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東方朧観簿  作者: 庶民
第二章
59/59

其の五十九、薄氷

 紫が幽々子と同居を始めてすぐ、雪が降り始めた。

 冬眠を口にしていた紫は綿の詰まった上着を羽織り、異国の絨毯を床に敷き、眠たげに座っている事が増えた。

 それでも、紫は今まで通り、努力を続ける幽々子を様々な方法で励まし続けた。

 幾つもの雪兎に式神を宿らせ、庭先で賑やかに跳ね回らせたり。遠くの空にスキマを繋げ、人類がまだ見た事の無い絶景を披露したり。

 幽々子が喜ぶ姿を見ると、それがどうやら紫にも愉快なようで。

 冬の静けさの中でも、二人の間には常に笑顔があった。





 雪の積もった夜。眠っていた幽々子は寒気を感じて眼を醒ました。

 月と雪の明かりで部屋の外は冷たく照らされ、戸の細い隙間から寝室の中へ、光が一筋、僅かに差し込んでいる。

 その光が、ほんの一瞬途切れた。

 誰かが通り過ぎたらしい。寒さを感じていた幽々子は布団から抜け出し、戸を閉める前に隙間から外の様子を窺った。そこからではもう誰も見えなかったが、足元を見ると、きらきらと輝く金の髪が落ちている。


「紫? ……寝てないの?」


 時刻は深夜。草木も眠る時間帯。

 あれだけ眠そうにしている紫が夜も起きているとは考えにくかったが、そもそも、幽々子は紫が眠っているところを殆ど見た事が無かった。

 もしかすると、冬眠は日中の眠気を言い訳する為についた嘘で、本当は徹夜しているのかもしれない。そう思い、幽々子は寝間着に上着を羽織ると、静かに外へ出た。

 よく晴れ、風の無い冬の夜だった。

 紫が歩き去ったであろう方向へ進みながら、幽々子は外に積もった雪を見た。

 今年の冬は例年よりも冷え、そして長い。雪は多くなかったが、数週間前の雪がまだ融けきらず、表面が陶器のようになって月光を照り返していた。

 その銀世界に、屋敷の影から人影が伸びた。

 そして、するすると遠退いていく。

 幽々子が雪の上に降り、空を仰ぐと、浮かんでいく紫の姿が見えた。

 星々と並び、小さな影となって空に佇む紫。

 幽々子は暫し、言葉を失った。

 現実とは思えない。夢の中に居るのではないかとさえ思う。それ程までに、その紫の姿は美しく、あるべき場所に収まっているかのような調和に満ちていた。

 やがて、風が吹いた。

 その風が雲を呼び、雲が月を隠し、紫は夜闇へ消えていく。


「あっ」


 思わず、幽々子は声が出た。見惚れていた為に、絞り出すような声にしかならなかった。

 それでも、聞こえたのだろう。

 紫の双眸が瞬くのを幽々子は見た。

 どれだけ暗い世界でも、妖しく灯る二つの瞳。それに恐ろしさを抱きながらも、見付けてもらえた事に幽々子は安堵する。

 衣服をはためかせ、さながら天女のように紫は幽々子の元へ舞い降りた。

 遠目からでも分かった髪と瞳の異彩に加え、近くで見れば肌の艶やかさも際立ち、まさしく人外の出で立ち。口元の白い息も、まるで妖狐が吐くという狐火のよう。

 幽々子は夜の紫を見るのは初めてだった。

 しかし、その一目で、夜こそが紫の本来の居場所なのだろうと感じていた。


「夜更かし?」

「……え?」


 紫から質問されていた。呆ける幽々子へ紫は手を伸ばし、頭に触れて、さらりと撫でる。


「駄目よ。きちんと寝ないと」


 子供を優しく叱るような仕草だった。幽々子はつい、頷く前に言い返す。


「紫こそ、眠らなくていいの?」

「昼間は殆ど動いてないもの」

「でも、昼間も眠っていなくて、夜も、もしかしたら眠っていないんじゃないの?」


 眠そうにしていても、紫は眠っていない。それは恐らく、一緒に住むようになってから。

 雪が降り始めたのも、一緒に住むようになってから。

 一つの考えが線を結んだ。


「……まさか、紫が雪を降らせているの?」


 夜な夜な外へ出て、人知れず天候を崩す。

 紫が境界を操るのなら季節の境目ですら自由自在の筈。日中は無理でも、妖怪の時間帯である深夜なら出来るのかもしれない。

 紫は幽々子の勘の良さに少々驚く。そして、取り繕うように微笑んでから、幽々子の額を指でつついた。

 その瞬間、幽々子は強い睡魔に襲われた。

 直ちに昏倒する幽々子を、紫は軽々と抱き上げる。


「朝になったら教えるわ。それまでは、少し休ませて」


 天候を変えた後ではスキマを開く余力が無く、紫は幽々子を抱き上げたまま寝室へと連れていく。

 幽々子に触れていれば、否応なしに死の魅力が付き纏う。

 死ねば楽になる。

 生きていても意味が無い。

 これらは幽々子が普段から抱いている、死への憧憬でもあるのだろう。

 まだ抵抗出来ているが、これは消耗し続けているだけであると紫は自覚していた。

 当初は妖忌を当て馬に使っていたものの、今では彼よりも至近で過ごしている紫の方が影響を濃く受けている。早い段階で幽々子が力を制御出来るようにならなければ、紫は間違いなく死に呑まれるだろう。

 無論、全て承知している。

 それでも、紫は恐怖していない。

 同じ誘惑を幽々子も耐え続けている。人間である彼女が出来ているのなら、妖怪である紫が先には死ねないのだ。

 報われて終わるとしても、死で終わるとしても、紫は幽々子の一生を魂に刻み込むと決めていた。

 それが恐らく、優しいスキマ妖怪というものの生き方なのだろう。


「……馬鹿ね、私」


 よく分からない肩書きに固執し、手探りと勘だけでの行動。その無鉄砲さは、少なくとも今までの姿とはかけ離れている。

 ただ、楽しかった。

 刺激が無くても、気分が良かった。

 紫は幽々子を布団へ運び、寝入る彼女を暫く眺める。無理矢理眠らせた為に少し苦しげな顔が穏やかになるまで世話をし、それを見届けてから、与えられた寝室へと戻った。

 既に時刻は彼は誰時。曇天の底が白くなり、いずれ何処かで小鳥が鳴き出す。

 僅かな時間、紫は眠る。

 この気持ちが、いつまでも続く事を祈りながら。





 紫との同居が始まってから、幽々子は料理をするようになった。

 それまでは妖忌が食事を用意していたが、頻繁に食料を手に入れる事が出来ないため、日持ちするように干した物や漬けた物ばかりだった。

 美味しくない、と言う程ではなかった。

 一日中警備をした上で、隙を見て下拵えをし、毎日毎日用意してくれていた事を考えれば、たとえ不味くても文句は言えない。

 ただ、見た目にも味にも変化は望めず、それが毎日となると気が滅入るのも確かだった。

 それが紫が来てからは変わった。

 海の幸も山の幸も、新鮮な状態でスキマから出てくるのだ。

 ただ、肝心の紫は酷い眠気もあり、食材を用意できても料理が出来なかった。妖忌は警備の役目がある為に作る時間がなかった。

 そこで幽々子が買って出たのだ。

 使用人の居る家庭で育った幽々子に料理の知識はまるでなかったが、それでも将来の事を考えれば、出来た方が良いと分かっていたからだ。

 どんな将来があるのかは、まだ想像出来ない。

 しかし、将来があると考えられるくらいには、幽々子は前向きになっていた。


 普段通りに布団で目を覚ました幽々子は、未明の出来事を不思議がりながら、料理の支度を始めた。

 経験が浅く、技術も拙い幽々子。隣で教えてくれる者も居らず、一人で立つ台所には野菜を無理矢理叩き切る音が不規則に響く。

 それが目覚まし代わりとなるのか、完成する直前に紫が寝室から出てくる。少しぼんやりしている紫の身支度を待ってから、二人は出来上がった料理を一緒に食べ始める。

 これが彼女達の新しい日常だった。

 その日常に、今朝の紫は一石を投じた。


「夜の話の続き。してもいい?」


 食事を済ませた矢先の事だった。

 嫌な予感がし、幽々子は一度息を入れる。

 いつか、この日々が終わっていく事なら覚悟していた。遂にその発端が来たのだろう。

 逃げようと思っても、きっと逃げられない。

 幽々子が頷くと、紫は言った。


「幽々子の予想通り、今年の冬がおかしいのは私の仕業よ。その理由は、気付けたのなら分かるわよね?」

「桜を咲かせないため?」

「正解」


 妖怪となった西行妖だが、今までの観察から、桜の性質を残したままだとは判明している。死に誘う開花は春になってからと見られるが、問題は多くの命を奪った後、その力を蓄えたままである事だ。

 この状態で咲けば、間違いなく被害は去年の比ではない。幽々子に対しても悪影響を及ぼす事は必至だろう。

 だから、紫は冬を長引かせる事にしたのだ。

 西行妖が蓄えた力を少しでも削ぐ為。そして、幽々子の鍛練の時間を少しでも稼ぐ為に。


「でも、季節を止めるのは簡単じゃなくてね。一番調子の良くなる、深夜から明け方までじゃないと上手く出来ないのよねーーふぁ」


 ふと、紫は欠伸を溢す。

 眠れたのは僅かな時間だ。集中力も緊張感も、あまり長く続けられない。つられるように幽々子も少しだけ気持ちを緩めた。


「……夜が忙しいなら、昼間に眠ったら?」

「ええ、当然の指摘ね。でも、夜だけだと時間が足りないから、そういう訳にもいかないのよ」

「なら、いつ眠っているの?」

「ふふっ、教えない」


 目元に隈もなく、健康そうに見えるものの、それは紫が妖怪だからだ。本来なら冬眠している季節に殆ど一日中動いている事もあり、紫の消耗はかなり激しい。それこそ、命を削っているとも言える程だ。

 しかし、些細な事のように紫は振る舞い続ける。


「冬を長引かせても、いずれ春は来る。今年は昨年より酷くなる可能性が高いわ。だからね、幽々子。その間だけでも、妖忌さんと一緒にここを離れていてくれないかしら。人払いは私がしておくから」


 西行妖が咲いているのは長くても二週間程度。季節を操るのと同じ要領で雨や風を呼び寄せれば更に縮める事も可能だ。

 しかし、幽々子はその提案を拒絶する。


「それを選ばないと分かっているから、紫は冬を長引かせているのでしょう?」

「……まあ、ね」

「紫が私の影響を全く受けてないとは思えない。まだよく分からなくても、それくらいなら分かるもの。その状態で今度の春を無事に越えられるとは思えないわ。

 だから、もし、無事に済まそうと思うのなら、それは私次第なのよね?」


 幽々子と西行妖の能力の原理は酷似している。だから、幽々子が能力を制御出来るようになれば、西行妖を押さえ込む事も出来るかもしれない。


「だったら、もっと頑張ってみる」


 少し自暴自棄ながら、幽々子は笑顔を見せた。


「正直ね、この力がある事を、今はそこまで不幸だと思っていないの。

 この力が無かったら、父の愛した桜を化け物として滅ぼすしかなかったかもしれないし、それも出来なくて、未来永劫誰かを殺させていたかもしれない。でも、この力があるから、誰も死なせず、あの桜を止められるかもしれないもの」


 誰も死なせたくない。それは、幽々子の力で死ぬ者が居なくなるという意味だけで言ってきたのではない。

 幽々子にとって西行妖は家族同然。それを止めなくては、人間として胸を張って生きられなかった。


「あの桜ね、綺麗なの。私も好きだった」


 西行妖が普通の桜だった時。幽々子がもっと幼かった時。その時から、西行妖はそこにあって、幽々子を見守っていた。

 これは錯覚かもしれない。

 しかし、もしかすれば、そのおかげで幽々子は満開の西行妖を見ても死ななかったのかもしれないのだ。

 西行妖が力を得たのも、人間達が美学を押し付け過ぎただけ。西行妖自体には悪意も殺意も存在しない。だから、近しい人間達の命を西行妖が奪っていても、幽々子には憎み切る事が出来なかった。


「ねえ、紫。この冬はいつまで続けられる?」

「あと三ヶ月くらいね」

「そこまでしなくていいわ。父の命日までで良い。その日には、少し咲かせたいの。遺言みたいなものがあるから」


 仏には桜の花を奉れ

 我が後の世を人とぶらはば


「父の死は大勢の死ぬ理由に使われてきたもの。娘の私くらい、せめて父の望んだ通りに弔いたいわ」


 善い父だったとは、少し言いにくい。出家を止めようとする幼い幽々子を蹴飛ばした事も、各地を遍歴する中で孤独から奇行へ走った事もある。その為に幽々子と一緒に過ごした時間は少なく、幽々子には父が居たという実感もあまりない。

 ただ、父は繊細だった。墓前に花を手向けられる事は望んでも、慕ってきた者が次々と死ぬ事は決して望まない。

 死ぬまで父は歌を詠んだ。桜を愛し、桜に看取られた。

 それが歌聖と謳われた者の一生。

 もののあはれをよく解した父の事を、幽々子もまた歌聖として尊敬していた。


「それは駄目よ。……残念だけど」


 しかし、紫は幽々子の意見を認めなかった。多少は検討したものの、やはり、その提案を受け入れる余地は無かった。

 幽々子は目に見えて落ち込んだ。


「そうよね。だって私、まだ何も出来てないもの。ごめんなさい。変な事言ってしまって。辞世の句も、もう残り少ないのに」


 辞世の句を使った実験は切欠を見付けられただけで、それ以上の成果はまだ出ていない。

 時間より、こちらの方が余程問題で、そして、ずっと前から分かっていた事で、幽々子にはどうする事も出来ない事だった。


「紫。私ね、誰も死なせたくないの」

「分かっているわ」

「どうすればいい?」


 幽々子は真っ直ぐに努力している。そこに奇跡でも呪いでも使い、無理矢理にでも可能性を与えるのが非常識の存在である紫の役目だった。

 過剰な程の信頼を寄せられても、紫は怯まずに答える。


「今まで通りよ。それが出来なければ次へは進めない。時間だけは私が必ず用意する。焦らなくてもいいわ」

「でも……。いえ、そうよね」


 追及しようとするも、幽々子は思い止まる。

 紫の言う通りだ。辞世の句を新たに用意する事は難しく、幽々子の主義にも反する。ならば、せめて手元の一つ一つに集中していくしかない。

 しかし、それでいいのか。

 辞世の句は故人の形見。それを私情で使うからには幽々子は今までも最大限の誠意を込めて臨んできた。だというのに、あまり芳しくない結果でまだ足踏みしているのは、何か根本的なところに誤りがあるのではないか。

 幽々子には思い当たる節があった。恐らく、紫も同じ事に気付いているのだろう。

 だから、訊くのが怖かった。

 それでも、訊かずにはいられなかった。


「ねえ。時間以外は?」

「必要になれば用意するわ」

「私が間に合わせられなくて、屋敷から離れなきゃいけなくなった時に?」

「ーーええ、そうね」


 声が硬かった。

 今の紫は消耗していて、万全とは言い難い。

 だから、隠そうとした真意へ気付くのは、そう難しいものではなかった。


「ありがとう。やっぱり、そういう事よね」


 死を媒介する何かは辞世の句に籠められていた強い情念に反応していた。

 しかし、いくら強い情念でも、時と共に薄れていく。

 幽々子が使っていた辞世の句は昨年の春に書かれたものだ。実験開始はそこから半年以上後であり、その時点で情念は殆ど残っていなかったのだ。

 これを解決するには、新たな辞世の句を手に入れるしか方法がない。

 つまり、誰かを死なせるしかない。

 だから、紫は幽々子を屋敷から離そうとしたのだ。

 西行妖を見て死んだ者の大半は辞世の句を残す。紫はそれを利用し、幽々子が居ない間に西行妖で人間を死なせ、新たな辞世の句を得るつもりだろう。


「うん。……分かってた」


 幽々子は手を握り、口を閉ざす。

 仕方の無い事だとは、分かっている。

 紫と妖忌は命懸けで幽々子を助けようとしてくれている。だから、誰かの死が絶対に必要だと強く言われれば、どれだけ苦しくても、幽々子には拒み切れない。

 そんな幽々子が、紫には憐れに思えた。


「幽々子は賢いわね。怒ってもいいのよ?」


 そう促しても、幽々子は首を横に振る。

 幽々子には紫しか居なかった。

 一緒に居てくれるのなら、裏切られてもよかった。どれだけ心を傷付けられたとしても、紫と一緒なら癒えると信じていた。 

 最早、依存の状態だ。支配にも等しい。

 しかし、紫はその関係を望んでいなかった。

 大勢の人間に囲まれて、蝶よ花よと愛でられて、静かに、けれど豊かに老いてゆく。幽々子にはそういう人生こそが相応しい。

 自分のような異物が必要なのは今だけで、いずれは遠くで見守っていた方が幽々子の平穏を乱さずに済む。

 その点だけは、近寄らない事を決めた妖忌の方が正しかった。

 幽々子の側に居るとよく分かる。幽々子は普通の人間だ。人間達と生きていく方がきっといい。


「幽々子。じっとしていたら頭も固まるわ。少し運動しましょうか」


 やや迷いながらも、幽々子はこの誘いには頷いた。

 紫が手を取ると、幽々子は懇願するかのように握り込む。


「分かっているわ」


 託される願いを紫は全て知っている。

 出来る事なら叶えてやりたいとも思っている。

 しかし、紫にも願いはあり、出来ない事もあるのだ。

 死を意識させられながら、紫は幽々子を連れ歩く。

 今はまだ、深刻なのは触れている間だけ。しかし、いずれは幽々子の姿を見るだけで、紫は死に招かれる。

 そうなりたくはない。

 一緒に居たいのは、紫も同じなのだから。





 冬に閉ざされた屋敷を訪れる者はまず居ない。だが、妖忌は藁簑を纏い、門の前で立ち続けていた。

 純粋な人間でない妖忌の体は冷たく、銀世界にあっても息は澄んでいる。ただ、代わりに霜が付きやすく、凍てついた眉や髪は彼が生きてきた歳月を常より正しく物語っていた。

 そうして石像のようになった妖忌へ、紫は幽々子を連れて近付いた。


「妖忌さん」


 紫が声をかけても、妖忌は全く反応しない。

 妖忌は紫と幽々子の生活には不干渉の姿勢を取っており、一日中話さない事もあった。紫に対しては、特にそうだった。


「交代しますわ。その間、幽々子に剣の稽古を付けてくれないかしら」


 拒絶を無視して繰り出される提案。

 それでも妖忌は動じない。冗談と判断したからだが、紫は本気だった。その事に気付いた幽々子は激しく動揺する。

 いきなり放り出すのか。

 幽々子は視線だけでそう訴えかけた。しかし、紫は申し訳なさそうな顔を返したが、妖忌との話を優先して繋いだ手を弛めようとする。

 その時だった。


「断る」


 妖忌の口が開いた。近寄られる事ではなく、紫が幽々子から離れる事を拒んでの事だった。

 体に付いた霜を散らし、紫へと向き直る。


「俺の剣術は遊びではない。そんなものを教えて何になる」


 刀とは人殺しの道具。剣術とは殺人術。

 人間どころか、妖怪の死でさえ望んでいない幽々子に、到底似つかわしいものではない。


「幽々子殿は平穏な世界でしか生きていけん。余計な真似をさせるな」

「ええ。ですが、余計な事ではありません」


 反論しつつ、紫は幽々子の様子を窺う。そして「大丈夫よ」と一言囁き、不安げな彼女の手を固く握ってから続けた。


「事故とはいえ、幽々子は人間を死なせました。たとえ力を制御出来ても、人間達は幽々子を化け物として扱うでしょう」


 幽々子の動揺と恐怖が紫の指へと伝わる。

 残酷だが、しかし、それは充分に有り得る未来だ。

 大半が西行妖による死とはいえ、唯一生き残っている幽々子が全ての原因だと人間達は安易に考える筈だ。

 硬直する幽々子に心を痛めながらも、紫は続ける。


「幽々子を平穏な世界へ戻すには普通の人間だと偽る必要があります。しかし、その為には歳月が必要です。普通である事を証明する物的証拠は古今東西何処にも存在しないのですから。

 その間、幽々子は様々な困難に直面するでしょう。しかし、私達のような普通ではない存在が助けに入る訳には当然いきません」

「……やめて」

「万が一、幽々子が生命の危機に陥ったとしても同様です。妖術の類いも厳禁ですから、私から教えられる護身術はありません。一方、貴方の使う剣術はまだ普遍的です。使ったところで化け物としてーー」

「やめてよ!」


 幽々子が取り乱し、紫の言葉を遮る。


「お願い……。一人にしないで……」


 しがみつき、膝を折り、幽々子は懇願する。

 紫の言葉は事実ばかりで、それが一層、幽々子を苦しめた。

 化け物として人間に恐れられ、忌み嫌われる未来。たとえ死に関わる力を制御出来たとしても、それだけでは人間達と暮らせない。

 幽々子がどう思おうと、人間にとって幽々子は敵だ。

 幽々子が死なせた人間達には家族や、友人や、恋人が居た。彼等にとって、幽々子はどうしようもない程に敵なのだ。

 しかし、それ以上に、幽々子は家族のように思えてきた紫達との別れが辛かった。


「ごめんなさい。辛い事を聞かせたわね」


 紫は幽々子を撫でる。

 年の離れた姉のように。愛を込めて。


「でも、分かって」


 いつまでも一緒には居られない。居ると駄目なのだ。幽々子の為にならない。

 それ以上の説明を紫はしなかった。そんな事をせずとも幽々子なら分かってくれると信じていた。

 しかし、幽々子は紫が一緒に居てくれるから頑張ってきたのだ。いつか離れていくと言葉にされても頑張れる程、幽々子は強くない。

 紫の袂から手を離せず、幽々子は動かない。紫も動けない。ただ一人、行動を起こせるのは妖忌だけだった。


「何にせよ、剣術は駄目だ。幽々子殿は臆病だ。刀など、まるで向かん」


 刀を振るう際は相手を近くで直視しなければならず、相手の感情が克明に映る。今の幽々子の性格ではそれに気圧され、返り討ちに遭うだけだ。

 しかし、紫の提案にも一理あった。

 父親が著名であった為に幽々子は世間に多少知られている。名を偽り、住む土地を変えても、素性が割れる可能性が全く無いとは言い切れない。

 どのような動機であれ、幽々子は人間に襲われる。その事だけは間違いないと、戦場で人間の醜さを見てきた妖忌は確信していた。


「そうだな……。代わりに、槍ならば指南してもいい」


 槍は雑兵に持たせる事が多く、雑兵は生粋の武士と比べれば臆病な者が多い。彼等に適した武器である槍なら、刀よりは幽々子に合う筈だ。

 妖忌は剣術家以前に武術家として一通りの事を修めている。槍は勿論、弓や馬も一端に扱える。雇われの剣客としてだけではなく、素人を鍛える事でも生計を立ててきたのだ。教える事は不得手ではない。

 

「無論、それは幽々子殿にその意思があればの話だ。望まぬ鍛練など徒労にしかならん」


 しかし、剣でも槍でも、幽々子を傷付ける事には変わりないのだ。

 妖忌に問われ、幽々子は怯え、何も答えなかった。

 迷い続けて、動けない。

 それなら、槍を持たせても同じだろう。


「急ぐ話でもあるまい。体を冷やす前に屋敷へ戻るといい」


 今日のところは教える意思があるかどうかの確認を取りに来られただけで、それ以上の事は期待されていない。そう判断した妖忌は一方的に話を打ち切り、再び、不意の来客へ備え直した。

 しかし、話が終わっても、幽々子は動かないままだった。それどころか紫へ縋り付いていた手からも力が抜け、遂には横向きに倒れてしまった。


「嫌よ……」


 果ての無い絶望を湛えた声が溢れる。

 無理を押し、幽々子は前向きに頑張り続けていた。

 だが、現実はどうか。待ち受ける未来はどうか。

 大勢死なせた報いはあっても、努力の見返りは一向に訪れない。死なせた事は本意ではなく、それどころか、幽々子自身は発端ですらなかったというのに。


「こんな私が生きて、一体何になるの」


 死ねば何も出来ない。だから、死ぬのは怖い。しかし、生きていても、何も出来ないような気しかしなかった。

 この苦しみはいつ終わるのだろうか。

 望まぬ物を見て、望まぬ事をして、あらゆる望みを押し殺して。それを何年も続けたところで、大勢を死なせてしまった幽々子は二度と元の暮らしには戻れない。


「……」


 もう、言葉を発する事すら嫌だった。

 このまま動かなければ凍死出来る。その前に紫が屋敷の中へ連れていくだろうが、そうされなければきっと死ねる。

 投げ遣りな自殺の試みに紫は唇を噛んだ。そして、幽々子を無理にでも引き起こし、立とうとしない彼女を抱き締めるも、相応しい言葉が出てこない。

 感化されている紫には、幽々子の気持ちが痛い程に分かってしまったのだ。上辺だけの軽い言葉ばかりが浮かんで、そんなものを口にしたところで、きっと逆効果にしかならないだろう。


「ーーならば、既に死んだと思え」


 だから、妖忌が動いた。

 いつの間にか近くに戻っていた妖忌を、幽々子は紫の体越しに呆然と見詰める。


「生きていても死んでいても変わらないと思うのなら、それはもう既に死んでいる。改めて死んだところで何も変わらん」


 幽々子は黙ったままだった。

 変化は望んでいない。ただ、終わって欲しかった。


「よく聞け。幽々子殿」


 目線を合わせる事を妖忌はしない。

 立ったまま、叱りつける。


「己の限界に絶望するのは構わん。しかし、それ以外には決して絶望するな」


 自分を捨ててでも、誰かを信じる。信じて、尽くす。

 無我の境地、または滅私の精神と呼ばれるその心構えさえあれば、乗り越えられないものは今まで無かった。だから、妖忌は己が無力だと知っていても、力を尽くせば幽々子を助けられるとーー少なくとも、その可能性を上げる事は出来ると信じている。


「俺は諦めん。たとえ幽々子殿が諦めようとも、幽々子殿が幽々子殿らしく生きられるように俺が力を尽くす。それでも死にたいというのなら、それは俺が死んでからにしろ」


 妖忌は優しい言葉を知らない。もっと良い伝え方もあっただろうに、彼の口は常日頃から乱暴で、幽々子を不必要に萎縮させる。

 しかし、理解されなくても良かった。妖忌がする事は変わらない。屋敷で死人が出ないよう、人間達を追い払い続けるだけである。


「……紫。もう、大丈夫だから」


 だが、言葉は届いた。

 幽々子は紫を押し退け、妖忌と向かい合う。

 鋭い眼差しを浴びながら、幽々子は今までの事を思い返し、鼻を啜る。

 満足した死を強制された人々の事。そして、彼等が死ぬのを見ていただけの幽々子自身の事。

 死者を見る度に、幽々子は彼等が本来得られた筈の幸福を予想せずにはいられなかった。

 だから、今でも考える。


 もし、その時の幽々子に勇気があったなら。

 死にゆく彼等に恐れを抱かず、紫のように抱き締めたり、妖忌のように諌められたのなら。

 もしかしたら、一人くらい助けられたのではないか。

 自分が臆病だったから、死なせてしまったのではないか。


 それを思うと幽々子は胸が苦しくなる。

 きっと、そうに違いなかった。今の自分が死にたいと思わなくなってきているのだから。


 誰もが幸せになっていい。今でなくても、いつか誰もが幸せになれる。そう信じているからこそ、幽々子は他人の命を奪い続けた自分が嫌いだった。そして、そんな自分を見限って死を選ぶ事も中々出来なかった。

 けれど、もう決めた。

 自分の幸福は無くてもいい。あったとしても、それは最後でいい。その代わり、こんな自分でも見捨てようとしない紫や妖忌には生きていて欲しい。出来る事なら、一緒に暮らした時間を後悔しないでいて欲しい。

 二人の優しさと厳しさを無駄にはしたくない。何も与える事が出来ないのなら、せめて、幽々子は何も奪わずにいたかった。

 

「お願いします。私に」


 剣でもいい。槍でもいい。

 力が欲しかった。頼らなくてもいいように。


「私に、戦い方を教えて下さい」


 どこまでも孤独で、人並みの幸せには程遠い生き方だ。

 それでも、死に方ではなく、生き方なのだ。

 断る理由など、妖忌には一つも無かった。





 その日から幽々子は槍の稽古を受け始めた。

 ただ、一生続けたとしても幽々子に碌な武芸は身に付かない事は明らかだった。才能や基礎どころか、闘争心の欠片すら幽々子にはなかった。それでも、生き続けようとする意思は見えた。だから、妖忌も諦めずに教え続けた。

 そして、身を守る技術だけは何とか形になると、妖忌は剣を教える事も次第と考えるようになった。

 幽々子は荒事に向かず、どの技も中途半端にしかならない。他者の何十倍もの時間を費やせば別だが、それよりは選択肢を増やすべきだと考えたからだ。

 勿論、抵抗はあった。

 妖忌は己の剣技に誇りを持っていた。しかし、その技は何かを斬る為のもので、幽々子にとっては学ぶ事すら苦痛に感じるだけのものかもしれない。

 だが、それこそが戦う事しか知らない妖忌が出来る唯一の手助けなのだ。その時が来れば、と妖忌は覚悟を決めていた。





 けれど、その機会は永遠に訪れない。

 時は無情に流れ、春はすぐそこまで迫ってきていた。 

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