7.道三と戦国武将2 「畠山義綱」
永禄9(1566)年に領地を追放されるなど、従来、暗君のイメージでとらえられることの多かった武将、畠山義綱ですが、彼もまた道三と親好の深かった1人です。
義綱は代々文芸に深く関心をもつ家柄に生まれ、また病弱であったため、追放後は熱心に医学を勉強したようです。それは単なる道楽ではなく、当時既に第一級の人物であった曲直瀬道三に医学の秘伝を学ぶほど力をいれたもので、道三から免許皆伝ともいうべき医道奥義相伝書を得たとも言われており、学問においては才能を発揮した人物であるようです。
やがて彼は積極的に足利義昭・織田信長に接近し、能登奪回を支援してもらおうと画策します。その際には道三が義綱のために信長と提携するように奔走したようです。
しかし、こうした交渉はあまりうまく運ばず、上杉輝虎を味方につけたものの、上杉軍は直前になって撤退してしまいます。そのため義綱は単独で能登に侵攻し、序盤戦は連戦連勝で能登の拠点の大半を抑えるに至りましたが、その後、松波畠山家を加えた義慶軍が反撃を開始すると次々と兵が離反していき、結果的に義綱は敗れてしまいます。