1.便利なバイプレイヤー
戦国時代に、曲直瀬道三という医学者がいました。実名を正盛または正慶。字は一渓。号を翠竹院・雖知苦斎。晩年には亨徳院・盍静翁または寧固と称したといいます。
田代三喜、永田徳本などと並んで「医聖」と称された人物ですが、その中でも抜きんでて露出度が高い人物です。具体的に言えば、戦国時代を舞台にしたドラマや小説の3本に1本くらいは名前が出てくるくらいの位置づけです。たいしたことはなさそうですが、他の2人に比べると抜きんでて露出度は多いはずです。
田代三喜は大陸に渡って当時の明の最新医学である李朱医学を学び、その普及に尽力した偉人です。曲直瀬道三も永田徳本もどちらも三喜を師としているのですが、三喜と徳本の名前はほとんど出てきません。
この違いはどこから来たのでしょうか?
そもそも、三喜は関東管領である古河公方に庇護され、関東の足利学校を拠点に治療や講義をおこなっていました。「足利の三喜」と呼ばれる所以です。
また、徳本は「甲斐の徳本」と呼ばれるように甲斐を拠点として武田家に仕え、武田家滅亡後は東海や関東の諸国を巡る放浪の医師として人々の診療にあたっていました。
一方、道三は京に戻って、都を拠点としました。将軍足利義輝に認められ、帝の診療にまでたずさわり、諸国の戦国武将らの治療にあたり、さらには医学生を養成する医学舎、啓迪院を設立して後進の育成と庶民の治療もおこない……と京を拠点に全方位で活躍したため、非常にドラマ的に使い勝手の良いポジションに納まってしまったのです。
足利将軍、正親町天皇、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、毛利元就、三好修理、松永弾正、畠山義綱、明智光秀、蒲生氏郷と彼に関わる歴史上の人物は多く、まさに戦国時代のフォレスト・ガンプ。さらには鍼灸から茶道、香道、能楽にまで通じるというテリトリーの広さに加え、二代目道三や彼の門弟たちの功績まで混同されるようになり、なかば伝説化していきます。
そのため、歴史小説からなろう系転生小説、果ては落語にまで出没し、あるときは主人公らの救世主となり、またあるときはチートな主人公の活躍にほぞをかみ、ときにはロリコン医師として変態ぶりを発揮してと、便利なバイプレイヤーとして物語の一躍を担うこととなりました。
※当時は血筋を現す「姓」、身分や地位の上下を現す「氏」、流派や屋敷の所在を現す「屋号」など厳密に区分されており、これに子供のときの名前である「幼名」とか、友人と呼び合うときのニックネームともいえる「字名」、学者や文人のペンネームである「号」が加わります。後には「氏」と「姓」が混同されるようになり、「号」は気分で幾つも使い分けたりする上に、医者は僧侶に準ずる扱いになるので「院号」というものまで加わります。これに加えて、曲直瀬道三は後継者である玄朔が二代目道三を名乗るようになったため、両者が混同されるケースも散見されます。
参考文献等については、最後にまとめて記載の予定。
疑義・誤字等あれば、ご指摘ください。