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『抗争の狭間に揺れる白』

甘くて、熱くて、ほろ苦い

作者: 小屋隅 南斎


「あたし達、林檎を甘やかしすぎてると思う」

 朝の教室。シックなセーラー服姿の少女達が、朝の挨拶を交わし合っている。椅子を引く音や思い思いの会話の声、他のクラスから遊びに来た生徒の呼び声など、朝の室内は眠さを霧散させる賑わいに溢れていた。窓から入る眩しい陽射しが教室と生徒達を明るく染め、爽やかな空気が漂っている。そんな教室の中で、自席に座った水面は机越しに身を乗り出していた。紺色のセミロングは肩からさらさらと零れ、明るい瑠璃色のインナーカラーが艶めいている。真面目な顔で切り出された言葉に、水面の双眸の先にいる姫月は一瞬沈黙を挟んだ。姫月は水面の前の席を拝借し、椅子に横向きで座っていた。桃色と紫色のメッシュの入った白髪は二つに結ばれていて、それを垂らして水面へと顔を向けている。マスカラで盛られた睫毛は美しいカールを描いて、目の前の端整な顔を見つめる。またなんか始まった、という顔をして、姫月は水面の机へ左肘を置いた。

「……どういうこと?」

「そのままの意味だよ。林檎を甘やかし過ぎてると思う。これは良くない、とっても良くない」

 水面はやっぱり真面目な顔を作ったまま、さらに身を乗り出した。姫月はぴんときていない様子で、首を傾げた。登校して来た少女達が、二人の横で挨拶を交わす。水面は身体の位置を戻すと、人差し指を一本、天井へ向けて真っ直ぐと立たせた。

「あいつ、どう見ても年低いじゃんか? たぶんクラスどころか学校で一番幼いだろ。そのせいで、すぐ助けたり世話焼いちゃったりするけどさ」

 学年は学校に通い始めた年で決められていて、クラスメイトでも年端はバラバラだ。水面と姫月も年齢は異なるが、取り分け林檎は頭ひとつ分幼い印象があった。時代が違えばランドセルを背負っているだろうし、年齢も二桁いっているか怪しかった。

 水面は声を潜め、説いて言い聞かせるように続けた。ここからが大事だと言わんばかりだった。

「だけど、よく考えても見ろ。……普段のあいつ、あたし達にだけ滅茶苦茶生意気じゃないか」

「まあ、否定はしない」

「あんなに生意気なのになんであたし達は甘やかしちゃうんだよ! あいつの見た目に騙されてるだろあたし達!」

 ばんと机を叩き、水面は再び身を乗り出した。姫月は近くなった水面の顔を、にまにまとした顔で見つめ返した。

「やっとそこに気付いたか」

「気付いてたんなら早く教えろ」

「まあいいじゃん、大発見じゃん」

 姫月は右手の指で自身の髪をくるくるとすさび始めた。水面を観察する顔は、楽しそうに歪んでいる。

「……というか、実際あいつって幾つなんだ? どうせお前なら生徒の情報なんて覗き放題なんだろ。教えろよ」

 姫月は財団のお嬢様である。学校を運営する以上金が必要になることは自明であり、金が必要な以上財団に頼る必要があることもまた明白だ。財団のお嬢様である姫月が学校に対して権力を持っていることもまた、火を見るよりも明らかだった。

「確かに資料を覗いたことは否定しないし年も知ってるけど、教えることは出来ないかな。ほら、他人のプライベートな情報を勝手に口外するのは良くないじゃん?」

「その倫理観があるなら最初から他人の資料を覗き見するなよ!」

 まるで相手が常識を知らないかのように諭す姫月へ、水面は不満をのせて叫んだ。しかし水面の指摘はどこ吹く風のようで、姫月はからからと笑っただけだった。

「……とにかく。あいつが意地っ張りで人を小馬鹿にしているようなのは、あたし達があいつを甘やかしすぎたせいだ。そこは、あたし達の落ち度だ」

「なるほど?」

「だから、これからは厳しくいくぞ。もう『助けて』って泣きついてくるまであいつを甘やかしたりしない。わかったな?」

 水面は言い終えると、にやりと笑みを浮かべた。

「これで、あいつももう二度と生意気言えなくなるぞ」

「……そうかなあ」

「絶対そうだ」

 「あいつの泣き顔が今から楽しみだ」と水面は忍び笑いを零した。姫月は苦笑いを浮かべ、肩を竦めた。水面の言うような結果になると信じていない様子ながらも、しかし口を挟むことはしなかった。何やら面白くなりそうなことが転がっているのならば、止める必要はない。なんとなく見えている未来に無視を決め込み、姫月はほくそ笑む水面を静かに眺めただけだった。

 教室にチャイムが鳴り響いた。朝のホームルームの開始の合図だ。二人はその音に会話を切り上げた。そして、教室を見渡す。

「あれ?」

 二人が探すのは、紅色の髪を揺らす小さな少女の姿だ。しかし、教室には目的の人影は見当たらなかった。二人が不思議そうな顔を見合わせた時、前の扉が開き、担任の教師が入って来た。姫月は何か言いたげな表情ながらも、黙って占有していた席から立ち上がった。二つの長い白髪を揺らし、自分の席へと戻っていく。教師が教壇に立った時には全員が席についており、そのまま朝のホームルームが始まった。水面と姫月は落ち着かない表情でそれをきいていた。

 再びチャイムが響き渡る。朝のホームルームが終わり、一限目の準備に取り掛かる生徒達を横目に、水面と姫月は教室の前方へと駆けて行った。教室を出て行こうとしていた教師を呼び止める。

「……林檎は?」

「ああ、朱宮さん?」

 教師は二人を振り返り、廊下に出たところで立ち止まった。

「朱宮さんなら『風邪で休む』って連絡を受けたわ。だから今日はお休み。みんな無断欠席ばかりなのに、律儀よねえ」

 教師は頬に手を当てて、感心感心というように頷いて見せた。水面と姫月は互いに顔を見合わせた。

「二人とも、よく朱宮さんと一緒にいるわよね。良かったら、様子を見に行ってあげてくれないかしら」

 教師はのほほんとそう言ったあと、二人の前から去っていった。水面と姫月は廊下に立ったまま、ほっと胸を撫で下ろした。

「……とりあえず、抗争に巻き込まれたんじゃなくて良かった」

「だね」

 今の世の中、抗争は日常茶飯事だ。至る所で発砲音が鳴り響き、建物が爆破されている。有象無象の組織が蠢き、他の組織を潰さんと目論んでいる。人が殺し殺されることは常であり、それに一般人や学生が巻き込まれることも少なくない。そのため、登校中に命を落とすことも珍しいことではない。教室に姿が見えないとなれば、一番に疑うべき可能性は組織間の殺し合いに巻き込まれたという線なのである。しかし今回は、その最悪の事態ではなかったようだ。

「季節の変わり目だもんねえ。昨日ちょっと寒かったし」

「え、そうか? こんなんで体調崩すの?」

 姫月の言葉に、水面は信じられないというような顔を向けた。姫月は小馬鹿にするようにその口を歪めた。

「馬鹿は風邪引かない、って本当だったんだ」

「誰が馬鹿だ」

 「体調管理が完璧って言え」という水面の圧の強い言葉に、チャイムが重なった。二人ははっとして、自席へ戻るために廊下を後にした。友人のいない学校は、いつも通りの緩やかな時間が流れていったのだった。




「うう……」

 自室のベッドに伏せたまま、林檎は小さくうめき声を漏らした。小柄な身体はすっぽりと掛布団に包まれ、枕に紅色の長い髪を広げている。その額には、冷や汗が滲んでいた。荒く吐く息だけでは身体から熱さを逃がしきれないようで、苦し気な表情が常に貼りついていた。林檎は部屋の中央、テーブルに置かれたコップへと視線を向けた。中には水が入っている。林檎は上体を起こそうとして、その途中でよろめいた。思わず片手で頭を支える。体勢を変えた途端に、重い頭に激痛が走ったのだった。

「う……」

 重い頭を支配する痛みは、止むことはなかった。林檎は苦し気な息を漏らしながら、それでも水の入ったコップを目指そうと顔を向けた。目を動かす度、連動するように頭をガンガンとした激痛が走る。熱い身体は少し動かすだけで鉛のように重く言う事をきかない。目と鼻の先にあるテーブルまでの距離が、あまりにも遠かった。

 ベッドを転がるように抜けてから、立ち上がろうと寝間着の先の青白い足に力を込める。一度立ち上がったものの、直ぐにふらついて地面へと逆戻りしてしまった。

「……」

 立つことを諦め、テーブルまで這うようにして進む。その間も、痛みで頭が割れそうだった。重くだるい身体は揺らす度に吐きそうになる。青白い手足はなかなか思う様に動いてくれず、自身の身体を支えるだけでもぷるぷると震えていた。それらをなんとか耐え、ようやくテーブルへと辿り着いた。そして水の入っているコップへと手を伸ばそうとした、その時だった。

 ピンポーン……。

 家のチャイムが鳴り響いた。その音すら、頭に嫌に響く。林檎は一度手を止め、しかし玄関に向かおうとはしなかった。この体調では、とても客人対応は出来そうにない。ならば申し訳ないが居留守を使い、後日応対できるようになった時にまた来てもらう方が双方にとっていいはずだ。

 ピンポーン……ピンポンピンポンピンポンピンポン……

「うるさ……」

 直後、チャイムが連続して鳴らされた。迷惑行為と言っても過言ではない程鳴り止まぬ電子音に、林檎は眉根を寄せた。一向になり続けるチャイムの音に、林檎は観念して深いため息を漏らした。コップを掴もうとしていた手をテーブルに押し付け、一念発起するようにその両足で立ち上がった。

 恐らく、どこかの組織のカツアゲか何かだろう。このまま出ないでいると、一生チャイムが鳴り響くことになるか、家を爆破されるかのどちらかだ。林檎はふらふらと歩き出した。壁にぶつかりながらも部屋を出て、一度我慢ならずしゃがみ込む。しかしすぐによろよろと立ち上がり、廊下を引きずるように歩いていった。壁に寄りかかるようにして階段を降り、一階の廊下を覚束無い足取りで進んでいく。靴の収納棚の上に突っ伏して息を整えたあと、林檎はようやく玄関の扉へと手を触れた。ドアの鍵を開け、まるで巨大な岩石を押すような心地でその扉を開ける。普段の林檎ならばドアスコープを覗いた上で扉を開けるのだが、今の彼女にそのような思考をする余裕は存在しなかった。

 扉の奥に立つ人影は、強面の喧嘩腰の人間ではなかった。ぼんやりとした視界に現れたのは、見知った二つの顔だった。林檎はその見慣れた顔を見た途端、張り詰めていた糸が切れるのを感じた。意識が遠のき、重い身体が傾いていく。倒れ込んだ身体を支えるように、二人の手が伸ばされた。二人の慌てたような顔が広がったのを最後に、林檎の記憶はそこで途切れたのだった。




 そろそろと重い瞼を開いていけば、視界に映るのは淡い模様の躍る天井だった。見慣れた自室の天井だ。林檎は辺りを窺おうとして、顔の角度を僅かに動かした。途端に頭に鈍い痛みが襲い、同時に額から何かが滑り落ちていった。目の前に落ちてきたのは、氷嚢だった。

「あ、起きた?」

 落ち着いた、しかし幼さも残る声は姫月のものだ。林檎が部屋へと視線を向けると、テーブルの周りに座り、ベッドへと視線を向けている二人の少女の姿があった。

「いやあ、ごめんね。風邪とはきいてたんだけど、まさかそこまで具合が悪いとは思ってなくてさ……」

「お前が寝てる間に熱測ったけど、三十九度超えてたぞ。寝とけ寝とけ」

「……」

 林檎はぼんやりと見つめるだけで、何も答えることはなかった。虚ろな表情は、答えるだけの気力が残っていないことが見て取れた。返事がないことに構うことなく、水面は「ていうかさ」と指を突き付けた。

「今までも薄々感じてたけどさ。……お前、実は滅茶苦茶身体弱いだろ」

「…………」

 林檎はむっとした不満気な表情を浮かべた。それから大きく息を吸い、苦悶の表情を浮かべながらも喉の奥から声を絞り出した。

「……そんなこと、……ないもん……」

「そんな死にそうになりながら言い返すようなとこか?」

 姫月が苦笑を浮かべながらベッドへ近づく。そして氷嚢を小さな額へとのせなおした。二人が用意してくれたのであろう氷嚢は、まだ氷が大きく冷たかった。苦しそうに荒い息を零す林檎を前に、水面は立ち上がった。

「林檎、台所借りてもいい? 食べられるかわかんないけど、お粥作っていくからさ。置いて帰るから、食べられそうになったら食べな」

「いい……いらない。帰って」

 林檎は枕の上で、ふるふると小さく首を振った。動かす度に割れそうになる頭に、林檎は僅かに顔を歪めた。

「栄養つくもの食べないと、元気になれないぞ?」

「ここにいたらうつしちゃうかも……じゃ、なくて……水面が作るなんて不味いに決まってるんだから……」

「おいおい、食べてもいない内から酷い言い草だな」

「大丈夫だよ、うちも一緒に作るから。フォローは任せて」

「お前ら、あたしの作る料理が不味いこと前提で話を進めるなよ」

 水面が苦い顔で窘める。林檎は姫月の優しい声色をきいても、意見を曲げる様子はなかった。

「風邪くらい、自分でどうにか出来るわ。……だから、早く帰って」

「よくその調子でそんなこと言えるな」

 水面は満身創痍な林檎を見下ろし、乾いた笑みを浮かべた。それから大袈裟に肩を竦め、苦笑交じりに口を開く。

「あたしの料理の腕を証明するためにも、お粥作らせて貰うからね。林檎には悪いけど。文句は元気になってから言いに来な」

「……自分の家で作って……」

「正論過ぎるな」

「お前はどっちの味方なんだよ」

 けらけらと笑う姫月へ、水面は小言を飛ばす。それから林檎へと顔を戻し、ふんと鼻を鳴らした。

「嫌なら力尽くで止めるんだな」

 林檎は恨めし気な視線を向けたが、何も言い返すことはなかった。例え林檎が万全のコンディションであろうとも、水面を力尽くで止めるなど不可能だ。水面は体術に優れ、何倍もの力を備え、無敗を誇る暴れん坊である。彼女に敵うわけがない。反論がないことを確認し、水面は横になったままの林檎に背を向け、部屋を出て行った。

「ちゃんと寝てなよ」

 残った姫月は林檎へそう声をかけたあと、水面の後を追って部屋を後にした。扉を優しく閉め、廊下で待っていた水面と合流する。二人は階段を降りて行った。やがて先に降り切った水面がぴたりと足を止め、姫月を振り返った。

「あいつに非があると思う」

「うん?」

 階段の途中で足を止め、姫月は水面を見下ろしながらきょとんとした顔をした。水面は傍の壁に身体を預け、唇を尖らせた顔を姫月へと向けた。

「あたし達があいつに甘いの、あいつが悪いと思う。あいつがか弱すぎるんだ。あたし達は悪くない」

「違いない」

「あいつはなんであんなにか弱いくせしてあんなに強がりなんだよ」

 水面は苦い顔をして、二階のベッドで伏せっているであろう顔を思い起こす。先程の様子が蘇ったのか、その顔に影が差した。

「……。……かなり、辛そうだったな」

「……うん。良くなってもらうためにもさ、お粥頑張って作ろうよ」

「そうだな」

 しんみりとした空気になり、二人は静かに頷き合った。その空気を変えるかのように、姫月はセーラー服のポケットからスマートフォンを取り出した。

「レシピは任せてよ。水面でも上手く作れるよう、なるべく簡単な奴検索しておくからさ」

「お粥ってご飯に砂糖と塩と卵ぶち込んで水で煮込むだけだろ? レシピいるか?」

「さ、砂糖……? とりま、林檎をぎゃふんと言わせたいならレシピ通りに作って。これ絶対だから」

「めんどくさ……。まあ林檎のためだしな、ちゃんとやるか」

 水面は壁から身体を離し、廊下の奥へと歩き出した。階段の途中だった姫月も降りる動作を再開し、水面へとついていく。二人は台所へと向かうと、お粥を作るための準備を始めた。

「あいつ几帳面なくせに、食材のストックはあんまりないんだな」

「あ、でも卵はあるよ。小分けにしたご飯もある……うお、日付つけてある。まめだなあ」

 冷蔵庫を漁り、好き勝手に感想を零す。二人は材料を机に並べ終えると、鍋に水を張った。レシピの分量通りにご飯を入れ、IHクッキングヒーターの上に鍋をセットした。操作を終え、沸騰するまでその前で待つ。

「姫月」

「何?」

 少し真面目な声色に、姫月はいつも通りにのんびりとした返事を返した。

「お前はこれ作ったら帰りな。あたしは身体が丈夫だから全然平気だけど、お前はそうじゃないだろ? 林檎の風邪がうつる前に帰った方がいい」

 姫月は一度目を丸くしてから、ふるふると首を横に振った。

「うちも大丈夫だよ。身体丈夫な方だしね。それにもし風邪にかかったとしても、契約している医師がいるから、最優先で治療受けられるんだよね」

「はー、お嬢様は言う事が違うね」

 水面は大仰に肩を竦めた。

「じゃあ今度から毒見は姫月に任せようかな」

「……」

「冗談だよ冗談。ってかあたしの方が身体丈夫だから、毒見ならあたしがするし」

「……いや、そうじゃなくてさ」

 姫月は鍋の中へ視線を落としながら、小さく笑みを浮かべた。

「水面と林檎のさ、うちが財団の関係者でも全然持ち上げないで揶揄してくるところさ。……実は結構、好きだよ」

「え、そうなの? 別に気遣って言ってるわけじゃないんだけどな」

「そこがいいんじゃん」

 姫月は楽しそうに笑った。本心だということが伝わってくるような笑みだった。嬉しそうな姫月を見て、隣の水面も自然と笑みを浮かべていた。きっと財団の関係者だからこその嫌な思いも、今まで散々経験してきているのだろう。誰からも特別扱いを受け、阿られ、上辺だけの言葉を投げられ続ける人生だったはずだ。そんな姫月も、今は素の笑顔をさらけ出している。水面は安心したように目を細めた。二人は笑みを浮かべながら、日常の他愛ない話を続けていった。

 鍋の中で、ふつふつと膜が出来ては消えていった。白い湯気がもくもくと立ち上り、ぐつぐつといい音がきこえてくる。姫月はレシピを再度確認すると、ネイルで飾られた指を伸ばして設定温度を切り替えた。




 ノックをして部屋の扉を開けると、中から言葉が飛んでくることはなかった。静かな室内に、二人は一人横たわる少女を見下ろした。林檎は小さく寝息をたて、眠りについていた。二人は顔を見合わせて笑みを零した。姫月は指を口元へと持っていき、二人は静かにするようジェスチャーを取り合った。

 テーブルの上、御盆にほかほかのお粥の入ったどんぶりとスプーンを残し、二人は頷き合った。ベッドの傍に立て掛けていた各自の鞄へ、音を立てないようにそろそろと近づく。二人は手を伸ばして鞄を取り、各々肩にかけて帰り支度をしようとした。

 水面のセーラー服の裾を、青白い手が伸びてきて小さく握り締めた。水面は驚いて動きを止めた。水面と姫月がその手の先を目で追うと、つい今まで寝ていたはずの病人が、その手を伸ばして水面の服を引っ張っていた。

「あ……」

 なぜか当の本人が一番驚いた顔をしていた。慌てて布団の中へ手を引っ込める。

「悪い。起こした?」

 水面は申し訳なさそうに言うと、ベッドの傍へとしゃがみ込んだ。林檎の顔を覗き込む。林檎はなんだかばつが悪いように、目線を泳がせた。

「起きたんだったら、良かったらお粥食べる? うちらも感想ききたいし」

 姫月は一度肩に掛けた鞄を床に戻しながら、笑みを浮かべた。水面も同意して、鞄を置き直す。

「あ、でも無理はしないでよ。食べられそう?」

「た、……食べる」

 林檎は口数少なく言うと、上体を起こし、掛布団を捲った。ベッドから出たところで一度よろめき、慌てて姫月が支えた。なんとかテーブル前まで着くと、林檎は正座をしてお粥と対峙した。

「ほ、本当に無理してないか?」

「大丈夫」

 林檎はあくまで気丈にそう言ってから、両手を合わせた。

「頂きます……」

 ほかほかの湯気の立つお粥は、部屋の照明を浴びて艶めいていた。卵の柔らかな黄色が白に混ざり、素朴な香りが部屋に漂う。林檎はしばしどんぶりの中身を見下ろしていた。やがてスプーンを掴んでどんぶりの中まで持っていこうとして、小さな手から中身が滑り落ちた。林檎は僅かに唇を噛み、再びスプーンを拾い上げた。力の入らない青白い手から、またしても中の木製食器が零れ落ちていく。

「……」

 林檎は眉を寄せた。唇をきゅっと結ぶ。再度スプーンを拾おうとした手に先んじて、横から手が伸びて掠め取っていった。水面の手だった。水面は掠め取ったスプーンをどんぶりの中に入れ、お粥を掬った。ふーふーと息を吹きかけて冷ますと、それを林檎の口の前まで持っていく。

「ほら」

「……」

「あーんしろ、あーん」

 林檎は無言のまま、目の前に差し出されたスプーンを見つめた。複雑な表情をしていたが、何も言う事はなかった。黙ったまま小さく口を開けて、差し出されたスプーンに桃色の唇で食いついた。スプーンが離れていったあと、林檎はゆっくりと咀嚼を続けた。始終無言で、丁寧に味わうことに集中するかのように、じっと一点を見つめたままだった。やがて、小さい喉がこくんと上下した。

「どう? ちゃんとレシピ通りに作ったんだけど」

 姫月がわくわくとした様子で尋ねる。林檎が姫月へと顔をあげ、何か言葉を発しようとして——口から漏れたのは、咳だった。

「大丈夫?」

 姫月が慌てて近寄り、背中を摩った。しかし咳は止まることなく、どんどんと勢いを増す。その内呼吸をするのも難しい程激しくなり、喘鳴を伴うようになった。

「ちょっと……不味くない?」

 背中を摩り続けながら、姫月は焦りを滲ませて水面へと顔を向けた。激しい咳と、ヒューヒューという呼吸音が部屋に苦し気に響いていた。

「……ヤバそうだな。『不可侵の医師団』の連中を呼んでこよう」

 水面は険しい顔でそう言うと、逸る気持ちのまま立ち上がろうとした。しかしそれを受けて、林檎は咳き込みながらも、ふるふると激しく首を横へ振った。頭痛と息苦しさを堪え、必死に伝えるように振り続けられる。水面と姫月は、思わず顔を見合わせた。

 林檎は咳き込みながらも、震える手をあげた。部屋の一点を指差す。水面がその先へと駆け寄り、差された場所の引き出しを開けた。そこには、吸入薬が入っていた。

「これ……」

 水面は言い掛けた口を閉じ、吸入薬を林檎へと渡した。林檎は震える手でキャップを取り、力の入らない手でそれを振り始めた。慣れた手つきで吸入薬を使用していく。水面と姫月は、それをはらはらと見守り続けた。




 吸入薬の使用が終わり、一度うがいをしに洗面所へ向かい、一同は部屋へと帰還を果たした。林檎の咳は収まり、幾分か安定した呼吸を繰り返すまでになっていた。林檎はベッドの上で上体を起こし、気まずいように視線を落としていた。

「……お前、喘息持ちだったんだな」

 水面は少し責めるような声色でそう言った。

「初めて知った」

「……」

 林檎はまるで怒られた子供のような顔をした。

「姫月は知ってた?」

「いや、うちも初めて知った」

 姫月は普段通りの声色で水面へ言ってから、少し心配そうな視線を林檎へと向けた。林檎は項垂れ、無言のままだった。水面は少し身を乗り出し、林檎へと諭すように続けた。

「言いたくないことって誰にでもあるだろうけどさ。これって命に関わることだろ? あたし達にくらい、教えてくれても良かったんじゃないか?」

「……」

「あたし達のこと、信用ならなかったか? せめて常備している薬の場所くらい、教えて置いて欲しかったな。いざという時にお前の意識がなかったらと思うと、ぞっとする」

 見かねた姫月が、「水面」と声をあげる。

「それくらいにしとこ。病気って、本人にとっては知られたくない場合って結構多いよ。林檎のことが心配な気持ちはわかるけどさ、責めるのはよくない」

「あー、いや、責めてるつもりじゃなくてさ……。……ごめん。ただ、……心配でさ」

 水面は決まり悪そうにそう言って、後頭部をわしわしと掻いた。

「……確かにお前の気持ち考えられてなかったかも。悪かった。とにかく……今日のところはもう安静にしときな。あと、絶対に無理するなよ。それだけは誓え。いいな?」

 林檎は俯いたまま、微動だにしなかった。

「……林檎?」

 二人は訝しむように小さい身体を覗き込んだ。その時、林檎はようやく顔をあげた。その大きな二つの瞳には、大粒の涙が溜まっていた。

「へっ!?」

 水面は素っ頓狂な声をあげ、姫月はぽかんと口を半開きにした。二人とも、林檎が泣く姿を見たのはこれが初めてだった。強がりな彼女が泣く姿を、想像すらしたことがなかった。林檎は唇を強く噛み、涙が流れるのを懸命に堪えているようだった。しかしその努力も虚しく、次から次へと頬を伝っていき、シーツへ染みを作っていった。

「……やっぱりお前、相当無理してただろ」

 水面は驚きに固まっていた身体を解くと、そう漏らした。姫月は手を伸ばし、喘息の時のように彼女の背中を優しく摩った。

「……違うの」

 林檎は小さくそう呟いてから、嗚咽を漏らした。

「あのね。……迷惑かけて、本当にごめんなさい」

 彼女らしくない謝罪の言葉に、水面も姫月も驚いて目を見開いた。

「わたし……ずっと、二人と対等な友達でいたかったの」

 泣き声混じりだったが、しかし彼女はいつものように気丈に振舞って、そう言った。

「わたし、二人より年齢が低いでしょう。いつも二人がわたしに優しいのも、全部年上としてわたしに接しているからだって、わかってた。きっとわたしのこと、子供のように見てるんだって」

 林檎は小さく首を振った。

「でも、わたしは年齢なんて気にせず、対等な友達として二人の隣にいたかったの。……それなのに、身体が弱いことを知られたら、きっと二人はますます過保護になるわ。年齢とか身体のこととか気にして、変に気を遣って欲しくないのよ。……だから、黙ってたの」

 彼女の瞳からは涙がぱたぱたと零れ落ちていった。シーツの染みは、増えるばかりだった。

「でもそのせいで……二人にこうして迷惑を掛けてしまったわ。子供として見られたくないはずなのに、まるで子供みたいに二人を頼ってしまった。……情けなくて悔しくて、すごく申し訳ない」

 彼女は頭を下げるように深く項垂れた。紅色の髪の間から、涙がシーツの上へと落ちていく。

 林檎の言葉は止み、嗚咽だけが小さく響いた。水面はずいと身を乗り出し、顔の隠れて見えない小柄な身体へと顔を近づけた。

「いろいろと言いたいことはあるけど……。まず、あたし達は迷惑を掛けられたなんて思ってないぞ」

「え?」

 林檎は鼻を啜ったあと、小さく声を漏らした。

「林檎はあたし達を頼ることを悪いことだと思ってるみたいだけどさ、あたし達は林檎に頼られたら嬉しいんだよ。だって、友達なんだから」

 僅かに顔をあげた林檎の前で、水面は柔らかな笑みを浮かべた。

「今回だってさ、もっと素直に頼ってくれても良かったんだぜ? お前、無理し過ぎなんだよ」

「そうそう。林檎の珍しい姿いっぱい見られて、なんか新鮮だな~くらいにしか思ってないよ。これは子供とか年下扱いしてるとかじゃあなくってね?」

「もしそれでも納得出来なくて、今回の件を林檎が借りだと思ったんなら、また別の機会に返してくれればいいだけだしな。友達って、お互い様なものだから」

 林檎は小さく、「お互い様……」と水面の言葉を繰り返した。水面は頷いて見せた。

「それと! お前のこと、過保護……というか、年下扱いしてたのは悪かったよ。無意識にしちゃうんだ。……でもさ、これはお前にだって非があるぞ」

 水面は眉を寄せて真面目な顔を作り、林檎へと指差した。

「お前、強がりすぎなんだ。見ていて物凄く危なっかしいんだよ。もっと素直になってくれ」

「強がり……? わたしが?」

「え?」

 予想外の反応に、水面は思わず狼狽えた。

「もしかして、自覚ないのか?」

「自覚も何も……わたし、強がりなんかじゃないわ」

「ええ……」

 心の底からの困惑の声だった。「お前が強がりじゃないのなら一体誰が強がりになるんだ」と言おうとして、なんとか寸でのところで思い留まった。

「……でも、そうね。素直じゃない自覚はあるわ。……少し、直してみる」

「うん」

 林檎は少し決まり悪そうにそう言って、恥ずかしそうに目線を逸らした。姫月が笑みを浮かべてそれを見守りながら、穏やかな声で答えた。

 林檎は涙を袖で拭い、鼻を再度啜った。泣き止んだ林檎は、真っ赤な目を水面と姫月へと向けた。熱がぶり返してきたのか、彼女の顔はぼんやりとしていて、その瞳は潤んでいた。

「落ち着いたか?」

「うん。……ねえ、二人共」

「何?」

 姫月が小さく首を傾げる。林檎はぼうっとした顔のまま、二人をじっと見つめていた。

「素直になれって言うなら、一つ我儘言ってもいい?」

「いいぞ。今日は何でも言う事きいてやる」

 水面はそう答えてから、(あ、また年下扱いしちゃったかも)と内心反省した。しかし林檎はそこを気にするようなことはなく、二人に視線を向けながら、遠慮がちに続けた。

「わたしがお粥食べ終わるまで、帰らないで、一緒にいてくれない……? その、いてくれるだけでいいから……」

 眉を下げ、二人を窺うようにおずおずと、そう絞り出した。二人は予想外の言葉に一度呆けた。しばらく静寂が部屋を支配したあと、弾んだ「もちろん!」という声が重なった。林檎も安心したように、熱に魘された顔を微笑みへと変えたのだった。




 林檎の家の玄関で扉を閉めたあと、二人は帰路を歩き始めた。空はすっかり暗くなっており、遠くの夕焼けもそろそろ闇に飲まれて消えそうになっていた。小道には二人以外の人影はなかった。黙って歩き続けていたが、やがて水面がぽつりと漏らした。

「……姫月。ずっと叫びたかったことがある」

「はい、どうぞ」

 姫月は水面の番だとばかりに掌で示した。

「やっぱりあいつが悪いだろ!!」

 道路の真ん中で、長い影を作りながら水面は叫んだ。遠くの空で、烏がカーカーと返事をした。

「なんだあいつ、ずるくないか!? 実はあたし達のこと、好きすぎないか!? いつもは生意気ばっか言ってるくせに!」

「……病気のせいで心細くなってたんだろうね」

「だとしてもなんだあれは。甘やかすなって方が無理だ」

「年の離れた妹を溺愛するのってたぶんこういう気持ちなんだろうね」

 そこまで言って、二人ははたと顔を見合わせた。

「……あー、駄目だ駄目だ。やっぱ無意識に年下扱いしちゃうな。でもこれ、しょうがなくないか?」

「対等な友達、か。難しいね。でも、林檎が望むなら応えたいしね」

 二人は立ち止まり、むむ、と唸った。しばらく二人して悩んでいたが、結局答えが出ることはなかった。

「……ねえ、水面」

「なんだ」

「年齢的には林檎が一番下だけどさ。……あいつが一番、精神的には達観しているのかもね」

 姫月が歩みを再開させたため、水面もそれを追い駆け、横に並んだ。

「子供扱いされるのが嫌、っていうより……うちらに負んぶに抱っこの状態になるのが嫌だったのかも。迷惑を掛けちゃうから、って」

「うーん、そういうつもりで接しているわけじゃあないんだけどなあ。甘やかしちゃうのは、あいつの嬉しそうな顔が見たいだけなんだけど」

「あいつが強がりなのって、うちらに弱みを見せて対等でなくなってしまうのを避けるためだったのかもねえ。結局さあ、林檎が強がってるのって、うちらのせいなんじゃない?」

 後ろ手に手を組んだ姫月が、身体を傾ける。水面はその横で、腕を組んだ。

「つまり一周回って、あいつを甘やかしちゃうのもあたしらのせい?」

「うちらが甘やかすのをやめたらさ、林檎も強がるのを止めて素直になるかも」

「なるほど、じゃあやっぱり結論は一つだ。……これからは、厳しくいくぞ!」

 決意を胸に、水面は宣言した。真面目な顔を作り、ふんすと鼻息荒く拳を握る。その横で、やっぱり見えている未来に無視を決め込み、姫月はおざなりに囃し立てたのだった。




 翌々日。

 朝日が眩しい、登校時間。学校の下駄箱で、水面と姫月、そして林檎はばったりと遭遇した。林檎は気まずそうに、目線を逸らした。

「……おはよ」

「おう、おはよ。……お前、あんなに調子悪かったのにもう大丈夫なのか?」

「大丈夫よ。二日も休んじゃったし……」

「おはよー。……逆にあそこから二日だけで復活出来たのは凄いと思うけどね」

「栄養つくもの食べられたから。治るのも早かったの」

 林檎は恥ずかしそうに目を伏せ、「その、何が言いたいかというと……」と口をまごつかせた。

「……この前は、ありがとう。お見舞いに来てくれて」

「お、おう」

 今までにない程の素直な感謝の言葉に、水面は狐につままれたような顔をした。

「それで……あの時、わたし、熱のせいで何か言っちゃったでしょう。あの日に言ったこと……全部忘れて欲しいの」

「ええ!?」

 急展開に、水面と姫月は思わず叫んだ。

「わたしもあんまり覚えてないのよ!」

 弁明するように、林檎も叫ぶ。

「だから、病気のせいで生じた気の迷いだと思って欲しいの。……たぶんわたしのことだから、二人に散々説教したんじゃないかなって思うんだけど……気にしないで欲しいわ」

「せ、説教?」

「考え無しに行動し過ぎとか、時間にルーズ過ぎとか、だらしなさすぎとか……」

「いやここで改めて説教始めなくていいから」

 耳が痛い言葉が羅列されて、姫月が慌てたように止める。しかし、あの日実際に林檎にされたのは説教ではない。心の内の吐露だったはずだ。水面と姫月は、お互いに顔を見合わせた。

「喘息がばれたってこともぼんやり覚えてるわ。……でもね、あれは偶々なの。風邪が悪化したのだって、偶々。きっと身体が弱ってたのよ。そう、偶々」

 二人の様子に気付かず捲し立てていた林檎は、そこで咳き込んだ。吸入薬が必要になった時のことを思い出し、水面と姫月の顔が強張る。しかし今回は二度程の咳で済んだようで、林檎は顔をあげた。気丈に振舞おうとしたのか、なぜかその顔は鼻高々といった様子だった。もしくは激しく咳込まなかったことで、身体が弱くないアピールが出来たことが誇らしかったのかもしれない。

「お前、無理してないか? やっぱり今日も休んだ方が良かったんじゃ……?」

 しかしそんな林檎の期待とは真逆に、水面は心配そうに声を掛けた。林檎は一瞬だけ口を曲げたあと、澄ましてそっぽを向いた。

「必要ないわ。完治したもの」

「……お前、頭いいはずなのにたまに信じられないような嘘つくよな」

 水面は戸惑いとともにそう零した。つい今し方咳をしていた者の発言ではない。

「それよりも……二人は風邪うつらなかった? 体調に変わったところはない?」

 林檎は二人をじっと見上げ、探るように覗き込んだ。眉を下げた幼い顔を近づける。

「あたしは全然平気。姫月は?」

「ん、うちも全く問題なし」

「……良かった。馬鹿は風邪引かないって言うものね」

「おい」

 先日の姫月と同じようなことを付けたし、林檎は心の底から安堵したように息をついた。思い出したように靴を脱ぐ動作を再開させた姫月が、「あ」と零す。

「それで思い出したけど、今日一限目小テストあるよね? 林檎、ノート見せてあげる」

 鞄に手を伸ばしかけた姫月へ、林檎はふるふると首を振った。

「必要ないわ。出題範囲を逆算して勉強済みだから」

「え、小テスト? 今日? あったっけ」

 水面が苦い顔をしながら、自身の靴を下駄箱へと入れた。上履きを出し、履き替える。

「ええ? 昨日の授業中にばっちり言ってたよ。寝てた?」

 その横で姫月も上履きを履き、爪先をとんとんと床へ叩いた。呆れた顔を向ける。

「寝てたかも……」

 水面は苦笑いを浮かべた。その横へ上履きの音を鳴らしながら林檎が並んだ。林檎を挟むように、姫月も続く。背の高い水面、背の低い林檎、それより少しだけ高い姫月のでこぼこが集い、廊下を歩いて行く。

「水面」

「ん?」

 名前を呼ばれ、水面は横を見下ろした。

「出題範囲の中から山を張っていくつか指定するから、それだけ覚えればいいわ。わたしが教師なら絶対出すってところ。仮にいくつか外しても他はあたるようにバランスとっておくから、それさえ答えられるようにしておけば赤点は避けられるはず」

 林檎は水面を見上げながら、淡々と説明した。水面は顔を晴らした。

「赤点回避は助かる! 良かった……」

「全部で五つね。これだけは全部書けるようにしておくのよ? ええっと、まず……」

 林檎は歩きながら鞄を開け、中から教科書を取り出した。その時、教科書にくっついていた冊子本が、鞄の外へと滑り落ちた。音を立てて白い廊下へ落下した本は、表紙を上にして倒れた。姫月が自身の前に落ちた本へと手を伸ばし、それを拾った。表紙を見下ろし、きょとんとした顔を浮かべる。

「『かんたんレシピ集』……?」

 タイトルを読み上げ、姫月は横の林檎を振り向いた。林檎はしまった、という顔を浮かべていた。

「料理本? 林檎が……?」

 水面も訝しむように姫月の手の中の本を見、そして林檎の顔を窺った。

「あ、いや、それは……。……本を間違えて、借りちゃって」

 林檎の白く小さな手が伸び、姫月の手から本を取り戻して引っ込められた。鞄の中に押し込められる。

「返しにいかないとって思ってたのよ」

 林檎はそう言って、歩みを再開させた。二人もワンテンポ遅れてそれに続いた。階段に差し掛かり、三人は上履きを鳴らしながら並んでのぼっていった。気難しい顔で段差を見下ろす水面、両手で持った教科書に視線を走らせる林檎、探るように林檎の顔を窺う姫月。僅かな間、沈黙を挟んだ。そして、林檎が教科書の一部分を指差し、口を開く。

「いい? 水面。まず、二番の問題。時間がないから理屈は後回し、キーワードで繋げて覚えるのが効果的だわ。覚えるべきキーワードは……」

「……わかったぞ」

「え、早……」

 林檎は教科書に落としていた視線をあげ、驚いたように横の水面を見上げた。しかし、水面は教科書を見てはいなかった。彼女は階段の先を見ていて、真面目な顔を作ってぽんと手を打っていた。そして、林檎へと顔を向ける。

「やっぱりお粥、不味かったんだろ」

「……え」

「変なところで気を遣うなよな」

 水面は肩を竦めた。どうやら水面は林檎の話を完全に聞き流し、ずっとレシピ本の謎について考えていたようだった。

「自分で作り直してたってことだろ? 口に合わないってはっきり言ってくれてよかったのに」

「え、ち、違……」

「お前よく完食したな。……無理するなって言ったのに」

 水面は苦笑を零した。踊り場の窓から朝の陽射しが差し込んで、階段を曲がる三人を明るく照らしていた。

「なるほどね。今度から市販のものを買ってくべきだね」

 姫月もたははと苦笑いを漏らし、林檎へと申し訳なさそうな視線を送った。林檎は一人、焦ったように二人の顔を見渡した。それに気付かず、水面は姫月へと頷きを返した。

「ああ、そうだな。だから林檎、また風邪引いた時は、安心して頼って——」

「やっぱり二人は、馬鹿だわ! 大馬鹿者!」

 林檎は水面の言葉を最後まできかず、頬をぷっくりと膨らませた。

「それに水面、あなたのためにテスト対策してるんだからちゃんときいて」

「それはそうだわ」

 姫月は苦笑いを浮かべ、責めるような視線を水面へと向けた。林檎はため息を零し、観念したように小さく口を開いた。

「レシピ本を借りたのは今日よ。……さっき、図書室で借りてきたの。お粥を作り直していたわけじゃないわ」

「え……そうなのか? じゃあ、なんでレシピ本?」

「それは……」

 林檎は一度口を閉じた。しかし水面と姫月の視線を浴び、閉じられた口を再度、僅かに開いた。

「……二人に何か作ろうと思ったのよ。お粥を作ってもらった、恩返しがしたかったから……」

 小さい声でごにょごにょと漏らし、林檎はその恥ずかしさを振り切るように歩くスピードを速めた。階段を出て廊下に出る。水面と姫月も慌ててそれについていった。廊下の奥に、三人のクラスの扉が見えてきた。

「それに!」

 声を大きくして、林檎が立ち止まる。

「あのお粥は不味くなんてなかったわ。わたしが食べてきた中で、一番…………」

 そこで林檎の言葉は途切れた。

「な、……なんでもない!」

 林檎は慌ててそう叫ぶと、手にした教科書を水面の顔へと押し付けた。

「うわっ」

 押し付けられた教科書をなんとか落とさないように持ち、水面が顔をあげた時には、林檎は一人で先に教室へと入っていってしまっていた。ご丁寧に扉もぴしゃりと閉められる。

「……なんだあいつ。結局レシピ本はなんで借りたんだよ……、いやそれより小テストの山は!?」

 水面ははっとして叫んだ。もう一限目までに勉強できる時間は少ない。自分の手に収まっている林檎の教科書を、慌てて見下ろした。

「さ……さっきちらっと見た感じ、重要な問題には丸つけてあったよな!? これ見とけば大丈夫か!? どう思う姫月!?」

 勢い良く横へと振り向く。姫月は口元を緩ませ、閉められた教室の扉を見つめていた。抑えきれない笑みを滲ませ、愛しさに目を細める。そして、しみじみと呟いた。

「……あいつ、うちらのこと好き過ぎるんだよなあ」

「おい姫月、意味わからんこと言ってないで助けろ! 赤点はまずい! あいつに一生馬鹿にされる!」

 横の水面は必死に訴えたが、それを掻き消すように無情にチャイムが鳴り響いた。顔を絶望に染める水面と、穏やかに笑みを零す姫月は、林檎の後を追うように教室へと駆けて行った。




 一足先に席へとついていた林檎は、机に頬杖をつき、顔を埋めていた。紅色の髪に彩られた顔は、唇を突き出していた。

「わたし、水面と姫月を甘やかし過ぎてると思う」

 小さい小さい呟きは、誰の耳にも入らずに、教室の喧騒に飲まれていく。

「これは良くない、とっても良くないわ」

 チャイムが鳴り響き、当人たちが慌てて教室へと駆けこんできた。それには振り返らず、林檎は頬杖をついたまま瞼を伏せた。

「……これからは、もっと厳しくいかないとね」


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