ手続きが続いていた。
弁護士から届いた報告書を読み終え、俺はファイルにしまった。
今は美緒の回復が優先だった。手術を終えてもリハビリや通院は続くし、学校に戻る準備もある。
翌日も、病院へ行く予定になっていた。
7
手術から二か月が経つ頃には、美緒は病棟の廊下を一人で歩けるようになっていた。
授業の遅れを取り戻そうと、ベッドの上で教科書を開く時間も増えた。担任の先生とはオンラインで話していて、クラスメートが文化祭の準備風景を動画で送ってくれることもあった。
ある日、その動画を見て笑っていた美緒が、ふとこちらを向いた。
「お兄ちゃん、また新しい仕事引き受けた?」
「会社の仕事だから仕方ないだろ」
「嘘。勉強を見てくれる先生も言ってたよ。お兄ちゃんみたいな人は、暇になっても自分で仕事探しちゃうって」
俺は窓辺に積んであった本をそろえた。
「退院したら、なるべく早く帰るようにするよ」
「なるべくじゃなくて、絶対」
「わかった、わかった」
退院前には、主治医と今後の生活について相談した。学校でどの程度動いていいのか、服薬や定期検査についても確認する。
病院を出る日、美緒は玄関先でしばらく空を見上げていた。
「もう毎日、病室の天井見なくていいんだね」
俺は美緒の荷物を受け取った。
「まずは家でゆっくりしよう。遊びに行くのは先生の許可が出てからな」
歩き始めて少しすると、美緒が菜月のことを尋ねた。
「菜月さん、また会いに来るかな」
「どうだろうな」
「お兄ちゃん、仲直りする?」
「しないよ」
美緒はそれ以上聞かなかった。
退院後は、俺が借りた部屋で一緒に暮らすことになった。美緒にはベッドのある部屋を使わせ、俺は居間に布団を敷く。
薬の飲み忘れがないか毎朝確認していると、そのうち美緒にうるさがられるようになった。
「お兄ちゃん、私、もう小学生じゃないんだけど」
「知ってるよ」
「だったら一日に三回も薬飲んだか聞かないで」
「じゃあ二回にする」
美緒がクッションを投げてきたので、受け止めてソファに戻した。
それからしばらくして、弁護士から返金についての連絡が届いた。
三百万円の大部分はすでに返還され、残りも書面で支払い方法が決まったという。
亮介の賭博や金の流れについては、引き続き手続きが進められていた。事業が失敗したという話には、実態と食い違う点がいくつもあったらしい。
菜月も、無断送金について責任を問われていた。
彼女の両親は返済のために相当な金を使い、生活も厳しくなっていた。仕事を失った菜月は、別の働き口を探していると聞いた。
以前はSNSに高級レストランやブランド物の写真をよく載せていたが、最近は更新が減り、身の回りの物を売りに出す投稿が目立つらしい。
わざわざ見に行ったわけではない。たまたま共通の知人から聞いただけだった。
会社でも、六年付き合った相手を警察に届け出るのはやりすぎじゃないか、と言われたことがある。
俺は反論しなかった。
仕事から帰ると、美緒が学校から届いた書類を広げていた。
「お兄ちゃん、見て。早ければ来月から学校に行けるかもしれないって」
俺は隣に座り、復学後の予定を一緒に確認した。
8
数週間後の夜、外はひどい雨だった。
残業を終えてマンションに着いたのは、もう十一時近かった。
美緒は明日、退院後の定期検診がある。出かける前に早く寝るよう言っておいたので、たぶんもう眠っているだろう。
エレベーターを降りると、廊下の端に誰かが座っていた。
ずぶ濡れの髪が頬に張りつき、足元には古いバッグが置かれている。足音に気づいて顔を上げた女を見て、俺は立ち止まった。
菜月だった。
数か月会わないうちに、ずいぶん痩せていた。コートはしわだらけで、化粧も雨で落ちかけている。
菜月は壁に手をついて立ち上がった。
「拓海……帰ってきたんだ」
「どうしてここがわかった?」
「前の友達に聞いたの。ごめん、急に来たりして。でも、もう誰に相談したらいいかわからなくて……」
彼女は少し近づき、バッグの持ち手を握り直した。
「亮介、ずっと嘘ついてた。事業で失敗したなんて、全部嘘だったの……」
「……聞いてるよ」
「借金の保証人にまでなっちゃって、今も返せって言われてる。仕事もなくなって、もうどうしたらいいかわからない……」
菜月はバッグの持ち手を握りしめた。
「お父さんまで体調崩しちゃって……」
そこで声が詰まり、菜月は泣き始めた。
美緒を起こしたくなくて、俺は声を落とした。
「それで、俺にどうしてほしいんだ?」
しばらくして、菜月は涙を拭いながら顔を上げた。
「拓海、もう一回やり直せないかな。私、ちゃんと働くから」
俺は答えなかった。
「美緒ちゃんのことも手伝う。今度は勝手なことしないから……」
「美緒はもう退院したよ」
菜月が顔を上げた。
「……本当?」
「手術もうまくいって、今は家で休んでる」
「そっか……よかった。本当によかった」
彼女は顔を伏せ、しばらく何も言わなかった。
俺は鍵を取り出した。
「……俺たちは、もう別れたんだ」
「拓海!」
菜月が袖をつかんだ。
「六年だよ? 六年も一緒にいたのに、私のこと、少しも思い出さなかった?」
俺は彼女の手から袖をゆっくり外した。
「思い出すことはあったよ」
「だったら、どうして……」
「美緒が入院してたときのことも、思い出すから」
雨が窓を打つ音が、廊下まで響いていた。
菜月は濡れた髪を耳にかけた。
「私、あんなことになるなんて思わなかった」
「美緒の金だってことは知ってたよな」
「亮介がすぐ返してくれると思って……」
「俺には何も聞かなかった」
菜月は口を開いたが、何も言わなかった。
俺は鍵をドアに差し込んだ。
「もう急に来ないでくれ。返済の話は弁護士を通してほしい。それ以外に話すことはないよ」
菜月は俯いたまま、涙を拭っていた。
「拓海、前はあんなに私のこと好きだったのに……」
「そうだな」
俺は一度だけ彼女を見た。
「だから、いつか俺のことも考えてくれると思ってた」
ドアを開け、最後に声をかけた。
「雨、ひどいから。気をつけて帰って」
菜月は追いかけてこなかった。
音を立てないようにドアを閉め、濡れた上着を脱ぐ。
美緒の部屋からは物音がしなかった。どうやら、まだ眠っているらしい。
起こさないよう台所へ行き、湯を沸かした。
スマホには夕方届いた美緒の写真が残っていた。
学校から送られてきた復学予定の書類を机に広げ、その横に大きな笑顔の絵が描いてある。
『お兄ちゃん、来月から学校に行けそう!』
俺は笑顔のスタンプを送り、おやすみ、と一言添えた。
湯を飲み終えた頃には、廊下もすっかり静かになっていた。
居間の灯りを消して布団に入った。
9
それからしばらくして、美緒は学校に復帰した。
医師と相談しながら、最初は短い時間だけ登校し、少しずつ授業を受ける時間を増やしていった。久しぶりに友達と過ごせるのが嬉しいらしく、帰宅すると学校であったことを毎日のように話してくれた。
半年後、汐原の街にも秋が深まっていた。
美緒はすっかり通学の生活リズムを取り戻し、朝になると自分で制服を用意するようになっていた。
その日も、玄関で靴を履いている美緒に声をかけた。
「薬、持ったか?」
「持ったよ」
「無理して走ったりするなよ。先生にも――」
「もう、お兄ちゃん。私、十七歳なんだけど」
美緒は笑いながらバッグのファスナーを閉めた。
「それ以上言ってたら、本当に遅刻するよ」
学校まで送ると、校門の前には何人かのクラスメートが待っていた。
美緒の名前を呼ぶ声がして、妹が嬉しそうに駆け出す。
途中で振り返り、大きく手を振ってきた。
俺も手を上げ、美緒が校門をくぐるまで見送った。
仕事のほうでは、片桐社長から新しい住宅設計チームを任されることになった。
若い設計士を何人かまとめる立場になり、給料も以前より増えた。遅い時間まで残る日も少なくなっている。
美緒の状態が落ち着き、家計にも少し余裕ができたので、週末は仕事を入れないようにした。
その週末、美緒にせがまれてフランス料理の店へ行った。
汐原の商店街にある人気店で、美緒がずっと行きたがっていたところだ。以前は値段を見てためらっていたが、退院と復学のお祝いにはちょうどよかった。
食事を終え、二人で商店街を歩いていると、美緒はクラスの話を楽しそうに続けていた。
小さな焼き菓子の箱を両手で抱え、文化祭で何をしたとか、久しぶりに会った友達がどうだったとか、次々と教えてくれる。
裏通りに差しかかったとき、路地の奥から荒い声が聞こえた。
「先月返すって言っただろ! また金がないのかよ」
「今週も少し払いました。残りはもうちょっと待ってください……」
何気なく目を向けると、男が二人、女を取り囲んでいた。
女は安っぽいスカートに古いバッグを提げ、しわになった紙幣を握りしめている。何度も頭を下げていたが、男の一人に肩を押された。
美緒が俺の袖を引いた。
「お兄ちゃん、あの人……菜月さんじゃない?」
顔をよく見る。
痩せて、ずいぶん疲れた様子だったが、菜月に間違いなかった。
向こうも俺たちに気づいた。
何か言いかけたように口が動いたが、すぐに顔を伏せ、手で隠してしまった。
男たちはまだ金を返せと言っている。一人はスマホを取り出し、誰かに連絡しようとしていた。
俺は美緒を人通りの多い場所まで下がらせ、警察へ連絡した。路地の場所と、女が男二人に囲まれていることを伝える。
必要な説明を終え、美緒のところへ戻った。
「お兄ちゃん、あれ、本当に菜月さんだったよね?」
「うん」
「声かけなくていいの?」
「もう話すことはないよ」
美緒は少しだけ路地のほうを見たあと、持っていた紙袋を俺に差し出した。
「じゃあ、これ持って。重くなってきた」
「そんなに買ってないだろ」
「お兄ちゃんが二箱買おうって言ったんじゃん」
受け取ると、美緒はさっさと歩き始めた。
商店街の端に、小さな花屋があった。店先には秋の花が並び、黄色い小菊がいくつか鉢に植えられている。
美緒はその前で立ち止まり、一鉢を選んだ。
「これ、買って帰ろうよ」
「急にどうした?」
「お父さんとお母さんの写真のところに飾りたいの。もうすぐ月見野にも行くでしょ?」
俺は店で会計を済ませ、包んでもらった鉢植えを受け取った。
月見野の家は、今も残っている。
庭の柿の木には今年も実がついているらしい。美緒は次に帰ったとき、何個か採って学校の友達に持っていくつもりだと言っていた。
先を歩く妹は、またクラスの話を始めていた。
俺は菊の鉢と焼き菓子の箱を抱え、その後ろを歩く。
午後の日差しは暖かかったが、風には少し冷たさが混じっていた。
美緒が振り返った。
「お兄ちゃん、早く! 電車、間に合わなくなるよ!」
「今行くよ」
俺は少し足を速め、妹の隣に並んだ。
――完――




