10.道三と戦国武将5 「蒲生氏郷」
その生涯で、道三は織田信長や毛利元就以外にも多くの武将を診療しましたが、すべての患者を助けることができたわけでもありません。
天正19年(1591)。若いながら、太閤秀吉に信頼され、家康、毛利輝元に次いで3番目の知行高に当たる92万石を与えられた武将、蒲生氏郷が下血に苦しんでいました。
氏郷は同年3月上洛し、吉野の花見に行く秀吉に随行しましたが、病状は日増しに悪化するばかりであったため、秀吉は主治医曲直瀬道三を送って治療に当たらせました。
その症状「顔色が黄黒になっていて、首回りが痩せ細った。下血がひどく、目の下に浮腫が出ている」から道三は心臓病と診断したようですが、治療の効果は無く、同4年2月7日、徳川家康や前田利家の見守る中、氏郷は40歳で逝去しました。
こうした生と死を、道三は、どのように考えていたのでしょうか。
その養生訓に「不養生ノ者ハ、死スル時気ヌケシテ、ウロタヘマワリ、得死ナス也、況ヤ善死スル了(事)ハナラヌ也、爰ニ心得違イノ者有、養生スレバ天命ノ定数ヲモノブルト思ヒ、又養生セズニ、定命ヲ縮ムルヲモ知ヌナリ」という言葉が残されています。道三によれば「養生」は「死ヲ善センガ為ナリ」、つまり「より善く死ぬために健康に留意する」ということでした。
いかにも戦国時代の医師らしい言葉です。