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第三話

時が経つのは、ダークマターの流動よりも不均一に感じられた。

今中みやびは、公立中学校の一年生になっていた。ブカブカの制服に身を包んだ彼女は、相変わらずクラスの中で「静かな異物」として存在していた。


小学校時代の修行を経て、彼女のダークマター操作は格段の進歩を遂げていた。もはや小石を浮かせるのに鼻血を出すことはない。それどころか、彼女の干渉は「物理的な破壊」を卒業し、さらに高度な領域、つまり「情報の共鳴」へと足を踏み入れていた。


(物質は情報でできている。ならば、ダークマターを媒介にすれば、この世界のあらゆる『記録』を読み取れるはず)


放課後の図務室。みやびは古い百科事典を指先でなぞっていた。

実際には頁を捲っていない。彼女は本に残留するインクの分子振動、そして執筆者が頁を捲った際に空間に残した微細なダークマターの「歪み」を読み取っていた。

わずか数秒。本を閉じたまま、みやびはその内容を完璧に脳内のデータベースへと同期させる。


「……今中さん、また難しそうな本を読んでるのね」


声をかけてきたのは、図書委員の女子生徒だった。

「いえ、ただ眺めているだけです」

みやびは無表情に答える。彼女は「神童」と呼ばれ始めていた。テストは常に満点、教師が口を滑らせた高度な数式を、即座に黒板で証明してしまう。だが、その瞳には達成感など微塵もなかった。彼女にとって、現代の中学校教育は、大人が幼児に積み木を教えているのを眺めるようなものだったからだ。


校門を出ると、そこには見慣れた影があった。

同じ中学に進学した田中くんだ。彼は科学部の部長になり、相変わらずレンズの厚い眼鏡を光らせて、変な形のアンテナを校庭に向けていた。


「みやびちゃん! 見てよ、これ! 街の電磁波のノイズを拾ってたら、変な波形が見つかったんだ」


田中くんが差し出したボロボロのモニターには、ランダムな波形が映っていた。

だが、みやびの目には、それが何であるか一瞬で分かった。それは近隣の銀行のATMが発している、暗号化された通信データの断片だ。


「……田中くん。それは、あまり深く探らない方がいいわ」


「え? なんで? これを解析すれば、街がどうやって動いてるか分かるかもしれないじゃないか」


田中くんの瞳は、純粋な好奇心に燃えていた。

みやびは少しだけ胸が痛んだ。彼女は既に、ダークマター操作を通じて、この世界の「裏側」を流れる数字の奔流――資本主義という巨大なシステムの鼓動を聴き取っていた。


(この子は、科学が人を幸せにすると信じている。でも、その先には……)


「田中くん。そのアンテナ、貸して」


みやびはアンテナの先端にそっと触れた。

指先から微細なダークマターのパルスを送り込む。

波形が急に整い、モニターには美しいサインカーブが描かれた。


「わあ、すごい! ノイズが消えた! ……でも、なんで?」


「調整してあげたの。……でもね、田中くん。知らなくていいこともあるのよ。例えば、この波形の先で誰かが誰かを騙しているとか、そういうことは」


田中くんは不思議そうにアンテナを見つめていたが、やがて元気に笑った。

「あはは、みやびちゃんは時々、怖いことを言うなあ。でも、ありがとう! これで明日の部活で自慢できるよ」


田中くんが走り去っていく背中を見送りながら、みやびは自分の掌を見つめた。

彼女の能力は、既に現代のあらゆるセキュリティを無効化できるレベルに達していた。

銀行の預金残高、企業の極秘プロジェクト、国家の機密。

望めば、すべてを手に入れることができる。


だが、彼女はまだ動かなかった。

今の自分はまだ「今中みやび」という子供の器に過ぎない。

本物の変人たちが集まる場所に行くまでは。


(あの高校……。あそこなら、私の孤独を分かち合える『狂気』があるかもしれない)


彼女の修行は、いよいよ「情報の改ざん」へと移行していく。

自分自身の戸籍、学力、そして存在そのものを、社会という巨大なデータベースの中で「都合よく書き換える」準備。

彼女は、来るべき「買収」の日のために、静かに、しかし確実に、情報の海を支配する「幽霊」へと変貌していった。


その日の夜、みやびは自分の部屋で、空中に浮かび上がる無数の光の点――ダークマターが捉えた情報の断片を眺めていた。

それは、まるで夜空の星のように美しく、そして嘘にまみれていた。


「……変えなきゃ。全部」


少女の独り言は、誰にも届かない。

ただ、隣の部屋から聞こえる母親の鼻歌と、遠くで聞こえる田中くんの笑い声だけが、彼女をかろうじて「人間」の世界に繋ぎ止めていた。

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