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第二話

ビー玉が砕け散ったあの日から、みやびの放課後は決まったルーチンに支配されるようになった。


学校が終われば、ランドセルを揺らして真っ直ぐに自宅近くの河川敷へ向かう。そこは公園よりも人が少なく、何より「壊しても構わない」土と石が無限にあるからだ。


「……一点。一点に、すべての『重み』を集める」


河原に座り込んだみやびは、目の前の小石を見つめていた。

彼女の修行は、筋力を鍛えるようなものではない。脳内の演算領域を拡張し、空間の隙間に指を差し込むような、極めて精密な精神の格闘だ。


未来におけるダークマター工学は、数学と物理の極致だった。だが、今の彼女には計算機もなければ、安定した出力装置もない。頼れるのは、前世「九条」としての膨大な知識と、今世「みやび」としての未発達な神経系だけだった。


(未来では、みやびの身体も触媒として動かすことができたのだが、負担が大きいため装置がすべてを代行してくれた。けれど、今は私が装置そのものにならなきゃいけない)


みやびが意識を集中させると、視界がモノクロームに染まり、空間の密度勾配が虹色の霧となって浮かび上がる。

彼女は、その「霧」の端を、指先ではなく意識の触手でそっと撫でた。


「……動いて」


その瞬間、小石がガタガタと震え、ふわりと宙に浮いた。

今度は砕けない。一ミリ。二ミリ。十センチ。

石を浮かせているのではない。石が置かれた場所の「重力のルール」を、彼女が一時的に書き換えているのだ。


「すごい! みやびちゃん、超能力者みたい!」


不意に背後から声をかけられ、みやびの集中が途絶えた。

重力操作が解除された小石は、重力に引き戻されて無様に地面に転がった。


振り返ると、そこには同じクラスの田中くんが、壊れた自転車を引きずりながら立っていた。


「……田中くん。またあなたなの?」


「またってひどいな。ここ、僕の秘密基地への通り道なんだよ。……今、石が浮いたよね? 手品? 磁石?」


田中くんは目を輝かせて駆け寄ってきた。みやびは小さく溜息をつき、鼻をすすった。修行の代償である鼻血は、最近ようやく出なくなっていたが、代わりに激しい偏頭痛が彼女を襲う。


「……ただの錯覚だよ。夕陽のせいでそう見えただけ」


「そんなわけないよ! 僕、物理学者になるんだから、今の現象は絶対に見逃さないよ」


田中くんは地面に這いつくばり、先ほどの小石を熱心に調べ始めた。みやびはそれを冷ややかに見守っていた。

かつての九条であれば、自分の領域に踏み込もうとする者は冷徹に排除していただろう。だが、この時代の田中くんの無邪気な好奇心は、なぜか彼女の毒気を抜いてしまう。


「……田中くん。物理学者になりたいなら、教科書に載ってないものを信じちゃダメだよ」


「え? どうして? 教科書に載ってないものを見つけるのが、科学者でしょ?」


田中くんの言葉に、みやびは不意に言葉を詰まらせた。

未来の世界では、科学はあまりに完成されすぎていた。誰もが「既知のルール」に従い、その枠の中で利益を奪い合っていた。それが、あの破滅的な戦争の引き金になった。


(この子は、まだ『未知』を愛しているのね)


「……そうね。あなたが本当に科学者になったら、いつか教えてあげる。この世界の本当の姿を」


みやびがそう言うと、田中くんは嬉しそうに笑った。

「約束だよ! じゃあ、お礼に僕の秘密基地、案内してあげる」


連れて行かれたのは、古い高架下の隙間に段ボールを並べた、文字通りの「ガラクタの山」だった。壊れたラジオ、錆びたゼンマイ、どこからか拾ってきたレンズの破片。


「これ、全部僕が直そうとしてるんだ。仕組みが分かれば、なんでも動かせるはずなんだよ」


田中くんが誇らしげに語る「仕組み」は、みやびから見ればあまりに原始的で、間違いだらけだった。だが、彼がガラクタを触る手つきには、物質への深い慈しみがあった。


みやびはそっと、壊れたラジオに手を触れた。

内部の回路が焼き切れている。通常なら修理は不可能だ。

だが、彼女はダークマターを微細に励起させ、金属疲労を起こしたハンダを局所的に再結晶化させ、回路を「繋ぎ直した」。


カチッ、という音と共に、ラジオからザラザラとしたノイズが流れ出した。


「わあ! 直った! みやびちゃん、すごいよ! 手を触れただけなのに!」


「……運が良かっただけ。さあ、もう帰りましょう」


みやびは背を向けて歩き出した。

田中くんの歓喜の声が背中で響く。

人情など、未来では切り捨ててきたものだった。だが、こうして誰かの喜びのために力を使う感覚は、悪くない。


家路につく途中、みやびは自分の掌を見つめた。

かつて宇宙を滅ぼしかけたその力は、今、少年との小さな約束を守るための道具に変わろうとしていた。


(戦争のない世界……。それを、私は私のやり方で作る。でも、そのためには……)


彼女の脳内では、ダークマター工学を応用した「未来の産業構造」の青写真が、さらに詳細に描かれ始めていた。

修行は、次の段階へ。

一粒の石を浮かせる段階から、この世界の「富の流動」そのものを動かす段階へ。


孤独な少女の心に、田中くんという小さな灯がともったまま、彼女はより深く、より静かに、ダークマターの海へと沈んでいった。

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