3.李朱医学の道へ
当時の日本の医学は宋医学の影響下にあり、「和剤局方」という処方集を基礎とした時代でした。それは宗の時代に徽宗皇帝の命令によって中国各地の名医がその秘術奥義を報告したものを編纂し、調剤法や分量など薬の処方の基準となった優れたものではありましたが、なんといっても12世紀初頭、つまり4世紀以上も前の古い時代の研究でした。そして、それが編纂されて以来、日本ではほとんど何も新しいものが付け加えられてはいなかったのです。
しかし、大陸では12世紀から14世紀にかけて、漢民族とは異なる北の女真族の支配する金王朝や西の蒙古族の支配する元王朝の時代を迎えていました。それまでの漢民族文化とは異質の文化の影響を受け、医学もまた漢民族とは異なった哲学思想の影響を受けることで、新しい流れを形成していました。
この金や元の時代に生まれた中国医学の四つの流れを俗に「金元四大家」と呼びます。体を冷やしたり、意図的に下痢させたりと激しい治療をする寒冷派と攻下派、体に足りないものを補おうとする補土派と温補派の4派です。
田代三喜が学んだのは、患者が耐えきれず死んでしまうこともあるような攻撃派(寒冷派と攻下派)ではなく、優しい治療法ともいえる補助派(補土派と温補派)です。この補助派は、その創始者である李東垣と朱丹渓の名前から李朱医学と呼ばれるようになります。
この李朱医学は陰陽五行説の影響を強く受けた、思考や論理にのみ基づく思弁的傾向の強い医学ではありましたが、一方で臨床の実際的な面においては新しい発明が少なくありませんでした。
新しい学問を求めていた等皓こと曲直瀬道三が足利学校で田代三喜に出会ったのは、三喜が自分が学んだ新しい李朱医学を普及させるため、関東管領である古河公方の厚遇をうけて古河に定住していた時期です。
従来の加持祈祷も医療の一部とするものとは一線を画した講義に感銘を受けた等皓は、享禄4年(1531)11月にあらためて下総古河に三喜を訪ねました。そこで「医療は万人に対して平等であり、身分や性別などにとらわれてはいけない」とする三喜と師弟の誓いを立て、それからの約6年の間に李朱医学の全容を学び、120種の薬の調法と効能を伝授され、さまざまな医法の長所短所を研究したのです。
大永8年(1528) 関東に遊学。足利学校の日新学寮に入る。
享禄4年(1531) 導道に逢い、「用薬百二十種之効能」を授かる。
天文14年(1545) 森又左衛門の娘の妙林を娶り、娘が生まれるが、妙林は後に死去。
関東を発つ。下総から小田原早雲寺に向かって北条氏と訪問し、そこから海路と
なり、神宮参拝した後に帰京。