5.啓廸集の編纂
道三の知識や人柄は細川晴元、三好修理、松永弾正ら幕府重臣も認めるところとなり、京の都に足場を固めた道三は、人々の治療にあたると同時に医学書の編纂や医塾を開設するなど、李朱医学普及のために精力的に活動を開始します。
医塾では、実用医学の解説書である『玉機微義』を中心に、李朱医学に限らず古今内外医書の閲覧調査にも心血を注ぎ、それを道三らが講述していましたが、それを基礎として医学全書を編纂しようというのです。
李朱医法を中心にさまざまな症状の治療法を抜粋して簡潔に表式化し、それに自己の経験を加えて集成した「啓迪集」全8巻が完成したのは、啓迪院の創立からおよそ30年が経過した天正2年(1574)、道三が63歳の春のことでした。
しかし、医学全書を刊行したところで、それが多くの人々に読まれなくては意味がありません。なんらかの手段を講じる必要がありました。
同年11月17日、道三はその書写本を正親町天皇に献上しました。これは大いに賞賛され、それまで「わずかなる夢の世に、日夜さわかしく心を尽し、形をくるしむる吾身のにくさに如比ざれことくに自ら付申也」という意味から雖知苦斎と名乗っていた号が「天下万民を救う医業に苦の字があるのは好ましくない」として同音の「翠竹院」の名号が与えられました。
これはたいへん名誉なことでしたが、何よりも大事なことは、この本が天皇の推奨を得たという事実でした。この書には天皇の勅命で策彦周良という僧による推薦の序が書かれ、全国の医家に頒布されることになったのです。
この「啓廸集」の冒頭、80項目にわたって列挙された注意事項に、道三の医学者としての姿勢を見ることができます。
その中で道三は「医師はまず医術・医法を熟知し、その上で個々の患者を診断して病気の原因を明らかにして、適切な治療を施しなさい」と記しています。
今の考えではあたりまえのことに思えますが、当時の医療は呪術や宗教の影響を色濃く残していました。道三はそうした古い因習と決別した、科学的実証的な手法による医学を研究しようとしていたのであり、わざわざ僧籍を捨てたのも、そのためではないかと言われています。
そして儒教の影響を受けながらも、難解な李朱医方を合理的に整理し、解り易い論述に変え、1つの学説にとらわれると誤診のもとになるとして、様々な医学をも研究して「道三流」とまで言われた流派を築くこととなります。
また啓廸集の特徴として、婦人病、老人医療、小児医療にそれぞれ1巻を割いて、独立した分野として論じているところも挙げられるかと思います。
永禄11年(1568) 入洛した織田信長に召し出される。
天正2年(1574) 11月、正親町天皇の診療で参内。「啓廸集」8巻を呈覧。
勅により号を翠竹に改め、曲直瀬を略して真瀬と名乗る。
天正3年(1575) 10月、信長を私邸に迎える。「蘭奢待」を賜り、野洲井茶碗「鶉壺」を献上。
天正9年(1581) 12月、秀吉が信長を招いた茶席に相伴。
道三、隠居し、著作活動に力を入れる。