俺の分析、命の博打
ヴァジャハが作り出したシャボン玉の様な球体の中で、刻一刻と過去の記憶が再現されていく。火炎の中、衣装箪笥の中で怯える幼いレイシアが見たのは巨大な黒い影だった。
翼を折りたたみ、わが物顔で屋敷の廊下を横断する怪物の正体はドラゴンであった。根本で折れながらも兜の様な角を持ち、火の手の光に反射する黒い鱗。そして血にも似たルビーの瞳の下にある口元には、赤い液体が滴っていた。
嗤う様に口の端を引き、生え揃った牙には赤い塊がついている。何かの肉の切れ端だった。
グッグッグッグ、という音を喉で鳴らす怪物が過ぎ去るのを見た後、綺麗な服をした少女が衣装棚を開け放ってドラゴンとは反対の方向に走り出す。
『わあああああああああああ……! あああああああああああああ!』
屋敷を出、外にも炎が踊る世界で必死に走り続ける。途中で堪えていた嗚咽を吐き出し、顔中を濡らしながら逃げ惑った。
「や、めろ……やめてくれ」
現代のレイシアが頭を抱えていた。小刻みに震え、過去の記憶に怯えた仕草を見せた。もう、その映像を当人は見ていない。いられない。
その記憶の映像はそこで終わった。炎と焦土の世界から、深淵の景色に塗り替わる。次に現れたのは、先程見た少女のシルエットだった。暗闇に白線の様な影が浮かび、跪くレイシアの前にいた。
『どうして、あの時逃げたの?』
無垢なる少女の疑問が、現在の彼女に投げかけられた。女騎士は既に己の役割すら忘れ、叱られる時の様な身じろきをして影と向き合う。
『お母さんもお父さんも食べられてる中、何もしなかったの?』
「ち……違う。あれは、母様が隠れていろというから……」
『ひとりで逃げてとは言ってないよね』
『言い訳しないで』
彼女の言葉が詰まる。
横からもう一人、少女のシルエットが出現した。いや、さらにもう一人増える。
『何で逃げたのか、教えて』
『教えて?』
『教えてよ』
「それは……」
シルエットの少女の口調は冷たかった。彼女をなじる。
『怖かったから逃げたんでしょ?』
『自分一人だけ』
『弟も取り残して』
「違う! 何処にいるか分からなかったんだ! 誰かに助けを呼ぼうとして--」
『嘘つき』
『戻らなかったじゃない』
また増えた複数の影達が、レイシアを取り囲む。次々と心無い言葉を、彼女に吐き捨てた。
『本当は自分だけが無事ならそれでよかったんでしょ』
『だから屋敷を一人で逃げた』
『本当はお父さん達の誰かは助かったかもしれないのに』
『臆病者』
「ああ……やめてくれ……頼む、頼むぅ。許してくれ……私は無力だったんだ」
レイシアは弱々しく過去の影達に許しを求めた。だが、子供たちは残酷だ。
『ほら言い訳した』
『また自分だけ楽になろうとする』
『最低』
『ひとでなし』
『親不孝な子』
『何もなかったみたいにのうのうとしてて』
『悪いのは魔物だけじゃない』
『逃げた貴女だって悪いの』
『悪いのよ』
『それを全部押し付けて』
「そんな……。私はそんなつもりじゃ……」
糾弾に彼女は喘ぐ。過去の傷痕を掘り返され、そしてその痛みに影が責める。
「隊長!」
骸骨の怪物が手を伸ばした。余計な真似をするなと制止する。
「今良いところ何だから。邪魔するなら、殺すよ?」
『皆の代わりに貴女が死ねば良かったんだ』
『そうよ、死んじゃえ』
『卑怯者は死んじゃえ!』
『死んじゃえ!』
『償ってよ』
『卑怯者!』
『臆病者!』
「いや…………いや……」
レイシアの目から涙が伝う。それを見た影達の口元に、三日月の様な亀裂が入った。
『誰も貴女なんか欲しがらない』
『要らない子』
『愚かしい子』
『死んじゃえ!』
『卑怯者!』
「やめ、やめて……!」
『また逃げるの?』
『死んじゃえ!』
『臆病者!』
『貴女が死ねば良かったの』
『ひとでなし』
そして、目と鼻の先に最後の影が立ち昇った。短い髪をした少年のシルエットだった。幼い子供の恨みがましい声が、トドメをさす。
『酷いよお姉ちゃん。痛かったよ、怖かったよ、熱かったよ。僕を置いて逃げるなんて酷い、酷い酷い酷い酷い酷い酷い酷い酷い酷い酷い酷い酷い酷い酷い酷い酷い』
「いやぁああああああああああああああああ!」
レイシアの心は折れた。遂にあげられた悲痛な悲鳴を聞き、ヴァジャハ満足そうに手を叩く。
「あははは! 良い! 最高の余興だ! こんなに心地よい絶望の声を効くのは久しぶりだねぇ!」
下越しらえの準備を推し進める悪魔は待ち遠しい様子で、項垂れて泣き崩れる彼女に手を伸ばす。
「此処まで来ると魂もさぞや美味なんだろうねぇ! ああ我慢できない! けどもっと苦しめればもっと美味くなるかなぁ! ねぇ教えてよ! 他にも苦しい経験はあるなら隠さず曝け出してよねぇねぇねぇ!」
「もうおやめになって!」
「ティエラ! よせぇ! 近寄ってはならん!」
その場から飛び出した王女を国王が血を吐くように呼び止める。だがティエラは耳を貸さずにシャボンの泡膜の中に割って入る。
彼女の両手が触れた途端、今まで保っていた暗玉が破れて弾けた。暗転した部屋が元に戻り、目前のヴァジャハにも構わずレイシアの元へ駆け寄る。
ダメだ! ソイツの前にいたら気分一つで即死させられる!
「お前まさか!? 指名絶命!」
俺の心境をよそに、ティエラはヴァジャハの目前にまで迫り、指先を向けられて死の宣告が言い渡された。
が、ティエラの身には何も起こらなかった。彼女自身は無我夢中でレイシアを介抱していて気づいていない。ヴァジャハ自身も、驚いているようだった。
「もう十分ですわ! 貴方の目的は質の良い魂でしょう!? でしたら、質を高める以上に、元々より価値のある魂を狙うべきです!」
「……何だいそれは?」
「わたくしの命を差し出します。この国で王女であるわたくしの魂、それを貴方に捧げますわ! 恐らく、一番貴重な魂の筈!」
そう宣言して勇敢にも悪魔の前に王女は立ち塞がる。騎士として本来守るべきであるレイシアを庇って。
「僕にメリットが無い」
「いいえ。貴方は人の魂を啜るというのであれば、生きた人間でなければ出来ない筈でしょう」
懐から銀に光る短剣をティエラは抜きだした。護身用の武器なのだろうが、それでもヴァジャハに対しては心もとない。
矛先は違った。何と、それを自らの喉元へあてがう。
「取引致しましょう。わたくしの命と、庶民や騎士達の御命のどちらかをお選びください。わたくしを選べば素直に貴方に食されましょう。だが皆をまだ苦しめるというのであれば、わたくしは死を選びます。となれば、貴方はわたくしの魂を食べられない。だから、これ以上の暴挙をおやめください」
自分の命を賭けた交渉に、王や騎士達が反論していた。だが、二人を止められる者はこの場にいない。邪魔する者は、無情な死が待っている。
「交渉か。ふむ、確かに、その女騎士より君の魂の方が質は良いだろう。オードブルとメインディッシュくらい食事の目的としては優先したい」
思案しているヴァジャハ。ティエラの目と扉の内側で様子を伺っている俺の目が合った。
手を出さないでほしい。そう言いたげに覚悟を決めた視線が、出方に迷った俺の足をさらに引き止める。
「仕方ないか。高級食材の方が良いもんね。いいよ、じゃあ君の魂で我慢しようか?」
承諾したヴァジャハが、ティエラに命ずる。
「だがその前に、君はアレを持ってるだろ?」
「アレ、とは?」
「その十字架を地面に置け。僕はそれが嫌いなんだ」
悪魔として嫌悪する物だからか、王女の持つロザリオを外す事を要求した。
だが、レイシアや騎士達だって十字架を持っている筈。今更そんな事を気にする必要があるのか?
「……はい。では」
「ティエラぁ! やめてくれぇ、お前にまで先立たれては! 私は! 私は!」
王の悲痛の叫びに王女は振り返り、一度別れを告げるように頭を下げた。親より先に死を望んだことへの謝罪か。
「レイシア。優しいレイシア。もう貴女が苦しむことはないわ。わたくしが代わりに引き受けるから。大丈夫、人々がいる限り国は死にません。病弱なわたくしが、国を守る為に役に立つなら本望ですわ」
「姫、様……」
「さようなら、わたくしのお友達」
泣きじゃくっていた女騎士は、主君の最後の言葉に顔を一度上げた。
首元から十字架を外し、一度それを両手で握りしめ祈る。
「主よ、自ら生きる事を放棄するわたくしをお許しください。貴方の元へ今、参ります」
「霊魂の謝肉祭」
空色の髪をした王女の頭上で、あたかも見えないベールがあり、それを取り去るような仕草でヴァジャハを手を動かした。
すると、淡く発光する白い霞のような物が抜き出され、ティエラは倒れた。
抜け殻となった王女を前に、レイシアは更なる絶望に見舞う。
「姫様ぁあああああああああああああああああああ!」
王女の魂を手中にすると、ヴァジャハは鹿の髑髏を開いた。
「君が行くのは神の御前なんかじゃない」
ずずずずず、と音を立てて呑みこんでいくヴァジャハは大きな嚥下の後に言った。
「僕の腹の中だ」
一同にも、悲劇の余波が降りかかる。守るべき御方を守れず、さらに自分達を守られてしまったショックが大き過ぎた。剣を落として落胆する者もいた。
痛い沈黙の後、ヴァジャハはご満悦な様子ながらにこう言った。ティエラの遺体の横にあるロザリオを踏み砕いて。
「さて、次は誰にしようかな? この女騎士は取っておこう。独りになるというスパイスなんて良いかもね」
「なぁっ!? どういうことだ! 先程の姫様の約束はどうした!?」
「え? 何で食われた人間の言葉を守らないとならないの?」
あっけらかんと、至極当然の様に言い放つ。騎士達は怒りに震える。自分達はただ、姫の命を無駄死にさせるために差し出してしまったと。
「この、悪魔が!」
「悪魔は約束は違えない。でもね、僕は破れるんだ。悪魔じゃないからね」
ここぞという優越感に浸った笑い声が、王座で広がる。残虐がまた、繰り返されようとしていた。
妙だな、と俺は自分でも不思議なくらい冷静だった。何か引っかかる物が脳裏を掠める。
何故ヴァジャハは、それだけの力を奮いながらも王女の取引に素直に従ったんだ? 奴ならきっと、食べる為でも力ずくで彼女自身の自害を止めるくらい訳も無いはずだ。
わざわざ口約束してまで、直接手を出さない理由は何だ? 騎士達の心を打ちのめす為か?
それだけでは納得するには至らない。交渉と言うのは、対立する相手との最悪の結果を避ける為の手段でもある。
ヴァジャハは何かを避けようとして、取引を受けたのではないだろうか?
例えば、先程ティエラに死の呪いを誤射したが彼女には通じなかった。
例えば、騎士達もアンデッド用に用意していた十字架があるにも関わらず、わざわざティエラが持つ十字架にだけ外させていた。
例えば、その十字架だけをわざわざ踏み砕くには、何かヴァジャハに不都合があったのではないか?
出遅れたが、やるか。どうせ、コイツは全員死ぬまでこの結界を解かない気だ。もう、博打に出るしかない。
「さて、続きを始めよう。誰から食われたい? 王様? 残った騎士の諸君?」
俺は此処まで来てやっと扉から出た。鹿の髑髏への強襲。
接近する俺の姿に、ヴァジャハは振り返った。
「何だゴブリンか。大人しくしてれば、生き永らえた物を」
数メートル間近まで距離を縮めた所に、あの骨に手袋を嵌めた指先が突きつけられる。レイシアが俺を見て制止した。
「よせぇ! グレン! かなう訳が--」
「指名絶命」
不可視不可避の何かが、俺の身体を通り抜けるのを感じた。俺の全身から力が抜ける。
俺はその場で、力無く城の床に崩れた。




