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曲直瀬道三小伝  作者: 柳瀬じゃこう
14/18

14.曲直瀬玄朔1 - 啓廸院の創立

 名を正紹。幼名を大刀之助。号は玄朔または東井。院号を延命院(後に延寿院)。

 玄朔げんさくは天文18年(1549)、京都の田中氏の家に生まれました。母親が曲直瀬道三の異父妹であったこともあり、道三の門下で医学を修めましたが、守眞が跡を継ぐことなく亡くなったとき、道三は守眞の長女のお古奈こなを養女とし、そのお古奈を玄朔と結婚させることによって、家督を相続させることにしました。

 玄朔は単に道三の血筋というだけでなく、医学の才においても二代目にふさわしい技量をそなえていましたが、29歳の時、道三は玄朔に医学舎を開くよう命じます。もともと道三は、それまで医師の秘伝とされていた知識や技術を広く伝えることに積極的で門弟も多く抱えていましたが、後に「啓廸院けいてきいん」として知られる医学舎が御所近くに誕生したのはこのときであったようです。

 天正9年(1581)には昇殿を許され、11月には勅によりは正式に二代目道三の名を継ぐこととなりました。翌10年(1582)33歳の年には先の帝の正親町帝を診察し、薬を献じて治療したことにより法眼に叙せられ、後に織田右府将軍にも謁見しました。天正11年(1583)正月2日。正親町天皇の様態が悪化し、いろいろな薬や治療の効果がないまま人事不詳に陥ったときも、勅命を受けた玄朔の薬の調合で回復されたといいます。

 こうして天正14年(1586)には法印となり、天正16年(1588)には太閤秀吉より山城の国の500石を与えられるなど、玄朔も道三に劣らぬ名声を得るようになっていきました。


 さて、先代道三は京の都で医塾を開設したり、天皇の推薦で医学書を出版するなど派手な活動で注目されましたが、これは進んだ医学を世に広く知らしめるための方便ともいうべきものでした。しかし、この二代目道三は普段の行動から派手好きであったようで、その華美好みは広く知られて話のネタとなっていました。往診の際には大きな朱色の傘をさしかけさせ、高い木履を履いて杖をつき、仰々しい装いであったともいいます。

 さらに文禄元年(1592)になると、秀吉本人よりお呼びがかかりました。この頃より健康が悪化しつつあり、朝鮮の日本軍に虎肉を送らせるなど体力・気力の回復にあらゆる手をこうじるようになっていた太閤秀吉は、その医師団に玄朔を加えたのです。2月には坂浄慶(さかじょうけい)らの医師とともに秀吉の陣医として随行し、肥前国名護屋の神宮へと赴きます。

 まもなく朝鮮侵攻は失敗しましたが、以後の玄朔は関白である豊臣秀次に仕え、その才能をいかんなく発揮して侍医以外の役職にも徴用されるようになりました。玄朔は得意の絶頂だったでしょう。しかし、後にこれが禍いすることになります。

 文禄4年(1595)の秀次失脚です。

天正5年(1577) 啓廸院を開く。

天正6年(1578) 竹内親王(三ノ宮)に投薬し、報償と屋敷を与えられる。

天正9年(1581) 参内して正親町天皇の診療にあたる。

天正11年(1583) 正親町天皇の中風に投薬。

         冬至、二代目道三を襲名。

天正15年(1587) 秀吉の島津討伐に同行。

         小倉にて毛利輝元を治療。

文禄元年(1592) 豊臣秀吉の侍医として備前名古屋に赴く。

         毛利輝元の治療のために渡韓。

文禄2年(1593) 熱海にて豊臣秀次の治療にあたる。

文禄4年(1595) 秀次の処罰に連座して常陸に配流。

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