俺の到来、竜と前触れ
日が落ち、とぼとぼとアルデバラン王国にある宿へ戻る為に俺は平原を歩いていた。アレイクには非常に感謝されたが、行き遅れという話を秘匿にするという事情が事情なのでホーデン伯爵はただ中止になった事を嘆いていた。あの時思わず言ってしまったが、それで延期になったのはなんだか申し訳ない。
とんだ寄り道だった。俺はもっと早く戻るつもりだったがこんな時間になってしまった。女中のハンナさんは俺の帰りが遅いと心配しているだろうか。
まぁ、過ぎたことは仕方ない。気を取り直して依頼でもこなしていこう。
実力としても周辺の魔物や並みの冒険者達程度なら搦め手なしでも対処出来るくらいに安定して来たが、慢心は良くない。レベルを上げなおす時に初期状態に戻れば危険だし、何よりもっとヴァジャハの様に強力な相手が出てきては心もとない。
とはいえ、いきなりドラゴンと出くわすようなこともないだろうし、危機が差し迫ってはいないだろうから焦ることなく堅実に実力を伸ばしていこう。
「ん?」
俺以外の誰もいる筈のない場所で、俺は何か気配を感じた。魔物か? そう思って振り返った先、
遠くから、何かシルエットが俺の目に映った。それはどんどん大きくなってくる。早い。逃げ切れる様な速度じゃない。なんだ?
思わず身構えて臨戦態勢を取る。シルエットはくっきりとする。そして距離があっという間に十数メートルにまで縮められた。移動速度が音速の様に出鱈目だった。
月光にそれは反射していた。蛇や魚類の様な鱗。体躯は5メートル相当。4本足の胴体に、しなる尾。翼は無い。一角の角が生えた獣の様な骨格の魔物は--
「ドラ、ゴン……? こんな場所で……!」
その現実離れした造形に、俺は目を奪われる。大自然で偶然生まれた氷の彫像の様に冷美な姿を見続けるだけで時間が引き延ばされる。美しき魔物に見とれてしまった。
そこでハッとする、シャレにならない。唐突に此処までやって来るとは予想外だ。本当に出くわすなんて誰が考える? この付近の生態系に、こんな奴は生息しないはずだ。
全身が白銀の様に美しい4足竜は、青い瞳でこちらをうかがっている。その角で、俺を串刺しにでもしようってのか。
だが、獣骨格の一角の白竜は俺に対する関心を一瞬で失った様に、再びあらぬ方向で走り出した。あれだけ目立つその巨躯が、奥の森の木々に隠れてあっという間に見えなくなる。なんて素早さだ。
30秒にも満たない出来事だった。俺はそのドラゴンに手も出す事も出来ずその場に取り残された。何だったんだ、アレは。
「それは噂の幻獣の竜ですね」
「幻獣の竜?」
その後何事もなく無事宿に戻れた俺は、ハンナさんにこの事を話すと思いのほか心当たりとして返って来た。
「ここ数年ぐらいからアルデバランだけでなくあちこちで目撃されている正体不明のドラゴンですよ。とても素早く、誰も捉えられることが出来ないそうで、かといって特に実害の報告されていない魔物ですよ」
「確かに滅茶苦茶素早かったな。すぐに見失ったし、馬でも全然追いつけないぞあれじゃあ」
「無害であるのとアレと遭遇するのも稀な事から、縁起の良い出来事の前触れとして担がれてるぐらいです。グレン様も相当運が良かったんですね」
「まるで麒麟だな」
首を傾げるハンナさんをよそに、俺はいまだ脳裏に残るあの竜の姿を思い返す。アイツに敵意といえる物は確かに感じなかった。一体何なんだろう。
「何にせよ無事で良かったですよ。今日はもう遅いですしお休みくださいませ。明日は御来客の予定がございます」
「俺に客? 誰よ?」
「お忘れですか? 傷の診断にお医者様がいらっしゃるんですよ」
そういえば、そういう話もあった気がするな。でももう完治してるから大丈夫だと思うけど。裂傷も既に塞がってて、痛くないし。
でもハンナさんの事だから、しっかり診て貰わなきゃダメと口酸っぱく言われそうだから大人しく頷いた。
そして翌朝、約束通り宿に街の医者が訪れる。口髭を蓄えた壮年の男性が俺を見て一言、
「ふぅむ。患者がゴブリンというのは初めてなんだがね、診るのは怪我だけで良いだろうか?」
「さっさと終わらせてくれ。どうせ大したことないだろうから」
交換する度に小さく巻いていた包帯を解き、俺は鎌によって傷を負った肩まわりを見せる。
やはり傷は既に塞がっていて、そこが黒い瘡蓋になってるくらいだった。しばらくすればそれも消えるだろう。
「んー、内部がまだ少し治りきってはいないねぇ。というか、開いた感じだ。君、何か激しい運動でもした?」
「あーそれは」
心当たりはある。この前アバレスタでひと悶着した時、プリムをお姫様抱っこして走り回ったりしてた。その時少しだけ痛みがあったが、あんまり気にしてなかった。
「ま、確かにほっといても治るだろうけど、言った通りさっさと治癒魔法で傷を埋めちゃおう」
「てことは、光属性持ってんだ」
「当たり前だよ。医者なんだから使えないと」
そう言って俺の肩に医者が手を当てる。淡い黄金の光りが内部の傷を包む。ティエラが俺に治療した時と同じだ。
だが、その時と明白な違いがあった。
「痛たたたたたたたたたたたたたたたた!」
傷に当たる部分が、酷い日焼けでも起こした様に熱く、苦痛を及ぼしたのだ。治療の筈が、まるで痛め付けられた気分だ。
「痛いわボケッ」
「何するんじゃせっかく治してるのに」
軽くヤブ医者の頭を叩くと、逆に俺が抗議された。
「だって治癒魔法って人を治すんだろ? 何で逆に痛いんだよ」
「当たり前だよ、無理矢理傷の再生を促してれば身体が危険信号を訴えるのは普通だもの」
「でも、ティエラがやった時は全然そんな事無かったぞ。むしろ心地よかったくらいだ」
「ああ姫様に治癒してくれたから勘違いしてた訳ね。そっちが特別なんだよ」
医師は我慢しろと言いながら治癒を再開する。仕方なく俺も堪えた。
「良いかい? 姫様は光の治癒魔法を使うのと同時に水属性の魔力を併用していたんだよ」
「……水属性?」
「そう。光属性の特性の治癒で怪我を治す。そこに水属性の鎮静の特性を使って痛みを和らげてるんだよ。両方の属性を扱える人物はそういない。人を苦しめる事なく治せる由縁から、聖女と呼ばれてるの」
「えっ、そうだったのか」
顔をしかめつつ俺は説明を聞く。じゃあ本来治癒魔法は怪我を気軽に治せるもんじゃないのか。大怪我とかしたら大変だ。
「普通は治療費も取るし自然治癒で充分な時はわざわざ痛みを我慢させてまでやらないもんだ。だが君の検診は今回国から任されたからね。冒険者みたいだからすぐに治させて貰うよ」
「ま、まぁ早く治るに越したことは無いが……」
それならティエラにやって欲しかったなぁ。でも仮にも王女にやらせるというのも、俺の勝手な話だ。今回は痛みを我慢するしかない。
「……おや」
「何だ? そろそろ痛みも無くなってきたがまだ治らないのか?」
「うーん。傷そのものは治ってきたがねぇ。痣が消えないんだよ」
「痣?」
「うん。これ」
剥がれた瘡蓋をめくると内出血でもしたような黒い痣が現れた。いくら回復魔法を掛けても未だに俺の肩に残っている。こういうのに詳しい筈の医師が首を傾げていた。
言われてみれば、始めたばかりで中断した刺青みたいにも見える。勿論、怪我を負う前からこんなものを彫った覚えはない。
周りの傷が治るとその痣の全貌が明瞭になった。
小さなクモヒトデが渦巻いた様な、自然には出来るとは思えない不可思議な模様の黒点。
「何だこりゃ? 変な模様になってら」
医師の早くも痴呆が訪れた様な顔つきが締まった。
「どういう経緯で怪我をしたのか教えてくれないかね?」
「まぁ、いいけど--」
俺は医師にヴァジャハという化物との戦闘で、奴の持っていた不気味な鎌によって肩を貫かれた時の話を、出来るだけ記憶に残っている情報で鮮明に話をした。
聞いていた医師は徐々に黙りこくり、やがてそれまでのんびりとしていた口調を止めて俺に告げる。
「治癒魔法では治すことは愚か、普通の方法では治らないだろう。これはもしかしたら呪いかもしれない」
「……この妙な刺青がか?」
「マーキングタイプの黒魔術の中でもオーソドックスな奴だ。でも、見たことがない。簡単な解呪魔法なら使えるからやってみよう」
ただちに解呪の類の魔法を試みた。小金の光に肩が包まれる。
「除呪光」
しかし、痣には何の変化がない。受け付けない。
呪い。そんな発想が浮かび上がった時、俺はヴァジャハの告げた言葉を思い返した。
君は今3つの死に直面している、だったな。1つはあの大怪我。2つはヴァジャハにトドメを刺された場面。そして3つ目だけは言葉を濁された。窮地の俺には関係がない、と。
もしかしてその3つ目、というのは……
「城や教会の人間に見てもらった方が良い。呪いの類いは残念ながら専門外だ」
匙を投げた医者の言葉が重々しくなったこの場に降りかかる。
俺が竜を見た後にやって来たのは吉兆ではなく、凶兆だった。




