俺の逃走、飢喰のシャーデンフロイデ
異形の手は、牙の生えた腸詰めの様に見えた。シャーデンフロイデの腕から飛び出した肉が、宙を舞った俺を食いちぎろうとする。
やぶれかぶれだ。身動きも出来ない為、先ほど通用していなかった闘技:硬御を使って少しでも生存率を上げる。奴の攻撃力は、今まで防いで来れた俺の全盛期の防御力を凌駕する以上、対処の不足感が否めない。
しかし噛み付きが差し迫る前に、柔らかい感覚に包まれて俺の重力がぐんと下降した。人の腕に抱えられて回避させて貰っている。パルダだった。俺の一手は無駄ではなかった様で、押しつぶそうとする肉腕から解放されて俺を助けた。
「大丈夫でございまするか」
「動けるが、ちょっと、想定から……外れ過ぎた」
しかし何だあれは。身体の一部が膨らんで伸縮自在に攻撃を仕掛けてくる。しかもその一撃は俺の防御を簡単に越え、二人がかりの竜人を単純に捻じ伏せられる程に強靭で、頑丈だ。
極めつけに、攻撃をした部位が瞬く間に再生するし、更にはそこから増殖するみたいに肉腕が出て来てすぐに反撃が来た。アメーバみたいに形を成していない。
「自動反撃、とでも思ってくれたまえ。攻撃してきた者を吾輩の意思とは別に反撃する。これには自分でも手を焼いてね。加減がむずかしくて大抵殺してしまう。気を付けたまえよ」
伸ばしていた肉腕をずるずると戻し、元の人の腕の形にして飢喰のシャーデンフロイテは言った。
「ご丁寧に解説ありがとよ。自分から手の内を明かすとは余裕の表れか?」
「いいや? 慈悲だよ。自ら死へ向かう様な真似は、敵であっても忠告したくてね」
「ハッ紳士ぶりやがって、人の皮を被ったクリーチャーが」
奴の体を名で表すと、男は薄く笑った。そして、片方の目元から頬に掛けて顔の皮膚が裂けた。
縦に牙の揃った口が産まれた。野太く声を出す。
『ヘハァ、ゴブリンガデカイクチタタキヤガル。クイテェナァ、リュウジントカイウトカゲモコウブツダクイテェナァクイテェナァアア。クイテェェエエエエエ--』
「おっと失礼」
シャーデンフロイデの人の唇とは別に、斜めに開いた切れ込みが本人とは関係なくしゃべりだした。
奴はその口に手を当て、ジッパーを引くように上げていく。すると、そのしゃべる切れ込みが消え、端麗な顔が戻った。
「ほんとにバケモンか、アイツ」
「そんなことはいい、ヴァジャハで学んだ。直接攻撃でダメなら」
レイシアが手を前に出した。アレイクも続き、ロギアナも杖を構える。
「魔法ならどうだ! 雷天撃波!」
「業火爆砲!」
雷撃と炎は騎士二人の下級魔法。そしてロギアナの前にはなんと、三種の魔法が浮かび上がる。
「疾風拳弾、岩土放射、水塵流壁」
風の投擲、土の支柱、水の奔流が同時に展開された。彼女は複数の魔法を一度に扱えるらしい。
「俺も射る! 剛天!」
矢をつがえた狩人クライトも、弓の闘技を放つ。魔法や矢が一斉にただずむシャーデンフロイデに迫った。
奴は回避も防御の動きを取らない。ただ、数々の遠距離攻撃を迎える姿勢でいた。
『アハァイタダキマース』
シャーデンフロイデの身体に変化が訪れる。黒のフロックコートの至るところから、牙の並んだ口腔が開く。全身に大口を広げた有様は、ハエトリ草に似ていた。
「や……ろう……」
俺はその後に起こった一部始終に、以降の声を失った。
「吾輩はシャーデンフロイテ。飢喰のシャーデンフロイデ。全てを喰らう業を与えられた者」
反逆者の複口腔に、仲間達の魔法が吸い込まれた。丸ごと食いやがった。何の躊躇いなく、全てを。
唯一、シャーデンフロイデに届いたのはクライトの闘技で放った一本の矢。肩を貫く。
しかし、穿たれた部分の肉が盛り上がり、新たに生えた口により矢はゴリゴリと音を立てて咀嚼されて取り込まれた。
「吾輩の前では、あらゆる物が食事の対象なのだ。君達の魔法も、君達の存在までもね」
『クイタリネェエエナァ、アンナンジャァゼンゼンミタサレネェェヨ』
『ハラガヘッタヨォオオオ! ハラガァアアア!』
「我慢しろ。お前らはでしゃばるなよ」
勝手に口走る自らのあぎとへ、奴は諌めていた。自分でも御しきれていないのだろうか。
「それより行くぞ。吐き出せ」
あぎと達が大きく息を吸い込む。ヤバい、ということだけが分かる。
「皆、逃げ--」
「吐瀉反射」
火、水、風、雷、土。先程レイシア達の放ったと思わしき魔法が濁流となって押し寄せた。
碑文が跡形も無く崩れる。
「ちきしょう……! デタラメだっ。反逆者って奴等はどいつもトンデモねぇ能力を持ってやがる」
迫って来た魔法の反撃だが、咄嗟に動いたロギアナの土魔法による壁で相殺し、その隙に逃亡していた。巫女を連れ、どうにか難を逃れた俺達は遺跡の入り組んだ通路を逃げ回る。正直ゴールは考えていない。ただ、奴との距離を引き離す事が先決だった。
「何なのじゃグレン、おぬしと奴との会話の半分も理解出来なかったんだがの。あやつは一体何者だ?」
シャーデンフロイデ狙うトリシャを抱き、翼を広げ限られた空間で滑る様に飛んでいるアディが言う。
「詳しい事は省くが、野郎は元人間で、見てくれの通りバケモノになったらしい。どうしてあんな風になったかは俺も分からん。ヤバさは以前俺が話したヴァジャハの時と同じだ。一人で国一つ落とせるんじゃあないか」
反逆者とやらの個々の能力は異なる様で、死のヴァジャハの様な即死の呪いは持っていない事が幸いだ。だがその代わりに、ヴァジャハの様なぬるい戦闘能力ではない。
「ううぅ……」
大柄なオブシドに担がれて呻くヘレン。さっきのシャーデンフロイデの反撃で打ちどころが悪かったのだろうか? 俺が様子を伺うと、どうやら折れた剣の柄を見てわなないている。
「お、俺の大事な剣が……英雄の剣が……」
「兄者の剣は普通の武具屋で売っていた物の中でも比較的安価な剣だ。気にしなくていい」
クライトの注釈を受け、とりあえず無事を確認。大丈夫、誰も逃げ遅れていない。
「先ほどは油断しましたが、もう醜態は晒しません。それと、ヘレン殿」
オブシドは並走しながら自分の腕にびっしりと生えた黒鱗を一枚引っこ抜く。その鱗をぎゅっと握りしめると、手の中で大きく形を変えた。黒い、刺々しい剣になる。
「武器を失えば戦闘に苦しい想いをするでしょう。パルダが全身を凶器にして闘うのであれば、私は武器を生み出せます。こんな物でよろしければ」
黒竜の男は嘆いていたヘレンに漆黒の剣を手渡す。竜人が扱う変化の応用は、鱗一枚でも出来る物の様だ。
「う、うむ! 黒竜の竜人の作った剣か、これは良い物だ! 感謝するぞオブシド殿! もう大丈夫自分で歩ける!」
現金な事に前より質の高い剣を貰い、既にかつての愛剣を忘れ去って立ち直る未来の英雄ヘレン様。というかそのデザイン的に完全に魔王とかそっち側の奴が持ってそうなんだが。
「でもどうしたもんですかねぇ。あの人に--人じゃないけど--どうやって太刀打ちすればいいんでしょう。下手に攻撃したら返り討ちにされるし、魔法もダメなんでしょ?」
「確かに、並みの力じゃこっちがやられる」
アレイクの言う通りだ。物理攻撃を軽々と弾き、あらゆる魔法や遠距離攻撃も吸収してしまう。そしてどちらにせよ、その後に反撃が待っている。
「考えられるとすれば、反撃する事も出来ない程の超火力を叩き込んで一瞬で終わらせるしかないだろうな」
俺の最大手は威力に特化した火の付与と多連崩拳を組み合わせた紅蓮・多連崩拳。ヴァジャハを圧倒したこの技だったら、アイツにも通用するかもしれない。
反面リスクも高く、俺の中の魔力を湯水のように消費する。失敗すれば何度も挑戦できる芸当ではない。
だが、それは最終手段だな。俺達はこのまま逃げ切れれば無理に戦闘をする必要は無い。ずらかってしまえばこっちのもんだ。
「巫女さん連れて遺跡を出られればそれに越したことは無い。別に倒さないとならない理由は無いんだからな」
「だがお前はそれで良いのかグレン?」
レイシアが横槍を入れる。くっころ騎士がそうするのは、俺自身の事を思っての反論。
「肝心のお前の呪いを解く方法は、これでまた水の泡になるんだぞ? 奴を伏し、解呪の手段を聞き出す……そんな一縷の可能性を捨ててしまって構わないというのか」
「それは決裂した時点で、諦めたよ。下手にあのバケモンとやりあって誰かがこの場でやられる事の方が問題だ。むしろすまねぇ。俺の身勝手な行動で、敵対させちまった」
「グレン!」
「口論してる余裕はねぇ。そういうのは危機を乗り越えてからじっくりやろうや」
今一番危惧している事はシャーデンフロイデに追われる事ではない。奴より早く、動かなければならない。
「いいかいけつほうほうがあります」
されるがままに連れてこられたトリシャが発言した。
「あの人のもくてきはトリシャです。トリシャをさし出せば、あの人はゆるしてくれるでしょう。トリシャもどうせ長くは生きられません」
「おぬしのう、まだそんな……」
「トリシャは死なないといけないのです。それにこのまま生きのびたとしても、村にはもどれない。トリシャをうけいれてくれる人はいない。だから、このままほおっておいてもいいんです」
己に関わる問題で嫌とも言わず、ただ提案する。彼女に己の意思が無い。人形みたいに誰かに動かされるのを待っているみたいだった。
『その通りだよ。彼女にはもう生きる理由が無く、生きられず、身寄りは無い。これは慈悲なんだ』
遺跡の複雑な回廊に反響するシャーデンフロイデの声。奥の曲がり角から、影が見えた。だが人のシルエットではなかった。
蛇の様に細長い肉塊が、ぬっと顔を出す。先端の裂けた口腔で奴が言葉を発する。理知が滲むあたり、当人が操って話している。
「慈悲だと?」
居場所に気付かれた。野郎はどうやらこういう肉腕を枝分かれに伸ばして片っ端から探し出していたのか。先にある退路を確認しながら、俺は言葉を返した。
『誰にも認められず、そのまま生きていても路傍のゴミの様に扱われて死んでいくのを待つだけのさだめだ。だから、吾輩が一思いに楽にしてやろうという話なのだよ』
「嘘つけ、そりゃあただの建前だろうが。おたくがそんな事の為に動くとは思えねぇ」
『嘘ではない。もちろん目的も含めた上での行動だがね』
俺達は奴から逃げるべく走った。肉腕も追って来る。そうしながらも会話が続いた。
『吾輩の目的を話そう。吾輩にはその巫女が必要なんだ。死の呪いを取り込む為にね』
「ハッ! 何の為に? まさか自分から死のうってか?」
『その通りだよ』
飢喰のシャーデンフロイデは思いの外肯定した。一瞬立ち止まろうとしたがそれが狙いかと考え、思い留まって足を動かし続ける。
『吾輩は望んで反逆者になった訳では無くてね、そのまま人だった時では考えられない程の長い時間を過ごす事になった。寿命が来ない程生命力が暴走していて、不老不死に近い状態なのだ』
奴は身の上を本当に不本意そうに話す。
『色んな事を試したよ、毒を飲み、戦争で殺されに向かい、崖から身を投げた。飲まず食わずに過ごした年月もあった。だが、死ねなかった。吾輩の飢喰が無理やり吾輩を生かそうとする。溢れる生命力が命の危機をはね退け、己の意思とは別に敵を滅ぼしあるいは食らってしまう。吾輩は死にたいのだ。死ねる為の手段を模索している』
生きる事が地獄の様に、語る。死ねない苦しみを。
人類の夢ともいえる者になった男は、それから解脱するべくして此処までやって来たという。
「それで、死の呪いが必要だってか」
『まだ、可能性の一つだがね。ヴァジャハの奴から死の呪いを受ける事を考えたが、食って来た複数の命を持っている以上、即死では死にきれず抵抗して来た奴を殺してしまった。害意も無く、呪いと同化すれば不老不死に近いこの身も終わらせられるかもしれない。だから--』
俺の行く手で、通過した直後に足元の地面が割れた。一際巨大なトラばさみの様に口を大きく広げた肉腕が、トリシャを抱えるアディを狙う。
『その子を食う必要がある。罠獲の顎』
ばっくりと、肉腕のあぎとが閉じられた。




