17.曲直瀬正琳 - 太閤秀吉と徳川幕府
名は正琳、号は玉翁、啓迪院、翠竹院。字は養庵。養安院。
永禄8年(1565)越智氏の系統、山城の一柳家に生まれました。幼名を又五郎。初代道三の門下に入って医学を学び、その才を認められ、曲直瀬玄朔の娘を妻とし曲直瀬の名を継ぎました
正琳が太閤秀吉と関白秀次に拝謁したのは天正12年(1584)です。これより秀次の医師団に加わるようになりました。
文禄元年(1592)正月、太閤秀吉最大の失策である朝鮮遠征が始まり、同年10月には太閤自ら侍医である玄朔らを伴って九州名護屋に赴きました。ところが12月28日、その間に先帝である正親町院が病気となる事態が発生しました。
このとき玄朔に代わって治療にあたったのがまだ若い正琳であり、この功績により正琳は法印に叙せられました。さらに危篤の式部卿親王を回復したことにより関白豊臣秀次の賞辞を受け、近江国に250石の知行を受けることとなります。
同年春、朝鮮遠征軍の出発に際して総大将の宇喜多秀家が太閤秀吉に謁見したとき、秀吉は秀家に正琳を引き合わせました。医書などを通じて朝鮮の事情にも精通している正琳の話を聞かせようと秀吉が考えたのでしょう。
その会談の最後に、秀吉は正琳にたいして「何か土産を所望してはどうか」と勧めたといいます。それにたいする正琳の返事は「ならば、朝鮮の書物文献が手に入れば」というものでした。
秀家はまだ若いながら、文武両道に優れた武将でした。朝鮮遠征は失敗に終わりましたが、秀家は随行した僧たちに命じて国都王城で多くの書籍を蒐集させて戦利品として持ち帰ったのです。
この宇喜多秀家の妻、豪姫は前田利家の四女で、生まれてすぐに子宝に恵まれない太閤秀吉の養女となった女性でした。少女時代は男装で馬を乗り回すなど闊達で、太閤をして「豪姫が男なら太閤の位を継ぐこともできたろうに」と言わせたほどでしたが、15歳で太閤の信望厚い宇喜多秀家に嫁ぎ、出産した後は病気がちとなります。
文禄4年(1595)、豪姫の病は重くなり、諸医が治療を試みても効果がなく、ついには僧侶や山伏の加持祈祷に頼るまでになっていましたが、このとき当代一とうたわれていた名医・玄朔は秀次失脚に連座して流罪となったばかりでした。
ここで再び正琳が呼ばれることとなりました。「豪の病が治るまでは戻らなくても良いので、しっかり治療するように」との太閤の命を受けて派遣された正琳でしたが、豪姫を診察し、薬を処方して見事にこれを治すことに成功したのです。秀家はもちろん、太閤秀吉の喜びも並々ならぬものがありました。褒美として錦衣や金銀が与えられたばかりでなく、後には備州信家作の小刀まで授けられたのです。
また朝鮮より持ち帰った数千巻の書籍も、秀吉よりの褒美ということで、すべて正琳に送られました。その書物のほとんどは享保2年(1717)の火事で焼失しましたが、残されたものにも貴重なものが多く以後の養安院蔵書の中核となりました。この朝鮮本は明治維新後、宮内庁図書寮(現・書陵部)などへ移管されたそうです。
秀吉は朝鮮討伐を諦めておらず、慶長2年(1597)には第二次朝鮮遠征が開始されますが、翌年の秀吉病没によりとん挫し、以後、豊臣と徳川による抗争が激化していきます。
慶長5年(1600)正琳は後陽成天皇の病気の回復に貢献したことから、4月26日、養安院の院号を賜りました。以後、正琳の家系は養安院の院号で呼ばれ、正琳をもってその初代とします。名実ともに、当代一の医師と認められるようになったのです。
そして、その直後の9月。関ヶ原の戦いが終わり、事実上徳川の天下となると、慶長10年(1605)、正琳もまた徳川家康の招きによって駿府および江戸に赴きます。13年(1608)よりは、同じく名医として名高かった半井宗伯らと交替で江戸に詰め、秀忠の番医として仕えることになりました。
さて正琳は、沢庵和尚との交流もあるなど大徳寺と親しく、百四十二世の住持に任じられた月岑宗院和尚に帰依していました。そのため、大徳寺が新たに寺院を建立することになったとき、正琳はさまざまな私財を寄進し開基となりました。こうして慶長8年(1603)春に開院したのが正琳院であり、当時39歳であった正琳は、ここを自らの菩提所としました。
この正琳院は後に焼失し、再建される際に玉林院と改名しましたが、この名も正琳の「琳」の字を2つに分けたものです。玉林院には、月岑和尚による正琳画像が残されており、その交流を今もうかがい知ることができます。
しかし、一度は江戸や駿府に赴き、幕府の医師となった正琳ですが、数年後、健康を害し、病が長引いたため役目を辞して、郷里に帰りました。
禅門に入り、養生に専念しましたが、慶長16年8月9日(1611)47歳にて没し、柴野の玉琳院に葬られたとのことです。
永禄8年(1565) 生誕。
天正4年(1576) 初代道三に入門。
天正12年(1584) 秀吉に謁見。秀次に仕えることになる。
文禄元年(1592) 正親町上皇の治療の効が認められ法印に叙せられる。
文禄4年(1595) 宇喜多秀家夫人を回復させ、書籍数千冊を与えられ、以後代々蔵書家で知られる。
慶長5年(1600) 後陽成天皇の病を治し、養安院の号を賜る。
慶長10年(1605) 徳川家康に駿府および江戸の医務を拝命。
慶長16年(1611) 没。