暗がりの工房にて
昼寝から起きて、夕食の前にと連れていかれたのは父の工房である。茸の笠、その最上部にある工房に向かうまでは、上りも大変急だった。多分父に抱えられていなければ、簡単に転げ落ちていただろう。陽が落ちるにつれて濃さを増す暗がりに反応して、明かり用に埋め込まれた鉱石が青白く光っている。
机に散らばる彫刻刀のような道具や、煉瓦を組んだ炉の傍に置かれた焼きごての数々。乱雑に置かれた壺の中には、埃の被った石が陰ったような光を帯びていた。怠惰と浪漫が息づいているそこは、使用人も立ち入りを禁じられているので、父が掃除するしかない。
何も頓着せずに邪魔なものを蹴りとばして進むと、サロメを何も置かれていない卓に案内して、椅子にハンカチを敷いて座らせてくれた。物珍しいものしかない父の工房は、かびと埃が臭うのは難点だったが。炉の傍に置かれた作りかけの瓶が、いつか母の鏡台に並んでいた物に似ていたりとか。細かに垣間見るものが楽しい。
まず魔法の触りとして父から習うこととなったのは、その源。使う度に代償として削られる精神についての話であった。決してゲームのごとく数値化されないそれは、本人にも知られることなくどんどんと摩耗し、いずれは休息で回復しきれなくなるらしい。
薬でどうにかならないのか、との問いには、薬草がもたらすのは鎮静による睡眠と、幻覚による逃避でしかなく、まず原因となる生活をどうにかするべきだと案外真っ当な返事が返って来た。いつかどこかで聞いたような話だ。
父からかいつまんで聞く限り。そしてサロメ自身の印象としては、舌なしとは概ね食い詰めたり、世間から逃避したい享楽者が安易な喧伝に乗り、そこそこ贅沢に食っていくための手段として舌を売り払った慣れの果てだ。世間からの評判だって愛想がよくて金払いがいいと褒められても、結局どこまでも手で働くことを投げ出した怠け者、という認識がついて回る。
そしてそれがどこまでも正しい。世間がどうにもできない部分を巣食うように、金の在りかを探って一生遊んで暮らすのだから。というか、そうしない魔法使いは大抵短命で終わる。
改めて父から聞いた話だと、驚くべきことに本当に真面目で、国のためを思って生きた舌なしたちだってかつてはいたらしい。父が言う真面目な魔法使いたちは、国の為にと精霊の御業を請い、瞬く間にこの国の中心の河川を治め、立派な城壁を成してたいへん尊敬されたそうだ。
そして舌を売り払ってから一月もたずに気が狂った様子で街中を徘徊するようになって、最後は城に幽閉の形を取られた。それからは表向きは誰も魔法使いの享楽を表立っては咎めないし、無茶な仕事も振らなくなった。どう手を付けていいか迷うほどに暴れた魔法使いの相手は、得たもの以上に相当な被害を生んだからだ。
真面目に働いて、全て手で作る方がいいって気付いたやつは全部農地に出て行ったからね、と父は笑っている。
そんな国に残った連中の為に廃人になる必要はない、と重ね重ね言って、最低限の浪費で済むようにうちではこれを使う、と件の刻銘式魔道具学の書物をつついた。大変嫌そうな顔をしている。
『何かに文字を刻んで、精霊の力を宿すのさ。一度死ぬ思いで刻んだ後は、道具が勝手にやってくれるからね』
そうして見せてくれたのは、複雑な流線が絡む模様の焼きごてであった。試しに煤を羊皮紙に押し付ければ、サロメにも手習いで見覚えある文字が印字される。読み上げられたのは、詩歌のような一説だ。これ一つを地面に押せば、後は勝手に平茸のような背の低い家が建つらしい。
「…おとうさまが、つくったんですか?」
『苦痛だったよ。こんなもん何の役に立つんだって、一つ刻むごとに暴れたくなった』
なおこれがないまま家を作ろうとすれば、二件目ぐらいで気が狂うねとのことだったので魔法使い稼業も相当闇が深いらしい。ひたすらに精霊を讃え、助力を願い、細かく注文をつける魔道具が、ブランヴィル家の魔法であった。それ以外は金があれば解決するので、別に使えなくたって問題はないとのことである。
『だけど、サロメ。風呂はとても難しい。沸かすのはそこらへんの石でもできるが、この国にろくな水がない。農地のひと達は独自にろ過して高値で国に売ってるけど、それだって飲み水であれなんだ。あまりこの国の科学で期待しちゃいけない部分だよ』
なんで石で湯を沸かせるのか、とまだこの国をよく知らないサロメは思ったが、あの妙な味のする水でも透明になるまで丁寧にろ過した代物らしい。確かに、浸かれば肌がやられそうだ。じゃあどうすれば、と聞けば、父はまだサロメが読めない文字がふんだんにのった頁をめくる。
『ここまでやれば、僕も分からないこの言語を習得できれば多少は道が拓けるだろう。だが拓いていく過程で君がおかしくなれば、僕は親として君を止める』
「どんな、言語なのですか」
『かつて、太陽の昇る島国が使っていた、と伝承に残る文字だ。…詳細な解説はあるが、うちの一族で習得出来た奴はいないそうだよ』
なんで風呂一つはいるのにそんな壮大な話に、なんて突っ込む間もない。それから見たことがないほど真剣な父がそれが無理ならやめた方がいい、と知らせているのにも気づく。目的が頓挫した以上、魔法で得られるものがないと知っているからだろう。
一体どんな難読文字が、とどこか聞き覚えのあるフレーズが引っかかりながらも、指し示された頁を覗きこんだ彼女は。…両手でしっかりと目をこすってから、もう一度見た。
五十音表だ。五十音表である。ひらがなの、昔懐かしい。彼女の家ではかつて冷蔵庫に無意味に貼ってあって、いつかの大掃除で見なくなった。次のページにはカタカナまである。
流れ着いたものを書き写した、とされるそれは、多少歪んだマスの中に、リンゴらしき絵の上にり、とか。見たこともない代物の上に書かれた文字が、何であるのか考察された文が、みっしりと表の下に書きこまれている。
主にこちらではまったく見かけない作物や動物で表された絵は、辛うじて【洋服】が分かったらしく。もしやこれらを表しているのでは、と最後を結んでいる。歴史や学説が時を隔てても検討されなければならない理由を、かつてレポートで気を吐いていた彼女は今更に思い知ったような心地である。
更に頁をくった先には上級編としていろはにおへど、と書かれたそれだったのでついに崩れ落ちた。つたない文字で書かれたそれらをつなぐ線が、連綿、と呼ぶだとか。中学校辺りの書道で習った気もする。
最後に記号のような文字が発見された例もある、と些か興奮気味に記されたそれは、何かの取扱説明書の切れ端だった。模写されたそれは副作用:頭痛、と辛うじて読み取れた。
確かにこれを元に習得を図るのは、たいへんな困難を極めることだろう。というか不可能に近い。実際莫大な効果を上げたとされる成功例だって、どれもこれも酷かった。頭痛と書いたハンカチを使用した人間が、頭が割れんばかりに痛む呪術となったと書かれているくらい酷い。
唐突に顔を見せた事実に、郷愁が疼くような神経は既に持ち合わせていなかったが、どっと脱力したのはたしかだ。同時に決意が、固まったのも。
「ぬきます」
『え』
「したを、ぬきます。あしたにでも」
『待ちなさい、サロメ』
娘の厳かな宣言に、泡をくったのは父である。僕にも教えられるかわからないんだ、と肩を掴んできた父には悪いが、できるかもしれないと知ってはもう一刻も待てない。解釈違いで誰一人会得できなかった言語とされた理由も分かった今、ぐずぐずとしていられなかった。
大丈夫だ。まだ、分かる。漢字だって書けるだろう。単語のスペルが長いのはこちらも同じ。たったの一文字、漢字の重要性を、散々学生生活の小論文講座でも叩き込まれていた。
「わたしはおふろにはいりたいの!ぜったい、ぜったいに!もじだって、おぼえるから!」
もういやだ。だいたいの諦めがついたこの世界で、たったこれだけが心底いやだ。だから多分、この世界で初めて口にした駄々だったことだろう。そうと知っていたのか、父も驚いたように目をみはると、また落ち着かせるようにサロメの背を撫でた。ゆったりと息を吐く。
『一度抜いてしまえば治せない』
「それはそうでしょう」
『舌なしは、お前が思い描いているのと違うかもしれないよ』
「じぶんのためにいきるきょうらくものでしょう」
『人を助けたいと願うのだって、自由なんだよ。見捨てるのもまた精神を削る。出来ると知って、やらない奴は少ないんだ』
誘ったのは自分な癖して、何故かは知らないが随分と及び腰だ。しかし父の心配が杞憂だとは、サロメだけが知っている。扇を広げて口元に殿方の耳を誘えば、婦人の扱いを心得ている父は恭しく屈んでくれた。父によく似たサロメに、母の面影を見つけるのが楽しい様だ、とは最近気付いた事実である。
「しらないでしょう、とうさま。わたし、これまでかぞくのわるぐちをいったひと、ぜんぶおぼえているのよ」
例えば心得ていない何人かの使用人、物資を届ける農地からの配達人が気軽に罵る言葉とか。道行く馬車を見て、気分悪げに鼻を鳴らしていた人々。…つまるところ、国のほぼ全員である。
持つ者の献身が当然であると受け止めて、持てる力を振るわない舌なしを嘲る人々だ。…あまり人のできていない自分としては、見放して特に心が痛む人たちじゃない。
そんな含みを正しく汲み取ったらしい。悪い魔法使いの笑い顔になった父は、褒めるように鼻をつまんできた。そのまま頬を包まれる。
『…悪い子だね、魔女の素質は十分そうだ。でも、だからこそ約定を違えることは許さない』
小指を見せて、きっちり5歳の誕生日にと言っただろうとしたたかに額を弾かれる。先程まで、及び腰だった父の言葉じゃないだろうに。
『いやいや、約束は守るよ。だから君も、そうするといい。舌なしが世間を渡るのは、人柄だって重要なんだ』
そう言って来た時と同じく、夕闇に落ちた工房を父に抱き上げられて後にした。今日はメイドのマリアベルがおいしい羊肉を焼いてくれるよ、とか。他愛のない話をしながら、晩餐の用意された部屋に行くのだ。
壁に埋め込まれた鉱石の僅かな明かりだけで、呑まれたように暗く、先も伺えない階段を行くのは今のサロメにはいささか恐ろしいが。戸が閉まるにつれてこっくりとした闇に沈んだ工房を思い返して目をつぶる。
あれもやはり、閉まる直前に石の明かりだけ鮮やかだった。あそこにあるのは確かに不思議な光景なのに、もう彼女がそこに見るのはただの現実でしかない。踏み出し方を間違えれば、転げ落ちるような、そんな現実である。