第4輪:知られざる過去の支え
その日の定例議会に、珍しくヴィオードは遅れてきた。誰も理由を聞かなかったが、セリアとサラ以外は全員知っているようにも見えた。会議室に入ってから自分の席に着いても、ヴィオードはその目を閉じたままだった。
「それでは、議会を始めます……が、その前に」
ゆっくりと目が開いたかと思うと、しっかりとセリアを捕らえている。まだ状況がつかめないセリアは軽く首をかしげた。
「セリア・アイオニス。並びに、サラ・アイオニス。あなたたちは違反を犯しましたね」
予想しなかった言葉に、冷たい汗がセリアの喉もとを伝う。分かっていたはずなのに部屋中がどよめき、ヴィオードと二人の顔とを見比べていた。
「どういうことかしら」
「隠し通すことは出来ません!」
強い口調でそう言った後、ヴィオードは立ち上がった。そして右手を軽く振ると、いくつかの静止映像が現れる。そのどれもが、二人があの願いについて調べているときのものだった。情報室で調べているものもあれば、カーネルと一緒のものまである。
部屋中の視線が、冷たく感じる。
「どういうことか、説明してもらいましょう」
そう言って議長がゆっくりと座った後、セリアは立ち上がった。自分たちは悪いことをしたのではない。協力してくれたカーネルの為にも、真実を話さなければ。
「以前、私が議会に提出して保留庫行きになった、人間界、地球区からの願いに関連する『地球の環境変化』について調査をしていました。ですが、私は違反を犯したとは思っていません」
「セリア! 一体どういうつもりだ!」
こぶしで机を叩き、アクアが立ち上がって怒りを顕わにする。他にも何人かの女神が立ち上がって避難を言った。
「静かに! セリア、続けなさい」
「保留庫行きになった願いについて議会の承諾なく調べたなら確かに違反です。本当に私が違反を犯したのなら、どんな罪でも背負いましょう。けれど、今回はそうではありません。私は彼女の為にではなく、自分の為に調査を行いました。二ヵ月後にある、能力学問研究会での表彰式でするスピーチの為に」
「……セリア、それは一体どういうことなのかしら? つまり、あなたは……」
「表彰式のスピーチのテーマに、『人間界地球区環境破壊問題』を取り上げます」
そのセリアの発表に、会議室は波打ったように静かになる。セリアは調査を始める時、心に決めていた。自分は願いのために調査するのではなく、自分のスピーチのために調査するのだと。
誰もが次の言葉に迷う中で、再びアクアが口を開く。
「そのようなこと……認められん! ヴィオード、そうだろう!? 願いそのものでないとはいえ、内容が酷似している! 表彰式という重要な場で、そんなスピーチをするつもりか?」
「お言葉だけどアクア、私はスピーチのことを知ったとき、テーマは『何でも構わない』と聞いたわ。偶然保留庫行きになった願いと同じ内容が含まれているだけで、取り上げるのは地球の環境問題全般。何ら問題は無いと思うのだけれど」
「確かに」
宥めるようにヴィオードが立ち上がり、セリアに言い聞かせる。
「あなたの言う通り、テーマは何でも構わないわ。それにね、もしあの願いが、あなた以外の人の提出したものだったなら誰も文句は言わないのよ」
「……どういうことなの」
「あなたが議会に願いを提出して、保留庫行きになった時期と、表彰が決まってスピーチのことを知らされた時期が近すぎるの! 実際に城の中では、あなたたちが議会に抵抗して、自分たちだけで願いを叶えるために無断で調査を行ったという根も葉もない噂が流れているわ」
「そんな……嘘でしょう!?」
「本当よ。今は城内に止まっているからまだ噂話だと笑って済むけれど、これが学会の耳に入って御覧なさい。あなたたちが表彰式でのスピーチの為にしたことが、その表彰を取り消してしまうことになるかもしれないのよ? あなたたちの女神としての資格だって、剥奪されるかもしれないわ。そんなことになったら、あなたたち一体どうするつもり? 神王様にどんな顔を会わせるというの? アクアも私も、それを心配しているのよ。サンダーのところのカーネルだって」
ぴく、と、ずっと腕組みをして黙っていたサンダーが反応する。
「精霊としての資格を剥奪されてしまう恐れがあるのを承知であなたたちを手伝ったのでしょうけれど、彼だけの問題じゃ済まないわ。監督者責任としてサンダーにも責任が問われるのよ。……セリア、あなたたちがしようとしていることはそういうことなの。あなたたちにそのつもりがなくても、周囲にはそう取られてしまう可能性が高すぎるのよ。まだ表彰式まで二ヶ月あるわ。お願いだからテーマを考え直して」
「……そんな……」
他に新しい願いもないまま、議会は解散した。執務室に戻るセリアとサラの姿には影が落ちていて、自分たちの考えが如何に甘かったかを思い知らされた気がしてならなかった。
執務室にノックが響いたのは、その日の深夜のことだった。
「入るわよ、セリア」
机に伏せていた顔を上げると、そこには優しい顔があった。エメラルドグリーンの、肩のやや下ほどまでしかない、女神にしては短い髪の先にはウェーブがかかっている。
「昼間のこと、まだ気にしているのね」
「ウィル…」
苦笑を浮かべた「風」を司る神であるウィル・レンティは、机の横の大きな窓から外を見た。それから振り返り、優しく微笑む。
「……私は、自分が間違っていないと信じてきたわ……」
その笑顔に、セリアはぽつりぽつりと口を開いた。
「女神として、すべての世界を……すべての人々を幸せにするために生まれてきたのよ。そのためになら、どんな犠牲だって厭わないって、皆そうしてきたんだって、ずっと思ってきた。……でも、今回のことで、それは理想の形でしかないことが分かってしまった……だってそうでしょう? 私たちがいくら人々を幸せにしようと頑張ったって、それを何とも思わない、それを一瞬で壊してしまう人々がいる……それによって仲間達が傷ついて、本来の女神としての役割を忘れてしまっている……こんな悲しい現実、私は知りたくなかった……! こんなことなら、表彰なんて受けなければ良かった……いえ、違うわ……私が……神王も女神も生まれなければ良かったのよ。そうしたら、こんな悲しいこと、起こらなかった……」
「セリア!」
左頬に痛みを感じて、ふと我に返る。一体今、自分は何を言っていたのだろう。何をしていたのだろう。そのすべてを、消したくなる衝動に駆られる。
「目を覚ましなさい! あなたは私のようになってはいけないわ」
「えっ……」
ウィルの言葉に、すべてが止まる。ウィルのように、なってはいけない?
「私もね、昔、今のあなたと同じ立場だったのよ」
同じ立場、とは、どういうことなのだろう。どういうこと? と聞く前に、苦笑いを浮かべて話してくれた。
「あれは……そう、やっぱり、私があなたくらいの歳の頃よ。あれは別の世界から来た願いだったけれど、その世界も今の人間界と同じような状態だったのね。議会で審議にかけられて、同じように保留庫行きになった」
予想外の話に呆気にとられているセリアを見て、再び微笑む。
「私も何度も抗議したのよ。それでやっとの思いで、審議を通過しそうになったの」
でも。と視線を落とした先輩女神の表情は、悔しさに満ち溢れていた。
「それを見事にひっくり返す出来事が起きたの」
「それ、って……」
「戦争よ」
「戦、争……?」
本当、あの時はしてやられたわ。と無理に笑おうとするウィルを見て、不意に何かがこみ上げる。何かを口にしようとしたが、今はまだ続きを聞くときだ。
「別に、この世界に被害が及ぶようなものじゃなかったんだけどね。単なる民族同士の戦争だったんだけど、それが見事なまでに辛うじて残ってるものをすべて壊してしまったのよ。願いは保留庫にも戻されず、破棄処分になってその日のうちに破棄されたわ。消えていく光を見ているとき、何とも言えず悔しかった……」
ふと、脳裏にあの願いが蘇る。もしかしたら、あの願いもそうなっていたかもしれない。
「それだけじゃないわ」
どういうことかとウィルを向いたとき、そこにいたのは見たこともないウィルだった。辛いような、悲しいような、でも腹立たしくて、悔しくて、自分が情けない。そんな気持ちが全部その表情に表れていた。
「後に議会は、その世界の抹消を決めたのよ」
世 界 の 抹 消 。
「抹……消……?」
その言葉が、セリアの中に重くのしかかる。議会が世界を抹消したなんて聞いたことがなかった。もちろん、過去の記録にもそんなことは載っていなかった。
「議会はそれを決定した後、公表せずに極秘で抹消を行ったわ……作業としては、その世界をコピーしたような小さな光を神王が両手で潰しただけだったけれどね。光が手の中に吸い込まれて、潰されていく瞬間、私は沢山の声を聞いた気がしたわ……」
「……声……?」
「その世界の、人々の声」
そう言って、首を何度か振った。
「私たちは光が消えたのを見ただけだったけど、実際にあの世界の人たちはどうだったのか……それを考えると、今でも恐ろしくてたまらないの」
その様を想像してしまって、とてつもない恐怖感に襲われる。それに拍車をかけたのが、いくらその立場にいるからとはいえ、抹消を行った自分の父の存在だった。
もしかしたら人間界も、父によって抹消されていたのかもしれない。
そう考えると、心の底から震えが襲ってきた。そんなセリアを見て、ウィルが謝った。
「ごめんなさいね。あなたの親は神王だったのに」
「そんなこと……! そんなこと、全然、構わないわ。それよりも……」
その後を察して、彼女は続ける。
「小さい子もいたでしょうし、やっと病が治った人もいたかもしれない。その人たちの未来があの一瞬ですべて奪い去られてしまったの。何も気付かぬまま、当然埋葬だってされぬまま、罪の無い人までがその命を奪われたのよ。それだけじゃない、議会はその世界のことについて何も記録を残そうとしなかった! あの世界の名前すらよ? ……私も、抹消からしばらくして記憶の隠蔽を受けたわ」
「記憶の、隠蔽ですって!?」
「えぇ、そう。あの世界に関するすべての情報を隠蔽されたの。でも私は自力で思い出した。深く深くに術者によって沈められた忌々しいあの記憶を、自分の手で取り戻したの。もちろん、思い出したことは誰にも言ってないわ。今あなたに言ったのが初めてよ」
誰にも、という言葉に反応すると、大丈夫、大丈夫、と苦笑して手を振った。
「あなたが誰かに話すとは思ってないし、話すなと言うつもりもないわ。それはあなたが決めることだもの」
それよりも、と、いつもの笑顔になった。
「なぜ環境問題をテーマにしたの? 批判が来るかもしれないことくらい、想像できたでしょうに」
「えぇ、覚悟はしていたつもりよ。でも……昼間はああ言ったけれど、本当はどうにかしてあの願いを叶えたかったの。だって、皆の言うことは変だったもの。……でもね、万一のこともあるから、自分で降りて確かめてみたの。確かに、皆の言う通り、環境の変化はすべて人間の手によるものだわ。でも、砂漠の隅に私は見たの! 人々が木を植えるその姿を! 植えるけれど、植えても、植えても、もう育たない環境になってしまっているから木が育たないの! 私たちが力を貸さなければ、彼らも植えるのを止めてしまうわ! まだ綺麗な心を持つ人がすぐそこに沢山いるのに、手を貸せないなんて……私悔しかったの。それで、表彰式で地球の環境問題について取り上げれば、学会が興味を示してくれるかもしれないって。そうしたら、議会だってむざむざ保留庫に放置しておくことなんて出来ないでしょう? だから、それを狙っていたのだけど……」
同じ経験を持つ先輩女神は、それなら。とセリアに歩み寄り、その肩に手を置いた。
「あなたは私のようになってはいけないわ。あなたはテーマを変えずにスピーチを完成させなさい」
「えっ……でも議会は……」
「明日緊急議会を開きましょう。私が援護してあげるわ」
そう言って、ぱちりとウインクして見せた。
「ウィル……援護って、一体どうやって……」
「私のような悔しい思いをするのは、私一人で十分。それに、あなたのその気持ち。決して忘れてはいけないわよ」
セリアが頷くと、再度微笑みを見せてからウィルは帰っていった。扉が閉まった後、ついさっきまで彼女がいた窓に駆け寄る。
まさかあのウィルに、そんな過去があったなんて。皆から慕われて、優秀で、とても頼りになる彼女が過去にそんなことを経験したなど、誰が想像するだろう。
ウィルのために、カーネルのために、サラのために、何より地球のために。
セリアはテーマを変更しない決意をした。
翌日、ウィルの言った通り緊急の議会が開かれた。セリアたちが中に入ったときの視線は良いものではなかったが、それでもセリアはウィルを、自分を信じた。
議長であるヴィオードが席に着き、緊急議会が始まった。
「今日は、ウィルからの申請による緊急議会です。ウィル、一体どうしたの?」
「えぇ」
立ち上がる姿に、セリアは膝の上にこぶしを作った。
「昨日の、セリアのスピーチのことなんだけれど」
途端に、部屋の中が騒がしくなる。それをヴィオードが静めて、どういうことなの? と尋ねた。
「私、昨日セリアのスピーチ原稿の下書きを読んだの」
「何ですって!?」
捨てたはずの下書きを読んでいたなんて! でも一体どうやって? 驚いてセリアが立ち上がる。ウィルが、悪気はなかったのよ、とすまなさそうに謝った。
「従者神族が皆出払っていたから、自分でゴミを回収所に持っていったの。そうしたら、セリア。あなたのスピーチ原稿が捨ててあったものだから」
ほら、と、しわだらけになっている紙を取り出して見せた。セリアも確認するが、確かに自分が捨てたスピーチ原稿だった。
「執務室に帰って読んでみたけれど、別に昨日皆が言っていたような、誰かに影響が出るようなことは全然書いてなかったわ。ただ、セルパティオの絶滅と、地球での多くの生き物の絶滅をかけ合わせて、数々の環境問題について述べていただけよ。何なら、ヴィオード、アクア。あなたたち読んでみたら?」
ウィルに笑顔で渡されては、読まないわけにはいかない。まずヴィオードが目を通し、アクアの手に渡る。二人とも何も言い返さないのを見て、他の女神も動揺を始めた。
「せっかくセリアとサラが一ヶ月をかけて調べたのよ? それを中身も見ないで駄目だと決め付けてしまうのは可哀相だと思うの。現に、ね? 何も問題はなかったでしょう?」
その問いかけに、ヴィオードもアクアも黙って頷いた。
「それに、これも見て欲しいの」
ぱちん、と指を鳴らすと、いくつかの映像が映し出された。一つには砂漠の隅で木を植え続ける人々、一つには油まみれの鳥を保護する人々、一つには、絶滅危惧種を保護して繁殖させようと生涯を捧げる人々……海の汚染物質を必死で除去しようとする人々や、山を切り開いてのニュータウン開発に反対運動を起こす人々の姿もある。
「確かに人間たちは、私たちを悉く裏切ってきたわ。この瞬間にだって、数々の自然が汚染されているかもしれない。でも、彼らを見て? 人間たちの中にも、今ある自然を守ろうとする人々はこんなにいるの。これは私が見つけただけだから、もっともっと沢山の人がいると思うわ。そんな人々の想いを、私たち女神が踏みにじってもいいのかしら。むしろ、それを伝えようとするセリアの今回の行動は、評価されるべきだと思うのよ。……ねぇ。スピーチ、認めてあげましょうよ」
セリアが、サラが、他の女神が。固唾を呑んで見守る中で、ヴィオードは口を開いた。
「……私たちは、いつのまに女神としての心持ちを忘れていたのかしら。自らが傷つくのを恐れて逃げるような真似……。セリア、この下書きをもう一度推敲するなり、清書するなりして、表彰式のスピーチにしなさい。この内容なら、誰にも迷惑はかからないでしょう。……あなたもいいわね、アクア?」
「確かにこの内容であれば、姉上に影響が及ぶ心配もない。……セリア、昨日はすまなかった」
「……いいえ! こちらこそ、二人とも昨日は有難う。あれで一度、目が覚めたわ。私、とびきりのスピーチをするわね」
本当に議会が承知した! その嬉しさのあまり、セリアはアクアとヴィオードのもとへ駆け出していた。部屋中が拍手で溢れる中、二人と手を握り、下書きが返される。
「お礼なら、ウィルに言いなさい。彼女がゴミを捨てに行かなかったら、こんなことはなかったわ」
その通りだ。恐らくウィルは、読んだ後すぐに下界へ降り、この映像を撮ってきてくれたのだろう。
もちろん、と、微笑んで手を叩いているウィルのほうへ駆け寄った。
「ウィル、本当に有難う」
「いいのよ。表彰式、頑張ってね」
歓声と拍手の中を自分の席に戻ると、サラが今にも泣き出しそうな顔をしていた。いつにないその様子に、何故か笑みがこぼれる。
「ちょっと、ちょっと、サラったらどうしたの?」
「だって……お姉様のスピーチが認められたんですもの。私嬉しくて……」
「あぁもうサラったら」
そんなサラに部屋中から笑みがこぼれ、本格的に泣き出さないうちに、と、議会は解散された。次々と女神たちが去っていく中で、安心した表情のアクアが一人、まだ席に残っていた。
「……アクア」
「姉上!」
妹同じく、そう表情を崩さないサンダーは黙ってアクアの隣に座り、微笑んでそっと頭を撫でた。かつて遠い昔、二人が女神になる前にそうしていたように。
「有難う、アクア」
「……姉上……」
厳しい口調と態度から弱音など全く吐かないと思われている姉妹の、本当は人一倍姉想いな妹が、あの議会の後、女神になって初めて姉の胸で泣いたのは、二人しか知らない秘密である。
セリアとサラが執務室に戻ると、サラが泣いているのに従者神族たちは驚愕した。議会で何かあったのかと口々に尋ねてくるが、泣いているところを見られて少しバツの悪いサラはそそくさと机に戻ってしまった。それを見て、従者神族達は不思議そうに首を傾げ、セリアは微笑みながらくすくすと笑う。
「サラはね、スピーチのテーマが再審で認められたのに感動して泣いているのよ」
「セリア様のスピーチ、認められたんですか!」
「うわぁ、本当におめでとうございます!」
昨日の議会後、落胆した二人を見ていた従者神族たちは心から祝福した。中には泣き出したり、歓喜して叫ぶ者もいたくらいで、まるで受賞したときみたいね。とセリアは笑った。
「有難う、皆。さあ、これで後は表彰式まで一直線ね!」
「はい!」
何十回もの推敲を経て、セリアがスピーチを完成させたのは表彰式の二週間前だった。
推敲には、サラとウィルだけでなくアクアやサンウェスト、ヴィオードにサンダーなど、数々の先輩女神たちが手を貸してくれた。
表現の工夫に内容の順番など、様々な第三者の目から見れば変えるべき箇所は沢山あったし、学会表彰式でのスピーチということもあって皆がいつも以上に力を入れたため、予想以上に時間がかかってしまったのだ。
「後は、本番でどう読むかだけだわ。いくら文章が良くても、読み手が気持ちを込めなければ聞き手には何も伝わらないもの」
頑張りなさい、と先輩女神が肩に手を置いて、手を握ってくれたことで、セリアの中には様々な想いと勇気があふれてくる。
「はい。私、頑張ります」
自分には頼りになる先輩たちがこんなに沢山いる。皆が、支え、見守ってくれている。
怖いものなど、何もなかった。
草原は、今日も様々な花をつけていた。
「皆元気そうね」
久しぶりにセリアはこの草原を訪れた。スピーチが決まってから、全く顔を出していなかったのだ。
水面に映る雲は変わらずのんびりとしているし、木陰で休む小鳥たちは楽しそうだ。何も変わっていないことに安心する。
そんな小鳥たちと遊ぶ、一人の青年の姿を見てセリアは微笑んだ。駆け寄ろうとして、彼に近づく別の男に気が付き、そばにあったもう一つの木の陰に隠れた。
「……あんた、誰?」
近付く足音に顔をあげて、予想した人物と違ったのに青年は不服そうな顔を上げた。男はそれに、困ったように笑う。
「そんな顔をしないでくれないか。将来娘を任せることになるかもしれないというので、挨拶に来たのだよ」
その言葉の意味に少ししてから気付いた青年は慌てて立ち上がった。驚いたのは彼だけでなく、セリアも同じだ。長いマントを引きずった白髪の、オールバックとも角刈りとも言える髪形のその男の正体は……
「あっ……神王様!?」
「うん、まあそうだね」
片眼鏡の向こうで、微笑んだ顔にしわがよる。だが、まあまあ。そう硬くならんでくれたまえ。と笑って手を振る姿は、とても想像していた神王の姿ではない。本人を目の前にしながら、青年は、精霊区にいる気さくなお爺さん精霊を思い出していた。
「サンダーのところに仕えている、カーネル・ジェイド・サンダー君だね?」
「は、はいっ」
「まあ、君も座るといい」
ゆっくりと腰を下ろした神王は、寄ってくる小鳥たちに微笑んだ。おずおずと隣に座りながらも、本物だろうかと少し疑う精霊の青年を見て、苦笑する。
「偽者だと思うかい?」
「あっ、いえ、そういうことじゃな……じゃなくて、そういうことではなくて」
「はっはっはっ、普通に話してくれて構わんよ」
「は……はい……」
神王というのは、もっと偉そうで、いつも御殿の椅子に座って左右に美女を侍らせ、団扇なんかを扇がせたりしているものだと思っていた。だから精霊王がいくら立派な方だと言っても信用ならなかったのだが、今隣にいるのは決してそんな王ではない。のんびりした口調といい、どちらかというと、休みに縁側で日向ぼっこをするお爺さんのようだ。
「しかし、外に出るのは気持ちが良いもんだね。何千年ぶりだろう」
「そんなにですか!?」
「そうなんだよ。セリアたちが子供のときは、外で遊ばせるのに毎日ついて来ていたけれどね。二人が女神になってしまってからは、仕事に追われる毎日に逆戻り。窓から空を見る事だって少なかったし……うん、陽に当たるのはやっぱり気持ちが良いね」
その言葉に裏はなく、ただ純粋に日向ぼっこを楽しんでいるように見えた。そんな神王が庶民臭くて、つい笑みがこぼれてしまう。
「ここはいいですよ。小鳥は飛ぶし、花は咲き乱れるし、雲ものんびりしてるし、空はあんなに高い。陽もギラギラ照るわけじゃないし、日光浴にはちょうどいいところですね」
「おっ。分かるかい君も? そうなんだよ、この……うむ、これは何と言うのかな」
「……『ぽかぽか』、ですか?」
「そうだよ、『ぽかぽか』だ。このぽかぽかした感じが良いんだよ。うん……なるほど、だからなのかな」
「何がです?」
微笑んで出来た顔のしわを更に増やして、その人は笑った。見る者を笑顔にさせる彼の笑顔は、どこかで見たことがある。
「いやね、こんなぽかぽかしたところでセリアもサラも育ったから、二人とも『ぽかぽか』になったんだと思ってね。君も、『ぽかぽか』が好きなんだろう? だから君はセリアに惹かれたんだね」
そんなことはない、と言いかけて、その言葉を戻す。確かにそうだ、自分は彼女の温かい笑顔に惹かれて好きになった。そしてさっきの神王の笑顔は、彼女の笑顔と同じだ。
「そうですね……」
スピーチのことを知らせようと思って待ち合わせしたのだが、そんなことはどうでもよくなってしまった。きっと、カーネルも同じ気持ちだろう。踵を返し、夢幻城へと戻る。恐らく今、顔は凄いことになっているだろう。満面を超えた笑みが浮かんでいるはずだ。
城に戻る前に、この顔が元に戻りますように。
そう願って、一歩一歩ゆっくりと歩いた。
「……しかし、待ち合わせをしていたのかね?」
「はい?」
「いやね、精霊区を訪ねたらここだと言うから来たのだけれど、セリアと待ち合わせだったのかと思ってね。だったら悪いことをした、突然すまなかったね」
いえ、とんでもない! 慌てて手を振って、大丈夫ですからと微笑んだ。
「ここは気持ちが良いから、時々来ているんです。それだけですよ」
「そうかい? ならいいんだが……」
すまなさそうな顔になっていた神王は、笑顔に戻った。それを見て、カーネルも近くにあるもう一本の木に目をやる。
あの木の後ろに、今は誰もいない。
今日は、もうそれでいい。
それからしばらくの間、神王の従者神族が、突然執務室を抜け出した主を見つけに来るまで、二人は小鳥と戯れたり、色々な話をして過ごした。
「君になら、娘を任せられそうだよ」
従者神族に引き摺られながらの神王の最後の言葉は、彼の表情と共に今もカーネルの心に残っている。
セリアが神王に育てられていて、本当に良かった。
初めて、心の底からそう思えた。
「何か良いことでもあったのですか?」
そうサラに問われてドキリとする。どうやら顔は戻ってくれなかったらしい。
「えぇ、ちょっとね」
私たちには教えてくれても良いのではないですか? と、従者神族たちと執務室でじゃれているその時。セリアもサラも、まだ誰も何も知らなかった。
カーネルも去って誰もいなくなったその美しい草原に、少し埃臭い風が流れ始めていたことを……。