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軽い調子でたいへん重い

やっと生まれてから3年経った。元いたのと異なる世界なのだと悟って、諦めに達するには十分な期間である。異界への恐怖と怖気に泣いたのは、夜泣きとしてあやされるだけで済んでいた。


特にそうと知らせる存在もないので。結局自分が何故ここに生まれて、これから何をすべきなのかは分からないままだが。それは以前生きてきた時とそう変わりない。だって思い出される自分は、確か流されるままに楽しんで生きた卒業間近の大学生で、割とどうしようもない不幸があって、特に何も成さないままに死んだようだ。親不孝、と片付けてほしい人生なことだけは確かである。


迂闊に家族と故郷を思い返せばきっと死ぬほどつらくなるだろうが、それは彼女のやるべき仕事が忘れさせてくれていた。ひとまず赤ん坊として生まれたからには、成長しなければならなかったのである。理性があっても、本能は彼女に手足を咥えて自身を認識し、何気ない動作の中で筋肉を得るべきだと伝えていた。

だから簡単に眠くなる身体と格闘しながら月日を経て。成熟した眼球で景色が開けて、歩けるようになり、自力でのトイレがあまり失敗しなくなっただけでも。たいへんな一仕事を終えたと幸福になれたのだった。


そして3年経過した中でも、定期的に湯を浴びることはできなかった。浸からなくたって、髪を濯ぎ、身体を拭くこと自体が月に数度あるかないか。痒さを覚える頭に耐え切れず、髪に指を差し入れれば爪先に香油の残骸と垢が付着するばかり。


かつて清潔を謳い、湯に浸かるのを至福と称する民族として生きた彼女の限界は近いが。そこだけを我慢すれば、あまりこの世界の生活も悪いものではない。いや、そこだって出来れば我慢したくはなかった。それでもここから抜け出して、元の世界に戻ることを切望する気にならないのは、確かに自分が死んだとへの自覚があるせいじゃなかった。


足りないものしかなく、馴染みのものだってなくても。彼女は確かに幸せだったのだ。





透子に新しく与えられた名は、サロメ・ブランヴィルとか言うらしい。踊りの褒美にいとしいひとの首を所望する王女に酷似していたが、件のオペラもこの世で成立していないのが彼女には幸いである。家族から愛情を持って、時に使用人からたしなめて呼ばれるそれは、真っ先に耳に馴染んだ音だ。そして未だにうまく発音できず、微笑まし気に見られるのは普通に恥ずかしい。


『サロメ、いらっしゃいな』


「はい、かあさま!」


返事は上品に、明瞭にと教えられている。朝食の後、母に手招かれてよたよたと近寄れば、初めてこれまで獅子脚しか見えなかった赤い布が張られた椅子の上に乗せてもらった。


その途端、まだ狭い視界に広がるのは今の彼女でも純粋に心躍る光景である。豚毛の櫛、絵筆のような化粧道具。華やかな装飾の瓶が立ち並ぶそこは、どうやら母の鏡台らしい。彼女が生きた時代ではアンティークと呼ばれる意匠の品々は、まだ新品として艶をもってきらめいている。


なんで大事な鏡台まで呼ばれたのか、と首を捻ってから。メイドのマリアベルが湯気を上げる盥を持ってきたので行儀よく足を揃えてお座りをする。


どうやら今日は待ちに待った、母による『髪を洗う日』らしい。


髪の手入れは週に3度ほど。母親が手ずから手入れするのはあまりないことなのだと、乳母のベリルは言っていたけど。本当だとしたら恐ろしい話だ。透子はこの時間があるから、風呂に入れないのを辛うじて耐えている。


母によってリボンを解かれ、湯気を上げる布で、柔らかく髪についた古い香油を拭い取られるのが心地よい。生まれてこの方洗う機会がほとんどない、といって差し支えないが。この時ばかりは、頭皮の痒みも落ち着いた。


『サロメは、髪をとかされるのが好きね』


「かあさまのてがやさしくて、すっごくきもちいい」


『そういう時はとても心地いいです、と言いましょう』


彼女が死んだ頃より若い母は、こうした部分も丁寧に叱る。まだ聞きかじりの言語を駆使できない彼女は、今一つ敬語が使えていないようだ。しかし説教をしながらも機嫌よく声の調子を上げた母により、やわやわと頭皮を揉まれては返事もふぬけた。


「はいぃ」


『幸せそうにしちゃって、もう…』


ため息をつく母は、彼女の髪を絹糸だとでも思っているのか、扱いはとても丁寧である。そして何より、手間がかかることに楽しそうであった。無駄に抱えた記憶が、役立つことはあまりに少ないけれど。こうして貴重な宝石のように手入れされているのが、深い愛情からだと簡単に知ることが出来たのが唯一の幸いだろう。


抱き上げられてベッドに乗せられて、見える部屋の調度品は所々おかしい部分はあれど。細やかな装飾の家具に飾られた部屋から察するに、生まれた家は特別な役職こそないが、そこそこの資産家の家庭らしい。

仕事で多忙な両親に変わって家を保つ使用人が数人いた。


恐らく日本の記憶を抱えて生まれた根性なしには、願ってもないことだろう。多分農民辺りに生まれていれば、あっという間に淘汰されていたはずだ。そういう、時代だと端々でにおわされている。


そしてそれは同時に資産家レベルの財産を持ってなお、清潔を保つべく風呂に入ることは叶わないことを意味していた。彼女にはそれが一番重要なことであった。王侯貴族ですら病を得るからと風呂を忌避している、なんて話を執事のバルバドルから聞いているのでこの世に神はいない。


一度死ぬまでは、ちょっとの外出後にでさえ大量の流水で丹念に手を洗うことにより病を防止してきた。なんでそんな頭の悪い考えが広まったのか。真相を確かめられる程、彼女の世間は広くないので大人しく口をつぐんでいる。


しばらく頭皮を指の腹で柔らかに揉む心地よさにうっとりと目を閉じたり、心躍るような品揃えばかりに気を取られていたが。ようやく前方でせわしなく動く陰に目線を上げた。


…そう言えばここは鏡台であったのと、初めて自分の顔を見る機会であるとも気付く。

前世でも同様に、この家の誰もが子どもの手の届く場所に壊れ物は置かないように心得ていたからだ。

意を決して見れば少しばかり歪に映る鏡の中で、黒い巻き毛をくしけずられる子どもがぽかりと口を開けていた。


まず初めてまじまじと見ることになった顔に、ここまで混乱するとは思わなかった。前世にしがみついたような彼女は、別人となった顔を想像だにしていない。


鏡に映るのは前世と比べて幼いが彫りの深い顔立ち。少しばかり切れ上がったような目は、藻のように深い緑だ。彼女の動揺と連動するように、表情を変える見知らぬ子どもが確かに自分なのだと。受け止めるにはまだ覚悟もなかった。


造形はと言えば、あまり可愛らしい母には似ないようだ。巻き毛の髪は母である。しかし髪と瞳の色合いも父なら、面立ちも父に似たのだと思われる。丸っこいが端が切れ上がったような目は蛇に似て、薄い唇はあまり可愛げがないように感じた。注釈すれば、父は風貌と所業が相まってたいへん胡散臭い男である。


『サロメ、お口が開いたままになっていますよ』


だと言うのに、優しく指先で口元をたしなめて、母と名乗ったひとはいとしいものを見るように笑うから照れる。亜麻色の巻き毛を丁寧に後ろで結った可憐な女だ。歳は20代の前半と聞いているが、初めて鏡を見たものね、と透子を知りはしないのに的確に言い当てる母の洞察は深い。


ただ、口元がほほえみを称えて動かないのに。明瞭に鼓膜へ声が響くのは何故か。…うまく口が回らなくて聞けないのは惜しいことだ。


『すっかり髪も伸びたわね、香油はラフシュリの香りが似合いそうだわ』


らふしゅり、と舌の回らない透子は、今日の朝食に出たでしょうと言われて四角い橙の果実を思い出す。薄い果皮をナイフで剥いて、歯を立てれば難なく沈む柔らかな実だ。甘味の中にほんの少し酒のような深い旨味を感じる実は、確かに口内に転がしておきたいくらい素晴らしい芳香であった。


例えるならば向こうで言うマンゴーを強い酒で漬けたみたいな、と。考えかけたことをそっとやめた。とてもおいしかったとだけ口にすれば、また出してもらいましょうかと母が微笑んだ。こうして元々知る薄い知識に、こじつけて思い返そうとする癖はまだ、直らない。


「かあさま、わたしいろんなことがしりたいです」


最近しみじみとそう思う。例えば故郷として真っ先に思い浮かぶのが、まだ見ないこの国であれるように。家族として共有するのが、互いに触れて知った物事しかないように。短くはない年月を、彼女に取っては見ず知らずの夫婦と言えど、深く愛されて生きてきた。この世界と関わりのない前世に囚われて、見落とすには惜しいことだと。流されるままに積んだ年月でも知っている。


『そうね、もうちょっとしたら私の仕事も覚えてもらいますからね』


小さい頭でどんな決意をしたのか知らないはずだが、母はいつもの茶色ではなく、とっておきの緑色のリボンを結んでくれた。はい終わり、と椅子から抱き上げられて、ふと両親の仕事を知らないことに気付く。

使用人との話では父は建築に携わっているようだが、母は何をしているのだろうか。


「どんなおしごとをしているの?」


『そういう時はしているのですか、と言いましょうね』


「どんなおしごとをしているのですか」


『よろしい。そうね、あなたのお父様も、私も   なのですよ。お父様は家を作って、私はご婦人方に香油を調合しているのです』


知らない単語が出て来ると、理解に時間がかかって困る。


新しく覚えているのは歌うような言語だが、日本語と違い、単語を知らなければ推測も理解もできないことが難点だ。その二つの仕事はつながるものだったろうか。


首を傾げた透子に片目をつぶって、母は一つだけ香油の瓶を手に取った。

陽を通さないようにとの目的か。大抵の茶色い小瓶は、理科室でよく見ると称すには、形が酷く美しく繊細だ。これは木を模しているのか。柔らかな流線が枝葉を形取り、葉の形にカットした緑の薄玻璃が貼ってある。


何をするのかもわからないまま。透子が母から目を逸らせずにいると、食事の時以外で初めて母の口が開くのを見た。意味を成さない喉音が歌のようなリズムで部屋に響いていくなか、赤い口紅を塗った口唇の奥を間近で垣間見て息を呑む。


口腔のどこを探しても、本来あるべき、声を明確な語として発するための器官が、自分の母には欠けていたのだ。


舌がないことに唖然とした透子は、母の発する音に応えて、手にしていた香油の瓶が不穏な音を立てて揺れるのに気づく。瞬く間にぐねりと火に焼かれたように身を溶かしたのを、当然のように扱って。母は小瓶を少しの間、宙を跳ねるうさぎに変えてしまった。


思わずはしたないのも忘れて、軽やかに身体を捻り容易く跳ねるのをすごいと叫んだ。


まずありえないできごとには諦めている。加えて異常を扱うのは優しい母だ。恐怖と受け取るには難しかった。


たった一人の観客の賞賛に満足そうに、うさぎは二足で立って辞儀をした。母が歌うのを止めれば、たちまちにうさぎは茶色い小瓶に戻る。


「かあさま、すごい。すごい!やっぱりこれってまほうなの?!」


『サロメ。我がブランヴィル一族は大抵【舌なし】なのですよ。舌を捧げ、精霊たちに助力を乞う。魔法を使う者たちです』


少しばかり言葉が変わった舌の名詞と、『ない』の意味を掛け合わせた単語であると教えられる。魔法と言う言葉は、本で読んで知っていた。魔法使い、とは言わないらしい。


とんでもない物を見せられた気もするのに、騒ぐ胸の内は恐怖ではなく確かな高揚だった。やはり、魔法なんてもの扱うには相応の代償が必要なのかと、知った顔で頷く自分は相当呑気だったに違いない。


力を得る以上律する精神を身につけなくてはね、と微笑みかけられて舌の根が縮んだ気がした。その、言い分から察するに。


「かあさま。わたしも、まほうつかいになるので、すか…?」


歯切れがよろしくないのは、決して舌が足らない訳ではなかった。


母によってたいへん誇らしげに語られるそれに、馬鹿なことを聞いている気がして。改めて聞くのもためらわれたからだ。


自分も、無くなっているそれ、この、すさまじい衛生環境で手術なりなんなりして、引っこ抜くんですかと。


『そうですよ、サロメ』


さしもの母も、この時ばかりは察しが悪かった。舌なしであることにたいへんな誇りを抱いているようだ。

素晴らしいことである。透子に真似ができるかは別の話だ。

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