6.道三と戦国武将1 「毛利元就」
弱小の国人領主に過ぎなかった毛利家の当主、毛利元就は当時着実に中国地方で勢力を拡大しており、仇敵である尼子家を滅ぼさんと出雲への侵攻を開始していました。
永禄6年(1563)、元就は荒隈城を拠点に、難攻不落の名城と謳われた月山富田城に籠城する尼子義久を包囲。兵糧攻めに持ち込んでいました。これは過去の戦訓を活かして無理な攻城を避けたためと言われており、兵士の降伏を許さず、投降した兵もことごとく殺されるという厳しい包囲網でした。しかし、高齢の元就の健康が優れず、慎重に持久戦法をとるしかないという事情も指摘されています。陣を張っていた荒隈城にて病に倒れ、一時は危篤状態に陥っていたのです。
しかし、当時の中国地方の医療体制は遅れており、これに慌てた元就の次男、吉川元春らは将軍足利義輝に医師の派遣を要請します。ここで派遣されたのが、既に御典医となっており名医の評判の高かった道三と彼の門弟たちです。
道三の治療の甲斐あって大病を克服、再び出陣して指揮をとることで、毛利はついに尼子をうち破って中国統一を成し遂げたのです。
このとき、当代きっての名医であると同時に知識人でもあった道三は、元就に病の治療を施しただけではなく、文学談で元就を大いに慰めもしましたが、一方で富田城に篭城している兵の惨状を知った道三は、元就に対して籠城している人々を「寛宥慈憐」の情をもって全て「放免」するよう厳しく諌めたというのです。
そして、このときの陣中で門弟たちを相手に語った療法や処方一覧をまとめ、『雲陣夜話』として残しています。
その後も元就と道三の交友は続き、道三が養生法から人生訓まで教授したり、書物を贈ったりしたということですが、元就の体調も一時回復し、永禄10年(1567年)には才菊丸が毛利家の末息子として誕生しています。
永禄9年(1566) 出雲白方の陣中に赴き、毛利元就の治療にあたる。
永禄10年(1567) 上洛した元就の求めに応じて「九規」を記して授ける。