第3話:つばめ亭
「そ、そうなんですか?」
驚くアリシアに、銀髪の男は人懐っこい笑みを見せた。
「そこの角を曲がったところですよ。さあ、行きましょう」
「え、ええ」
男を信用していいのか躊躇ったアリシアだったが、もう日は暮れかけていてすぐ暗くなってしまうだろう。
また一人でうろうろしていたら、妙な輩が近寄ってくるかもしれない。
「ではお願いします……」
アリシアはおどおどと銀髪の男の後ろをついていった。
「どうしてつばめ亭へ?」
「宿屋のご主人に勧めていただいたんです。とても評判がいいと聞いて気になっていて……」
アリシアはもじもじした。
いかにも貴族の令嬢風の自分が下町で一人でいるのは目立つ。
訳ありの女だと思われているだろう。
「僕もなんですよ!」
銀髪の男性がにっこり笑ってくれたので、救われるような気持ちになる。
「珍しい外国の料理やお酒を楽しめると聞いて!」
目的地が一緒だと聞いて、アリシアはホッとした。
助けてもらったうえに、わざわざ店まで連れていってもらうなど、迷惑をかけすぎて申し訳なさすぎる。
「ここですよ」
入り組んだ路地を、まるで自分の家の庭のようにすいすいと男性が進んでいく。
「ほら、着きました」
「ここがつばめ亭……」
看板にはつばめを象った銅板が飾られている。
木のドアを開けると、店内の賑わいが飛び込んできた。
「いらっしゃいませー!」
頭に布を巻いた女性の店員が、元気よく声をかけてくる。
もう店はほぼ満席だった。
(みんな、楽しそう……)
わいわいと食事とお酒を楽しむ空気に、アリシアの期待は否が応にも高まってきた。
「あ、あの奥に個室があると聞いたんですけど……」
「すいません、予約で全部埋まってしまっていて……」
「そうなんですか……」
アリシアと店員のやり取りを聞いていた男が、そっと口を挟んできた。
「個室が希望なんですか? 僕、予約してるんでよかったらご一緒しませんか?」
「え? でもそんな……悪いです」
個室を希望したということは、気兼ねなくのんびりしたいということだろう。
「僕なら気にしないでください。一人より二人の方がいろんなお酒や料理を楽しめますし!」
アリシアは改めて銀髪の男を見つめた。
身なりも口調もちゃんとしている。
初めて会ったアリシアに対して、とても紳士的だ。
万一のことがあっても、賑やかな店なら誰か助けてくれるだろう。
「あ、個室といっても出入り口は開放されていて、布の幕がかかっている半個室ですから開放感はありますよ」
アリシアの逡巡を悟ったのか、男性が補足してくれる。
「あと、自分で言うのもなんですが、僕は紳士ですので女性の嫌がるようなことはしないと誓います」
男性がおどけたように、軽く胸に手を当ててお辞儀をしてきたので、アリシアはくすっと笑ってしまった。
とても優雅な一礼で、まるでおとぎ話に出てくる騎士のようだった。
「ええ、ではせっかくなので」
「決まりだ!」
銀髪の男性がすっと肘を曲げてくる。
「どうぞ、お嬢さん」
アリシアはおそるおそる手を回す。
「さあ、行きましょう」
物怖じしない男性につられるようにして、アリシアは個室へと案内された。
店の奥にずらりと個室が並んでいる。中からは楽しげな歓談の様子が漏れ聞こえ、アリシアはわくわくしてきた。
向かい合わせに座ると、銀髪の男がテーブルの上に置いてあるメニューを差し出してくる。
「まずはお酒かな。何か飲みたいものありますか?」
「え、えっと……」
アリシアはずらりと並ぶお酒の銘柄に圧倒された。
(こ、こんなに種類があるの!?)
「食前酒なので、軽めのものがいいんですけど……」
「了解です。このバラのお酒にしましょう。一回飲んだことがありますが、美味しいですよ」
「バラのお酒ですか!?」
「ええ」
どうやら銀髪の男は自分よりずっと知識がありそうだ。
「あの、注文をお任せしてもいいですか? 私、どれがいいか全然わからなくて……」
目移りするばかりで、決めきれない。
「いいですよ。苦手なものはありますか?」
「いえ、特には」
「じゃあ、外国の料理を中心に頼みますね。せっかくの多国籍料理店ですから」
銀髪の男がてきぱきと注文してくれる。
見たところ貴族の青年のようだが、好奇心旺盛で有能そうだ。
(ケインとは大違いね……)
ケインは食に興味もなく、いつも似たような肉料理を好む。
食べたことのない料理を嫌がるので、結局アリシアも同じようなものを食べるしかなかった。
(本当に狭い世界で生きてきたのね、私……)
目の前に並べられる見たことのない料理にそれを実感する。
「じゃあ、乾杯を――」
グラスを掲げた銀髪の男がふっと微笑む。
「そういえば、名乗ってませんでしたね。ヴィクターと言います」
銀髪の男は苗字を名乗らなかった。
その場限りの気楽な関係、ということだ。
(こういうの、初めてかも……)
貴族社会では家名が重要になってくる。苗字を名乗るのが当たり前だ。
アリシアは思わず楽しくなり、フッと笑ってしまった。
(今日の私は、離婚された侯爵令嬢ではなくて、ただの二十二歳のアリシア)
(なんて楽なの!)
「アリシアです。今日はよろしく」
自分も今日限り、という意味を込めてアリシアは微笑んだ。