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東方朧観簿  作者: 庶民
第二章
56/59

其の五十六、灰色の最善



 龍泉は人間が嫌いだった。

 それでも、人間に期待していた。

 いつか、好きになれる者が現れる。愛したいと思える者が現れる。

 しかし、幾度も願いを踏み躙られた結果、龍泉の前には素敵な人間より先に、素敵な妖怪が現れていた。

 その時点で龍泉が人間に期待する理由は殆ど無くなっていた。後はただ、愛する者を守り続けるだけで龍泉は幸福を享受出来たのだから。

 なのに、何処までも細い一縷の望みではあるが、龍泉はまだ人間に期待していた。

 人間を助けた事に、龍泉は意味を見出だしたかったのだ。助けるべきではなく、死なせるべきだったという事実に、たった一つでも明確な例外を示したかった。


 手に伝わる感触を通じて、龍泉は映姫の事を僅かなりとも理解していた。

 同じ事を、思っているのだ。

 人間を死なせてはならないという信条を持っている。けれど、死なせるべきだったと理性が訴えている。

 龍泉を苦しめた人間達の悪事は龍泉に扱える代物ではなく、人間の法でも満足に照らせないものだった。ならば、わざわざ助けず、閻魔に裁きを委ねるべきだったのだ。


 ――いや、本当に間違えたのは、そこではない。


 龍泉は気付いていた。

 人間を思い、故郷を思うのであれば、遠い昔の時点で選択を誤っていたのだと。

 映姫も、気付いている筈だ。龍泉が辿るべき、本来の正しい結果が何だったのか。


「……あの時、私は死ぬべきだったのでしょうね」


 龍泉が物心付いたばかりの頃。

 酒に溺れた父親から踏み潰された時。

 心臓を止められたというのに、龍泉は自らの意思で生き返った。

 それこそが、最初の過ちだったのだろう。


「あの時に死ねば、私の父はその時点で法に裁かれていました。私の体には痕が残っていたのですから、虐待の悲惨さを伝える事件として、世間を暫くは騒がせられたでしょう。そうすれば、あの人々も少しは殺す事を控えたかもしれません」


 もう十五年以上、昔の事だ。

 後悔の念も、もう枯れ果てた。


「地獄の中で生き延び、多くの人間を生かし……。ですが、それさえも、幻想郷で私が死なせてしまった命に比べれば些細なものです」


 龍泉は故郷で数十人の命を繋ぎ、幻想郷で数百人の命を失わせた。

 失わせた命の多くについては無自覚だった。だが、無自覚という言葉は所詮、浅慮という言葉を言い換えただけに過ぎない。


「いつも間違ってきました。最初の在り方から間違っていて、直した事がありません。いえ、直せないのです。直すには死ぬしかないのですから。でも――」

「……それ以上、何も仰らないで下さい」


 悲しげに映姫が呟いた。

 倫理を抜きにした際の最適解は確かにそれなのだと、暗に認めた形だった。

 しかし、それは閻魔としてである。映姫自身は、当時の龍泉の死が正しいとは認めていなかった。


「貴方が死んでいいなんて……、そんな筈、ありません」


 気丈に振る舞おうとするも、龍泉に死ねと口走った事を思い出し、映姫の声は萎んでいく。


「……何にせよ、私は死ねませんよ。死ぬ訳にはいかなかった。大切なものを傍で守る為に、死にたくなかった」


 痛ましさを顔に出す映姫から目を離す事なく、龍泉は遮られた言葉の続きを口にした。

 それは切なる言葉だった。

 たとえ世の摂理に死を望まれようとも、龍泉は気にしない。襲われても悩まないし、省みない。

 大切なものの傍に居られて、それらが脅かされなければ、それだけで良かった。


「庇って下さり、ありがとうございました」

 

 龍泉は首を起こし、床に肘を突く。

 肉体的にも精神的にも満身創痍の有り様だった。

 立ち上がろうとしても、自らの重みにすら耐えられなかった。途中で姿勢を崩すと、映姫に背中を支えられながら、ゆっくり、元の場所へと戻される。

 これが、かつては人間に崇められた者の姿である。

 あまりにも零落した龍泉の姿に映姫は目を伏せ、反面、本人は気軽に笑っていた。


「駄目ですね。今日はもう動けません。幽々子の事は紫に任せるしかありませんね」


 そして、映姫を見上げる。

 救われる事を諦めかける映姫へ、彼は真っ直ぐに呼び掛けた。


「映姫様」


 今の龍泉から映姫への敬意が失われた訳ではない。

 信仰され、信頼されている者として誠実に。

 人でもなく、神でもなく、龍泉として、映姫と向き合う。


「死んでいい命は存在しないと、私も思います。……いえ、そうであればいいと、思っています」


 閉ざされた凄惨な世界で龍泉は育った。

 夢が叶わない。それどころか、夢見る事すら叶わない。龍泉の故郷はそんな世界であり、唯一、死だけがその絶望から逃れられる術だと、故郷の人間の中で信じられていた。

 彼の声が厳しく、痛みをもたらすものへと変わっていく。


「死んでいい命は往々に存在するのでしょう。故郷の人間にとっての私がそうであったように。社会にとって悪しきものは淘汰する。秩序ある環境を保つ為なら、それは自然な現象です」


 龍泉の故郷は死を暗黙の内に肯定する社会だった。それを真っ向から否定した龍泉を殺す事は、あの地の人間からすれば重要な事だったのだろう。

 受け入れるつもりは更々無い。けれども、彼等には彼等なりの理屈があった事くらい、龍泉も知っていた。

 目を閉じれば、在りし日の人々の殺意が容易に思い浮かぶ。


「ですが――」


 それだけではないのだ。

 共に抵抗した皆の姿。そして、言葉。

 龍泉は孤独では無かった。

 死ぬな、生きろ。

 共に叫ぶ声が常にあった。

 その響きを胸に抱き、龍泉は声から痛みを消した。


「私の願いを、皆は一緒に信じてくれました」


 それはまるで、幼い子供が親を慕うように。

 明確な理由を持たなくとも、龍泉を支えた者達は自分達の意思で龍泉の願いを――誰であろうと死んでいい命は無いのだと、信じていた。

 だから、龍泉は背かなかった。

 人間達から命の責任を無理矢理押し付けられ、それでも立っていられたのは、何物をも上回る信頼があったからだ。

 ふわりと、その龍泉の隣に霊魂が漂う。

 今は確かに、それが見える。

 親しかった獣達の魂へ龍泉が手を差し伸べると、それは彼の手元に擦り寄った。

 不思議な実感が胸に染みる。

 見えなくなっていたのは、何一つ叶えられなかった自分が情けなく、彼等へ向ける顔が無かったから。

 しかし、今は違う。

 今の龍泉には子供が居る。

 上出来ではないが、親になったのだ。

 なら、一体何処が情けない。

 過去を乗り越え、子供を育てる立場になれた龍泉は誇らしげに破顔する。

 後悔が消えた訳ではなかったが、もう龍泉は守れなかった命の声や姿を感じる事に躊躇わなかった。

 突如、龍泉の視界に懐かしき面々の姿が明瞭に映る。

 故郷で共に暮らした者達。そして、紅魔館で共に過ごした妖精メイド達。

 まだ、居てくれている。

 今もまだ、慕ってくれている。

 その事実を直視した龍泉は、込み上がる愛情の念を堪え、改めて映姫と向き合った。


「映姫様。私は、大切な者が信じてくれる限り、それが理由になりました」


 人間の理屈では、殺しにくる人間達は到底助けられない。だから、龍泉は人間の理屈を捨てていた。

 信じる者の為に尽くす。慕う者の為に生きる。果てしない苦難の中で龍泉が導き出した答えがそれであり、その結果は寄り添う霊魂と付き纏う悪霊という二つの形で現れている。

 そして、映姫もその結果の一つだ。

 殺意渦巻く魔境で立ち上がり、最後は挫折した龍泉。その生き様を見た映姫は過去の彼に魅入った。敗北という結果に終わったとしても、その姿は彼女にとって忘れ難く、今も鮮烈に焼き付いている。

 では、その際に抱いた思いはどちらだったのか。

 龍泉自身に寄り添った者達と、龍泉の行動に付き纏った者達。映姫は果たして、どちらなのか。


「訊ねたい事があります」


 立場の垣根を越え、龍泉は映姫を見詰める。

 映姫は狼狽え、視線を彷徨わせた。

 決定的な事を訊ねられると分かったが、正しい解答を返せる自信が無かったのだろう。

 龍泉は待たなかった。

 彼が訊ねたい事は、時間を掛けて考えなければならないような難しいものではない。


「貴女が人間を助けたいと願う理由は何ですか」


 貴賤や善悪を問わず、全ての衆生を救う事が地蔵の役目。ならば、今は閻魔となった映姫に人間を助けたいと願う具体的な理由はあるのか。

 悪人すら信心さえあれば救う地蔵から、更正の為とはいえ、罰という形で苦痛を与える閻魔へ変わったのは、本当は人間に絶望したからではないのか――そのような鋭さも帯びた問いである。

 その問いを受けた途端、映姫は喉を詰まらせた。

 簡単に言葉に出来るものではなかった。そして、あまりにも多すぎて、直ぐには出せなかった。

 溢れた人間への愛情は涙となって落ちていき、龍泉の顔を撫でるように伝っていく。

 誰かを思って流す涙は、何とも言えず、温かい。


「……見てきたのです。幻想郷の人間の暮らしを、もう遥か昔から」


 守り、共に暮らし、そして看取る。映姫が繰り返してきた時間は常に人間の儚さと共にあったのだ。

 それだけはどうにか言えた映姫だったが、そこから先は朧気な言葉しか出てこず、やがて、はしたなさから口を噤んだ。

 暫くの沈黙があった。

 後悔と郷愁の時間だった。

 言葉にはならないが、しかし、それは確かに声だった。


「そうでしたか」


 聞き届けた龍泉は、感慨深く、そう言った。

 彼もまた、故郷の獣と自然を守り、育み、最後には弔う事で彼等に寄り添い続けてきた。

 相手が違えど、その情景の色彩は違わない。

 龍泉は映姫が人間と共に過ごした歳月へ思いを馳せる。そして暫くして、彼は再び頭を上げた。

 これほど善良なものに、これ以上の重みを預けてはならない。そう思ったのだ。

 映姫の手が伸びてくるも、龍泉は首を振って断った。戸惑いと憂いを背中に浴びながら、龍泉は映姫と向かい合う形で座り込む。

 息は乱れ、服にも体にも真新しい傷が目立っている。しかし、龍泉の心はいつになく凪いでいた。


「貴女とはもう少し、早く出会いたかったですね」


 呼吸を整えつつ、心の内を密かに口にする。

 きっと、その出会いは龍泉の価値観を変えていただろう。

 人間から慕われる在り方を目指し、どれだけの苦難を経ても泥中の蓮であり続け、もしかすれば人間を愛せるようになっていたかもしれない。

 過去の選択に、後悔はしていない。

 だが、出来る事なら、龍泉とて――。


「……映姫様。それでも私は、私の正しさの中でしか生きていけません」


 龍泉は間違い続けてきた。どこまでも独り善がりになる事でしか生きていけなかった。


「その私が何かを申し上げたところで、貴女の助けにならないかもしれません。ですが、どうしても伝えておきたい事があります」


 龍泉はそこで一度言葉を区切り、そして、穏やかに微笑む。


「私も、幻想郷が好きですよ」


 映姫は目を瞬かせるが、直ぐに塞ぎ込んだ。

 龍泉が幻想郷を好んでいるのは彼の故郷と同じように人ならざる者が暮らしているから。人間が好きだと言われた訳ではないのだ。


「確かに今は人間が犠牲となっているのかもしれません。私自身、里の人間を一人死なせました。しかし、人間と妖怪が共存していける可能性は十分にあると思っています」


 説得力の無さは龍泉も自覚していた。それでも口にしたのは、龍泉が人間の死を何とも思わない冷血漢だと思われたくなかったからだ。

 龍泉は体を寄せ、映姫の手を握った。

 彼女の手は冬の寒さと緊張で冷えていた。驚いた映姫が若干身動ぎするも、振り払いはしなかった。


「映姫様。私は幻想郷の人間に救われた身なのです」


 放浪していた龍泉を泊まらせ、生きていいと言ったのは慧音だった。

 レミリアの元から別れも告げずに去ろうとしたとき、引き留めたのは霊夢と魔理沙だった。

 彼女達が居たから、全てを失った龍泉は再び居場所を得られたのだ。


「貴女の願いは叶います。けれど、叶えるのは私ではありません。貴女が愛する幻想郷の人間の誰かになるでしょう。人間を死なせた私を助けられるようなら、どのような相手でも、――人間を殺した人間でさえも、助けられるのかもしれません」


 不穏な言葉が口から零れる。

 しかし、その思考が常態化していた龍泉には、その不穏さに気付けていない。


「人間が全て善人であると思えない私には、人間を無差別に助ける事は出来ません。ですが、もし、それが出来る人間が現れるのなら、私はその人間を助けたいと思っています。……それでは、駄目ですか?」


 龍泉が偽りのない善意を告げてもなお、映姫の表情は暗いままだった。

 人間不信が根底にあり、龍泉はそれを隠すべきものだとすら感じていない。

 その事が悔しく、映姫は意を決して反論する。


「幻想郷の人間は、平和を望んで暮らす善き人ばかりです。貴方の住んでいた場所とは、全く異なります」


 映姫は龍泉の故郷の特殊性を知っている。彼の故郷は何処の縮図でもない。特有の価値観に支配された、精神的には異世界も同然の場所だ。

 けれど、龍泉はそこでの経験を通じて全ての人間を悲観的に見ている。

 その歪んだ認識のまま、幻想郷の人間について語られたくなかった。


「お願いです。分かって下さい。貴方の地獄はもう終わったんです。悪意を持つ人間なんて、あんなに――っ」


 その時、尋常ではない浮遊感が映姫の体を貫いた。

 龍泉の手が力を失い、映姫から離れかけていた。





 それは、龍泉にとって譲れない領分だった。

 部外者からすれば、確かに、龍泉の境遇は例外。

 龍泉達が何十回と人間に苦しめられた事さえ、彼等からすればたった一例に過ぎない。

 不幸な偶然。その一言で片付けられる事だ。

 けれど、その不幸な偶然は十余年に渡って継続され、龍泉達の願いも、命も奪い続けた。

 そして、先の悪夢でも。

 たとえ人間や場所がどれだけ違おうとも、一度や二度で終わらなかった事を、今後起こり得ないと見なす事が、龍泉にはもう出来なかった。


 だが、映姫の言い分は龍泉も理解出来ている。

 故郷の人間の同類は幻想郷にそう居ないと、住んでみて既に分かっている。

 それでも、この強迫観念はそう簡単には消えやしない。どれだけ理屈を並べようと、正す方法はただ一つ。人間に苦しめられた年月よりも長い期間、人間に何も奪われない事だけなのだ。

 龍泉が私怨を胸に収めるまで、些かの時間を要した。

 その間に、映姫の沈み切った眼差しは僅かな繋がりしか残されていない互いの指先へと向けられ、そこから腕をなぞり、龍泉の眼で止まった。


「……貴方は今でも、人間を恨んでいるのですか」


 龍泉は何とも言い難く、口を閉ざし続けていた。

 悪夢の中で龍泉を襲撃した人間達の霊魂を眺める。

 その中には、龍泉が故郷を去る時点ではまだ生きていた者も大勢居た。

 その意味を、噛み締める。


「貴方達を脅かした人間は殆ど死にました。貴方の故郷で人間は、もう滅んでいます」


 映姫から滅亡の告知を受けても、龍泉は動揺しなかった。彼は自らが追放された事で、いずれ人間が滅ぶと知っていた。

 それも、彼等が望んだ死に様ではない。もっと惨たらしく、尊厳を奪われた死であると。

 その証拠に、彼等は悪霊と化して龍泉を苛みに来たのだ。尋常な死では、そんな事はまず有り得ない。


「あれは、復讐だったのですか?」

「いいえ」


 素直に、そうではない、と言えた。

 今の龍泉は彼等の生死に意味を感じていない。


「では、何故です?」


 何故だろうか。

 人間に嫌気が差した。助ける意義を見失った。ただひたすらに疲れた。

 他にもあるが、その全てが理由なのだろう。

 だが、龍泉は黙り込んだ。龍泉の故郷に関する話は不毛過ぎる。それを清廉な映姫には伝えたくなかった。


「……貴方は、死んでいい命は無いと、そうであればいいと仰ったばかりです。あれは私に同情しただけで、本心ではなかったのですか?」


 それでも、憚りながらも、映姫は訊ねた。

 引き下がれなかった。今まで費やしたものは決して少なくない。その場限りの同情で誤魔化されてはならないものばかりだ。

 けれど、見捨てられたくもなかった。最後まで貫いてくれるのであればどれだけ卑しい動機でも構わない。

 龍泉が頷けば、それだけでもう映姫は壊れそうだった。毅然と振る舞おうとする姿に、隠し切れない震えがあった。


「嘘じゃありません」


 咄嗟に龍泉から言葉が出ていた。映姫の手を再び取っていた。

 良い答えが返せず、映姫を失望させるだけだと考えながらも、何もせずにはいられなかった。


「私は、故郷の人間にも生きて欲しかったのです。私に生かされているのではなく、彼等自身の意思で生きて欲しかった。ですから、私が故郷から去る際、彼等の生存に必要なものは残してきました」


 苦しみから逃げる為に人間達が死を望んでいた事は理解していた。なのに、龍泉は彼等が生きる事を淡く望んでいた。

 守りたい命も土地も失った龍泉はせめて思い出と夢だけでも守ろうとしたのだ。それが同じ夢を見ていた仲間達への龍泉なりの弔いだった。

 故郷から離れたのもその為だった。力付くで居座る事も出来たが、そうすれば悪夢と同様に殺戮へ走っていたに違いなかった。


「私はもう彼等を助ける事を終わりにしたかった。そして、その終わりが死を伴わないものにしようと……、努力は、したのです」


 しかし、人間達は死んだ。

 彼等は龍泉を決して信じなかった。

 当たり前だ。殺し損なった相手を信用する者はまず居ない。それを承知した上で、龍泉はまともな説得をせず、助かる方法を伝えただけで去っている。

 見殺しにしたと思われても、仕方の無い振る舞いだ。


「……川上さん」


 映姫の不安げな声を聞き、龍泉は不甲斐なさを覚えた。

 先の影を帯びながらも柔和に応じると、映姫はゆっくりと頭を下げた。


「幻想郷には、悪い人間は居ませんから。ですから……、どうか、最後まで見捨てないで下さい」


 絶望の淵から天を仰いだような、何処までも救いを求めた声だった。単に繰り返されただけと見るには、あまりに深刻過ぎた。

 やはり、映姫は龍泉が故郷の人間を見捨てたと捉えていた。滅ぶ可能性を考慮しながら去ったと知った今、表情は以前のそれよりも暗くなっている。

 それでもまだ願いを託そうとするのは、自ら死を望む者ならば死んでも仕方無いと考えているからだろうか。それとも、襲われていた龍泉達に助ける責任は無かったと考えているからだろうか。

 いずれにせよ、龍泉は首を横に振った。


「誰であろうと、失われていい命なんて一つもありませんよ。幻想郷の人間も、私の故郷の人間も、妖怪も……」


 穏やかに映姫の諦めを否定して、龍泉は彼女を優しく抱き締める。

 根拠も無ければ、理屈も無い。ただの綺麗事で、けれど、その美しさは決して偽りのものではない。

 改めて、龍泉は思った。

 生きていてくれる事は、それだけで嬉しいものなのだ。映姫も、そう思い続けてくれないものか。

 仄かな期待と共に映姫を見遣ると、彼女は暫く呆然として、やがて困惑を隠しきれずに呟いた。


「貴方は、後悔しているではありませんか。あの人間達を助けた事に、後悔し尽くしていて。それで他の人間も助けられなくなったのなら……」


 映姫は龍泉の苦痛に触れすぎた。

 語られた理想を信じたくても、信じられなくて。

 困惑はいつしか苦悩となり、その末に映姫は龍泉へ身を預けた。


「信じさせて下さい。それが出来ないなら、一思いに諦めさせて下さい。……もう、苦しいのです」

 

 疲れ切り、どんな顔をすればいいのかも忘れてしまったような、そんな曖昧な表情で映姫は頬を濡らしている。

 優しく抱き続ける龍泉もまた、明るいとは言えない表情だった。


「確かに、後悔はしています」


 助けた人間に奪われたものは数知れない。

 もう二度と助けたくないと、何度も思ってきた。


「でも、また後悔するかまでは、分かりません」


 憂いを帯びた表情ではあったが、龍泉はそう続けた。

 過去と同じ事が未来に起こらない保証は無いが、幸福な出来事が起こらない訳でも無い。

 もしかしたら、それは次なのかもしれない。そうでなければ、その次なのかもしれない。

 何度後悔と挫折を重ねても、その度に希望を継ぎ足して、龍泉は新たな出会いに期待する。

 だが、その期待はやはり、一縷の域を出ていなかった。

 まるで温もりを求めるかのように龍泉は一層強く映姫を抱き締める。映姫も龍泉の怯えを感じ取り、小さく身を竦ませた。


 誰かに何かを信じさせたければ、誰よりもその何かを信じなければならない。

 龍泉と彼の仲間達が同じ理想を信じたのは互いに信頼していたからだ。そこに具体的な根拠は無く、また必要でも無かった。

 しかし、苦い結末を今の龍泉は思い知っている。

 無惨な敗北を思い返せば、僅かな希望は虚しく冷えていく。


 だが、冷えれば冷えるほど、映姫の熱が一層強く胸に残った。

 言葉では選択を委ねていても、理想を諦めたくないのだと。

 もう信じる事も諦める事も映姫の意思では出来ない。それどころか、龍泉が納得のいく答えをくれるとも、本気では思っていないだろう。

 頼るべきではない相手に無理を押し付けていると、映姫とて分かっているのだ。

 それでも、目の前に居たから。

 逃げようとせず、振り払おうともせず、どれだけ困難でも受け止めてくれるから。

 だから、映姫は龍泉の言葉を待ち続け、龍泉もまた果てしない葛藤の末に一つの答えを口にした。


「……映姫様。貴女が私をどう思おうと私は貴女を信じます。ですから、貴女も貴女自身を信じて下さい」


 信仰も信頼も信用も求めない。その代わり、映姫が自信を取り戻せるようにと龍泉は願う。

 願うだけで、具体的には何も出来ない事が歯痒くて仕方無かった。託されたものをそのまま突き返しているだけでしかなかった。

 けれど、言葉に迷いは無い。


「誰であろうと助ける事がたとえ間違いだとしても、それは悪い事ではありません」


 龍泉は巨悪に成りかねない程に独善的だった。最善を見付けられない無能だったからだ。しかし、間違える事の意味は知っている。


「間違えても仕方ありません。その代わり、間違いからは学ばなければいけません。それを忘れない限り、間違いは必ず前進に繋がります」

「……分かります。でも、貴方は過去を引き摺って、人間には関わらないと言ったではありませんか」

「立ち止まった者には引き摺る事すら出来ません。引き摺っている事は僅かにでも前進している証です」


 映姫の追及に悪びれる事なく、龍泉は容易く応じてみせた。

 どうすれば人間を助けた事に後悔しないで済むのか。どうすれば自分は大切な仲間達との絆や思い出を、人間との悪しき記憶から切り離して未来へ繋げられるのか。

 ずっと考えて、答えはまだ出ない。

 でも、それが龍泉の望みだ。

 龍泉は映姫を体から離す。

 彼女の顔を見て、涙で濡れた服の湿りが胸を締め上げた。

 それに絆された訳でも、妥協した訳でもない。

 自身の願いが叶う可能性を微かに見出だし、龍泉は覚悟して告げた。


「今もまだ、私は人間を見捨てていません。ですから、これからは微力ながら……、助けていきます」


 人間への期待と不信の渦中にある、龍泉の悲痛な決意が込められていた。

 確かにそれは、映姫が望み続けた言葉ではあった。

 ただ、その言葉の意味が最初に考えていたものよりも、遥かに重い事を今の彼女は知っていた。


「ごめんなさい……」


 映姫は謝った。感謝なんて口が裂けても言えなかった。けれど、人間を思い続けただけの映姫を龍泉は責めず、反対に慰める事も中々言えなかった。

 決意をしても、人間を助ける事は、龍泉にとって呪いだ。

 しかし、映姫の願いが叶うよう、足りない力を振り絞ろうという気持ちは確かにある。


「大丈夫です。大丈夫です――」


 何度も、何度でも、言葉に詰まってでも、龍泉は言った。

 下手な嘘で、騙されたくても、映姫には簡単に見抜けていた。

 でも、どうして嘘を言ってくれるのかは分かる。どれだけ自分を思ってくれているのかも。

 龍泉の手が映姫の頭を撫でてくる。何でも無い事のように、ぎこちなくとも笑っている。

 その親切に、身が引き裂かれそうだった。


「……やめてください!」


 映姫は叫び、顔を覆った。


「やめて。もう、やめて……」


 我が儘と知りながら懇願した。

 きっと、途方も無い苦痛を抱えながら、龍泉は約束を果たす為に人間を助ける。記憶の中の、未だに血が滴る古傷を抉り続けて。

 そこまでの事を映姫は望んでいなかった。ただ、人間を助けて欲しかっただけで。それがこんなにも龍泉を苦しめるなんて、知らなかった。

 願いを受けて、頭を撫でる手が徐々に硬直する。やがて、そっと映姫の頭から離された。

 映姫は龍泉の表情を恐る恐る窺った。

 そこには真意を隠した笑顔と、目頭から流れる二筋の涙がある。


「大丈夫です」


 違う。


「どんな人間でも、助けますから」

「――っ! その前に、貴方は御自身を助けて下さい!」


 何かを犠牲にする事を選んだ時点で、幾ら崇高な目的を掲げても誰も応えないと紫が言っていた。

 その意味が今ならより分かる。

 自分を犠牲にしてでも助けるという行為にすら、映姫はもう頷けない。

 だから、泣いて頼むのはやめにした。

 深く息を吸い、拳を握って覚悟を決める。

 いつも通り。結局、それが一番良いのだろう。


「いいですか! よく聞きなさい!」


 よく通る声だった。きょとんとしていた龍泉でさえ、思わず背筋を伸ばした。

 これからは説教の時間だ。映姫は人差し指を龍泉に突き付け、迷い無く言った。


「貴方はあまりに利他的ですから、少しは自分を優先なさい。誰かに寄り掛かられたいなら、それを受け止められるくらい余裕を持ちなさい。そうでなければ周囲により迷惑が掛かるだけです」

「……頼んでおいて、それは」


 龍泉の肩から力が抜ける。

 言われる前からやっていた事ばかりだった。急場凌ぎとは言えど気持ちを整理し、死なない程度に安全を確保し、それで願いを聞き入れようとした。

 なのに、断られる。

 確かに龍泉も準備不足は感じていたが、それは慎重に事を進めれば対処出来るものだと考えていた。

 それでも、映姫は不安だったのだ。


「貴方を失ったら、私はどうしたらいいのですか」


 昏睡した龍泉を先程まで介抱していたのは映姫だ。その恐怖は根付いている。

 消耗品として使い潰されるものだと考えていた龍泉は面食らった。代わりを探せばいいとは、映姫の膨らんだ頬を見れば言える気がしなかった。

 奇妙な沈黙が暫く続いた。

 今となっては、龍泉にあった悲壮な決意も大分薄れていた。


「……もういいです」


 映姫が不貞腐れ、そっぽを向いた。

 人助けという高尚な話題が、いつの間にか随分と俗なものへ置き換えられたかのようだった。もしかすると、初めからそうだったのかもしれない。

 その内に映姫は一息入れ、不機嫌な表情を消し去った。

 泣くのは駄目。怒るのも無礼だ。だから、映姫はもっと素直になって龍泉と向き合った。


「待ちますよ。貴方がもっと立ち直ったら……。その時改めて、御願いに伺います」


 穏やかな微笑みを湛え、映姫は手を差し出した。

 憂いの消えたその顔を見ると、伝えられたものはあったのだと、龍泉は思う。

 待つと言ったのだ。だから、映姫は諦めないのだろう。人間の事も、当然、龍泉の事も。そして、いつか再び龍泉へ迫る時には、少しくらい事情を考えてから来るのかもしれない。

 そうなれば、今度こそ格好よく引き受けたい。


「分かりました。精進致します」


 龍泉は敬虔な声で了承し、映姫の手を握った。

 映姫が訴えていた問題は相変わらず残されたままだ。

 しかし、それも必ず解決できるだろう。

 互いに信じ合える相手が出来たのだから。

 今はただ、それを素直に祝福したい気分だった。

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