01 或る夕暮れ
太陽は地平線に向かって緩やかに落ちていく。街は夕焼けを迎えるために、少しばかりの哀愁と静けさを用意している。人々は、他愛も無い話をしながら、様々な方向を目指す。帰路に着く者もいれば、また今から出かける者もいる。遠くの方で豆腐屋の笛が鳴った。それは、高音だが決して鋭くなく、特有の懐かしさを保ったまま街を抜けていく。
アグリは、小さな八百屋で、包装されていないかぼちゃとスイカを買った。店は狭く、レジも無い。50程度で頭を短かく刈り込んだ男が計算機を打ち、値段を言う。決められた値段は無く、サービスでキュウリも入れてくれた。一つひとつの野菜は手際よく新聞紙にくるまれていく。
「いつもいるお爺さんは?」
アグリは財布から小銭を抜き取り、傷の多いベニヤ板の上に置いた。
「爺さんなら、1週間も前に死んじまったよ。脳梗塞でな。突然死だった」
男は奥にあるコンテナ型の保冷機からセロリを取り出して、また新聞紙で包んだ。セロリは毛布にくるまれた動物のように、とても安らかに見えた。
「爺さんが仲良くしてた客がいてな。その子の分ってたくさん仕入れてたんだけど、今じゃ余って仕方がないんだよ。腐っても勿体無いし。セロリ、嫌いか」
「いえ、ありがとうございます」
アグリは礼を言うと、二つに分かれたビニール袋を片手に通し、店を出た。
店を出ると信号が点滅していた。自転車に乗った母親と娘が急いで信号を渡る。ほどなくして信号は赤になり、大型トラックや普通車が忙しそうに動き始めた。
豆腐屋の笛は、まだ遠くの方から聞こえている。
門扉は金属製で開けるとこすれあい、金属が鋭い音を立てた。アグリはポケットから飾り気のない鍵を取り出すと、鍵穴に入れて何度か回した。このところ、鍵穴がすっかり錆びてしまって一度では上手く開かないのだ。
玄関には黒い革靴と、スニーカーが2足並べられている。彼は靴を脱ぐと、それを丁寧に並べ、廊下を真っ直ぐに歩いた。床が傷んでいるせいかときどきキイキイと軋んで音を立てる。8歩ほど歩いたところで、左手にある引き戸を開け、部屋に入った。
部屋の奥には大きな仏壇がある。誰に向けられたものでもない。
彼は買ってきた野菜を台所へと持って行き、シンクの下にある包丁を取り出した。刃こぼれが目立つので、水をつけ、静かに砥いだ。砥石は包丁の刃を優しく撫でるように、小さな音を立てた。それが終わると、もう一度、包丁を水で洗い、かぼちゃに刃をあてる。堅い皮の部分に力を入れて、かぼちゃを4分の1に切ると、次いでスイカを8分の1に切った。それからキュウリ、セロリと一緒に皿に盛りつける。彼はそれを持って部屋に戻ると、仏壇に供え、手を合わせた。
仏壇は質素ではあるが、金箔が貼られ、僅かな追悼の念がこめられている。彼は仏壇の右端に置かれた小さな小箱から黒いメモと、ペンを取り出した。ペン先は万年筆のように湾曲しており、それと類似するようにふくよかなラインを描いた胴体部がつややかに光る。
−住澤幸彦 享年71歳 病死−
アグリの字はとても綺麗だった。まるで印でも付けられているように、的確な場所で線は折れ、曲線は星の緒のようにしなやかで優美であった。なにより文字を書いている彼は美しかく、慈しみを文字に吹き込むように、丁寧にしたためるのである。彼より美しい字を書く者がいたとしても、彼より美しく文字を書く者はいないだろう。
彼はこの作業を15年間毎日続けている。そして彼の中で決められた一定のルールに従って、全ての挙動は美しいままに継続されるのだ。続いて彼は、引き出しに入れられた薄いトレーシングペーパーのような白紙を畳の上に置いた。紙にはわずかではあるが、特有の模様がある。しかしそこには微塵の意味もない。ただ幾何学的な模様であり、彼の好みに過ぎないのだ。
窓を開けていないため、部屋はとても蒸し暑い状態になっている。アグリは喉の渇きを覚えたが、気にせずに次の工程に移った。姿勢を正し、真っ直ぐに右手を前に突き出した。手は堅く結ばれており、ちょうど正拳突きのような格好になっている。暫くすると、彼は拳をゆっくりと開き、中から黒い砂をこぼした。大さじ1杯分ほどの砂は、大人しく白紙の上に落ち、それは奇妙なことに文字となった。
−山本幸助 享年47歳 事故死−
−中島雄一 享年78歳 病死−
−倉野裕子 享年63歳 病死−
アグリは砂が落ちないよう丁寧に紙を折り、正座している膝横に置いた。一度、深呼吸を挟み、線香に火をつける。線香は赤く染まり、すぐに彼の手によって消された。中段に置かれた小さな壷に線香を刺すと、頼りなくではあるが、白い煙が上に運ばれる。彼は先ほど砂を落とした紙と、黒いノートをその煙にあて、しばらく目を閉じた。
部屋の外からは蝉の声が聞こえる。額のあたりから汗が流れ落ちてきた。アグリはゆっくりと目を開き、
「聞こえましたか」
と小さく唇を動かした。煙は一度だけ大きく揺れ動き、そしてまた元のように頼りないものに戻る。これら一連の行動は儀式的であり、その所作は舞踊に近い優美なものであった。
彼はすぐに家中の窓を開けると、大きく深呼吸をした。