15.曲直瀬玄朔2 - 失脚と再起
子供のいない太閤秀吉の養子となった秀次も、秀吉に実子の秀頼が誕生してからは冷遇されるようになりました。そのため、秀次が秀吉への謀叛を企んでいるという風評を囁かれるようになったのです。
その真偽はどうであれ、秀次はその風評をうち消すことに失敗しました。関白秀次は高野山にて自害、その妻子もことごとく処刑されました。そして、その側近となっていた玄朔も、その責任を問われて常陸の国に流されることになり、佐竹義宣の許に閉居となりました。
しかし人生万事が塞翁が馬。医学以外にかまけていた我が身を反省した玄朔は、この抑留中に医道精進して医書研究に専念したのです。また預けられた佐竹義宣が、火薬の調合や兵法はもちろん茶道までたしなむ文武両道の人であったのも幸いしたかもしれません。その時期に書き上げたのが『常山方』全12巻です。
また文禄5年(1596)7月には「曲直瀬玄朔掟」として、11ヶ条の医者の心得を書き出しています。その中には、「療治仰付けらる御方之あらば、貴賤に限らず精を入るべし。いかが貴賤の者なりとも病者をば我身の主君と心得べし。惚別医道は仁術なる故に名利を本せず、人を救うを以て心となすもの也。此の一義朝暮の看経に仕るべき事」というくだりがあります。
医者は患者をその身分にかかわらず主人と思って尽くせ。医は仁術であり、名誉や利益ではなく、人を救うことこそが喜びである…。
これは関白秀次の権勢に酔いしれた自分自身への戒めだったのでしょうか。
ともあれ、ここで玄朔は名実ともに道三の医道を受け継いだのです。
こうして学究生活を続ける玄朔に再起のチャンスが訪れました。
慶長2年(1597)5月、後陽成天皇が病に倒れたのですが、他のどの医師の手当も効果がないため、玄朔に白羽の矢が立ったのです。
玄朔は恩免を受け、慶長3年(1598)京へと帰還します。そして後陽成天皇の治療にあたり、見事その快復に成功しました。その褒美として玄朔には、黄金の花瓶と白銀千枚が与えられ、さらに山城の国に五百石の所領が与えられました。
慶長3年(1598)には秀吉自身も亡くなり、やがて徳川に政権が移って後は、曲直瀬家(今大路家)を世襲の侍医典薬とする内規が定められたこともあって、その居を江戸城至近の和田倉門前に移しました。江戸の古地図を見ると、現在の丸の内、新大手町ビルのあたりに道三橋があります。その橋のあった堀を道三堀といい、玄朔の屋敷はその堀沿いにあったそうです。
橋がなかった頃、城から呼ばれてから登城してくるまでに時間がかかるので、もっと早く来られないのかといわれ、「自分は堀をぐるっと廻ってくるのでどうしても遅くなる。もっと早く来いというのなら、橋をかけてくれ」と文句をいったら橋ができたという逸話が残っています。
やがて、二代目道三は、徳川秀忠の医師団の典薬頭となる一方で江戸に家塾を開き、慶長16年(1611)にはその門下生は山脇玄心以下千余名になっていたといいます。
医学を一子相伝の秘術とするのではなく、天下に広く知らしめようという気持ちは、玄朔も先代道三に劣りませんでした。
慶長12年(1607)の玄朔の著作に『医学天正記』という医案集、いわばカルテ集があります。
これには正親町天皇、後陽成天皇、豊臣秀吉、秀次、秀頼、徳川秀忠ら、皇族や武将から庶民まで60種類374症例の病気とその治療法が記されています。これなども、治療法を後世にまで残そうという意志の表れでしょうが、今の視点で読むなら、当時の病気や医学に関する標準的な考え方だけでなく為政者の様子なども分かる上で貴重な史料になっています。
文禄2年(1593) 熱海にて豊臣秀次の治療にあたる。
文禄4年(1595) 秀次の処罰に連座して常陸に配流。
慶長3年(1598) 赦免され帰国。
慶長13年(1608) 徳川秀忠の加療のため江戸に居住。