雨の夜に
なんでもよかった。誰かが歌った歌の歌詞、映画でよく聞くありふれた台詞。どれでも、私を表現してくれるのならば
すっかり暗くなった窓の外から雨の音だけが響いてくる。昼はあんなに暑かったのに夜は冷たい風が外から流れ、私の体は少しだけ冷えてしまった。
今頃日本は朝、みんなせわしなく起きて出勤する頃だろう。
決まってそんなことを考えている時はあの人のことが頭によぎる。
今頃カフェでタバコをふかしながら、資料に向かっているのだろうか。
18歳も違う彼が好きだった。尊敬していた。彼の好きなワインが好きだった。ワインの話を一緒にできることが私の幸せだった。しかし、20歳になったばかりの新卒がその人と同じ世界を同じ場所で見ることは叶わなかった。新しい土地で、もっと世界を広げなければいけなかった。1年わずかだったが、彼の元を離れることを決めた。
「昔好きだったんだよね。ロマン溢れるそこのワインが。」
モデルのようなスラっとした足を組み替えて、よく彼が言っていた言葉。
彼が仕事終わりに、疲れた顔で飲んでいたエスプレッソの香りがふわっと入ってきたような気がした。
今、目の前には資料だけではわからなかった世界が広がっている。
手にとって感じられる新しい世界。そのワクワク感が私をさらに新しい世界へと連れていく。
あなたにも見せてあげたいと思うけれど、それはまた先の未来で。
きっとどんな愛の歌も台詞も表現できない。あなたから遠いこの場所で必死に勉強することだけが、彼への告白。
彼を知ることと、ワインを知ることが同義のように感じながら今日も机に向かう。
今できることを精一杯するのだ。
いつか隣を自信を持って歩けるように。
ジャスミンが香るこの場所で。
ご覧いただきありがとうございます。
この小説ですが、現実世界の話としては30秒、1分くらいの刹那のお話です。きっと、皆様がこの短編小説を読むくらいの時間ではないのでしょうか。大人になることへの純粋な憧れ、期待。どんな形であれそれは誰にでもあったことだと思います。彼女はまた彼に成長した姿で会えるのか、それはわかりません。ですが小さな憧れを憧れだけにせず進み始めた彼女の姿をふとした場面で思い出していただけたらと思います。