16.曲直瀬玄朔3 - 二代目道三と食
玄朔も健康においては「食」を重視していました。昔、食事の後、食器についた飯粒や汁の残りなどを、白湯をさしてきれいに飲むのを道三汁といったそうです。一種の養生法でしょうが、これは二代目道三である玄朔が言い始めたと言われていますが、真偽は不明です。
玄朔の養生訓としては「禍は口より出で、病は口より入る」という養生訓が残されていますが、簡単にいえば普段から節制して何事もほどほどに。容易そうで難しいけれど、年をとり健康を害してから慌てても遅いよ……ということです。
江戸期の食物本草、つまり食品事典の数は多くありませんが、道三と玄朔は渡来したばかりの『本草綱目』をベースに次々に書物を編纂、食の普及向上に貢献しました。それは単なる翻訳作業ではありませんでした。
本草学については中国は日本より遙かに進んでいましたが、中国と日本では当然食用とされている、あるいは手に入る食物の種類は違いますから、道三や玄朔は『本草綱目』の中から、日本で手に入るものを中心に独自の編纂を試みたのです。穀物や鳥類あるいは魚類に関しては共通点が多かったので、その多くが採用されましたが、草や木あるいは獣類になると採用数はかなり減ります(たとえば動物なら、豚・狗・羊・牛・馬・虎・野豚・熊・羚羊・鹿・猫・狸・狐・狼・兎・カワウソ・鼠・サルのみが採用され乳製品やラクダ・ライオン・ゾウ・オットセイなどは採用されていない)。
一方、天正年間に伝来したトウモロコシ、16世紀末に西方が伝わった焼酎、室町末期にポルトガル船で輸入されたワイン、天文年間に食品として渡来した砂糖(薬品としては奈良時代に渡来)など、日本に伝わったばかりのものについても積極的に採用しています。また、編纂にあたっては簡潔にまとめようと、味であるとか博物学的なデータは省き、食用効果と過食の副作用のみに焦点を絞って引用しています。ただし、採用されたものの中に、日本にはいない虎があるのは、太閤の食療法用に虎肉が送られてきていたためではないかといわれています。
玄朔が食において後世に影響を与えたものの1つに、お屠蘇があります。
お屠蘇の風習は唐時代の習慣であり、三国時代の魏の名医、華陀の考え出したものといわれていますが、これが日本に伝わったのは、平安時代、弘仁2年(811)、唐の蘇明が和唐使として来朝のおり、霊薬「屠蘇・白散」と称して嵯峨天皇に献上したのが始めとされています。その後、宮中行事となり、正月の朝に「屠蘇散」「白散」「度嶂散」という3種類のお酒を一献ずつ召し上がる習慣となりましたが、やがて廃れたと言います。
この宮中の神事を、「正月にこれを飲むと1年間病気をしない」という庶民の風習にしたのが、玄朔であったようです。慶長4年(1599)12月、玄朔は3種類の酒のうち「邪悪を屠り、魂を蘇生させる」という意味の屠蘇散を選び、15種の漢方薬から作られたものを生姜の汁で溶いて調合して秀忠に献上したのです。
玄朔は、これをさらに民間に広めるため、附子(有毒植物トリカブトの根)や大黄(強い下剤としての作用がある)など扱いの難しい危険な植物を除いた6種類を屠蘇の材料とし、これを酒に浸して飲むものと定めました。
薬効あらたかな上に調合も簡単なものになったため、この風習は広く民間にも定着し、元旦の祝酒とされるようになりました。江戸期には、年の暮れにはかかりつけ医のところへ、治療代(薬札)を支払いに行くと、医者が歳暮として屠蘇袋をくれるのが習わしとなり、川柳にも多く詠まれています。
寛永8年(1631)12月10日、玄朔は83歳で没しました。
天正11年(1583) 正親町天皇の中風に投薬。
冬至。二代目道三を襲名。
文禄元年(1592) 豊臣秀吉の侍医として備前名古屋に赴く。
文禄2年(1593) 熱海にて豊臣秀次の治療にあたる。
文禄4年(1595) 秀次の処罰に連座して常陸に配流。
寛永8年(1631) 12月10日、没。