第八話
「……阿久津くん、麗華さん。私の後ろから動かないで」
みやびの声が、地下室の冷えた空気を震わせた。彼女が静かに一歩踏み出すと、周囲の空気が重く澱んだように感じられた。
「九条……。やはりその名に反応するか。お前がその技術を振るえば振るうほど、この世界の因果律は歪み、修正不能なエラーを吐き出すことになる。それが分からないお前ではないはずだ」
田中は表情を変えず、タブレット端末の上で指を滑らせた。
次の瞬間、阿久津の持つ『阿久津壱号』が激しく警告音を鳴らし、液晶に異常なスペクトルが描かれた。
「熱い! 電磁波じゃない、空間そのものが……沸騰してやがる! 今中さん、何が起きてるんだ!? おっさんの周りだけ物理法則が狂ってるぞ!」
阿久津が悲鳴を上げながらも、デバイスを離さない。彼にとって、みやびは「指先一つでハンダを再結晶化させる凄腕のエンジニア」であり、目の前の現象もまた、何か科学的な理由があるはずだと信じていた。
みやびは右手をそっと宙に掲げた。
「先生の言う『デバッグ』が、誰かの犠牲の上に成り立つものなら、そんなシステムは私が書き換える。……展開、ダーク・ベール」
みやびを中心に、目に見えない衝撃波を吸収する球状の領域が展開された。田中のサーバーから放たれる不可視の干渉波が、ベールの表面で虹色の火花となって散り、消えていく。
「ほう。防御に徹するか」
田中が薄く笑った。
「だが、神宮寺のお嬢さん。お前はどう思う? お前の家が潰された理由。それは、神宮寺コンツェルンが将来的に、この世界の均衡を崩すほどの『自由エネルギー』に手を出そうとしていたからだ。……我々が介入しなければ、今頃この国はエネルギー戦争の火種になっていた」
麗華は、みやびの背後で拳を握りしめていた。それは恐怖ではなく、あまりにも身勝手な「正義」への激しい怒りだった。
「……均衡? 戦争の火種?」
麗華の声が低く響いた。
「あなたたちは、予測される未来を恐れて、今生きている人間の努力も、人生も、家族の絆も、すべてゴミのように捨てたというの? ……笑わせないで。それは管理じゃない、ただの臆病者の虐殺よ!」
麗華の瞳が、これまでにないほど鋭く、そして冷徹に輝いた。彼女はビジネスという戦場で、数多の欺瞞を見抜いてきた。その直感が、田中の言葉の「綻び」を見つけ出したのだ。
「田中先生。あなたが守っているそのサーバー。……記録されているのは未来予測だけじゃないわね。今、まさに吸い上げている神宮寺の資産……それを、特定の『誰か』の口座へ流しているノイズが混じっている。……デバッグのついでに、私腹を肥やしているのはどこのどなたかしら?」
麗華の指摘に、田中の眉がわずかに動いた。
阿久津がすぐさま自分のデバイスに視線を落とす。
「……本当だ! 麗華さんの言う通りだ。暗号化されたパケットの裏に、別の通信プロトコルが隠れてる。これは監視のデータじゃない。……ただの『送金指示』だ! おっさん、あんた正義の味方のツラして、ただのドロボーじゃないか!」
「……ちっ」
田中が初めて舌打ちをした。
「阿久津くん、壱号の指向性をサーバーのメインプロセッサに固定して。……先生。私の技術は、この時代の物質には少し『重すぎる』の」
みやびが指先を田中のメインサーバーに向けた。
物理的な接触はない。しかし、サーバー内の基板を構成する原子の結合力に、みやびがダークマターを介して直接的な「負荷」をかけた。
パチィィィン!
凄まじい放電現象と共に、田中の背後にあるサーバー群が一斉に黒い煙を上げ、沈黙した。モニターの光が消え、地下室は一転して、非常灯の赤色に染まった。
「……ハッ。やってくれたな、今中」
田中は暗闇の中で、椅子に深く腰掛けたままであった。
「今日のところは、お前の仲間の『直感』に免じて引いてやる。だが忘れるな。組織はお前たちを逃さない。聖ガバナンス高校は、お前たちにとっての『盾』であると同時に、『檻』でもあるんだからな……」
田中の姿が、霧のように薄れていった。
残されたのは、沈黙する鉄の残骸と、肩で息をする三人。
「……麗華さん、阿久津くん。大丈夫?」
みやびが振り返ると、麗華は自分の震える手を見つめ、それから力強く顔を上げた。
「ええ。……確信したわ、みやび。あの男……あの組織を叩き潰さない限り、私の神宮寺は、そしてあなたの描く未来は、永遠に完成しない」
「……なあ、今中さん。今の何だったんだ? 指を向けただけでサーバーが焼き切れるなんて……。どんな電磁パルスを放ったんだよ」
阿久津が混乱しながらも、壊れかけたデバイスを愛おしそうに抱きしめる。
「……内緒よ。企業秘密だわ」
みやびは少しだけ微笑んだ。
孤独だったみやびの瞳に、初めて「信頼」という名の光が灯った。




