2.等皓時代
曲直瀬道三は、永正4年(1507)9月18日、宇多源氏姓佐々木氏が出自の堀部左門親真と目賀多氏の娘である月岑妙桂の息子として京都の柳原に生まれました。けれども誕生の翌朝には母を失い、父の元真ともこの年に死別。10歳になるまで伯母の栄泉と姉に養われたといいます。
10歳になると道三は近江の国、江州守山の天光寺へやられ、僧侶となるための修行に入りました。
等皓という僧名が与えられたのは13歳のときで、正式に僧門修行に入るため、京都相国寺の蔵集軒というところに身を寄せることとなります。
当時の日本は戦乱の下克上が横行する時代でした。武士は戦さに、貴族は政治に没頭し、一般の庶民はもとより学問を修める余裕などありませんから、学問を志す者は僧侶になるというのが当たり前でした。というより、他に方法はありませんでした。
等皓は学問を好み、よく勉強し、漢の三体詩や東坡(蘇軾)など唐の詩集をそらんじるまでに学びました。しかし、やがて寺の中での勉強に飽き足らなくなり、外の世界に出て、いろいろ学びたいと思うようになりました。
享禄元年(1529)、22歳の年に等皓は遊学を決意しました。今でいう留学です。等皓は肥後出身の西友鴎と共に関東に下り、日本最古の学校として有名な下野国の足利学校に入学しました。
足利学校の創建については平安時代、鎌倉時代などの説がありますが、室町時代に学長制度を設け、書籍が寄進され、学校が中興されていることが分かっており、天文年間には在学者3500人と言われるまでになり儒学を目的とした教育が行われていました。そこで等皓は経史、諸子百家から医書までを学び親しんだそうです。
ここで等皓に新たな出会い、転機が訪れました。
足利学校に導道錬師という人物が訪れ、講義を行ったのです。導道錬師は明国に12年間留学し、李杲(東垣)や朱震亨(丹渓)という医学者らによってうち立てられた、新しい時代の内科医学を学んだ田代三喜という人物でした。
永生4年(1507) 上京柳原に生誕。幼名、源十郎。
永生11年(1514) 大光寺に入る。
永生16年(1519) 相国寺の蔵集軒(巣松院)にて剃髪し、等皓を名乗る。