第四話
中学校三年生の秋。進路希望調査票が秋風に舞う季節になっても、今中みやびの周囲だけは、冬の湖のような静寂が支配していた。
その日、みやびは放課後の理科室で、一人残って実験器具の手入れをしていた。義務ではないが、静かな空間でダークマターの微細な振動を調整するには、ここが最も適していたからだ。
「……今中、まだいたのか」
背後から声をかけられ、みやびは指先で操っていた空間の「粘り気」を即座に霧散させた。
振り返ると、理科教師の田中が、使い古された顕微鏡を抱えて立っていた。彼は、小学校時代の同級生である田中くんと同じ苗字という以外、何の接点もないはずの、どこにでもいる平凡な中年教師だ。
「先生。……はい、片付けが終わるところです」
田中は無言で歩み寄り、みやびの隣の机に顕微鏡を置いた。彼はみやびを見ることもなく、接眼レンズの汚れを丹念に拭き始めた。
「進路、決まったか。……あの高校だったな。あそこは、出る杭を打たないことで有名な学校だ。お前のようなタイプには、居心地がいいかもしれん」
田中の言葉は、表面上はただの進路指導の世間話に聞こえた。だが、みやびの感覚器官は、彼の周囲のダークマターが、まるで凪いだ海のように「不自然に静止している」ことを捉えていた。
(この人……動かしてはいない。けれど、なぜ私の干渉に『干渉』しないの?)
みやびがこれまで出会った大人は、彼女がダークマターを動かしても、それが物理現象として現れない限り何も気づかなかった。しかし、田中がそばにいる時だけは、世界のOSが「読み取り専用」にロックされたような、妙な窮屈さを感じるのだ。
「先生は、あの学校をよく知っているんですか?」
「まあな。ただ、あそこの卒業生には、時々『常識』では測りきれない数字を残す奴がいる。……今中、お前もその一人になるんだろう」
田中はそれ以上何も言わず、ただ黙々とレンズを磨き続けた。その横顔には、警戒も、感嘆も、敵意すらなかった。それが、みやびには何よりも不気味だった。
理科室を出たみやびは、逃げるようにいつもの河川敷へ向かった。
夕闇が迫る土手で、彼女は激しく乱れた呼吸を整えながら、草むらに膝をついた。
(見られている。あの教師だけじゃない。私が情報の海に触れ始めたときから、何かが私の『波形』を追っている……)
未来の「九条」が辿った、あの血塗られた道。圧倒的な力を持ちながら、それを隠しきれず、最後には世界の歯車の中に組み込まれ、摩耗し、消されていった記憶。
その恐怖が、今中みやびという小さな器を内側から震わせた。
「……守らなきゃ。私自身を、そして、私の計画を」
みやびは両手を宙にかざした。
これまでの修行は、対象を動かし、壊し、あるいは読み取るための「矛」の技術だった。だが、今の彼女に必要なのは、世界の視線から自分を切り離すための「盾」だ。
彼女は脳内の演算領域を極限まで引き上げた。空間に漂うダークマターを、動かすのではなく「結晶化」させるイメージ。
光を反射する壁ではない。周囲の電磁波、音波、熱、そして他者の意識の指向性さえも、ダークマターの「虚数的な重み」によって吸収し、無力化する。
「……展開。ダーク・ベール」
空間がみやびを中心にわずかに歪み、彼女の姿が、背景の夕焼けの中に不自然に溶け込んでいった。
それは視覚的な透明化というよりは、世界という巨大なデータベースから、彼女という「行」を一時的に非表示にするような、概念的な隠蔽だった。
「……みやびちゃん?」
不意に、上から声をかけられた。
驚いて「盾」を解除すると、そこには高校進学を控えて少し背が伸びた、科学部の田中くんが立っていた。
「……あ、田中くん」
「今、一瞬、みやびちゃんの姿がボヤけて見えたけど……。また僕の疲れかな。受験勉強のしすぎかもね」
彼は屈託のない笑顔で笑った。だが、その瞳には、かつて割れたビー玉を見つめた時と同じ、純粋で真っ直ぐな好奇心が宿っていた。
「田中くん。……あなたは、どこの高校に行くの?」
「僕は、地元の公立の理数科だよ。あそこのラボ、すごい望遠鏡があるんだって。……みやびちゃんは、やっぱり遠くに行くの?」
田中くんは、少し寂しそうに足元の石を蹴った。
「……ええ。私は、自分がのびのびできる学校に行くわ。そこじゃないと、できないことがあるから」
「そっか。……でも、どこに行っても、みやびちゃんはみやびちゃんだよね。僕が将来、すごい発明をしたら、一番に君に報告しに行くよ。……君の周りで起きる『不思議』に、僕の理論が追いつくまで」
田中くんのその言葉が、みやびのこわばった心を、ほんの少しだけ溶かした。
情報の海で戦い、教師の監視に怯え、世界を買い取ろうと画策する自分。そんな「異常」な自分を、彼はただの「不思議な友人」として繋ぎ止めてくれている。
「……待ってるわ。あなたが、私を見つけ出すのを」
みやびは、ポケットの中で、小さな「ダーク・ベール」の触媒を握りしめた。
それは、彼女が初めて自分のために、大切な何かを守るために作った「盾」だった。
数日後。
みやびの机の上には、聖ガバナンス高校の合格通知が置かれていた。
教師・田中の掴みどころのない言葉。自分を捕捉しようとする、不気味な世界の静寂。そして、少年の変わらない笑顔。
それらすべてを糧にして、少女は「雌伏の時代」に別れを告げ、次なる舞台――異能の檻へと足を踏み出す。
(九条。……孤独な時代は、これで終わりにするわ)
ダークマターの盾に守られた少女は、一度も振り返ることなく、春の嵐が吹き荒れる丘の上を目指して歩き出した。
少女の物語は、いよいよ「仲間」と出会う高校編へと加速していく。




