『ユタのゆっくり進(すす)む知恵(ちえ)』 「ケーネの水面(みなも)に揺(ゆ)れる地図(ちず) 1」
ある村に、ユタという少年が住んでいました。お父さんとお母さんは、今よその街に出稼ぎに行っていていません。大人に混じって、村の仕事の手伝いをしながら毎日を過ごしていました。
ユタには、同じくお父さんとお母さんが出稼ぎに出ている、ワリアという男の子の友達がいました。ワリアは、後ろ髪を一本に束ねて、ピンと上に立てて、いつも綺麗に整えた白い服を着ていました。
村の神殿には、兄弟仲の悪いことで有名な二人の神官が住んでいて、どちらの背が高いかでずっといがみ合っていました。「俺の方が背が高い」「いや、俺の方が背が高い」と言って、お互いに一歩も譲りません。
というのも、その村の森の奥には様々な宝物を集めた宝物庫があって、兄弟のうち、背の高いほうがそれを受け継ぐことになっていたからです。
村では年に一度、収穫祭の日に、神殿の前でお祭りが開かれます。お祭りには、近くの町から沢山のお店が来て、とても賑やかです。
少年ユタは、久しぶりのお祭りに浮かれていました。友達のワリアと共に、色んな出し物の中をわあわあ駆け抜けていきます。
ひとしきり騒いで疲れた後、二人が大賑わいの人混みを抜けて森の方に向かってみると、村の宝物庫が見えてきました。
宝物庫の扉は、どうしてだか開いていて、あたりには誰もおらず、ひっそりとしています。
二人が思い切って宝物庫に入ってしまうと、中には様々な神様を祀ったきらびやかな祭壇や、神聖な祠が並んでいました。
その中に、一つのお宮がありました。お宮には、二匹の龍がもつれたレリーフが彫られていて、その下に、碧く澄んだ小ぶりの水晶玉が一つだけ置いてありました。二人は世界でこんなに美しいものを見たことがありません。
「何て綺麗な水晶玉だろう、ワリア」
「ああ、僕、こんなに綺麗なものを、今まで見たことがないや」
ユタの方は、つい手を伸ばして、その水晶玉に触れてしまいました。すると、神殿の空気がにわかにざわめき、ユタはある呪いを受けてしまったのです。
ユタは、人と比べてゆっくりとしか動けなくなってしまいました。懸命に速く体を動かそうとするのですが、それがどうしてもできないのです。
ワリアに肩を支えられて、ユタはなんとか村の表通りに戻ってきました。収穫祭はちょうど佳境を迎えて、たくさんの色で飾られた山車をひいたパレードが通り過ぎていきます。ユタは陽気な音楽の調べの中、とうとう気を失ってしまいました。
それからユタは、村のやっかい者として扱われるようになりました。それまでは、人並みに大人たちを手伝える働き者だったのですが、水晶玉に触れてから、その仕事がてんでできなくなってしまったからです。
「なまけもの。お前は本当にやる気があるのか。罰あたりめ。あの宝物庫にあるものはみんな、お前たちが触れてはならないものだったんだぞ」
ユタは嘆き悲しみました。「どうして、僕はあの水晶玉に触れてしまったんだろう。あんなに綺麗な宝物に見えたのに、こんなにひどい罰を僕に授けるなんて、なんてひどいことをしてくれたんだ。僕もみんなと同じように働けるようになりたい。こんな様子では、村の中に居場所がない」
ユタがそういって泣いていると、村のおばあさんがやって来て言いました。
「ここから、遠く北に向かった所に、エゾナという町がある。そこに住む、ケーネという名前の女の子に会いにおゆき。この世界にはね、私達がまだ、その理由を窺い知ることのできない、たくさんの出来事がある。お前の呪いも、その一つだろう。その女の子は、お前が受けたような呪いを癒やす、何か特別な力を持っていると聞く。お前が触った水晶玉を、その子に届けて、話を聞いてもらうんだ。あれはもう、お前さんにしか触ることができないのだから」
ユタは、おばあさんに尋ねました。「それで僕の呪いは解けるのですか?」
おばあさん「なんとも言えない。だが、これは水晶玉に触れたお前への罰だ。あれは確かに、人間が触れてはいけない尊いものだったのだから」
ユタは、「それでも、僕はきっとこの水晶玉をケーネの元に持っていきます。そして聞きます。僕が何をすればいいのかを」と、おばあさんに固く約束しました。
ユタは旅支度を始めました。といっても、ゆっくりとしか動けないものですから、普通の人なら半日ほどで用意できるところを、三日がかりで準備する必要がありました。
ユタが荷造りしていると、友人のワリアが家に来て、こんな風に言いました。
「ユタ。悪いことをした。君が水晶玉に触れるのを、僕が止めてやれば良かったのに」
ユタは首を振って言いました。
「いいや、たとえ君が言っても、僕はこの水晶玉に触れることを止めることはできなかった。だって、こんなにも美しい宝物なんだもの」
小さな水晶玉は、確かに、ユタの手の中で澄んだ輝きを放っていました。
ユタは北に向かって旅立ちました。ゆっくり、ゆっくりとしか歩くことができないものですから、人の何倍も時間がかかります。普通の人が一日かけて進むところを、三日ほどもかけて、ようやく進めるのです。
最初の三日目。ユタはひどい吹雪に遭いました。体が芯まで凍え、思うように先へ進めません。旅支度で準備していたムシロにくるまり、洞窟の中で火をおこし、暖をとりながら、焚き火の側で休むしかありませんでした。
二番目の三日目。ユタはひどい嵐に遭いました。強い風で色々なものがこちらに向かって飛んできます。ユタは木の葉のようにくるくると、あっちに吹き飛ばされ、こっちに吹き寄せられ、くたくたになってしまいました。
風鳴りの音も低く低く轟いています。ユタは耳をふさいで、風の音をなるべく聞かないようにしました。
三番目の三日目。ユタは強い眠気に襲われました。ユタはいつにもまして、ゆっくりとしか動けなくなってしまいました。
その日の夜、ユタは夢を見ました。ユタの住んでいる村の子どもたちがたくさん出てきて、ユタを励ましてくれるのです。
「ユタにいちゃん、いつも村のために働いてくれてありがとう。大丈夫。お兄ちゃんはきっとエゾナの町にたどり着けるよ」
ユタの胸は、感謝で一杯に満たされました。
四番目の三日目。ユタは森で、人の言葉を話す狼に声をかけられました。
「お前のいた村へお帰り。お前ののろまさも、村人はじき慣れてしまうだろう。それに、これ以上先に進むというのなら、俺はお前を食っちまうかもしれないよ」
ユタは答えました。「私の持ってきた食料を少し分けてあげよう。だから、どうか先へ進ませておくれ」
狼は食料を口にくわえて、黙ってどこかへ去って行きました。
五番目の三日目。ユタは不思議な形の風車に出会いました。北風に吹かれて、キュルキュルと音を立て、紺色の羽根が回っています。
ユタがその風車に入ると、一人のおじいさんがいて、ユタにこんなことを語りかけてきました。
「少し、私の話し相手になってくれないか。お前さんは、見たところ旅の途中で、手持ちの食料も、もう、無くなってしまいそうじゃないか。ホラ、ここに獣の干し肉がある。少し食べて行きなさい」
けれど、ユタは言いました。
「ありがとう、おじいさん。おじいさんの親切な気持ちに応えるには、言葉に言い表そうとしても言い尽くせないくらいです。けれど、僕は狼に命を助けて貰ったことがあるのです。その干し肉に口をつけることはできません」
おじいさんは言いました。
「では、少しの間でいい。何か話をさせておくれ。私は寂しい風車守で、ここには長く人が訪れることもない。私は話に飢えているんだよ」
ユタはいいました。「おじいさん、そんなことを言うと、風が悲しみます。この風の音は、あなたのお友達の一人ではないのですか」
おじいさんは「風に私の心がわかるだろうか」と悲しそうに呟きました。
ユタは突然気づいて、「この変わった風車は、一体、何をしているのですか」と聞き返しました。
おじいさんは「風車の力で小麦をひいているんだよ」と言い、「では、この風車でひいた小麦からできたパンを食べて行きなさい。これなら、君にも食べられる」と言いました。
ユタは、おじいさんから小麦のパンを少し頂き、それを食べながら楽しくおしゃべりしました。
六番目の三日目。つまり、風車を後にしてから三日後に、ついにユタの食糧は全て尽きてしまいました。お腹がすいて、お腹がすいて、ユタはもう一歩も前に進むことができません。
その時、四番目の三日目に会った、人の言葉を話す狼が現れました。
「ユタだな。今度こそ帰る気になったか。お前を食い殺すのは簡単だ。だが、お前は以前、俺に食いものを分けてくれた。けれど、ここでもう帰りなさい。エゾナに住む、そのケーネという娘ですら、お前の願いを叶えることはできないだろう」
ユタは答えました。
「けれど、僕はこの水晶玉を、北の町のケーネに届けると、村のおばあさんに約束したのです。約束は果たさなければなりません」
狼は言いました。「約束は確かに大切なものだ。だが、お前はこのままでは先に進むことができないぞ。俺もお前も、もう食べるものを何も持っていない」
ユタは毅然として、こう答えました。「僕と君で、このあたりで何か食べられるものを探そう」
狼はせせら笑いました。「お前ののろまさで、捕まえられる獲物などあるものか」
ユタは、ムキになって答えました。「僕は、確かにのろまだ。だが僕には、ゆっくりとものを考えることのできる知恵がある。僕の一番のろまな知恵と、誰よりも早く正確に、物の匂いを嗅ぎ分けられる君の鼻で、きっと食べ物を見付けられる」
狼はガッハッハと笑うと、「面白い。いいだろう。そのゆっくり進む知恵とやらと、俺の持っている、どの獣よりもよく効く鼻で、何か食べ物が見つけることが出来るか、やってみようじゃないか」
七番目の三日目になりました。ユタには良い考えが何も浮かびません。ユタも狼も、お腹がキュウキュウ鳴っています。
天の雲からは、沢山の雪が降ってきて積もり、ユタと狼は洞窟の中で、その溶けた水を飲み、命を長らえていました。
洞窟の外に、しんしんと積もる雪を見ながら、ユタは考えました。
「もうすぐ、春になるだろう。樹木の根元には、春の息吹の木の芽があるんじゃないだろうか」
狼は鼻をきかせ、雪に埋もれた木々の根元を、長いことかき分け続けました。
狼が、洞窟の近くに生えている木を全て調べ終えると、最後の一本の根元に、木の芽が一つ、生えているのが見つかりました。
ユタ「ああ、ようやくあった。木の芽だ。これで僕たちは生き延びることができる」
狼は、少し悲しそうに首を振って言いました。「いや、俺は肉以外のものを食べることができないんだ。どの道ここで終わりの命だ」
ユタは、狼を抱きしめて言いました。「そんなことは無い。この木の芽をお食べ。君はこれを食べて命を長らえることができる」
そうして、木の芽を二つに分け、自分と狼の二人で分けて食べたのです。
すると、狼は一人の若者に姿を変えました。狼は、ある魔女に魔法で姿を変えられていた、オキという若者だったのです。
オキの話によると、東には美しい魔女が住んでいて、彼は彼女の魔法で狼に姿を変えられていたということでした。
ユタとオキは友達になりました。オキは「一緒に、そのエゾナという町へ行こう。もう、俺の足で一日ばかり、君の足で三日ばかりだ」
八番目の三日目。ユタとオキは、とうとうエゾナの町にたどり着きました。その町には、呪いごとのできる人がたくさん住んでいて、それはみんな女の人でした。
この町には、毎日、神秘的な問題が持ち寄られ、巫女となった女の人たちが、その神意を読み解いていました。
ユタとオキは、ケーネという名前の女の子に会うため、エゾナの町中を探しました。
ケーネは、町外れの一軒家に、父親と二人で暮らしていました。
二人が、その家にたどり着いたのは夜だったので、ケーネはもう眠っていました。そのため、ユタとオキは、翌朝までその家に泊めてもらうことになりました。
次の日の朝、ユタはケーネに、宝物庫で手を触れてしまった、あの水晶玉を荷物から取り出し、これまでのいきさつを話しました。
ケーネは、ふんふん、とユタの話に耳を傾けています。少し口元がほころんでいるようにも見えました。
するとケーネは、頭に巻いていた若草色のスカーフを解いて、その水晶玉を綺麗に全部くるみ込みました。
そして、優しくふっと息を吹きかけました。
ケーネがスカーフの包みを解いて広げると、そこには一枚の地図のようなものが現れ、あの青い水晶玉はどこかに消えてしまっていました。
ケーネは言いました。「これが、あなたの本当の神託。あなたが触れたものは確かに尊いものだったけれど、呪いじゃ無いわ。あなたの時間が遅くなってしまったのは、ここに来るためよ。この町では、あなたと同じで、時間がゆっくり進んでいるの。しばらくここで休んで、旅の疲れを癒しなさい。そしてそれから、これからのことをじっくり考えればいいのよ」
その晩も、ユタはケーネの家に泊めてもらいました。
翌朝、目を覚まして、ユタはケーネの父親と一緒に朝ご飯を食べました。ユタは、出稼ぎに行っている本当の両親に会いたいと思いました。
ケーネは言いました。「昨日、水晶玉から姿を変えた、この地図の中には、とっても深い湖ができていてね。その湖は、お宮にいた二匹の龍が守ってくれているから、逆さにしてもこぼれないし、火を付けても燃えないし、とっても丈夫だから破れたりしないの」
そう言って、ユタにその地図を渡しました。
「そして、その湖の水面は、いつもゆらゆら揺れてるの。そこに、これからあなたが進みたい未来の姿が、いつでも、どんな風にでも、少しずつ映し出されてくるのよ」
ユタは驚いて言いました。「いつでも、どんな風にでも?」
ケーネ「そう、いつでも、どんな風にでも。でも、もう、あなたはゆっくりとしか先へ進めないの。だから、この湖に映し出される地図には、そこにたどり着くための、道標も、通り道も、そして本当の本当の目的地も、ゆっくりとしか見えてこないの。それでも待てる?」
ユタは、ずっとずっと考え込んでしまいました。自分が、地図の中身が見えてくるまでの時間を、待つことができるのか、できないのか、自信が持てなかったからです。
でも、すこし考えてから、こんな風に言いました。
「僕は、もう、ゆっくりとしか動けない。けれど、この、ケーネがくれた水面に揺れる地図のおかげで、これから色々なことを学んでいけると思う。たとえ、ゆっくりとしか動けないとしても、僕は僕なりのペースで、目的の方向へ向かって、少しずつ進んでいこうと思うんだ。それでいいんだろうか?」
ケーネは、とても可愛い笑顔で答えました。「いいわね。そんな答えを待っていたわ」
そして、ケーネがくれた水面に映る地図なのですが、不思議なことがあります。その地図では、今いる場所と目的地とが、近くなったり、遠くなったり、変幻自在に変わるのです。
ユタのいる村も、ケーネのいる町も、その距離は何度も変わります。遠くなったり、近くなったり。地図に付いている日時計の時間の進みも変わっていきます。速くなったり、遅くなったり。
そして、ケーネにもらったこの地図は、お宮にいた二匹の龍神様のおかげで、火を付けても燃えないし、丈夫だから破れないし、その湖は逆さにしてもこぼれません。
ユタは、今日もケーネに貰ったこの地図を頼りに、故郷の村とエゾナの町を行き来しながら、目的地に向けた旅を、ユタ自身の速さで続けている、と聞きます。
これは、狼に姿を変えられていた青年、オキに聞いたお話です。(おしまい)
(2021-02-09 1914版)