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足浴の至福

茸型の自宅の前は、イングリッシュガーデンと言えば聞こえがいいが、見覚えある植物が酷く巨大化してできた、生垣のような迷路である。互いが覆いかぶさって、それでもしぶとく生き残った草花は陽すら陰るほどに茂っている。そこの影に、サロメは一人立っていた。


今日こそは風呂を作るのだ。


もう階段を下りて、転がり落ちるほど小さくはない。既にこどもの癇癪を利用できない身の上だったが、この世界の大人たちは鷹揚だ。サロメが必要ならと自宅前までならと外出の許可を出し、子どもの遊び道具の如く、いくつか要り様の物をそろえてくれた。


多分ブーツを脱ぎ捨てて、足首まであるドレスをまくり上げたのを目撃されれば、はしたないと仕置きでも受けそうだったけれど。もう頓着していられない。昨日、ようやく完成したのだから。


小さい盥でひとすくい貯めてくれたのは、名も知らぬ精霊である。布と、いくつかの果物を捧げた瞬間、きらきらと輝きすら感じさせる水が湧いたことにまず泣いた。鍋を煮る傍で、焼かせてもらった石を鉄瓶から投げ入れれば、少ない水はすぐに沸き立った。水差しから新しく足して、程よい温度に調整したそれに、サロメは椅子に座ったままそっと両足を浸す。


5歳になった彼女の足でも、盥は余裕のある大きさだ。じわり、としみいる湯の熱に思わず緩んだ口から声が上がった。もう口から吐けるのは文字にならない音だけだが、舌があったところで言葉にならないだろう。



「ふああ…!」



風呂だ。これは紛うことなき風呂である。足風呂だとか、できればふくらはぎまで水位が欲しいとか贅沢を言っている場合ではない。彼女が5年越しで実現してみせた風呂なのだ。…魔法で風呂が作れることを、証明したのだ。


湯の中で足指を握っては開き、柔らかく吸い付く湯心地はたいへん心をとろかせてくれた。そしてやがてひらひらと関節からはがれるように、湯をたゆたう垢に気付いて最高にげんなりとさせられる。メイドのマリアベルからもらった服を直した端切れを、何枚かに折って拭うようにこすれば次から次へときりがなかった。


多分全身垢まみれなのだろう。ぱしゃん、と足先で湯を遊ばせて、やはりこれでは足りなかったかと、清潔な水を請うた一文を糸で刺した布を、ため息交じりにつつく。


【綺麗な水をください】


サロメが糸で布に刺したのは単純にこれだけだ。刺した糸は、水が布に置かれた種々の水差しと盥に注がれるのと同時に、解いたように消え去っている。


綺とか麗とかに最高に時間を費やしたと言うのに、使ってしまえば一瞬である。まだ、うまく加減ができないのが悔しい。これをバスタブに貯められるほどの物ができるか。…そしてそんな設備を自宅に作ってもいい許しが出るかもまだ定かじゃないが、諦める気はさらさらなかった。


5歳になるまでを焦がれて待ったサロメにとって、舌を差し出すのは父が言うほどに大したことではなかった。何か気軽な嘆願文を書きつけた布をサロメの口に放り込むと、痛みもなく自分の舌は消え去っていたのだ。感染症云々が気にならないくらい。…しばらく、話そうとしても喉音だけが鳴り、食事の味が薄くて苦労はしたくらいだ。


サロメがまだ小さいからと、父の焼きごてづくりではなくて、母のやり方を教わったけど。多分自分には合っていないと思われる。


慣れぬ針を布に一刺しするごとに、ばらりと涙が滴るのを感じた。普段、何一つ気にかからない事柄が、首を絞めるような圧迫感を持って這い寄ってくる。夜になれば、何かに急き立てられて責め続けられているような気がした。


難易度が上がるほど術者の情念が組み込まれ、精霊に捧げる供物としては上等になるとか言うが本当だろうか。一刺し、二刺し。丁寧にとめはねまで気合で刺した。仕上がりに母は何故か息を呑んでいたけど、あれだけ大変だったのにあっという間に消費してしまう。


文字をつなぎ合わせて精霊に語り掛ければ、応じて奇跡が起こると言う。そこに魔力や才能なんてものはない。ただ、貢物をして、真摯に訴えて、気まぐれに精霊が答えるだけだ。


…いったい、どうすればもっと、際限なく水を出せるのか。頭から被って髪を洗い流したい。背中を強くこすり洗いしたい。肩まで浸って、湯が冷めるまでぼんやりとしたい。でも多分やったら廃人になって死んでしまう。


あ、これ深夜にラーメンが食べたくなる原理だ。駄目なやつほどやりたいあれだ。


想像してしまえば、くそ、とまた口走りそうになった言葉の代わりに喉音が鳴る。指先からとろけるようにぬくむ湯に、死にそうに辛かったのが嘘の如く、先程までざわめいていた心が凪いでいく。そして余裕の出来た心に、新たな欲求は耐えがたいぐらいに自己主張が激しかった。


やはり父に拝み倒すより他ないか、とひとしきり算段を立てて、多分無理だとまた頭を抱えた。使えるようになって初めて知ったが、本当に最高に神経を使い、精神を削られるのだ。報われた、との心地がなければ多分サロメだって気が狂ってたことだろう。


『…こうなったら、大鍋かな』


五右衛門風呂ってどうなんだろ。もう浸かれればなんだっていいけれど。


冷めた湯を名残惜しく辺りに撒いて、そそくさと裾を直して家に戻る。ほかほかとぬくむ足でブーツが辛い。さっさと脱ぎ捨てるべく、自室へと急いだ。迎えてくれたメイドたちが口々に労ってくれて、しまおうとしていた盥や布は次々にさらわれていった。


これはばれてない、とそっと息を吐いた彼女は、滅多にない一人娘の我儘を、大層家族が喜んでいたことを知らない。侘しい湯に感嘆の息を吐いていたのを、しっかりメイドから報告されることも。茸型の自宅。その階段の中ほどに、父が彼女の工房を置こうと算段していたことも。


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