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第一話

「みやびー、もう暗くなるよ。帰りなさい!」


遠くから聞こえる母の呼ぶ声が、夕暮れの街並みに溶けていく。

小学校二年生の今中いまなかみやびは、近所の誰もいない公園の砂場に、一人ぽつんと座り込んでいた。


「……あと、少しだけ」


彼女がじっと見つめているのは、掌の上に乗せた、ありふれた透明なビー玉だ。

普通の七歳児であれば、そのビー玉の中に閉じ込められた光の反射を喜ぶだろう。しかし、みやびの瞳に映っているのは、ガラスの輝きなどではなかった。


ビー玉の周囲、そして砂場、公園の遊具、流れる雲。そのすべてを浸し、満たしている、目に見えない「粘り気」のような奔流。虹色のノイズを伴いながら、音もなくこの世界を規定している巨大な力――「ダークマター」。


(……動いて。お願い)


みやびが「かつての自分」を思い出したのは、その数ヶ月前のことだ。

風邪をこじらせ、高い熱に浮かされた夜。脳の奥底にある、この時代の人間には不要なはずの「鍵」が、音を立てて外れた。


西暦3000年。九条くじょうという名で呼ばれた調律師。

ダークマターを自在に編み上げ、重力を書き換え、星々の運行さえも管理していた、圧倒的な万能感。

それらが、この小さく、不自由で、転べばすぐに血が出る「今中みやび」という幼い肉体に、濁流のごとく流れ込んできたのだ。


目覚めたとき、世界は一変していた。

母親の優しい手も、温かい味噌汁も、すべてが「不確定な粒子の集合体」として解析されてしまう。そして何より、この時代の物理法則がいかに不完全で、摩擦に満ち、残酷であるかを、彼女は骨の髄から理解してしまった。


未来において、九条みやびはダークマターを動かすことで世界を調律していた。しかし、その力が強大すぎたゆえに、利権を争う組織から「世界を崩壊させる引き金」として恐れられ、暗殺されたのだ。


(私は、またここにいる。何もできない、小さな子供として)


だから、みやびは修行を始めた。

学校が終われば、友達が放課後のアニメの話をしているのを横目に、一人で公園へ向かう。

目的は、この世界の希薄なダークマターを、再び自分の意志で「掴む」ことだ。


未来では、ダークマター操作には巨大な粒子加速器や空間励起装置が必要だった。だが、今の彼女には、自分の神経回路という、あまりにも細く、脆弱な「触媒」しかない。


「……動いて」


彼女はビー玉の一点に、意識のすべてを集中させた。

脳の特定の部分を「発火」させ、血流を操作し、空間の密度を指先へと強制的に誘導する。

「九条」としての知識を、現代の「みやび」の脳が必死に翻訳し、実行コマンドに変えていく。


パチン、と耳の奥で静電気が弾けるような音がした。

鼻の奥がツンと痛み、一筋の赤い鼻血が、みやびの唇を汚した。


その瞬間。

掌の上のビー玉が、重力を無視して、わずかに――ほんの一ミリだけ、浮き上がった。


「……っ」


みやびは小さく、しかし確かな震えを感じて微笑んだ。

だが、その一ミリの代償は残酷だった。

ダークマターの密度を書き換えたことで、局所的な物理定数が暴走したのだ。

ビー玉は一瞬だけ不自然な虹色に発光し、次の瞬間、パリンと悲鳴を上げるような音を立てて、粉々に砕け散った。


「あ……」


壊してしまった。

この時代の物質は、彼女の「意志」を受け止めるにはあまりにも脆く、不純物に満ちている。


「みやびちゃん? そこで何してるの?」


ひょっこりと、砂場の陰から男の子が顔を出した。

同じクラスの田中くんだ。いつも泥だらけで、物理学者になりたいと言っては、蟻の巣を観察しているような、少し変わった少年だ。


「……なんでもない。ビー玉が、割れちゃっただけ」


みやびは咄嗟に鼻血を袖で拭い、表情を消した。


「えー、もったいないな。貸してみなよ、僕がアロンアルファで直してあげるから」


田中くんは無邪気に笑い、みやびの隣にどっかと座り込んだ。

彼は砕けたガラスの破片を拾い上げようとして、「あ、綺麗だね」と呟いた。


「夕陽に透かすと、割れたところだけ虹色に見えるよ」


みやびは、彼の隣で砂を握りしめた。

田中くんには見えていない。その虹色は、ダークマターの干渉が残した「世界の傷跡」だ。


「……田中くん。世界って、本当は目に見えるものだけでできてるわけじゃないんだよ」


「え? なにそれ。宇宙人の話? それとも幽霊?」


「ううん。……もっと、強くて、寂しいものの話」


みやびは、茜色に染まる空を見上げた。

一番星が、もうすぐ輝き始めようとしている。

彼女は知っている。あの星々の重力を支えているのも、今この砂場を形作っているのも、すべては自分が今、鼻血を出しながら動かそうとした「闇」の力であることを。


「……みやびちゃんって、ときどき、すごく大人みたいな目をするね。学校の先生より、もっと遠くを見てるみたいだ」


田中くんが不思議そうに首を傾げる。

みやびは答えなかった。

ただ、壊れたビー玉の破片をそっと受け取ると、それをポケットにしまい込んだ。


(今はまだ、何もできない。けれど……)


彼女の心には、冷徹なまでの誓いがあった。

この不自由な世界を、いつか買い取る。

二度と、利権や憎しみで戦争が起きないように。

自分が「九条」として果たせなかった平和を、この「今中みやび」としての人生で、完璧な秩序として再インストールする。


「帰りましょう。お母さんが、ハンバーグだって言ってたから」


「えっ、いいな! うちは魚だよ……」


田中くんと並んで、夕暮れの道を歩く。

普通の女の子としての足取り。

だが、みやびの脳内では、すでに数百年後のエネルギー理論の断片が、現代の不自由な言語に置き換えられ始めていた。


夜の闇が降りてくる。

それは、他の誰にとってもただの「暗闇」だが、みやびにとっては、世界を救うための「巨大な海」だった。

彼女は、その海を泳ぎ切るための特訓を、これから毎日、十数年かけて続けていくことになる。


孤独な調律師の、静かなる第二の人生。

その最初の一歩は、割れたビー玉と、ハンバーグの匂いと共に始まった。

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