プロローグ
お初です。よろしくお願いします。はじめは固い感じなので本編から見てもいいかもです。
その少女は、人類が到達しうる「頂点」の具現者であった。
未来、今でいう西暦を超えた、因果が数値化された時代。彼女は「九条」と呼ばれ、その名を知らぬ者は全宇宙にいなかった。
彼女が統括するのは、地球、月、そして火星圏に至るまでを網羅する全知全能の管理システム。人々の欲望、経済の動向、気象のゆらぎ、果ては星々の寿命に至るまで、あらゆる「事象」が彼女の指先一つで調律されていた。
人々は彼女を「魔女」と呼び、あるいは「冷徹な演算器」と恐れた。
彼女の銀色の瞳が一度輝けば、暴落していた惑星通貨は瞬時に息を吹き吹き返し、数千万人の飢餓を救うための物流網が最適化される。彼女が望めば、物理法則の壁さえもがダークマターの波動に屈し、銀河の彼方から一滴の水さえも運び込むことができた。
客観的に見れば、それは人類史上、最も完璧な支配であった。戦争はなくなり、貧困は論理的に撲滅され、すべての人間が最適な幸福を享受する。九条という存在は、その文明の心臓であり、脳髄であった。彼女の歩む道こそが、正解。彼女の描く数式こそが、真理。
しかし、その栄光の輝きが強ければ強いほど、彼女の内側には底知れぬ「喪失感」が、黒い澱のように降り積もっていた。
「……誰も、私を『見て』はいない」
星々を管理する玉座に座り、彼女は呟く。
彼女が救った何十億という民衆は、彼女を崇拝しているが、それは「便利な機能」を崇拝しているに過ぎない。彼女の感情を慮る者はなく、彼女が何に傷つき、何に安らぎを感じるかを問う者もいなかった。
全能であるということは、すべてが「予測可能」であるということだ。
誰が、どんな言葉で彼女に話しかけ、どんな感謝を告げるか。そんなことは、彼女が操るダークマターのシミュレーションですべて確定している。驚きも、未知も、心の触れ合いもない。
彼女にとっての世界は、すでに解き明かされた「終わったパズル」に等しかった。
自分の右手を動かすように、他人の運命を動かせる。それはもはやコミュニケーションではなく、単なるメンテナンスであった。九条という一個の少女の魂は、全能という名の透明な檻の中で、じわじわと酸欠状態に陥っていたのである。
九条にとって、ダークマターを操ることは、魔法を使うことではなかった。それは、この宇宙という巨大なシステムの「ソースコード」に直接アクセスする行為だった。
たとえば、彼女が巨大なホログラムディスプレイの前に立ち、大陸を跨ぐ経済のうねりを眺めるとき、彼女は光ファイバーを流れる電気信号の遅さに溜息をつく。現代の金融市場では光の速さが絶対の壁だが、彼女がダークマターを介して情報を送り込めば、情報は空間そのものをショートカットし、光速を置き去りにして地球の裏側へ届く。
「光よりも速く、取引の結果を確定させる」。それは予測ではなく、彼女が望んだ未来を、現在の信号が届くよりも先に「既成事実」としてサーバーに書き込むことだった。
あるいは、彼女が荒れ果てたテラフォーミング(惑星改造)の現場に降り立つとき。
彼女がその銀色の瞳で虚空を睨めば、空間に遍在するダークマターが意志を持って凝縮を始める。重力という名の「空間の彫刻」が始まり、何トンもの岩石が重力の檻に閉じ込められ、羽毛のように宙を舞う。
「空間そのものを折り曲げ、物理的な質量を無効化する」。彼女にとって重力とは、ダークマターの密度を調整するだけで書き換えられる、粘土のような変数に過ぎなかった。
そして、彼女が最も深い喪失感を覚えたのは、壊れゆくものへの干渉だった。
古びた機械が錆びつき、あるいは誰かの大切な記憶が風化していくとき、彼女はダークマターという名の「宇宙のメモリ」から、その物質が最も輝いていた頃の情報を引き出す。
「エントロピーの増大を逆転させ、情報を復元する」。粉々に砕けたクリスタルが、重力に従って落ちるよりも早く、元の完璧な形へと再構成される。それは時間の巻き戻しではなく、宇宙の記録から「正しい姿」を現在に上書きする行為だった。
その日は、いつもと同じ、完璧に調律された一日になるはずだった。
中央演算塔「セレス」の最上階。
九条は、眼下に広がる超高層ビルの幾何学的な光の網を見つめていた。その一つ一つの光の中に、数千人の人生があり、それらすべてが彼女の計算通りに鼓動している。
不意に、空間の密度が変わった。
彼女の全能の知覚が、あり得ない「ノイズ」を検知した。
「……因果の剥離? ……いいえ、これは『組織』の……」
九条の背後に、影のような亀裂が走った。
それは彼女が育て、管理していたはずの「組織」――彼女の支配を盤石にするために自らが生み出した「統治機構」の反逆であった。
彼らは知っていた。九条がダークマターを介してこの世界のOSを書き換えていることを。
そして彼らは、何十年という歳月をかけて、彼女の力の源泉である「ダークマターの基底」そのものを汚染する毒、つまり『因果崩壊プログラム』を完成させていたのである。
「九条。あなたは完璧すぎた。だから、私たちはあなたのいない不自由な自由を求める」
虚空から響く、かつての部下たちの冷徹な声。
同時に、セレス全体を凄まじい衝撃が襲った。
九条は右手をかざした。
いつものように、ダークマターを収束させ、重力場を固定し、迫りくる衝撃を無効化しようとする。
「……消えない? ……私の調律が、届かない?」
彼女の銀色の瞳が驚愕に染まる。
ダークマターは空間の基底である。しかし、反逆者たちが放った「毒」は、その基底そのものを物理的に破壊し、空間の演算リソースを枯渇させていた。
彼女の足元から、現実が剥がれ落ちていく。
高層ビルの窓ガラスが粉々に砕け散り、重力制御を失ったセレスが、轟音と共に崩落を始めた。
「……ああ、そうか」
九条は、落ちていく瓦礫の中で、不思議と穏やかな心地に包まれていた。
予測不能。
計算外。
自分の力が届かない、絶対的な絶望。
それは、彼女が長い間求めていた「自分以外の意志」に触れた瞬間でもあった。
「九条、消えろ。新しい秩序に、魔女は不要だ」
全方位から放たれる収束レーザーと、因果を断ち切るパルス。
九条の肉体は、情報の激流に飲み込まれ、粒子レベルで分解されようとしていた。
かつて彼女が守り、愛したはずの文明が、牙を剥いて彼女を食い千切ろうとしている。
彼女は最後の一瞬、自分の胸に手を当てた。
全能を奪われ、ただの無力な少女として死にゆくこの瞬間。
彼女の心には、栄光への未練など微塵もなかった。
ただ、もし許されるなら、次は「答えの決まっていない世界」で、誰かと肩を並べて笑いたい。
魔女としてではなく、名前を持った一人の人間として、世界を「驚き」と共に買い直してみたい。
「……次は、もう少し……賑やかなのがいいわね」
眩い白光が彼女を包んだ。
セレスの爆発は、超新星爆発にも似たエネルギーを放ち、未来の帝都を一瞬にして飲み込んだ。
九条という名は、その光の中に消えた。
彼女の持っていた全能の力も、栄光も、すべてはダークマターの霧の向こうへと散っていった。
……はずだった。




