【短編】MARIE~ある夫婦の肖像~
一 出逢い
一七七〇年五月十四日、コンピエーニュの森にて。
アントワネットは自分の夫となる少年をすぐに見つけた。それは道行きに女官長から「ベルサイユ人らしからぬ王太子」と聞いていたからだった。
ずらりと整列した青年貴族は、みな派手な格好をしていた。
白い髪粉をふりかけた鬘、大げさな飾りのついた帽子、白粉を塗りたくった化粧。その誰もが軽薄な笑いを浮かべている。その中に、静かな眼差しがひとつ。
金糸でふちどられた青の上着をさらりと着こなし、アントワネットを無表情で見つめる少年がいた。彼は髪粉もかけず化粧もしていなかった。
花嫁と花婿の目が合ったことに気付いて、ルイ十五世は機嫌良くこう言った。
「王太子、王太子妃に挨拶を」
アントワネットも女官長に促され、歩みをすすめる。アントワネットは目をまるくした。
(なんて大きな人なのかしら)
少年のほうも、アントワネットを見下ろして固まっている。二人の身長差は大人とこどもぐらい開きがあった。
木漏れ日を背負った彼を、アントワネットはじっと見上げた。髪や瞳の色が知りたいと思ったからだ。
王太子はぎこちない抱擁と口づけをアントワネットに贈ってから、ぱっと身体を離す。
その横顔は、やはり逆光になっていてはっきりとしない。これ以上見つめていたら本当に首がつりそうだったので、アントワネットはできるだけ優雅に視線を伏せた。
手と手が重なり合っても、心ときめくことはなく、アントワネットは悲しくなった。
「トワネット」
振り向くと、喪服姿の母が立っていた。黒いヴェールに包まれた表情は険しく、アントワネットは震え上がる。
「オーストリアとフランスの友好の証としてあなたは嫁ぐのです。あなたの振る舞いは、常に正しくなければなりません」
それは、出立の日に聞かされた言葉だった。
アントワネットはおもわず繋いだ手にすがりついた。けれど、大きくバランスを崩してしまう。
隣には誰もいなかった。国王一家の姿もなかった。爽やかな森も、初夏の日差しも、消えていた。
闇の中にアントワネットは一人きりだった。
(夢を見ているんだわ)
自覚すると同時に、ふっと意識が覚醒する。
視界いっぱいに、パンジーにビオラ、ライラック……春と夏に咲く花々が咲き乱れている。アントワネットは見事な刺繍をしばらく眺める。
このおそろしく豪華な宮殿には、指輪の森も母なるドナウ川もない。
目が覚めてから天蓋の上掛けに咲く花を数えることを、アントワネットは心のなぐさめとしていた。
すぐ傍らで、静かにみじろぐ気配がした。アントワネットはなるべく自然に寝返りをうち、起き出した人影に声をかける。
「おはようございます。殿下」
カーテンに手をかけた少年が、わずかに振り向いた。
「……おはよう」
しばし逡巡してから「またあとで」と言葉すくなに付け加えて、夫はそのまま寝室を出ていった。
今ではもう、彼の髪や瞳の色を知っている。そして、表情が見えなくとも、彼が笑っていないことが分かるようになった。
王太子ルイ・オーギュストは笑わない。何度あの日の夢を繰り返し見ても、結果は同じ。
彼はオーストリアから来た花嫁に必要最低限の言葉しかかけない。
しばらくして、侍女が天蓋のむこうから控えめに声をかけてきた。
「妃殿下、お水をお持ちしました」
ヴィル・ダヴレーの水を注いだ杯を受け取ると、女官長が恭しく裾を持ち上げた。
「午前中は休むようにと王太子殿下から言付かっております」
「え?」
「どうも体調が悪いようだからと」
アントワネットが悪い夢にうなされていることに、気付いていたようだ。
(……冷たい人ではないわ)
アントワネットは姿勢を正して、女官長に微笑みかけた。
「ありがとう。でも、大丈夫よ」
アントワネットの一挙一動はベルサイユ中の注目を集めている。
とくに、体調に関してはすぐ噂になる。ベルサイユ人は、王太子夫妻の〝結婚の成立〟を揶揄することで頭がいっぱいなのだ。
女官長も王太子妃の不調は結婚の成立によるものではと期待しているのだ。アントワネットはつとめて明るく言った。
「夢見が悪かっただけなの。それ以外はリヤン(何もなし)よ」
金糸をふんだんに使ったブロケード織りのグラン・コールに身を包み、鏡の回廊を進む。
夜明けの静寂は遠ざかり、大勢の人間の話し声が宮殿内を支配していた。
ベルサイユ人は男女問わずけばけばしく飾りたてるのを美徳としている。動物性のムスクをまとった貴婦人や紳士たちは、王太子妃を眺めながら扇の陰で囁いた。
──ごらんになって。今日も妃殿下は可憐でいらっしゃる。
──王太子殿下の心は掴めていないようだがな。
──仕方ないわ。だって、あの体では……ねえ?
──どう見ても十二歳ぐらいの子猫ちゃん《ミネット》だ。男をその気にさせるにはちょっとな。
(れっきとした十四歳よ。失礼ね)
そもそも、オーストリアの母が肖像画を盛ったせいだと、アントワネットは臍を噛む。
ウィーンからベルサイユに贈られた肖像画には、スピネットを弾く大人びた少女が描かれていた。身体つき──とくに胸元は豊満に誇張されていた。
母が盛ったのは肖像画だけではない。アントワネットの月のものが不規則であることも黙って送り出した。
結婚が成立しても、アントワネットの体格では出産に耐えきれないことは明白であった。
(ストラスブールでのことは、その報いなのかも)
回廊に飾られた絵画に魅入るふりをして、アントワネットは婚礼の旅を思い出した。
ライン川の中州に建てられた引き渡しの館でのことだ。
三つの部屋のうち、アントワネットはオーストリア側から中央の調印の間に入った。
国境の象徴として置かれたテーブルから、壁にかけられたタペストリーに視線を動かした瞬間、アントワネットは息をとめた。
(メディアとイアソンの結婚……)
オーストリアと永遠に決別するこの地で、アントワネットが正真正銘に独りになる瞬間を狙ったのだろう。
不吉な結末を暗示する図案は、十四歳の乙女の不安を煽るには十分だった。
もし、母の賢さを受け継いだ姉カロリーナであれば、オーストリアが有利になるよう交渉できたかもしれない。
しかし、ここにいるのはアントワネットだ。気づかないふりをして花のように微笑むことが精一杯だった。
すでに母国の随員はオーストリア側の控えの間に消え、アントワネットはフランス側の付添人に引き渡されていた。
その後のりこんだ馬車の同乗者はすべてフランス人で、タペストリーについて話題に出すことは憚られた。そして誰にも打ち明けられず今日に至る。
二 ベルサイユのしきたり
疑問に思っても、不幸になるだけ。幸い、アントワネットは天性の陽気さで国王一家とうちとけた。
──肝心の夫、オーギュストを除いて。
十五歳の王太子はもの静かで、おしゃべりも好きではないらしい。
祖父の国王から「そなたは余に似ず、女性の扱いが下手なようだ」と嘆かれても、苦笑のような諦めのような笑みを浮かべるのみ。
アントワネットが仲良くなろうとしても、彼に隙がないのだ。
午餐が終わってすぐに夫が立ち去ろうとするので、アントワネットは慌てて引き留めた。
「殿下、朝はありがとうございます」
機嫌良く、愛情深く。そう心のなかで唱えながらアントワネットはオーギュストに微笑みかけた。
オーギュストは冷めた表情のまま沈黙し、ゆっくり言葉を紡いだ。
「礼を言われるほどのことじゃあない。……僕は調べ物があるから」
(出た! 調べ物!)
最初の頃はこの常套句にすっかり騙されて引き下がっていたが、何度もひっかかるわけにはいかない。
夕方にはメルシー伯と会い、母への手紙を渡す約束をしている。そろそろ「祝賀続きでペンをとれず……」という言い訳は通用しない。
「わたくしも調べ物をしたいのです。殿下がよろしければご一緒しても?」
と切り返せば、オーギュストは眉根をひっそり寄せた。アントワネットはとびきりの笑顔を浮かべた。
十六人きょうだいで母の愛情を得るためにしのぎを削ってきた経験は伊達ではないつもりだ。
しかし、肝心の夫はまばたきを繰り返すのみ。アントワネットはめげずに微笑みかける。王太子夫妻は、しばし無言で見つめ合った。
「あ、おにいさま! おねえさま!」
奇妙な静寂を破ったのは、あどけない少女の声だった。
「エリザベートさま、ごきげんよう」
オーギュストの末妹は「ごきげんよう」と天使のような笑顔でアントワネットに返す。
「あのね、おそとであそびたいの。おねえさま、ワルツをおしえてくださいませ」
「まあ、楽しそう」
それは、たいそう魅力的な誘いだった。アントワネットは心をおどらせた。
庭の散策をしようものなら、ぞろぞろと貴婦人や女官がついてくるのでちっとも気分転換にならなくて困っていたのだ。
それに、オーギュストの方も外なら警戒心を解いてくれるかもしれない。
「殿下、ご一緒しませんか?」
アントワネットはエリザベートともに、弾けるような笑顔をオーギュストに向けた。
すると、オーギュストは黙り込む。先ほどよりも険がとれた様子に、アントワネットは嬉しくなった。
沈黙する兄に焦れて、エリザベートはあそんであそんでと兄の手を引く。やがて根負けして、オーギュストは表情を和らげた。
「今すぐは無理だよ。授業の休み時間でないと」
はじめて前向きな肯定をもらえたので、アントワネットは義妹と小さく歓声をあげた。
「いけません。殿下、妃殿下」
「……ヴァーギュイヨン」
王太子の傅育官は靴音荒くアントワネットとオーギュストの間に分け入った。
「殿下は法律とラテン語。妃殿下は音楽の授業が入っております。王女殿下、お二人はお勤めに励まねばならないのです」
いかつい老人に凄まれて、エリザベートは涙を浮かべた。アントワネットはエリザベートをドレスの陰に隠す。
「殿下も王女も、わたくしがお誘いしたのです」
「なるほど。しきたりに反する軽率なおふるまいは感心しませんな」
「……エリザベートさま、参りましょう」
アントワネットはエリザベートの手を引いて身を翻した。オーギュストは何か言いたそうにしていたが、すぐに黙ってしまう。
(どうして、ご自分の意見を仰らないの?)
ヴァーギュイヨンは反オーストリア派だ。陰ではアントワネットを「あのオーストリア女」と呼んでいることは承知している。
(殿下も同じ考えだから? オーストリアから来たわたくしを憎んでいるの?)
数年前まで戦をしていた敵国の姫を憎んでいるのであれば、アントワネットがいくら努力しても無駄だ。ヨーロッパの平和をかけた同盟は完遂しない。
オーストリア大公女がフランスに嫁いだのは、間違いだったのだろうか?
一体どうしたらいいのかわからない。アントワネットは途方にくれた。
結局、母への手紙は書けなかった。謁見室に訪れたメルシー伯は難しい顔つきでいた。
「妃殿下と王太子殿下とのご関係について、女帝陛下は大変心配なさっておられます」
「話してみようとは、しているのよ」
「存じております。女帝陛下には他にもご懸念がおありです。妃殿下の公式寵姫への態度でございます」
アントワネットは頭痛を覚えてこめかみを抑える。
「少し話すだけで叔母様方にとても叱られるの。お母さまはとりわけ第三王女アデライード殿下にならいなさいと仰った。それを守っているだけよ」
「その方々についてですが、女帝陛下は認識を改めるようにと」
マリア・テレジア曰く「フランス王家の人間は美徳を備えた立派な方々である一方で、人の手本となったり品位を保ったりする能力が欠けている」そうだ。
三人の叔母たちはアントワネットにとても親切にしてくれるが、まるっきり善良であるかと言われればそうでもない。
王女方は公妾への中傷に始まり、気に入らない人間の不埒な噂をアントワネットに言い聞かせるのだ。
毎朝彼女たちの部屋に訪問し、他人の悪口を聞かされる日々には正直辟易していた。かといって、母やメルシー伯の言い分を素直に受け入れるのには抵抗がある。
「でも、彼女たちを遠ざけることはできないわ。王太子殿下が大事になさっている方々だもの」
アントワネットはこの宮廷に味方が少ない。反オーストリアや信心派の陰謀が蠢くなかを、巧みにすり抜ける技など持っていない。
賢くもない自分は、誰かに手をとってもらわなければ生きていけない。その心細さをウィーンの母には想像できないのだろうか?
「妃殿下が身を慎んでお世継ぎをお産みになれば、解決いたします。一日も早く、王太子殿下とお心を通わすこと。それこそが妃殿下のお立場を安定させる道なのです」
と、メルシー伯は淡々と言って、深々とお辞儀をした。
(結局、お母さまのご命令が一番なのよね)
メルシー伯はオーストリアにとって最善の道をとせかすのが仕事だ。アントワネットに寄り添って悩みを聞く気はない。
胸の内が、すうっと冷えていくのを感じた。
(わたくし、本当にひとりぼっちなのね)
孤独感が膨れ上がり、心を蝕みあらゆる感覚が麻痺してしまう。
母の言いつけ。ベルサイユのしきたり。いわれのない中傷。背を向ける夫。
耳を覆って、目を閉じて、あの悪夢の闇のなかに隠れてしまいたい。
アントワネットはその日初めて晩餐を欠席した。
三 王太子妃の爆発
硝子窓の向こうに、ぽっかりと月が浮かんでいる。アントワネットは旧式のコルセットを脱ぎ捨て、夜着をまとって寝台に横たわっていた。
結局、晩餐だけでなくカード遊びも休んでしまった。
退屈嫌いのベルサイユ人たちはさぞかし王太子妃の話題で盛り上がっているだろう。そして密偵からそれを知った母は怒り狂うのだ。
たやすく想像ができてしまい、憂鬱になった。
「……王太子妃、入るよ」
と、遠慮がちに声をかけられる。アントワネットは長枕に顔をつっぷして応えなかった。
オーギュストは寝台の傍らに立ち、短く尋ねた。
「どうしたんだ」
簡潔な問いかけが、ひどく冷たく感じた。責められているような気分になり、アントワネットは唇を噛みしめる。
冷たい人ではない。国民の苦しみを我がことのように考える態度は立派だと思う。
その思いやりを少しでも向けて欲しい。けれど、こちらを見てくれない。
「殿下は、この結婚をどう思っていますの?」
背を向けたままアントワネットは尋ねた。
「どうって……」
と、はっきりしない返答のあと、重苦しい沈黙が落ちる。
アントワネットの苛立ちは頂点に達し、身の内で暴れ回っていた感情を抑えることができなかった。
ベッドサイドのクッションを掴んで、枕元の夫に投げつけた。狙いは大きくはずれ、クッションは床に転がる。オーギュストは驚いて目を丸くしていた。
『おやめなさい、トワネット。王太子殿下に愛されるよう、機嫌よくいなさい』
と、心のどこかで母が叫ぶ。けれどアントワネットは止まれなかった。
アントワネットの中で、積もり積もった憤懣がとうとう爆発したのだ。
「しきたり、決まり、ベルサイユ人! もううんざりです。毎日朝から晩まで沢山の人に監視されて、少しでも失敗しようものなら、朝には全ての人が知ってあざ笑う!」
震える両手を握りしめて、アントワネットはオーギュストを強く睨んだ。
「殿下、いっそはっきり言ってくださいな。──お前は友好の証という名の人質なのだ。妻として愛することはないと」
オーギュストの表情が、ふいにゆがんだ。
ぱたぱたと掛布の上に雫がおちる。夫の輪郭がぼやけて見えるのは、自分が泣いているからだ。
そう気付いた時、アントワネットは心の底から後悔した。裾が乱れるのもかまわずベッドから降りて、裸足のままドアに走り寄った。
背後で「王太子妃」と呼び止めようとする気配があったけれど、アントワネットは振り向かずに寝室を飛び出した。
その夜から寝室を別にするようになり、一週間後。
王家の狩猟場に向かう馬車の中で、アントワネットはアデライードに呆れられていた。
「それはあなた、せっかちというものよ。あの子の無口と優柔不断さは折り紙つきなんですからね」
「はい叔母さま。わたくしが愚かでした」
アントワネットはうな垂れるしかなかった。
かんしゃくを起こし、ひどい言葉をぶつけた妻に対し、オーギュストは何かを言おうとしてくれていた。結局アントワネットが逃げ出したので、二人は全く会話をしなくなった。
「殿下に会って謝らなくては……」
「だから連れ出してあげたのよ。ホホ、狩猟場に行くといった時のメルシー伯のお顔ときたら」
と、アデライードは扇をかざして高らかに笑う。
絶対に馬に乗らないこと、という条件付きでメルシー伯はアントワネットを送り出した。
オーギュストが狩りに行くことが増え、宮廷内で王太子夫妻が揃うことも難しくなり、宮廷中から不仲を疑われたからだ。
「王太子妃。馬に乗らずにいる、というのは難しいわよ」
「え?」
いつの間にか馬車は止まっていた。窓の向こうに広がる森に扇を向けて、アデライードは続ける。
「王太子は馬に乗って姿をくらますのが得意なの。わたしたちが向かっていることは伏せているけれど、馬に乗って追いかけた方が確実よ。なにより、ブルボン王家の嫁たるもの乗馬もこなせなくては」
真っ赤な紅を穿いた唇が弧を描く。アントワネットは、狩猟服を見下ろした。
オーストリアの母は、乗馬をかたく禁じていた。メルシー伯もそれで条件を出してきたのだ。叔母は「そんなことさせやしませんよ」とメルシー伯に嘯いたことになる。
けれど、アントワネットは藁にもすがる思いだった。夫と話したいという気持ちに急かされて、馬車を降りる。
先に到着していたヴァーギュイヨンがすすめる馬に乗ることにも疑問を抱かなかった。
「あの、王太子殿下はどちらかしら?」
初めて乗る馬にどきどきしながら、アントワネットは尋ねた。手綱を引く御者がいるとはいえ、馬はかなり大きく、落ち着かない様子で鐙を噛んでいた。
「すぐ近くに──妃殿下! いけません!」
何が? と問い返す前に、アントワネットを乗せた馬が高く鳴いた。
あろうことか、馬が手綱を振り切って走り出してしまったのだ。
思わずたてがみを強く掴むと、馬は少女を振り落とさんばかりの荒々しさで駆けていく。
(いや、怖い)
死んでしまう。そう思ったとき、目蓋の裏に浮かんだのは背の高い少年の姿だった。
謝れず、まともに話もできず、自分は死ぬのだろうか。アントワネットは歯をくいしめた。
死にたくないと思う一方で、馬にすがる腕からどんどん力が抜けていく。
(ただ、笑い返して欲しかったの。貴方を知りたかったの)
「アントワネット!」
名前を呼ばれる。二の腕を掴まれたと思ったら、腰を強く引き寄せられた。
ふわりと身体が浮き上がり、誰かがアントワネットをしっかり抱える。たちまち体勢が安定したので、アントワネットは目を開けた。
「でん、か……?」
オーギュストだった。オーギュストは、片手で手綱を巧みに操り駆け続ける。王太子の愛馬は木立のなかを抜け、ゆっくりと速度を落とし、やがて止まった
エートゥルの木の下で、オーギュストはアントワネットを下ろして細い肩を強く掴んだ。
「どこか痛むところは? 乗馬は女大公に禁じられていただろう、なぜ……」
ひっく。小さくしゃくりあげる声が聞こえて、オーギュストは息を飲んだ。
「ごめ、なさ……」
灰青の瞳から、とめどなく涙が溢れる。アントワネットは泣きじゃくりながら謝った。
ごめんなさい。ひどいことを言って。軽率なふるまいをして。
どれも涙と混ざり合い、ちゃんと言葉にならない。
「アントワネット、これを」
オーギュストは慌てた様子でハンカチーフを差し出してきた。アントワネットはそれに顔をうずめる。ミントの香りがほのかにかおった。
ようやく視界がはっきりしてから驚いた。ハンカチは、かわいらしい鈴蘭の刺繍が入った正方形だったのだ。
「……これ……」
「ごめん。いろいろと謝ろうと思って、その」
彼がしどろもどろに話す様子が珍しくて、アントワネットはつい見つめてしまう。
「君は、正方形をいつも使っているから好みなのだろうと思った。パリの雑貨屋で買ったものだから、高価なものではないけれど……」
見ていてくれた。アントワネットは喜びで胸が熱くなった。
「殿下がお選びになりましたの?」
と、泣き笑いで尋ねたら、夫は顔を真っ赤にして俯く。侍従に買いに行かせたのだろうと思っていたので、アントワネットは驚きで涙がとまってしまった。
少女が好む柄のハンカチを真剣に選ぶ夫の姿を想像したら、たまらなく幸福な気持ちになった。
「この前はごめん。僕はこの結婚に心がついていかなくて。大人たちの冷やかしにもうんざりしていた。君が心細い立場だと気付いているのにひどい態度をとった」
オーギュストはゆっくりと息を吐いた。
「僕は口も上手くないし流行に疎いから、君を楽しませる自信がないんだ。アントワネットのことを知りたいと思っているのに」
「殿下はお話がとても上手ですわ」
アントワネットはうなだれる夫の手をそっと握った。
「ちゃんと、わたくしに分かるように伝えてくださいますもの。ベルサイユの人たちはまくしたてるばかりで……、ごめんなさい」
「どうして謝るの?」
「わたくし、こうやって思ったことをすぐに言ってしまうんです。母からも、迂闊だと叱られます。ベルサイユのことを悪く言うつもりはないのです」
すると、オーギュストが小さく吹き出して笑いだす。それは、アントワネットがはじめて見る、少年らしい屈託のない笑顔だった。
「ああ、久しぶりに笑った。アントワネットといると清々しい」
と、オーギュストがはにかんだ。アントワネットも頬を赤らめながら微笑んだ。
「こんなわたくしですから、気取りがない殿下がぴったりなのだと思います」
重ね合った手のひらに、ほんの少し力を込める。すると、同じぐらいの力で握りかえされる。それに励まされて、アントワネットは零れるような笑顔で続けた。
「わたくし、楽しいことを見つけるのは得意です。でも、お道化がすぎるといけないので、殿下はお隣にいてください。そうしたら、わたくしずっと笑っていられましてよ」
四 母への手紙
オーギュストが図書室に現れると、ヴァーギュイヨンは走り寄った。
「殿下にお怪我がなく、安堵いたしました」
「そうか」
いつも通り淡々と話す王太子の姿に、傅育官は胸をなでおろした。
「もし怪我をしたのが王太子妃であれば」
ぎくりと傅育官の肩が強張る。目の前の少年は、冷え切った眼で彼を見下ろしていた。
「僕はそなたを極刑にしていた。権力の使い道を間違わずに済んでなによりだ」
背ばかりが高い、頼りない少年はどこへいったのか。傅育官は不快感をあらわに言った。
「何を根拠におっしゃるのです」
「叔母上が乗馬を唆したついでに気性の荒い馬をあてがっただろう」
「何をおっしゃいます。私は御者が選んだ馬を連れてきたにすぎません」
「オーストリアに不信感を持つ貴族たちは、僕たちの完全な結婚を望んでいない。それは承知している」
オーギュストは窓辺に歩み寄る。庭でアントワネットとエリザベートがワルツを踊っているのが見えた。桟にのせた手のひらに力がこもる。
「今朝の議会で、国王陛下はこう宣言した。フランスの望みはオーストリアとの友好だと。ゆえに、僕からもはっきり言っておく」
オーギュストの青い瞳には、怒りがあった。
「彼女に対するあらゆる侮辱は、すべて僕への侮辱と見做す。今後一切、僕の妻に関わるな」
傅育官は長い沈黙のすえ「御意」と応えた。
※※※
アントワネットの手紙は、ブリュッセルを経てウィーン・皇宮へ届いた。
マリア・テレジアは手紙を持ち、皇帝の間に向かった。執務机で手紙を開いてテレジアは苦笑をもらした。
手紙の端に『今回からは私も失礼します。オーギュスト』という一文を見つけたからだ。
随分読みやすいとおもったら、王太子が娘の文法を直してくれたようだ。
どうやら夫婦仲については、大きく前進したらしい。テレジアは椅子からゆっくり立ち上がる。
「フランツ、私たちの可愛いトワネットと賢い婿君を、どうか見守ってあげてね」
と、女公は亡き夫の肖像画に微笑みかけた。
この作品はWebマガジンCobalt企画【第216回短編小説新人賞】にて「もう一歩の作品」として選んで頂きました。
【参考文献】
『ルイ十六世』上・下
ジャン=クリスチャン・プティフス
小倉孝誠/監修 玉田敦子・橋本順一・坂口哲啓・真部清孝/訳 中央公論社 2008年
『ルイ十六世幽囚記』
クレリー他/著 ジャック・ブロス/編 吉田春美/訳 福武書店 1989年
『マリー・アントワネットとマリア・テレジア 秘密の往復書簡』
パウル・クリストフ/編 藤川芳朗/訳 岩波書店 2002年
『ヨーロッパ史入門 アンシャン・レジーム』
ウィリアム・ドイル/著 福井憲彦/訳 岩波書店 2004年