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東方朧観簿  作者: 庶民
第一章
8/59

其の八、先生

 帰り道では特別変わった事は起きず、私は人間の里へ戻る事が出来ていた。

 夕焼けが景色を真っ赤に染めているが、どうやら、夕飯には間に合ったようだ。

 人気の無い場所を選んで塀をよじ登り、里に侵入する。

 外来人とは言え、見殺しにした後である。夕方で少し感傷的になっている事もあり、人間と出会う気にならなかったのだ。

 私は姿を隠しながら動き、先生の家の玄関に入った。


「只今戻りました。先生? いらっしゃらないのですか?」


 問い掛けるも返事は無い。薄暗い玄関の足下を見ると、先生の靴は無かった。

 圧倒されるような静寂の中で、私は室内を探索する。

 先生は一度帰っていたのか、今朝方用意していた教材が床に散らばっていた。

 それを拾い上げると、一枚の紙が教材の合間から落ちた。

 妖怪退治にでも使うような、そういう札である。

 妖怪が出たので討伐に出たというところだろうか。それも一刻を争うような凶悪な――。


「……それ、もしや私の事か?」


 冷静に考えると、確かに今日の私は若干凶悪だった。

 襲ってくる妖怪を撃退していただけだが、最後は外来人を囮にしている。

 見ようによっては、私が殺したように見えなくもないだろう。

 もし、誰か目撃者が居て、その時の私の様子を里の人間に伝えたとしたら、ここに居るのは少し不味いのではないか。何か勘違いが起き、討伐対象と見做されているとすれば、この家ごと燃やされる事もあるのでは。

 似たような事は故郷で一度経験している。あの時は自前の小屋だから良かったが、ここは先生の家だ。これ以上の厄介にはなりたくない。


 取り合えず、先生を見付けよう。

 私は家から飛び出て、そのまま四方八方の通りを駆け抜ける。

 擦れ違う人間達は私を奇異の目線で捉えても、恐れたり、怯えたりといった様子は無い。ただ、何処から襲われても逃げ切れるように足取りは緩めず、捜索と警戒の意味を込めて忙しなく視線を巡らせ続ける。

 しかし、昼食を省いた事が仇となり、どうしようも無くて足取りを少し緩めた。

 多少は妖怪の血肉を食ったが、それは吐き気をもたらす重みにしかなっていなかった。それに加えて、薄とその後の乱戦で肉体を酷使した事もあり、強烈な疲労感が体を襲ってくる。

 ただ、何とか耐え忍んで走り続けていると、正門前で里の自警団と話している先生を発見出来た。

 自らの喧しい喘鳴と拍動を押さえつけ、物陰から聞き耳を立てた。


「それで先生。その男の特徴は何がありますか?」


 里の青年が丁寧な物腰で訊ねていた。


「少年のような姿だが、無精髭がある。背は君達よりも低い。服装は外の世界の物だから、何となくだが分かると思う」

「髪型は?」

「首筋を半ばまで覆う程度には伸ばしている。あと、大量の幽霊が憑いているな」

「成る程、そこまで分かれば簡単に、……何だ?」


 もう一人の男性が質問していた男の肩を叩いた。その彼が私の潜む物陰を指さす。


「居た。ほら、そこ。幽霊見えてる」


 一瞬で気まずい雰囲気が周囲に漂った。

 幻想郷の人間なら誰でも幽霊が見えるのだろう。かくいう私も昔は朧気に見えていたのだが。

 さておき、少なくとも襲われる気配は無いらしい。

 隠れる事を諦め、私は鷹揚に日の当たる場所へ出た。

 頭を掻いて猫のように欠伸をする私の姿を、質問していた男も認めた。 


「彼で合ってますか、先生?」

「合っている。里の中に居たのか」

「その割には見掛けませんでしたけどね。とにかく、これで一件落着。俺達は解散しますね」

「迷惑を掛けたな」

「いえ、先生の為なら少しくらい構いませんよ。里の外に出ていったなんて嘘を吐いた子ども達の事はどうします?」

「まだ嘘と決まった訳でも無い。――川上君、ちょっとこっちに来なさい」


 呼ばれたので、やるせない気分で通りを歩く。まるで公開処刑だ。視線がぐさぐさと突き刺さり、ろくに動かない体の動力となる。


「……只今、戻りました」


 疲労困憊の体から言葉を絞り出す。

 周りの自警団の連中は、酷使した事で灰白に変色している私の顔を見て驚くが、先生は動じない。

 白沢としての感性が私の正体を見抜いたのだろうか。

 いや、たとえ見抜かれていなかったとしても、この人に嘘を言おうとは思えない。


「お帰り。何処に行っていた」

「博麗神社と紅魔館です」

「一人で?」

「はい。……いえ、違いますね」


 夕陽に身を焼きながら、私は訂正した。


「一匹で、です」


 その意味を自警団が理解するよりも早く、先生が動いた。

 両腕で私の肩をがっちりと捕らえると、先生は自らの体を反らし、額目掛けて頭突きを放つ。

 止めようと思えば止められたが、甘んじた。

 鈍い音が出る。およそ、人体から出てはいけないような、凄まじい音。

 そのまま仰け反りもせず、私と先生は額を突き合わせたままの姿勢で硬直する。


「……言ってなくて、申し訳ありません」


 私の体が崩れる。慌てた様子の自警団の手によって体は支えられたが、疲れ果てた意識はそのまま地面に染み込むように消えていった。





 次に目が覚めて真っ先に感じたのは香しい粥の匂いだった。

 先生の頭突きで眩む頭を無理に働かせ、体を起こす。

 反応が鈍い、という生易しい状態では無かった。

 腕は動くが指が全く動作せず、瞼を開くのにも集中していなければならない。呼吸も拍動もてんでバラバラで、意識しなければ自分勝手に鳴り響く。

 たった一日だ。幻想郷で生きると決めて、まだ一日目。それで、このざまなのか。


 ――貧弱過ぎる。


「……ほら」


 歯噛みする体力も残っていない私の横から、先生が粥を乗せた匙を無造作に突き出した。

 受け取ろうと手を伸ばすが、手は緩く曲がったままで開く気配が無く、腕も震えるばかりで充分には上がらない。

 それでも諦めずに、私は腕を動かそうと体を構成する何かを消費する。

 恐らく、それは致命的なものだったのだろう。

 私の呼吸が止まる。しかし、それを取り戻す体力も無い。咳き込む事も出来ないのだ。


 世界が淀んで見える。眼球が濁ってしまったのだろうか。

 朧気な世界で、私は緩やかに呼吸を取り戻す。

 何故、取り戻せたのかは分からない。意識の維持を一瞬放棄して生まれた余剰分が有ったからかもしれないが、それを深く考える前に先生の厳しい口調が割り込んだ。


「口を開けなさい」


 顎の力を抜けば良いだけの話だから、私はそれに従った。

 強引に匙を放り込まれて、喉の奥に粥を流し込まれる。

 温かくて、優しい味がした。美味しい。

 複雑な顔で、椀に匙を戻した先生が言った。


「私は君の母親では無いのだがな」

「重ね重ね御迷惑を御掛けして、申し訳ありません」

「良いさ。最初に言った事だしな。食事は用意する、と。食べさせるのはおまけだ」


 そこから暫く、私達の周りを沈黙が漂った。

 その最中も先生が甲斐甲斐しく口許に運んでくれる粥を私は食べていく。

 内臓が上手く働かず、吐きそうになると一度休み、落ち着くと食事を再開する。

 粥から立ち上る湯気が薄まり、遂には消えてしまっても、この介護は続いた。

 そして、空の椀に匙が載る。


「御馳走様でした」


 未だに不器用なままの手を合わせ、私は深く頭を下げる。

 それをしながら、匙を掴む事くらいは途中から出来たのかもしれないと気付いた。

 妖怪を屠り、人間をも襲う。

 その結果、間接的に複数の生命を死へと追いやった私でも、無意識の内に誰かに甘えたいと思っていたのかもしれない。


 ――私は今、先生に何を言わなければならないのだろう。


 合わせた手を離して、布団の上に置きながら考える。

 あまり、深く考える必要は無かった。

 全部言ってしまえば良い。


「騙すつもりはありませんでしたが、私は妖怪です」

「……そうか」

「妖怪として、私は今日、襲ってきた妖怪と、自らの囮として外来人を殺めました」

「…………」

「紅魔館での雇用が決定しましたので、明日には此処を出ていきます」

「………………食器、洗ってくる」

「……はい」


 滑らかに流れた非日常的な言葉の返答にしては、それはあまりにも日常的な言葉だった。

 皿を洗う音が聞こえる。

 何も言わずに、ただ黙々と。


 怒られは、しなかった。

 その事が私には何故か苦しく、布団の上で膝を抱く。


「申し訳ありません。申し訳ありません」


 水の音に溶けて聞こえないと分かっていたから、私は何度も何度も、ぼそぼそと呟いていた。

 妖怪の死も、外来人の死も、私にはどうでもいい。

 ただ、先生にそれを背負わせた気がして辛かった。迷惑を掛けている事が、ただただ申し訳無かった。





 慧音もまた皿を洗いながら、思考を巡らせていた。

 彼女は龍泉が生命を殺めていた事には、薄々勘付いていた。信じられない事に妖怪である事も一匹と言われた時に認めていた。

 しかし、実際に言葉にして聞かされると、慧音は何もする事が出来なかった。

 叱るつもりは無かった。

 幻想郷は慣れていなければ生き辛い場所だ。妖怪や人間を殺したのは緊急避難のようなものであると容易く想像出来たし、妖怪だというのを隠していた事は自ら明かしたのだから許せる。


「どうして私は……」


 ある意味、教師を何年も続けている慧音だからこそ分かる辛さだった。

 子供は大人よりも分かりにくい。大人よりも感情が洗練されていない分、彼等のそれは言葉では言い表せない複雑なものとなる。本人でさえも感情の意味を理解していない為、明確な答えの無い難問となるのだ。

 龍泉は、そういう意味でまだ幼かった。

 成熟した人間が持つ筈の多様な感情を、彼はあまり持ち合わせていない。

 慧音は視線を彼に向ける。

 直接的には見えないものの、視界を遮る障子に膝を抱く影が写っていた。


「何と言えばいいのだろうな、私は」


 慧音は洗い終えた皿の水滴を清潔な布で拭き取り、流し台の近くの棚に伏せる。

 その間も蛇口から水を流し続け、迷いを含んだ声は届かないようにしていた。

 許すだけでは駄目。しかし、叱るにしても慧音は既に彼の行為を認めすぎている。

 龍泉の成長に最も貢献出来る術を、慧音は今までの人生から水音と共に模索する。

 やがて、蛇口を捻る。

 人間として、神獣として、今までの生で獲得した知恵を携え、慧音は龍泉に近づく。


 近づく慧音を龍泉は見上げていた。

 無言で罰を求めていた。

 死人に等しい顔色で、人形に等しい無機的な目で。

 色までも石像のようになった唇は、二度と開く事が無いのではないかと、慧音は不安になる。


「川上君」


 したがって、慧音は屈み込みながら、優しく彼の名前を呼んだ。

 間違った方向に落ち着いてしまった心を引き揚げようと、堅苦しかった態度を柔らかくして接する。


「私はな、君を叱る気は全く無い」


 龍泉は息を詰まらせた。まだ体調が十全では無い為に少し噎せ返り、呼吸を整えてから、驚愕を口にする。


「何故ですか」

「君なら、叱られる理由は沢山ある、と思っているのだろうな」

「その通りです」

「まあ、私が唯一、今でも許せないのは何処に行くかを知らせなかったくらいだ。だが、それは出掛ける前にきちんと聞いていなかった私にも非があるからな。不問にしておくさ」

「……先生は」

「ん?」

「先生は人間側ではありませんか。それなのに、人間を殺めた私を咎めないと言うのですか。先生は、そんなに冷たい人間だったのですか」


 龍泉の静かな罵りの言葉は、しかし慧音に何の激情も抱かせなかった。

 龍泉は叱られたいだけでしかない。それでは無条件で許して下さいと言っているのと、何ら変わりない。

 慧音は果てしない徒労を感じる。

 叱られなければならない。そう思い込む性格とは、一体どのような環境で育まれたものなのか。

 慧音はそれを実感こそした事が無いものの、思い付くものはあった。

 彼女の疲労感にその環境への嫌悪感が含まれ、顔にも僅かに出てしまう。

 自身が嫌われたと思ったのか、龍泉の顔に後悔の色が表れた。唇を強く噛み、顔を背けて押し黙る。

 慧音は隠せていなかった事に気付くと、それを誤魔化す為に会話を試みた。


「そもそも、本当に君が妖怪や人間を殺したという証拠は何処にある? 君が言っているだけじゃないか」

「……それは」


 直接的に殺したのはいずれも龍泉以外の誰かだった。返り血や毛髪が龍泉の服や靴に付着している可能性はあるが、それで犯人を特定出来る科学力が幻想郷には存在しない。その上、外来人やその辺の無名の妖怪には名簿等も無いのだから、被害者の特定も儘ならない。

 凶器は妖怪達の牙。死体は妖怪達の腹の中。

 立証は不可能に等しい。

 しかし、龍泉に残された独善的な罪悪感は言い逃れを選ばせなかった。


「私の周りにいる幽霊にでも訊けば分かる事ではないでしょうか」


 龍泉の傍には何体もの霊体が浮かんでおり、それらは時折彼から離れたりしつつも、彼が見えなくなる場所までは決して行かない。龍泉が間接的に妖怪と人間を殺めた際にも、少なくとも一つはその様子を観察していた。

 しかし、幽霊は意思表示がまず出来ない。それらの朧気な感情や記憶を引き出すのは相応の訓練を経験した者か才能のある者に限られ、その方面に手を出していない慧音には幽霊から情報を引き出すのは無理な話だった。

 仮に出来たとしても、慧音はしなかっただろう。慧音は龍泉を追い詰める気持ちは微塵も無いのだから。

 慧音はその旨を正しく伝えた。私には幽霊が何を見たのかが分からない、と。


「今のままでは狂言なんだよ。でも、狂言のままにしていてもバチは当たらないさ」


 それが慧音の答えだった。龍泉には到底受け入れられない答えだった。

 狂っていても、壊れていても、殺生だけは譲れない理由が彼にはあった。

 力無く垂らしていた腕で慧音の顔を薙ぎ払う。

 それを易々と手首を掴まれて止められると、妖怪である龍泉は人間のように吠えた。


「私は外の世界で何度も何度も殺されかけました。法の光が届かない山奥の村では守ってくれる者も裁く者も居らず、挙げ句の果てには訴えを聞いてくれる者さえいませんでした。

 ただ死なないように努力して、そのおまけで今も生きている。たったそれだけでしかない軽い命です。

 そんな軽い命でも、殺した相手を憎む権利を下さい。殺そうとした相手を憎むなんて高慢な事は申しません。だから、私が彼等を殺した事実を勝手に奪わないで下さい」


 何処までも静かで、理性を伴った言葉。

 しかし、慧音にはまるで理解出来なかった。言っている言葉は分かっても、その考えに至る経緯が全く理解出来なかった。

 自分の物差しでは龍泉の本質を測りきれない。真の理解も救済も届かない。

 そう直感してもなお、慧音は諦めたりしない。

 教師は子供達の模範である。故に子供ではないし、子供であってはならない。理解出来ない事が多くとも、それを受け入れ、理解しようと努力し続けなければならない存在なのだ。

 慧音は受け止めた手を両手で包む。

 龍泉の狂った理性が戸惑いを見せた。


「離して下さい」


 龍泉は呻いた。慧音の温もりに自らの冷たさが染み込んでいく気がして恐ろしくなっていた。しかし、自分から離すには恋しすぎて出来そうに無かった。


「離して、下さいっ……!」


 龍泉は懇願し――。


「断る」


 その願いは砕け散った。





 龍泉から伝わってくるものは何も冷たさだけでは無かった。

 怯えも感謝も恐怖も悲しみも何もかもが、彼の指先まで来ていた。

 感情が無いのでは無い。分からせようとしていないのでも無い。

 無自覚でも、龍泉は懸命に伝えようとしている。

 それを受け取るのは困難だったが、出来ない事では無かった。


 慧音は手を離さない。龍泉が何を言おうとも、離したほうが無理解に繋がると分かったから。


「どうしてですか……」


 龍泉の呟きが室内に虚しく響いた。蝋燭の炎に生み出された陰影が、彼の内面を表すかのように静かに揺れる。

 まるで能楽のようだと慧音は思った。龍泉は人間の仮面を被り、自己を演じる役者だ。

 慧音は諭すように答える。


「そうして欲しくないのだろう?」

「……はい」

「素直だな。そういう風に感情を表に出せたら、君はもっと楽に生きられるだろうに」


 龍泉は無言。しかし、彼の手が代わりに語る。それが無理なのだと、より強張る。


「強制はしない。努力するかは君次第だ」

「……分かりました」


 手が心なしか解れた。顔は、殆ど無表情のままだが。

 そうして暫くの間、慧音と龍泉は手を繋いでいたのだが、やがて龍泉のほうから手を離した。布団の中に身体を潜り込ませ、顔を慧音と反対側に向ける。

  死人と同じだった顔色は、妙に赤く染まっていた。




 恥の多い生涯を送ってきた。どのような事が恥で、どのような事が恥で無いのかが私の中で明確な基準として存在する程には、様々な事を経験してきた。

 その中でも、これは一等の恥だ。


 ――先生に世話をされて嬉しいと思うとは、まるでペットではないか。


 頭の鈍痛に身を委ねて思考を隅に追いやる。きつく閉じた視界の反対側で、先生が動く気配を感じた。先生は晩御飯を食べたのだろうか。風呂は。そんな事を考えると私は動きたくなって仕方無くなるが、動作の悪い手を握り締めて堪える。やったところで邪魔になるだけだろう。

 それならばと意識を眠りに落とそうと思ったが、目の前で死がちらつくので無理そうだ。眠っても実際には大丈夫かもしれないが、呼吸も拍動も消化も意識を向けていないと中々正常にならないからだ。死ぬ事は何よりも怖いが、死体を先生の家に残す事は何よりも恥ずべき事だった。

 なので、私は不意に眠ってしまわないよう、先生への謝罪の言葉を考える。

 その過程で、私は殺した妖怪や人間の姿を思い出した。存外、彼等は簡単に死んだ。その事は最早どうでもいいのだが、弔いくらいはしてやれば良かったかもしれない。しかし、帰り道で死体を確認出来なかったのだから、恐らくそれは叶わないだろう。死に場所を選べなかった彼等の霊魂に自由が与えられる事を祈るだけで、私は懺悔を終える。


 次々と浮かぶ謝罪の言葉に苦慮しつつ臥せっていると、先生が布団を敷いて眠る準備に入った事を知覚する。今日も同じ部屋で眠るらしい。同族どころか同性ですら無い私の隣で眠る先生の神経だけは私には到底理解出来そうに無かった。

 衣擦れの音や蝋燭の灯火が消え、天然の静寂が部屋に満ちる。人間味の無い、気軽な静けさ。よく眠れる夜だと思うが、私の体はまだ安定しない。

 今夜の夢にも紫さんは来るのだろうか。睡魔を祓う思惟の弓を張り、明確な意識を保ったまま考える。来ないだろう。彼女にとって、私は天敵だ。私にとっては、また別なのだが。


「起きているか?」

「はい」


 先生の声が聞こえ、驚き気味に私は答える。


「今日はもう疲れているだろうから止めておくが、明日の朝、君に渡したい物がある。だから、何も言わずに出ていったりはしないでくれ」

「そのような無礼な真似は決して致しません」

「……ああ、君はそういう妖怪だったな。礼儀を重んじて堅苦しいくらいの妖怪だ」


 先生は忍び笑い。


「何がおかしいのですか」

「いや、私と似ているなと思ってな」

「…………」


 ――ああ、恥ずかしい。


「先生、頭が痛くなってきました」

「病気か?」

「違うと思います。とっとと寝ます。お休みなさい」


 捲し立て、私は眠る。動悸がする。どうやら、恋愛染みた妄想に囚われてしまったらしい。そんなもの、私には勿体ないのだ。理由は無いが、とにかく要らない。それにこれは気の迷いなのだ。そうに違いない。

 次第に痛みを増す頭痛は私の安眠を阻害する。結局、それを打ち消す先生の穏やかな寝息が聞こえるまで、私は眠る事が出来なかった。


 翌朝。私は目を覚ます。やはり気の迷いだったらしく、先生に対する恋愛感情は完全に消え失せていた。胸に残っているのは純粋な尊敬の念のみである。

 今朝は昨日よりも私の起床は遅かったからか、部屋には私一人だけ。布団を押し入れに片付け、先生に朝の挨拶をし、用意された朝食の席に付く。

 今日から始まる仕事についての不安や期待が膨らむ中での食事だったので、味に集中出来なかった。それと、昨晩の先生の言葉も気になっていた。

 渡したい物。私には皆目、見当が付かない。迷惑千万の私に何を渡すというのか。

 私が食事を終え、身支度を済ませた頃。先生は私を書斎に呼び出した。訪ねた部屋には包みが一つ。それを持ち前の能力で解析した私は戦慄しつつ、大人しく先生の前で正座した。


「渡したいと言っていた物は、これだ」


 先生が包みを解くと、そこには装飾が殆ど無い、シンプルな漆塗りの鞘に納められた短刀があった。妖怪を祓う弱い術が組み込まれた守り刀ではあるが、結局は殺しの道具である。

 無論、私はそれに手を伸ばさなかった。

 これが先生以外ならば、私は快く受け取った事だろう。幻想郷に生きる上で役に立つ事は明白だからだ。しかし、これを受け取れば、いざ自衛の為に何かを殺した時にその咎が先生にも向きかねない。

 刀と先生の間で視線を何度も往復させると、私は決然と言った。


「受け取れません」


 対する先生は困ったように笑い、私は更に畳み掛ける。


「私がこれを受け取れば、先生は冷たい人間であると言う証明に繋がりかねません。ですから、受け取れません」

「君は人殺しや妖怪退治を前提とした生活をするつもりか?」

「私の意思がどうであれ、この世界がそれを強制する事は最早疑うべくもありません。昨日、一昨日でそう確信しました」


 そもそも、私としては何も殺すまではしなかったのに、周りが勝手に止めを刺すのだ。望む望まざるに拘わらず、何をしても私は周囲に死を招いてしまう。それに先生を巻き込ませていい筈がない。

 断固とした態度と明確な理由で先生からの贈り物を跳ね除けた私の目の前で、先生は溜め息混じりにその刀を抜いた。鞘と同じく、こちらにも装飾は無い。しかし、洗練され、美しさを伴う造形である。

 先生は窓から射す黎明の光を刀に浴びせた。僅かな反りを持つ銀色の刃が鋭く輝く。それに一瞬見とれるが、私はすぐさま言葉を取り戻した。


「私も多少は物を見る目がありますので、それに妖怪を近寄せない程度の弱い術が施されているのは分かります。ですが、それなら何も刀である必要は無かったでしょう。布のお守りでも同じ効果は出せた筈です」

「その場合、君にもきつい術にしなければならないだろう? 今も多少は影響を受けているようだしな」

「……はい」

「まあ、一日で慣れる術だ。君に妖怪の友人が出来た時に邪魔になる事も無いだろう」


 先生は刀を鞘に納めると、私の前に丁寧に置いた。


「刀である理由は物理的な自衛力があるからだ。只のお守りよりも術の効果を弱く出来るからな。元が家に眠っていた古刀だから、切れ味は保証出来ないが」

「私に渡す理由は、なんですか」

「生きてほしいと思ったからだ。他の誰かを殺めるとしても君に死んでほしくないと思ったからだ。不満か?」

「はい。大いに」


 先生が私に殺しを求めているのでない事は分かっている。それでもだ。先生に殺生を関わらせたくない。正義感という高尚な物では無く、単なる私の趣味ではあるが、先生には潔白であって欲しい。


「身を案じて頂ける事は光栄です。しかし、受け取れません」

「どうしてもか」

「はい」

「どうしても、君は修羅の道を進むつもりか」

「私は畜生です。修羅ほど強い存在ではありません。それに、畜生に刀は不要です」

「爪も牙も人間のそれで、君は本当に大丈夫なのか?」

「下手をすれば死ぬでしょう。それでも構わないという訳ではありませんが、先生から授かった刀で誰かを殺めてしまうよりはマシです」

「これを使わなくても良い。持っているだけでも君の役に立つ筈だ」

「私は弱いのです。その癖、生には誰よりも執着しております。必ず、使ってしまう事でしょう」


 先生の言い分は分かるが、私の意地も通したい。

 時間はあまり無かった。先生には寺子屋があり、私には紅魔館で働く用がある。

 とは言え、先生は私を説得する為になら幾らでも時間を割きかねないように思えた。


「恐縮ですが、使えないようにして頂けるのでしたら……」

「そしたら、君は受け取るんだな?」

「はい」

「よし、分かった」


 私の妥協案に乗り、先生は立ち上がって何かを探しに書斎を出る。ものの数秒で戻ってきた先生の手には、昨日、私が部屋で見つけた札と同じ物があった。


「ざっくり言えば、これは鍵だ」


 先生はその鍵と言った札を鞘に貼り、刀を抜こうとするが、抜けない。その札は私の解析では妖怪を拘束する為の物だったのだが、無機物にも効果を発揮するようだ。刀が鞘に囚われた、とでも言えば良いだろうか。


「試してごらん」


 改めて置かれた刀に、私は初めて手を伸ばす。

 鞘を左手に、柄を右手に持って左右に引くと、確かに抜けない。一体化しているようで、手応えらしきものも全く感じられなかった。

 しかし、刀を捕らえた札は意外と簡単に剥がせそうである。

 試しはしない。札の効果が私に向く恐れがあるからだ。


 だから、受け取りは、した。


「我が儘をお聴き下さり、ありがとうございます」


 刀を脇に寄せ、私は手馴れた所作で頭を下げた。指先まで集中力を通わせた精緻な動きは、私の思惑を体の外に出させない。

 少なくとも、私はそう考えていた。


「捨てたり、無くさないようにな。それは私から君への贈り物だ」

「……はい」


 先生には完全に読まれていたらしく、私は込み上げる苦笑いをひた隠す。

 よく考えてみれば、仮に捨てたところで、先生から渡されたこの刀が殺しに関わらなくなる訳では無い。誰かに拾われて悪用されれば、結局は私が殺しに使った場合と同じになる。


 ――仕方無い。


 不殺の覚悟を決める。

 ろくでもない動機だが、そのくらいなら先生の為にするのも悪くない。


「……そろそろ、行くとします」


 左手に刀を携え、立ち上がる。

 昨晩考えていた謝罪の言葉は多過ぎて、上手く形に出来そうに無かった。

 だから、告げるのは感謝の言葉だ。


「御世話になりました」

「達者でな」

「はい。先生もお元気で」


 別れの挨拶にしては、やや淡白な会話だと思う。

 それでもいい、とも思う。

 また会うつもりなら、淡白なほうが良い。


 先生の家を出ると、私は途端に里の人間達の奇異の目線に晒された。とは言え、実際はぶら下げた刀か周囲の幽霊達に視線が集まり、私自身には向いてこない。

 しかし、ただ一つだけ。背中に感じる先生の視線を頼もしく思いながら、私は堂々と里の正面から出ていった。

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