表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/1

ピアノ教室に行く途中

 学校の帰り道、僕はそのままピアノ教室へと向かった。この日は学校の春の展覧会の準備で下校が遅れたので、家に帰ってからだと時間に間に合わなくなってしまう。勿論そのことは前もって分かっていたことだから、ランドセルの中には今日使う教則本がちゃんと入っている。その点に抜かりはない。けれどお稽古事というのはあまり楽しいものではないからちょっと気が重かった。

 音楽は好きなんだけど、実は僕はあまり上手い方じゃないんだ。それに授業(レッスンという言葉にはどうも馴染めない)や演奏会の雰囲気とかがやっぱり嫌だ。気取った感じが妙に僕の神経に障る。とは言えピアノを習いたいと言い出したのは僕自身なわけで、あまり勝手なことは言えないか。小さい頃お姉ちゃんが習い始めたのを見て一緒に自分もやりたいと思ってしまったらしい。『らしい』なんて他人事みたいな言い方だけれど、当時の僕が何を考えていたかなんてもう今の僕では分からない。だからこんな言い方になってしまうのは仕方のないことだ。しかも当のお姉ちゃんはその後ピアノをさっさとやめてしまった。こうなると、梯子を外されたようなものだ。結局、間抜けな僕は何故かいまだにピアノを続けている。

 それでも家族が応援してくれるから一生懸命やらなければ。そういえば以前、平均律クラヴィーア第一巻の定番ハ長調を演奏会のために練習してた頃、お兄ちゃんからよくハの字と呼ばれていた。『おいハの字、元気に練習やっとるか』とか『今度ハの字の演奏を聴かしてもらうでな』とかいった風に。すると或る日それを聞いたお父ちゃんが、『ハの字たぁ何だ?』と訊ねてきた。『ああ、最近ちびが平均律クラヴィーア曲集のハ長調を練習しとるんですわ、大したもんで』とお兄ちゃん。『平均律‥‥曲集?何だそりゃ?』『バッハの作曲したやつですがね』『ほう、知らんが、それでその平均律とやらは何なんだ』『平均律ですか、平均律というのはですねえ、簡単に言うと、一オクターヴを十二の音で均等に均したもんです』『当たり前のことじゃないか』『ところが当たり前じゃないんですわ。十二の音をそれぞれ決めようとしたらどうなるか、なんですけど、先ずドの音を決めるとします。ではその後残り十一の音をどうやって決めるか。やり方としては、ドを起点にして和音をこさえて残りのレミファソラシを決定していくんです。ドミから始めてドミソ、ドファラとか、いろんな和音で残りの音を決めていきます。ほいで目出度く一オクターヴの十二の音が決まるんですけどね、問題はここからで、そうやってこさえたオクターヴの、一つ上のオクターヴを更にこしらえようとすると困ったことが判明しよるんです。先ずさっきこさえたドレミファソラシから、例えばファとシを使って一オクターヴ高いドを確定したとしますわなあ。けどが、一番最初に決めたドの音と、今ファシドから決めたドの音が、この二つは音階が違うだけで音そのものは同じはずです、けど一オクターヴ違うだけのはずの二つのドの音が何故か微妙にずれるんですわ。そのずれたドの音からですね、一オクターヴ高いレミファソラシを決めてったら、それぞれの音全部一オクターヴ低いだけのはずの音とずれてまうっつぅことになるわけで、ほんなことしとったらオクターヴごとに音が違ってまって、それこそ合奏なんぞ出来せんでしょう。だで、しょんない、細かいとこは気にせんで、オクターヴの中の十二音は平均的に均してまおう、ということですわ。けどがまあ、これとバッハの曲とは直接関係あれせんとか、言われとるとかないとか‥‥‥』『ふうん、よく分からんが、でさっきハ長調とか言ってたが、その何たら曲集の構成はどうなっとるんだ?』『はあ、いろんな調性でこさえたいろんな曲が順ぐりで作られとります』『じゃあ、一番初めがハ長調で次が‥‥‥』『次がハ短調、ほいで嬰ハ長調、嬰ハ短調と』『ならそのちびさんの呼び方には不備があるぞ。その表現では説明不足、不親切だよ。もっと丁寧に表現しなければ、ハ長調なんだろ、だから‥‥‥そうだな、スエヒロ長次ってのはどうだ?』『はい?すえひろちょうじ?ほれは、何ですか、カタカナのハを漢数字の八に見立てて末広がりに?ほいでもって調性も特定しようと?とろくさいこと言っとったらかんですって。ほんなまどろっこしい、江戸っ子のくせに』『そうか?ハだけでも四つあるんだろ?この方が分かりやすくていいと思うがなあ』『どこがええもんですか。ほんなもん、ほいじゃあ嬰ハ短調とかだったらどうしなさる?全部説明しようなんて思っとったら、じゅげむじゅげむになってまうで』『そんな極端なこと言うなよ。おい、お前はどう思うね?』僕はどっちでもいいと答えておいた。まあ『ちび』よりはまだましだし。僕は家ではしょっちゅうちび、ちびと言われてるけど、これでも学校では大きい方なんだ。大体うちの皆がでか過ぎるんだよ。

 それにしても、いい年をした二人の大人のこういうおバカなやり取りを聞いていると、何故か元気が出て来る。こういうようなことが時々あって、そのお陰でこれまでやってこれたような気がする。言うことを聞かない僕の指達、乙に澄ました先生方、いろいろなことが時々僕のか細い神経に大きな圧力をかけてくる。けれどその都度、この世に案外沢山いる能天気な人達のお気楽な言葉が助け舟を出してくれる。世の中思いの外上手く出来ているものなのだ。

 とは言え、今日の気分はやっぱりすぐれない。僕は少しばかり情けない心持ちでいつもの道をとぼとぼと歩いていた。

 すると向こうから顔見知りの近所のおばさんが歩いて来た。明るくて大らかで人が良くて、僕の大好きなおばさんだ。近くまで来て僕が頭を下げて挨拶すると、おばさんはいつも通りその大きな目と口を丸くして嬉しそうに笑いながら挨拶を返してくれた。

 「おや、お帰りなさい。学校の帰り?いつもより遅いわね。それに道が違わない?」

 僕は展覧会の準備で下校が遅れたこと、これからピアノ教室に向かう途中であることをおばさんに話した。

 「ああそう、ご苦労様ねえ。それにこれからお稽古事なんて、最近の小学生は大変ね。でも音楽はやっておいた方がいいわよ。将来きっと役に立つんだから。それにピアノなんて素敵じゃない。うちの旦那なんか何を考えてるんだか、急に三味線なんかやり始めて、毎日妙ちきりんな唄を唸ってるんだから‥‥‥、あらごめんなさい。あんたのお兄さん、大学のサークルで尺八やってたんだわね。」

 僕は、お兄ちゃんが大学生になってから邦楽部とやらに入って尺八を始めた理由を知っている。本人から直接聞いたんだから間違いはない。お兄ちゃんはこう言っていた。『邦楽の界隈ではな、尺八やっとるのは男ばっかりなんだわ。訳あって女はやりたがらん。その訳というのは‥‥‥、まあお前みたいな子どもは知らんでもええ。とにかく女は尺八以外の箏とか三味線とかをやる。けどが、これが演奏会になるとまずいことになる。邦楽は昔のもんでも新しいもんでも、演奏の編成に尺八を入れたもんが多くてな、困ったことに人気があるのもこういう曲なんだわ。ほうしたら、例えば女子大の邦楽関係のサークルが演奏会やるとなったらどうしたらええか?答えは一つだがね。よその大学から尺八やっとる奴を呼ぶしかありゃせん。つまり、俺たちゃ金城とか椙山とかのねえちゃんたちから引っ張りだこになってまうっちゅう寸法だわ。極楽々々』と誠に嬉しそうな顔で話してくれたんだ。詳しいことは分からんけど、お兄ちゃんがやらしい理由から邦楽を始めたということはよく分かった。でもおばさんの旦那さんは三味線だ、特に怪しからん理由から始めたのではなさそうだ。だから僕はおばさんに、おじさんの三味線の音や唄は時々聞こえてくる、日本の伝統芸術をやっているなんて格好いいのではないか、と言ってみた。

 「そうかしらねえ。けどやっぱり洋楽よ。世間じゃ、日本の伝統文化を大切にとか言うくせに、結局は好き好んで聴く人なんてほとんどいないんだもの。レコード屋さんに行っても洋楽ばっかりでしょう。」

 確かに、CD屋さんにある邦楽って言ったら演歌やJ-POPくらいだ。

 「だから結局洋楽なのよね。それもクラシック、おばさんだってこう見えてもクラシック大好きなのよ。」

 それは知らなかった、と僕は正直におばさんに告げた。

 「旦那の唄や三味線ばっかり聞こえてくるからでしょう。わたしはね、オペラとかの声楽曲が好きなの。」

 僕は、それは結構だ、でも残念ながら自分は声楽関係はあまり聴いたことがない、とまた正直に言った。

 「ダメよ、聴かなきゃ。何てったって人の声が最高の楽器なんだから。例えばそうね、三大テナーなんて知ってる?わたしこないだ幾つか聴いたの。うっとりしちゃった。」

 僕は、一応名前くらいは知っている、と答えた。

 「そう、ちょっとでも知ってれば上出来よ。素晴らしかったわよ、ババロッティ。」

 ババロ‥‥?そんなフランスのお菓子みたいな‥‥‥ちょっと引っかかったけれど、それはもしかしてルキアーノ・パヴァロッティのことかと訊ねた。

 「ああそうだった、何だ、よく知ってるじゃない。他に、あの人も良かったわね、ええと、カレーライスっていう人。」

 僕はここで少し考え込んだ。これは俗に言うところの『お約束』というものなんだろうか。だとしたら僕はここで、『ああ、そうそう、それでピアノ伴奏がフクジン・ヅーケだったりしたら最高ですね』とかなんとか言わなきゃならない。けれど実際はどうなんだろう、おばさんは至極真面目そうだし。うーむ、大人の会話にはちょくちょく難しいところがある。どうしよう。仕方がないから取り敢えず真面目に答えることにする、それはひょっとしてホセ・カレーラスのことですか、と。

 「あら、そうだったそうだった、ちょっとした違いよね。」

 随分違うと思いますけど。

 その時チャンカチャンカと奇妙な音が鳴り出した。おばさんの上着のポケットからだった。おばさんはそこから携帯を取り出すと、慣れた様子で会話のボタンを押した。ポケットから出て大きくなった着信音はぴたりと鳴り止んで、そのかわりにおばさんの楽し気なお喋りが周囲に響き渡った。大きな口をあけてキャハハと笑いながら大きな声で話している。長くなりそうなのとピアノ教室の時間があるのとで、僕はこれで失敬することにした。口の動きだけでお別れを言って、ぴょこりと頭を下げる。おばさんもお喋りを続けながら、飛び切りの笑顔で僕を見ながら手を振ってさよならをしてくれた。

 三人目にフラミンゴでも出てきたらどうしようかと心配していたので、内心ほっとしながら再び歩き出した。けれどちょっと残念な気持ちもあった。何はともあれ、僕は何故か元気になっていた。足取りも軽く気分も軽く、ピアノ教室へと向かった。気を使ったこともあったけど、とても楽しい気分になっていた。いろいろな下らない、こまごましたこと些細なことに振り回されていてもしようがないと、心底思えるようになっていた。

 やっぱり僕はあのおばさんが大好きだ。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ