12.晩年とキリスト教
晩年の道三は、耳が遠くなりはじめると家督を甥の玄朔に譲って享徳院と号し、医業は続けていたものの高齢を理由に往診に応じず、自宅での診療のみをおこないながら秩序正しい生活をすごしていました。そして読書と研究を最上の楽しみとし、なおも書物の編纂を続けたり、門人の育成や病気の治療にあたっていました。その学識と雄弁さはいささかも衰えず、思慮深く、物腰に飾り気のない人柄はそのままでした。
そんな道三が78歳の年に、新たな出会いがありました。
天正12年(1584)、道三を、京の都のキリスト教学院の上長、ベルショール・デ・フィゲイレドが治療のため、道三のもとを訪れたのです。
治療を受けたフィゲイレドと道三は意気投合し、話は当然キリスト教の話題となりました。その話に完全に納得はしなかった道三ですが、ともかく長く閉じこもっていた家を離れ、教会を訪れることには同意しました。その後、道三はフィゲイレドとの約束通り3度教会を訪れました。それも連続して訪れたわけではありません。1度説教を聞いてはしばらく時間をおいて自分なりに考えをまとめ、1度聞いてはまた考えるというように、少しづつ自分の中の理解を深めるよう努力したようです。そして3度目の訪問の後、道三は洗礼を受けることを申し出ました。
道三は宣教師オルガンチーノより洗礼を受け、キリスト教に帰依しました。これは神の下での平等を唱える教えが、医師として倫理規範を求める道三の要求と合致したからかもしれませんし、宣教師を通じて西欧の医学について学ぼうとしたためかもしれません。洗礼名はベルショール(Melchior)といいます。
宣教師ルイス・フロイスが天正13年8月25日付でローマへ送った報告書『1585年の日本年報』において、「都で800人の門弟を有する有名な医師曲直瀬道三の入信は、1万人の信徒を得たより利益がある。太閤が改宗しても軽挙妄動ゆえだろうと思う人々も、道三が改宗したならば、それなりの道理があってのことだろうと納得するからだ」と述べているほどです。確かにその反響は大きく、高山右近らキリシタン大名は道三の改宗をきっかけに他の大名にも改宗を働きかけ、それはかなりの成果をあげています。
この噂は天皇の耳にまで届き、天皇は使者を差し向け「日本の神々を異教の悪魔と断じるようなキリスト教に改宗するとはいかなるつもりか」と問いただしました。これに対し道三は「私はいまだ彼ら宣教師がそのようなことを言うのを聞いてはおりません。それに彼らにしても天皇や貴族が日本の神々につながるものであることを知っているはずですから、そのようなことを言いはしないでしょう」と返答しましたが、同時に宣教師らにたいしても、日本の神々を悪し様に言っていると解釈されることのないよう気をつけなさいと書き送っています。
けれども、道三のキリスト教者としての生活は長くは続きませんでした。2年後の天正15年(1587)に太閤秀吉がキリシタン禁令を発布し、高山右近らキリシタン大名らを弾圧し国外追放したりするようになったためです。これは宣教師の布教活動が大名レベルにまで深く浸透していったことを恐れたとも、その背後にスペインの帝国主義をかいま見た為ともいわれていますが、いずれにせよ秀吉に近い道三が信徒であり続けることはもはやできませんでした。
そして道三は文禄3年(1594)1月4日、88歳で亡くなりました。京都十念寺に墓所がありますが、碑面には「贈法印曲直瀬一渓道三」とだけ刻まれています。
天正9年(1581) 隠居し、著作活動に力を入れる。
天正12年(1584) キリスト教学院の上長、ベルショール・デ・フィゲイレドを治療する。
天正13年(1585) 宣教師オルガンチーノより洗礼を受け、キリスト教に帰依。
天正15年(1587) 私邸に秀吉を迎え、香でもてなす。
キリスト教禁止令により棄教する。
文禄3年(1594) 道三、没。