魔法の対価
まだ鐘すら鳴らない早朝。重たいノックを響かせるドアを、父親に急かされてペイターは開けた。
戸を頭を下げて潜るように入って来たのは、にこやかに笑う大袈裟な身振りの男であった。縫いこまれた宝石でいくらかへしゃげた帽子を小粋に被るせいで、よほど背の高い男に見せている。
ようこそいらっしゃいました、と言い捨てて逃げた自分を、咎めるように母が顔をしかめる。仕方がないじゃないか。得体の知れない舌なしなんて、誰だって恐いんだから。
日々適当に歩き遊ぶ放蕩者、恥を知らない愚か者。聞く人によって変わる罵り言葉は多彩の一言に尽きたが、それでも何もかも足りないこの国は、優れた技術者でもある舌なしを多く受け入れざるを得ない。
何もないところに文字を刻むだけで家が生え、瞬く間に大鍋を鍛え上げる。誰もが目を剥くような仕事をこなしたかと思えば後はただ遊んでいるだけで、国の大半が手に入れられない高級な代物に囲まれている。
結局誰もが努力したところで成し得ないそれを、気楽に行うのが尊敬の置けない人物であることが、妬ましく許しがたいだけかもしれない。あれだけ家で罵倒していた父親が、腰を低くして迎えているのだから。…この男が気分次第で値を吊り上げ、適当な始末をするので、粗相がないようにと言い含められているから理由は知れるが。
『私が恐いか、素直で正直な少年だな。実にいい』
「ひえっ」
「おい黙ってろペイター!いやぁ、急な依頼で申し訳ない!」
『何、もらうものさえもらえれば誰の家でも建てるさ。で、報酬は?』
そっといつもの隅に逃げた自分を見遣って、どうでもよさそうに視線を外した。確かに鼓膜を揺らした声を、誰も聞きとがめていないのを不思議に思う暇もない。そうでもなければ、きっと父親に殴られただろうけど。
この家に珍しい客を、国の皆がブランドヴィル当主と呼ぶ。誰もどこから生まれたのか知れないこの男の名もまた、知らない。この国で唯一高く家を作れる大工であり、手で物を作ることを知らない怠け者として名を轟かせていたのだ。小金を得た父が見かけばかり立派な家を建てようと、手狭を理由に母のか細い反対を押し退けて呼んだのである。
恐ろしく腰が低くなった父親が、粗末な卓にもったいぶって魔法石の詰まった袋を差し出した。母が反対するはずである。どう手に入れたかも定かじゃないが、慎ましく暮らせば十分に年を越せる額だ。
それを足りないな、と舌なしが簡単に首を振って帰ろうとするのを見て、強く前に背を押されたのは自分だった。
「ならばこいつを!この年なら下働きでいくばくかのお役にも立てるかと!」
「ちょ、ちょっと、とうさん」
「黙ってねぇか!ペイカー!家族の為にちったぁ働きやがれ!」
断ってくれ、と思っているのはきっとペイターただ一人である。産ませた子らの名すら呼び違える父親だったが、それでも何に使われるかも定かじゃない舌なしの元にやられるなんて絶対に嫌だ。
誰か止めてはくれないかと周囲を見渡しても、いつだって母はじっとりと父を見るばかり。父親の剣幕を嫌って、普段精を出さない下働きの日雇いに上の兄弟は出払っていたし。下の兄弟たちは、母の傍で気の毒そうな顔をしてから目を逸らした。
ペイターを値踏みするように黙り込んだブランドヴィルに、代金が足りないかと判じた父親がならばもう一人と近寄っていたからだ。
しかし、怯える姉の腕を掴もうとした瞬間に、酷く楽し気な笑い声が響いた。弾かれたように父親が振り返ったので、今度こそ誰の耳にも届いていたらしい。声を出さずに、身体を折って笑う男は異様の一言に尽きる。
『いやぁ、家の代金に息子さん寄越すとは剛毅ですなぁ!』
「いいように使ってやってください!この子にゃあよぅく言い聞かせますんで」
『舌なしに寄越したものを、返せと言っても戻りませんよ?それでもよろしいので?』
芝居がかったように気遣って見せる舌なしに、それはもうもちろんと気軽に頷いて見せる。お前が役に立つ時がやっと来たなぁと、嬉しそうな父に頭を撫でられたのはいつぶりだろう。呆然としたまま、不快さだけが残った。
父たちはすぐに自分を売り払ったのを忘れて、さっさと設計の算段に入る。固い表情の母に呼ばれて、別室に入ったのは助かった。薄汚れた自分が少しでも何とかなるように、と母にまだ汚れた方じゃないシャツを着せられる。
母は全くあのひとは、と苦々しく吐き出しても、ペイターに何も言ってはくれない。手を焼いた覚えのない自分に、あまり愛着がない人だった。おりこうには振る舞えない兄弟の方が、まだ世話を焼く気になるらしい。
のろのろとボタンを留める最中、戸を閉め切った別室と言うのに、確かに鼓膜を楽し気な声が揺らした。
『少年、ようく見ときなさい。君たちの両親は、こんなにしょうもない連中だってな』
「そんなこと、知ってるよ。ずっと前から」
『そりゃあいいことだ。最高だよ。いい機会だから心底愛想をつかせておきなさい。きっと君が良い暮らしをしていると知って、際限なく集られるだろうからね』
何となく、最高に腑に落ちる忠告だった。手放しに受け入れられるくらいには。
「…ペイター、おりこうになさいね」
「どうすりゃいいのかわかんないけどね。案外気は合いそうだよ」
母には聞こえなかったらしい。自分の粗相で、後々高い買い物にけちをつけられるのを嫌がっただけだと知れる。ただ、少しだけあの舌なしに興味が沸いたから、多少はましだった。一先ず、怪しげな魔法の生贄にされることはないだろうから。
ペイター・タクロフカは、生まれから間の悪い少年である。大家族の末子に生まれて、常に忘れられながら顔色をうかがって過ごしてきた。食事が行きわたらないのなんかしょっちゅうだ。忘れるならちゃんと忘れてくれる方がよかったのだが、大抵面倒事がある時に思い出されていいように使われる。
これもきっとそんな一つだ。愛着があるのは、きっととんでもない目に合うだろう自分に対してである。両親は自分に教えることができなかった、そのひとつである。
瞬く間に終わった打ち合わせに、ブランドヴィルはそこら辺に転がるような少年を忘れはしなかったらしい。来い、と傍を指されて、早く行け、と父親に背を押された。
馬の引かない馬車は、主人を認めて軽やかに戸を開けた。街道を駆けずり回った靴で、上等な馬車を汚すだろうと委縮するのを、何の頓着もせず放り込まれる。整備されていない街道の振動を全く伝えないそれは、いつか見かけて羨んだそのまま宙を浮かぶように走っているのだろう。
踏んだ場所が茶色く線を引いたのを隠すように、僅かにペイターは足を浮かせた。手遅れのようだったが。
『見たかあの顔!あのはした金で、お前にゃ見たこともない大金だろうって腹くくってたな!』
「そうですね…」
『本当はあの五倍はいるんだけどな、いや、知らないと言うのは恐ろしいことだ。馴染みの酒場でブランドヴィルのくずに家を建てさせると喚いていたから、どんな博打に勝ったのか不思議だったよ!』
「知ってたんですか…」
『あそこのマスターも舌なしなんだよ。たまに話のタネに教えてくれるのさ』
生家が見えないところまで来た途端、装いばかり紳士じみた男は堪らないと言った様子でまた笑い始めた。見たかあの顔、と家族を揶揄して笑っているらしい。無理もない、が、自由にできるものを持たない連中の気持ちをきっと知らない。
顔に出ていたか、だからって他人に当たっていい理由にはならんだろ、と軽く言うので心でも読まれている気分になる。
『いやぁ、実に運がいいぞ少年。君、どうせくだらない人生のまま幕を閉じるところだったんだ、存分に感謝してほしいね!』
「…俺なんかもらってどうするんです」
上のと比べられて、食い扶持ばかりかかる、役に立たないと言い捨てられたことなんてしょっちゅうだ。だからこそ体のいい厄介払いだと、誰も自分を止めなかった。見栄を張る父親の無意味に高い買い物に、困窮するのが目に見えていたからだ。
『弟子にするのさ。いやぁ実に運がいい。得難い者を得た気持ちだ。長男じゃなくて末子、それも実家とは縁の切れた少年と来てる!おまけに自分以外は相当どうでもいいと来た!最高だ!』
「それの何がいいって言うんですか…」
『よくわからんが、いつかに義親父殿がそう言っていてね』
何か上機嫌に納得しているが、それは逃げ場がないという意味だろうか。しかし思い出したように真剣な顔になったので、そうではないと知れる。
『勘違いするなよ、少年。私は城下に生まれた親のないガキだった。それなりに楽しくやっていたんだが…まんまと仕掛け財布にかかったのを、馬鹿笑いする親父に引き取られてね。この家名を継いだのさ』
「…よく、生きていましたね」
城近くになるほど、国の環境は劣悪である。あそこで息をするのは、弾かれて行き場のない連中ばかりだ。誰が死のうと気にせず川に投げて終わる。
『あそこはあそこで楽しかったさ。誰に気兼ねすることもない、全員脛に傷があったからね』
「無茶なお人だなぁ…」
少なくともガキが歩いていれば、十を数える間もなく縄をかけられて売られるような場所をそんな気楽に受け止められない。いやそうじゃなくても売られるか、とため息を吐いた。きっと持参金が用意できないからと、年頃になれば娼館にでも簡単に売られそうな姉を思う。うちに女の姉弟は一人だけだ。そんなはずもないのに。
『さあ、これから私のことは師匠とでも呼んで敬えよ。多少不自由はするだろうが、ひもじい思いはさせんからな』
飯に蜘蛛だの蜥蜴だのを放り込みかねない連中に保障されたって何も安心はできない。