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朝も早いと言うのに父は元気だった。彼のせいで寝不足になったサロメを機嫌よく叩き起こすと、使用人に外出着を用意させた。初めて袖を通すそれは、かつて祖母の持ち物だったと言う。不出来なヨーロッパを思わせるドレスが、黒髪の自分に着せても似合わないだろうに、父と母はたいへん楽しそうだ。
大きなつばの帽子を被せられて、父に抱えられて急な階段を下りる。手すりなんかないから、いつでも転げ落ちられそうだ。だから厳重に戸締りしてあったのか、と今より更に幼い時分を思い出す。そうして馬のない車に乗せられ、何も振動が伝わらないまま鬱蒼と茂る木々の間を抜けた気がして街についた。
その光景に絶句する。
重たげに回る水車がかき出すのは、決して清流ではない汚液じみたそれだ。道行く人が地に足をつけることなく、宙に靴を滑らせることが出来るのは、一重に魔法の恩恵に依った。自分にも用意された、地面との接触率を極限まで減らした華奢なヒール。喉元に覆うように絡むドレスの襟元。たおやかに口元に添えて、顔を隠す羽根の装飾のついた扇。ご婦人から濃厚に香る、花を煮詰めたような油の匂いも。
その用途が何から来ていたのか。発展した理由だとか。実際に必要に駆られて使う身になって…やたらと世界史に熱を上げていた教師と一緒に思い出して、かつて押見透子だった少女は絶望を覚えて愕然と息を吐いた。
「く」
3歳…彼女は今日初めて、父と連れ立ってこの国の基準で豪奢と言える屋敷から足を踏み出した。それまでの過程で世が大真面目に魔法を研究する、彼女が想像もしなかった構造であるとも知っていたし。舌もないのに雄弁な父が、魔法使いの一人とも知っていた。しかしそんなことはどうでもいい。
『く?』
父が、面白げに彼女の一音を拾う。
一応は淑女として振る舞うことを要求される家に生まれた彼女は、素晴らしい発音と称されるらしい言語を習得することを迫られた。靴磨きの男だとかがよく裏で口にする言葉は、品性に関わるので忘れなくてはいけない。…そうは知っていたのだが。
呆然と馬車の窓から街を覗き見る自分に、浮く人を指してあれは靴屋の魔法だねと。音を出さずに父親が笑う。
踏まずに済むんだよ、色々。
「街中くそまみれじゃん…撒くなよ…」
編み出す前に町内環境正常化を求めたい。なんで住環境と靴をどうにかしてそれで終わりなんだ。撒かなきゃいいだろう、そんなもんを。
いけない子だね、狭い馬車に父の快活な爆笑が鼓膜だけに響く。その無防備な腹を蹴りとばすことを耐えたのも、いくら拭き取ったとはいえ、馬車に乗る前に踏んずけたあれやこれやを思い出してのことだ。自分の理性に泣いて感謝してほしいくらいである。実際それで泣く羽目になるのは、洗濯係のユーティアだけど。
強い眩暈を感じたのが、血圧の変化かアンモニア臭によるものか。少なくとも思い出せる限り、彼女は一日歯を磨かないか風呂に入らないだけで理解に及ばないものと遠巻きにされ、消臭グッズが群雄割拠し、清潔感がひとまずの印象を決める国に生を得た。
風呂、と口にするたび死にたいのか、と必死に諭される現状をあまり理解していなかった。ここに至るまで希望を捨て切れていなかった彼女には、まずこの現実に耐えきれなかったと言っていい。
軽やかな音を立てて、橋を行く馬車でもはっきりと臭気が届く。間違いなく、今しがた誰かが窓から捨てた汚水が順調に川へと流れ込んでいるのだ。しかし…これは仕方がない。こんな水で、身体を洗えるはずがない。そろ、と散々風呂に関して我儘を言った気もする父親は、だよなぁと微笑まし気に頭を掻いた。ふけが、落ちる。
母に丁寧に油でくしけずられて固めた自分の髪も同様、と知っていたから。帽子で蒸れる頭にかゆみがあっても、おいそれと手は伸ばせない。
ぞわぞわと背筋が泡立つのは、確かな嫌悪だけれど。自分も同様に身を清める機会から遠ざけられている。
迂闊に身動きを取れば、服の隙間から不快な臭いが鼻を刺すので自然動作はゆったりとした淑女を真似ていた。
『…それで、君は魔法使いになるんだね?』
父の問いかけは断定であった。世の仕組みを変えるより先に、自分が変わった方が早いと知った年頃は以前でもう過ぎている。ないのならば作れ、と。そのための力が、目前に放り出されているならば躊躇っている場合ではなかった。
「わたし、まほうつかいになりたいです。…だからしたぐらいすてる」
『精霊に捧げると言いなさい。聞こえはいいからね』
結局馴染まないままだった、今世の割と高い声。味わう程でもない、固いパン。変な臭いのする水に、濃く茶葉を煮だしたものだとか。彼女に取っては、風呂以上に惜しむほどの物ではない、と思わされる程現状が辛かった。
大丈夫、と父が笑う。何となく、悪い遊びに誘う男に見えたし。多分それで合っている。
『魔法使いは、とことん人生を楽しみたい人間にしか務まらない。僕の娘だ、君には才能があるよ。これから享楽に生きるんだ、でないとたちまち気が狂って死んでしまうからね』
妙にうきうきとした父に、そっと背を撫でられる。言葉通りに一通りの享楽を楽しんだ彼は、母に捕まるまでにレディの扱いを心得ていた。きっといつかにご婦人の頭を気安く撫でて、ドレスに振った落屑にひんしゅくを買ったのだと思われる。