13.後継者たち
日本という国の特色の1つに「老舗が多い」ということが挙げられますが、実際に創業200年以上になる世界の企業の半分は日本にあります。
その理由はさまざまですが、その根底には「後継者選びで血縁に拘らない」ということがあります。そうでなければ、いかに業績が良かろうが、経営が巧みであろうが、技術者を大事にしようが、会社そのものが消えてしまうからです。
稼業を継ぐ子供がいない、能力がないのであれば養子をとり、婿に迎え入れ、家をつないでいくのが日本の特色で、世界的に見ればこのようなケースは多くないそうです。
曲直瀬家も、そうでした。
道三は庭田氏の女と結婚し、守眞という一子をもうけましたが、守眞は跡を嗣ぐことなく若くして没しました。
そこで道三は天正9年(1581)、遺された守眞の娘たちを養女とし、その長女に道三の妹の子である大刀之助を婿養子に迎えて曲直瀬玄朔として跡継ぎとしました。このときには玄朔は33歳でしたが、既に昇殿を許され、正親町天皇に謁していました。
天正11年(1583)には勅旨により「道三」の号を襲名。以後、二代目道三として活躍しますが、これによって往診はしなくなったものの依然元気で門弟の育成と執筆活動に励んでいる初代道三との活動時期が重複して、記録が混乱する原因となります。
玄朔以外にも、道三は門人と孫たちを縁組させ曲直瀬姓を継承させており、娘の長男の守柏は翠竹院の号を継ぎ、玄朔の娘を娶った門人の正琳は養安院を、守眞の次女の婿となった正純は亨徳院、その正純の未亡人と再婚した玄由は寿徳院をそれぞれ継ぎました。
しかし、本家として二代目道三となった玄朔でしたが、天正20年2月(1593)に後陽成天皇より橘の姓と今大路の家号を賜ったため、以後は今大路を名乗り、代々官医として幕府奥医師筆頭の典薬頭を世襲していくことになります。