第十話
聖ガバナンス高校の朝は、いつもと変わらぬ「異常」に包まれていた。
中庭では相変わらず火薬の匂いをさせてロケットエンジンを自作する生徒がおり、廊下ではドゥルーズの哲学論争が繰り広げられている。
しかし、204号室のメンバーだけは違った。
みやび、麗華、阿久津の三人は、学食の隅にある「絶対に誰にも邪魔されない」と言われる、日当たりの悪いボックス席を占拠していた。
「……阿久津くん、接続はどう?」
みやびが、持参したノートパソコンの画面を凝視しながら尋ねる。
「完璧だ。今中さんが回路を『調律』してくれたおかげで、僕の壱号は学園のセキュリティ・ハブを完全に掌握したよ。今、モニター監視員が見ている映像は、僕が昨日の夜にAIで生成した『平和な学園のループ映像』だ。僕らがここで……まあ、怪しい密談をしていようが、彼らには僕らが単にカレーを食べているようにしか見えない」
阿久津は、エンジニアとしての万能感に酔いしれていた。彼にとって、みやびの「力」は理解を超えた魔法のようなものだったが、それがもたらす結果――すなわち、ハードウェアが本来持つポテンシャルを数万倍に引き上げる快感に、完全に魅了されていた。
「油断は禁物よ、阿久津」
麗華が、100円の学食カレーをフォークで上品に一口運び、冷徹に言い放った。
「田中は昨日、ここを『檻』と言った。物理的なカメラを欺くだけでは足りないわ。彼らが本当に監視しているのは、私たちの『行動の整合性』よ。みやび、資金を動かすにしても、この学園という閉鎖空間では『計算の不整合』を突かれるリスクがあるわね」
「ええ。だから、さらに高度な隠蔽工作が必要になるわ」
みやびがそう言いかけた時、隣のテーブルから、乾いた笑い声が聞こえてきた。
「……九割九分、君たちの話はハッタリだね。でも、残りの一分に、計算不能な『特異点』の匂いがする」
三人が一斉に視線を向けると、そこにはボロボロのトランプをシャッフルしながら、コーラを啜っている一人の少年が座っていた。
名は、嘉納シンジ。
数学オリンピックの金メダリストでありながら、その才能をすべて「ギャンブルの期待値計算」に注ぎ込み、裏のネットカジノで巨額の負債と利益を行き来させているという、学園屈指の変人だ。
「盗み聞きなんて、あいかわらず趣味が悪いわね」
麗華はシンジを知っている様子だ。
麗華が鋭い視線を向ける。
「盗み聞きじゃない。君たちの周囲の空気の振動が、僕の鼓動の周期と不自然に共鳴しただけさ」
シンジは、トランプを扇状に広げてみせた。
「特に……真ん中の君。今中さん。君、確率論を馬鹿にしてるだろう? さっきから君がキーを叩くたびに、世界中の金融サーバーの乱数生成器が、一斉に不自然な『偏り』を見せている。僕の計算機(脳)が、エラーを吐き続けているんだ」
みやびは、指先を止めた。
阿久津のデバイスは「物理的な干渉」を捉えるが、この数学の天才は、みやびがダークマターで書き換えた「因果律の歪み」を、数字の違和感として察知していたのだ。
「……何が望みなの。嘉納くん」
「僕は、退屈な式を解くのが嫌いなだけさ」
シンジはニヤリと笑い、トランプの一枚をみやびの前に滑らせた。
「君の周りでは、本来起こるはずのない『奇跡』が統計的な必然として起きている。その理由には興味がない。ただ、その計算不能な現象を、僕の数式で『飼い慣らして』みたいんだ。……神宮寺の令嬢と、鉄クズの魔術師。そこに僕という『数学の悪魔』が加われば、君のその異常な偏りは、誰にも気づかれない『完璧な日常』に化けるよ?」
シンジはまだ、みやびが世界を買い取ろうとしていることなど知らない。ただ、目の前に現れた「数学を越える異常事態」を、自分の知性で征服したいという、狂った知的好奇心に突き動かされていた。
「……面白いわ。麗華さん、どう思う?」
麗華は、シンジのトランプの配り方――一切の手元を見ずに完璧な期待値をコントロールする指先――をじっと見つめ、小さく頷いた。
「この男、神宮寺の資産を奪い取った連中の偽装工作を、数字の矛盾から引きずり出すにはうってつけの『猟犬』になるわ」
「いいわ、嘉納くん。ただし、私たちの遊びは、負ければすべてを失うわよ」
「……最高だね。そのレートを待っていたんだ」
こうして、未来から来た調律師の元に、四人目の仲間が加わった。
阿久津の「物理」、麗華の「戦略」、シンジの「論理」。
それぞれの異能が、みやびという特異点を中心に結びつき、静かな日常をゆっくりと、しかし確実に侵食し始めていた。




