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東方朧観簿  作者: 庶民
第二章
53/59

其の五十三、悪夢



 殺してくれ。

 死なせてくれ。

 助けないでくれ。

 見捨ててくれ。


 龍泉の耳に故郷で聞いた怨嗟の呻きが届く。

 気が付けば、龍泉は夢の中に居た。

 故郷の実家に居た。

 何度も人間に襲われ、何度も殺された、その現場の一つだ。

 その建物の縁側に腰掛け、龍泉は外の景色を眺めていた。

 今はもう存在しない懐かしい景色に暫し浸り、龍泉はふと後ろを、家の中を見返した。

 非現実的に広く拡張された部屋があり、そこでは天井から何十人もの人間が首を吊られていた。

 故郷の者もそうでない者も、更には知らない者までいる。自殺した里の男。キョンシーの女。知らない者は忘れただけで、何処かで出会った事のある誰かなのだろう。

 その全員が、まだ動いて、苦しげに呻いている。


「幻覚、か……」


 走馬灯のようなものだと悟り、現実に戻る事を絶望視した龍泉は俯いた。

 知らぬ間に、手には斧が握られていた。

 どうして現れたのか。何の為に使えばいいのか。


「殺してくれぇ……」

「……そうか。そうか」


 その答えは悩む間もなく教えられた。

 首を吊った人間の願いに答えるように、龍泉は斧を手に、さながら幽鬼のように立ち上がる。


「もう私は、貴様ら人間達を助けなくていいのか」


 ある人間の前に立ち、龍泉は斧を振り被った。

 その人間は、かつて龍泉を殺めようとした人間だった。

 怒る事も悲しむ事も無く、龍泉は無慈悲に斧を振り下ろす。

 胸を抉られた人間は断末魔の叫びを一瞬だけ発するも、絞首の紐に締め上げられ、それ以上は何も言えずに絶命した。

 返り血と肉片を浴び、龍泉が汚れていく。

 顔に付いたそれらを手で拭い、汚れた手に舌を這わせ、龍泉は次の人間の前に立った。

 その人間は、かつて龍泉の前で自殺を図った人間だった。

 同じように龍泉は斧を振り下ろす。

 人間が叫び、沈黙した。

 次の人間へと向かう。

 かつて龍泉を崇めた人間。

 殺す。

 次。


「神の真似事をしていたんだ。だったら神らしく、最初から人間の願いを叶えてやればよかった」


 死を望む者が次々と龍泉の手で殺められていく。

 その手並みは洗練されており、叫びを残せた人間も最初の数人だけだった。

 いつしか夥しい血が流れ、故郷の大地を赤く染めていく。

 それに気付くと、龍泉は慌てて障子や窓を閉めた。

 けれども、血は塞き止めきれず、やがて、龍泉は諦めるように腰を付いた。

 架空の故郷とはいえ、それを自分の手で汚してしまった事に心が悲鳴を上げていた。

 しかし、もう現実に戻れない事を思うと、全てが些細に思えた。

 血を滴らせながら立ち上がり、容赦なく斧を振り回し、首を吊る人間達を無惨に切り裂いていく。

 いつからか知る人間より知らない人間のほうが多くなったが、それももう、特に意味の無い事だった。

 全身が血に染まり、髪も服も顔も体も分からない、血みどろの怪物に龍泉は成り果てる。

 何人か。何十人か。

 その次に首を吊っていたのは一人の少女だった。

 その少女は口を動かしているが、龍泉の耳は血で埋まり、くぐもった音にしか聞こえなかった。眼球に貼り付いた血で視界も遮られている。

 斧を振り上げる。

 少女の手が救いを求めるように伸ばされた。

 その瞬間、激しい既視感が身を貫き、龍泉は動きを止めた。殆ど同時に少女が助けられたいのだと、龍泉には分かった。本当に、助けられたいのだと分かった。

 分かったが、悩んだ。

 殺せばよかったと思うのではないか。助けなければよかったと思うのではないか。

 悩んだまま、龍泉は斧を振り上げた姿勢で固まった。

 周囲では多くの者が死を求め続けている。この少女だけが例外だという事が、はたして有り得るのだろうか。

 見えない目を見開き、聞こえない耳を澄ませ、そして、龍泉は斧を振り下ろした。

 紐が切れ、少女の体が血の川に落ちる。

 龍泉はそっと、その隣に屈み込んだ。


 十年前、幼い龍泉は同じように助けた人間から、殺してくれと頼まれた。

 今回はどうなのか。

 耳を澄ませ、言葉を待つ。

 同じ事を言われるなら即座に殺すつもりで、咳き込む少女を眺める。

 咳。

 風邪。

 龍泉の脳裏に、残してきた娘の事が鮮やかに思い起こされた。


「凛、華……」


 名前を呟くと自然に涙が流れ出した。

 不甲斐ない親のまま、何も出来ずに現実から去ってしまった後悔が身を蝕んでいく。


「龍泉さん……」


 助けた少女が名を呼んだ事で意識が悪夢の中に戻った。

 その名前は幻想郷で使った名前。ならば、この少女は幻想郷で出会った少女なのだと瞬時に理解する。

 身を起こし、少女は両手を伸ばした。そのまま汚れる事も厭わず、身動きの取れない龍泉に抱き付いた。


「今度は両手、ありますよ」


 声を聞いた瞬間、龍泉の手から斧が落ち、それは血溜まりに沈んで消え失せる。

 娘と同じ声。同じ顔。同じ感触が、狂いかけた心を正していく。

 心と同調するように綺麗になった腕で、龍泉は羽の生えた少女を優しく抱き締めた。


「助けて、よかった……」


 温かい感情が胸の内に溢れ出し、龍泉は涙を流す。

 死んだ筈のルチェは涙に打たれながら、あの時に出来なかった事をやり直すように、力一杯抱き付いていた。





 龍泉はルチェを抱え上げると、人間達が呻く家を出て、山の中にある小さな社へ向かった。

 そこはこの悪夢で唯一、人間の血に侵されていない場所だった。

 社と言っても、あるのは粗末な掘っ立て小屋に鈴がぶら下がっているだけのもの。元は小さいながらも格式ある社があったが、そちらは既に朽ち果て、祭壇のような石積みの基礎だけが境内の隅に残っていた。


「ここは? 一応、神社のようですけど」

「私の棲家の一つです。何も無いので生活は出来ませんが」

「龍泉さんは妖怪なのに?」

「ここの氏神が弱っていましたから、少しだけ助けていました。私が離れる頃には消えてしまいましたが」


 境内を歩き、龍泉はルチェを祭壇の上に座らせる。そして未だに彼女の首にある紐を解こうとし、輪に結び目が一つも無い事に気付いた。

 近くに刃物は無い。肌身離さず持っていた形見のナイフは凛華を守る為に置いてきてしまった。代わりになる鋭利な石も近くには見当たらない。


「あの、すみません、ルチェさん。ここで少しだけ待っていてくれますか。切るものを取ってきますから」

「大丈夫ですよ。ほら、隙間があるから平気です」


 ルチェは紐と首の間に指を差し入れて余裕がある事を証明した後、そこから抜いた手で龍泉の服の袖口を摘まんだ。


「それより折角再会出来たんですから、もっとお話しましょうよ。聞きたい事があるんです。私が死んだ後の事とか。時間は大丈夫ですよね」

「……ええ、人間の血もこの場所には来れないと思います」


 現実では精霊や獣や植物、更には弱いながらも神に守られ、境内は故郷の人外達の聖域だった。

 ここは現実ではないが、恐らく龍泉の記憶から形成された世界。ある程度の再現はされているらしく、今も境内周辺は人間の血を拒み続けている。

 いざという時の計算を終え、龍泉はルチェの隣に腰掛ける。冷たい石の感触があった後、甘えるようにルチェが肩へ体を預けてきた。


「駄目ですね、龍泉さん。紅魔館で待っていて、って頼んだのにこんなところに来ちゃうんですから。ここ、何処か分かってます? 死んだ霊が龍泉さんの記憶を基に作った偽の世界ですよ。登場人物は全て本物ですけど」

「……そうですか」

「何、少しだけ嬉しそうな顔しているんですか」

「目の前のルチェさんが私の作った偽者だったら、本当に私は救いようのない馬鹿だな、って思っていたところでしたから」


 前例があるだけに可能性が高く、それが少し気掛かりだった。

 もし偽者で自らの意思が無い人形だったとしても、龍泉は気にせず抱き締めていただろうか。

 むっとして、ルチェが頬を膨らます。


「失礼ですね。本物ですよ。魂だけの存在ではありますけど」

「はい。本当にすみません」


 謝罪を口にしながら手を回し、ルチェの肩を抱く。ルチェはそれを受け入れ、深く味わうように眼を閉じた。

 先程までの虐殺がまるで嘘であったかのように、穏やかな時間が二人を包む。

 あれが悪夢なら、これは夢だった。

 怒りも悲しみも生まれない平和な世界。あるのは慈しみと愛しみだけ。

 龍泉も眼を閉じ、優しさの中に微睡みかける。

 しかし、龍泉の脳裡を先程の、ルチェが首を吊っていた光景が掠めた。

 あれは自殺だったのか、そうでないのか。

 心の奥に根付いた自殺への嫌悪感が、平和な世界に陶酔する事を寸前で妨げていた。


「……どうして、吊られていたのですか?」


 訊ねると、ルチェの表情に微かな悲しみが宿った。


「多分、龍泉さんに精神的な苦痛を与える為の演出でしょう。周囲には私以外にも何千体と居ましたけど、実際にこの世界に現れたのは龍泉さんと縁のある方に限定されていたみたいでしたし」

「縁のある、……もしかして、他の皆も」


 死んだ妖精メイドはルチェの他にも四人。先程は冷静さを欠いて確認を怠っていたが、彼女達もあの部屋に居た可能性がある。

 居るなら、まだ人間達の呻き声の中で首を絞められているに違いない。


「すみません、やはり行かないと――」

「駄目。絶対に行かないで」


 腰を浮かした龍泉の腕にしがみ付き、ルチェは真剣な顔で言った。

 呆気に取られて見返し、意図せずして心を読み取った龍泉は、その場で突然崩れ落ちた。

 思い出した。

 他のメイド達も全員、あの場に居たのだ。

 しかし、その全員を龍泉は斬り殺していた。

 精神的な激痛が悪夢を侵食し、空に亀裂を走らせる。

 どうして、気付けなかったのか。皆、掛け替えの無い存在だった筈なのに。


「……ねえ、龍泉さん。凛華って誰なんですか。私を助けてくれたの、その人を思い出したからですよね」


 心の傷に触れないようにルチェは優しく問い掛ける。しかし、それはある意味、龍泉に更なる苦痛を与えるだけでしかなかった。


「……私の、娘です」

「娘? 誰との?」

「正確には、私から発生した妖精です。私に自然現象としての要素があった為に発生した、私の妖精」

「……ええと、その」

「血ではなく、魂が繋がった娘とでも考えてください。ルチェさんが記憶を与えた、とある魂が肉体を得たものです。姿や声は、ルチェさんと同じで……」

「それなら、もう私みたいなものですね。凛華さんって。記憶があるなら、きっと性格や口調も私とそっくりなんでしょうね」

「……はい」

「そっか。娘さん、ですか」


 生前、ルチェは龍泉の事を家族のように慕っていた。自分が居たかった場所に、殆ど同じ誰かが収まっている事には少しだけ虚しさを抱く。

 その複雑な気持ちを感じ取り、龍泉は何も言えなかった。

 他のメイドには気付けず、娘と同じ姿のルチェには気付いた。その事を考えれば、龍泉がどちらをより大切にしているかは誰にでも分かる事だ。

 ルチェから失望は伝わってこない。

 しかし、諦めの気持ちが伝わり、龍泉は咄嗟に彼女を抱き寄せた。


「すみません。皆、好きなんです。大切にしたいと思っているんです。でも、どうかしていて……」


 酷い言い訳だが、他に弁明のしようがなかった。

 過去の因縁に取り憑かれ、悪夢に絶望し、見境を失っていたと、そう正直に伝える事は出来ないのだ。

 ルチェは抱かれたまま、動かなかった。胸に耳を当て、龍泉の心臓の鼓動が落ち着くまで、じっと待って、それから小さな手で彼の腕を撫でた。


「本当に優しくて、繊細ですね、龍泉さん。皆、龍泉さんのそういうところが好きで、守りたかったんです」


 その守ってくれた者を龍泉は無慈悲に切り裂いたのだった。腕に力が籠る。ルチェは一層、優しさを込めてそれを撫でた。


「大丈夫、大丈夫ですよ。皆もあれは本当の龍泉さんじゃないって分かっていると思います。きっと許してくれますよ」

「……すみません」

「さっきからそればっかり。でも、いいですよ。その言葉、私以外にも言ってあげてくださいね」


 悲しみを全て吐き出すように、龍泉が震える息を吐いた。ルチェを抱き締める事自体は止めないが、その力を幾らか緩める。

 その間にルチェは姿勢を変え、龍泉の膝の上に座った。

 首の紐を弄りつつ、ルチェは言った。


「龍泉さん。また、凛華さんに会いたいですか?」

「はい。それが、叶う事なら」


 落ち着き、芯のある声で龍泉は答えた。

 ルチェは少し項垂れ、しかし、無理をして明るい声音で提案する。


「私をその子の代わりにするのは、駄目なんですか?」

「……ルチェさん?」

「私と同じなんでしょう。姿も声も性格も。それなら、私きちんと代役になれますよ。私と一緒に、この夢の中で過ごしませんか?」


 望んでいた場所に座り込み、ルチェは龍泉の手を握り締めた。

 本物が偽者に憧れ、羨んでいる。

 龍泉は戸惑い、そして迷った。

 現実に戻れる可能性は限り無く低いのだ。一度は夢に侵入した事のある紫が再び入り込み、救出してくれる可能性が無い訳ではない。けれど、ただでさえ複雑な龍泉の精神世界を今は数千もの異なる意識が侵食し、紫が入り込める隙間は殆ど存在しなくなっている。


「おとうさん」


 娘と同じ声で、そう呼ばれる。

 膝の上に座っているのが誰か、分からなくなりそうになる。


「駄目なの?」

「……駄目ですよ、ルチェさん」


 懸命に出した言葉が、ルチェの瞳を潤ませた。


「幻想郷に来て、大切な方が沢山出来たんです。その皆を置いてルチェさんと一緒に過ごす事は……、絶対、出来ません」

「うん。……うん」

「私は、戻らないといけないんです。それが無理だとしても、その意思を捨てては駄目なんです。ルチェさんが好きだと言ってくれた私は、子供を見捨てて、そこにあなたを迎え入れるような冷たい妖怪ではない筈です」

「……はい、そうです」


 ルチェが首の紐を握り締める。

 引き千切ろうとするが、とても素手で出来るものではない。

 不可能である事を悟って、ルチェは涙で息を切らしながら言った。


「龍泉さん、すみません。私も、悪夢の一部なんです。この世界に龍泉さんを捕らえる為に利用された、駒の一つなんです……」


 龍泉に驚きはなかった。静かに耳を澄ませ、泣きじゃくるルチェの背中に体をくっつける。

 熱い涙が龍泉の手を打った。


「間違っているって、分かっていたんです。でも、一緒に居たかった。私の家族になってほしかった。そう思うと止められないんです」


 膝の上に座りながら、ルチェが振り返る。

 涙ぐむ彼女は、まるで許しを求めるかのように龍泉の顔を見上げた。


「私、操られて言わされたんじゃないんです。本当に思って、だから……!」


 胸に縋り付く。その背中を龍泉の腕が支える。


「今だけで、いいから……」


 子供になりたいとルチェは切に願った。

 子供になって、優しくされて、甘やかされて。

 親の存在しない妖精が、人間の家族を見て抱いた憧れを、ほんの少しだけでも味わう事を望んだ。

 龍泉は優しくルチェの頭を撫でる。

 けれど、彼の目は遥か彼方を見据えていた。


「……わざわざ時間稼ぎを仕掛けてきたという事は、この悪夢から脱出する方法がありそうですね」

「おとうさん……!」


 身を引き裂くような呼び掛けに龍泉は視線を下ろした。


「邪な考えがあって、あなたが私の事をそう呼んでいる訳ではないと分かっています。その気持ちが操られて無理矢理作られたものではない事も保証します。でもね、駄目なんですよ、ルチェさん」

「嫌だ。聞きたくない」

「ルチェさん」

「間違ってる事は分かってる。だから、一分でもいいから、今だけでもってお願いしているのに」


 服を引っ掴み、ルチェは龍泉の懐深くに体を寄せて離れようとしない。

 龍泉は途方に暮れたものの、すぐに気を取り直し、ルチェの背中を優しく擦った。


「ルチェさん。私はきちんとした親になりたいんです。ですから、こんな何時消えるか分からない悪夢で家族ごっこなんて出来ません」

「ごっこ遊びなんかじゃない。そんな言い方しないでよ」

「すみません。ですが、出来ない事は出来ません。いい加減な事をしたくないんです」

「分かっているよぅ……」


 理解は出来ても簡単に納得の出来る事ではない。

 ましてや、ルチェは死んでから今まで、龍泉との再会を願っていた。偶然にもそれが叶ったからには、幼い感情が込み上げてきて歯止めが利かなかった。

 家族の振る舞いをしないとは言ったものの、龍泉は愛でるようにルチェの頭を撫でる。


「生まれ変わったルチェさんを紅魔館で迎える。そういう約束をしたじゃありませんか。その時になっても望んでくれるなら家族になりますよ」

「でも、生まれ変わったら記憶が消えちゃう。私、龍泉さんの事が好きなのに、何も叶えられないまま、この気持ちを失いたくない。幽霊の今なら記憶があるんだよ。今しか無いんだよ」

「また好きにさせます。大事な部分は皆さんが大切にしてくれた昔のままで居続けますから」

「会えるかも分からないのに……」

「会えますよ、待ちますから。たとえ何百年でも、ずっと待ち続けます」


 優しい言葉がルチェの心に染み入り、彼女はますます、力を込めて龍泉の懐にしがみ付く。

 未来の事を話されても、たとえそれが綺麗な言葉で語られても、龍泉と傍に居られる現状が既にルチェの理想だった。

 無理に押し退ける事は心苦しく、龍泉は仕方無く、ルチェを抱え上げて立ち上がる。

 あやすように背中を優しく叩きながら、そのまま境内を歩き、拝殿の扉を開けて中へ入った。

 かつての神体と思しき紙が扉を開いた時の風で吹き飛ばされ、奥の薄闇へと消えていく。神の居ない社に神聖な気配は無く、そもそも神の補佐をしていた龍泉は何も気にせず床に寝転がり、体の上でルチェを寝かせた。

 少々重いが、その程度の苦労は軽く笑って吹き飛ばす。


「ねえ、ルチェさん」


 問い掛けても返事は無く、ルチェは顔を龍泉の耳の横に隠したまま動かなかった。

 嘆息し、龍泉は天井を仰ぐ。

 一緒に居続ける事は出来ない。しかし、ルチェを放置する事は自分の心が許さない。八方塞がりのまま、どうする事も出来ず、龍泉は手持ち無沙汰にルチェの髪を何度も撫で梳かしながら言った。


「この世界、本当に私の故郷を精巧に再現しています。ここでなら私に出来る事も沢山あるでしょう。ですから一つだけ私に願い事を言って下さい。とんでもない事で無ければ叶えて差し上げますから、どうかそれで許して頂けませんか?」

「……家族に」

「それは、駄目です」

「……それ以外なんて、ないよ」


 拗ねたルチェが龍泉の体から転がり降り、彼の腕をしっかり掴んで背を向ける。

 悪夢から逃がさないように、そうしている訳ではないのだろう。けれど、その行動は同じ結果を招いている。龍泉は自由の利く手で頭を抱えた。

 言葉は尽くした。分かってもらえてもいる。それなら、もう説得はこれで中断し、脱出へ向けて行動を起こしても許してくれるのではないか。

 しかし、今はルチェにとって、憧れを抱いている状態で願いを叶えられる、本当に最後の機会だ。

 ここは妥協するべきなのかもしれない。決してルチェを凛華の代わりにはしない。別の存在として、自分の子供だと思って、僅かな時間だけでも。

 だが、それをして、皆が待つ現実へと戻る意思を抱いたままでいられるのだろうか。

 龍泉には自信が無かった。

 その時だった。


「……っ、はっ!」


 ルチェが龍泉の腕を離し、首を押さえて急に苦しみ出した。その苦しみ方が尋常ではなく、龍泉は素早く彼女の正面へと回り込んだ。

 紐が独りでに捻じれ、ルチェの首を強烈に絞めている。

 絞首。

 背筋に怖気が走り、瞬時に龍泉は理解した。

 ルチェは幽々子に操られていない。そもそも、道場に龍泉と共に閉じ込めた時点で、内部の霊魂は幽々子の支配下から脱している。

 だからこれは、故郷の人間達の、あの家に居た怨霊達の仕業。

 この悪夢自体、もしかしたら。


「くそっ!」


 龍泉は咄嗟に隙間へ両手の指を挟ませ、ルチェの苦しみを和らげる事に専念する。

 しかし、締め上げる力は指の一つや二つを物ともせず、決して緩もうとはしない。

 幼い龍泉を苦しめたように、無関係な少女の魂でさえ弄ぶ。その悪辣さに吐き気を覚えるも、今はそんな事を考えている場合では無かった。

 捻れた紐は強度を更に増し、龍泉の腕力では引き千切れない。刃物が無ければ、ルチェをこの苦痛から解き放つ事は出来ない。

 咄嗟に龍泉はルチェを連れて境内に飛び出た。先程の家に行けば刃物は存在する。無くても窓ガラスを割れば代用出来るだろう。

 しかし、そう上手く事は進まないらしい。

 無数の断末魔の意識が山々に木霊し、それを感じ取った龍泉は悍ましさに身を竦ませる。

 ルチェだけではない。他の霊魂達も締め上げられる苦痛に晒されているのだ。

 気付けば、山肌を人間の血が這い上がってきていた。下手に踏み入れば正気を失う恐れがある上、この様子では家の中は既に血で溢れ返っているのだろう。

 空の亀裂も広がっている。この夢を共に構成する数千体もの無関係な霊魂でさえ、見境無く苦痛を与えられているのだ。このままでは、この世界ごと全てが壊れてしまう。


「ルチェさん、大丈夫ですか!」


 一先ず声を掛ける。青褪めた表情ではあるが、ルチェは頷いた。声を出す余裕は無いらしい。


「少し痛いかもしれませんが、我慢を」


 ルチェを連れて龍泉は周囲の木に近寄り、その幹に祈ると、細い枝が幾つか落ちた。龍泉はそれを口に咥え、今まで指を挟ませていた隙間に差し込んでいく。細くとも枝は頑健であり、圧し折られるという事はまず無さそうだった。

 その枝をルチェ自身に持たせる。


「絞まらないように外側に引っ張り続けていて下さい。今からルチェさんを抱えて山を下り、刃物を取りに行きます。血は祓いますが、そう広範囲には出来ません。触れないように気を付けて」

「おと、さんに……」

「……大丈夫。直ぐに助けますから」


 否定せずに微笑んで、龍泉はルチェを抱え上げた。彼女がぐったりと体を預けてきた事を確認し、彼は山肌を遡る血を睨み付ける。

 その視線の先へ背後から烈風が吹き付けた。勢いは冥界の比では無く、龍泉やルチェを避けつつも、這い上がる血を自在に吹き動かす。

 続け様に、今度は龍泉の近くに何処からともなく様々な獣が集った。かつて龍泉と親しみ、今は寿命を全うした故郷の獣達である。彼等も霊魂であるが故に苦痛で体をふらつかせていたが、ルチェ程に苦しんではいない。

 その中から一匹の鹿が近付き、ルチェに優しく鼻先で触れる。澄んだ黒い瞳に愛情を宿し、訊ねるように龍泉を見詰めた。


「先導してくれ。今度は昔と違う。心の底から、この子を助けたい」


 それは故郷の獣達が今まで聞いた事の無い、龍泉の願いだった。

 鹿は四肢を踏ん張り、躊躇いなく血の河へと跳び跳ねた。風が着地点の血を吹き飛ばし、そこに鹿が足跡を付け、更に跳んでいく。

 龍泉はその跡を辿るように駆けた。

 縋り付くように血が盛り上がり、龍泉に這い寄るが、それは周囲の獣達が威嚇して食い止める。しかし、隙を突いた血が龍泉のすぐ近くまで魔の手を伸ばしてくる。その度に獣達は体を投げ出し、彼の代わりに次々と血を浴びていく。

 正気を失い、猛り狂う獣を他の獣が噛み付いて押さえ込む。龍泉は彼等の咆哮を背に受け、その犠牲に堪えながら必死に駆け続けた。





 再び訪れた家の変貌振りに龍泉は絶句する。

 至るところから血が溢れ出し、乾いた部分に上塗りを重ねた結果、全体が粘つく血の粘土で包まれていた。そのぬらりとした表面の一部には怪物の口を思わせる洞穴がぽっかりと開いている。

 決して短くない時間を過ごした建物であるが、こうも変われば構造が記憶通りなのか不明だ。あからさまな侵入口が残されている以上、罠を仕掛けられている可能性も高いだろう。

 護衛の獣は半数に減り、先導していた鹿も歩くのがやっと。ここから別の場所に移動する事は最早不可能である。境内に戻る事は出来るが、それをしたところで皆が苦痛から解き放たれる訳ではない。

 そして、当然ではあるが、家の中では風の守護が届かない。今や魔窟と化した家屋に獣達を入れても無事に逃がす事は困難である為、ここから先は龍泉とルチェの二人で進むしかない。

 龍泉は獣達に向けて言った。


「私達が戻ってこれるかは分からない。お前達は山に登れ。血塗れのここより、山のほうが気分は楽になる筈だ」


 獣達も役に立てない事は分かっているのか、特に抗議の反応はない。しかし、身を案じるように寂しげに一鳴きする。


「心配するな。いざとなれば山に少し崩れてもらえば何とかなる。もう土地の為に守らなければならなかった人間も存在しない。家の一つくらい半壊しても……、どのみち、もう故郷は甦らない。これは夢なのだから」


 悲しそうに龍泉は言った。故郷を守れなかった事を謝罪しているようでもあった。


「転生したら、お前達も何なら幻想郷に来るといい。あの土地なら我々を受け入れてくれるだろう。勿論、気が向いたらでいい。幸せに生きてくれるなら、何処に居てもいいんだ。分かったな?」


 獣達が別れを惜しむように龍泉へ身を寄せる。

 龍泉は時間に追われる状況ではあったが、出来る限り長く、彼等の頭を優しく撫でていた。

 眩しがるように、獣達は眼を閉ざす。

 幼い龍泉を守り育てていた事を懐かしんでいるのだろうか。

 住処も命も失い、しかし、こうして龍泉が昔と同じ、優しいままでいる事を喜んでいるのだろうか。

 全てを知り得る龍泉は何も言わず、最後に鹿の頬に手を当てた。


「すまない、愛している。……さあ、行くんだ」


 丁寧に顔を山へと向けさせ、その背中を送り出す。鹿は山へと真っ直ぐ歩き出し、導かれるように、他の獣達もその後ろに追随した。

 彼等が木立に入った事を確認してから、龍泉はルチェを抱き締め、血に触れないように注意しながら穴の中へと飛び込んでいく。

 危地へ向かう龍泉を励ますように、山の中からは獣達の澄んだ鳴き声が響いていた。





 相変わらず、家の中は噎せ返る程に死体ばかりだった。龍泉に引導を渡されなかった者の中には喉元を掻きむしった者も居る。その死体の中にメイド達が居るか探そうとしたが、今はそれを思い留まり、龍泉は奥へ進んだ。

 天井や死体から血が滴り落ちていたが、呻き声はもう聞こえない。外見で予想していた魔窟らしさもそこまでではなく、血溜まりが這い寄る事も無かった。

 龍泉は着ていた上着を雨具代わりに頭へ載せ、死体の間を掻い潜る。

 刃物の場所は記憶にある。死体が並べられた部屋の棚の中に、鋏が一つ置かれている筈だ。何せ、その鋏は龍泉が初めて人間を助ける時に使った因縁の鋏。あの日を過剰に再現したこの世界に存在しない筈が無い。

 やがて、龍泉は目的の棚を見付けた。次元が歪んだかのような広がりを見せる部屋の中で、その棚は血に濡れず、ぽつりと壁に凭れかかっている。


「ありました。もうすぐですよ」


 励ますようにルチェへ呼び掛ける。

 彼女はどうにか頷き、頭を龍泉の腕に預けた。彼女の首の紐は木の枝を押し曲げ、その断片に阻まれながらも締め上げ続けている。これ以上の苦痛は危険だった。

 血を踏まないようにしながら、駆け足で棚へと近付く。ルチェを片腕に抱き、記憶にある通り、棚の引き出しを開けた。

 だが、空だった。

 塵と埃だけがある。


「そんな、馬鹿な……」


 記憶から作られた世界で、記憶と食い違う事は有り得ない。

 引き出しを棚から引き抜くと、その底に鋏が存在していた事を示す埃の跡を見付けた。

 誰かが持ち去ったのだ。

 よりによって、この緊急事態に。

 怒りを堪えきれず、龍泉は引き出しを投げ捨てた。


「くそ、誰だ! 時間が無い、鋏を返せ!」


 怒鳴り散らすも、声は血の雨音に吸われ、直ぐに静まり返る。

 別の刃物を探す時間は無い。あの鋏に執着するしかないが、一体、誰が何の為に持ち去ったというのか。

 いや、そもそも、どうして場所が分かっていたのか。棚には手当たり次第に探した形跡が無かった。一発で鋏を見付け出したという事は、過去に中味を確認した事のある存在でなければならない。

 となると、犯人は人間しかいない。それも龍泉の故郷の人間に絞られる。


「なんで、まだ……」


 追放された身であるにも拘わらず、いつまでも人間達に阻まれる事が龍泉は不快だった。

 終わった筈なのだ。人間が故郷を腐敗させ、龍泉を含む魑魅魍魎や獣を土地から追いやった時点で、あの地での因縁は龍泉達の敗北で終結した。なのに、どうして追い討ちを受けなければならないのか。


「頼むから返せ。私を怨むのは勝手だが、この子は何もしていない。あの土地で起きた事はあの土地の者で片付けるべきだ。その程度の分別すら捨てたのか」


 怒りを堪えた懇願が呟かれると、不意に、血の雨音が止んだ。

 そのまま、一秒、二秒。

 やがて、べちゃりと天井から血みどろの何かが落ちてきた。

 人間の形だが、人間ではない。肉体は古い粘土のような色合いで、何十もの手形が体の至るところに彫られている。恐らく、人間達の霊魂が意思を伝える為に作り出した怪物なのだろう。

 それは手に持った鋏を龍泉に見せ付けた。


「欲しいか?」


 嗄れた声で、怪物は悪辣に表情を歪めた。

 渡す気が無い事は明らかだった。怪物は龍泉に途方も無い怨恨を抱いている。


「……そこまで憎いか。貴様らの死と殺戮を妨げた事が」

「ああ、憎い」

「私もだ。助けるべきではなかった。貴様らが殺し合うのを眺めていれば良かった。そうすれば人間の法が貴様らを裁き、私は山の中で獣達と共に末長く平和に暮らせていた」

「死なせてくれれば良かった。殺してくれれば……」


 怪物は龍泉の怒りをまともに受け取らず、悲しげに喉を鳴らした。

 知性があっても、この怪物には理性が無い。


「……会話は無駄か」

「なあ、殺してくれないか。もう生きたくない。早く死にたい」

「既に死んでいる。気付いている筈だ」

「死んだ? 嘘だ。死んでいるなら、どうして苦しい。どうして辛い」


 怪物は鋏を持ち、それを自らの指に宛がう。そして、じっと龍泉を見た。

 龍泉が助けるのかどうか。

 死してなお、人間達は龍泉に責任を負わせようとしていた。


「やればいい」


 龍泉が言葉を吐き捨てると、怪物は指を切断しにかかった。そう簡単に切れるものではない。何度も前後に動かし、激痛に悶えながら、狂気に囚われて指を落とす。

 愚か者と、そう呼べる基準にすら満たない。最下等の振る舞いだ。

 血を撒き散らし、痛い痛いと喚き散らす怪物を、龍泉は憎悪を込めた目で見詰めた。


「私のせいにするか、人間」


 怪物は痛みに汗をかきながら、龍泉の問いに憤怒の表情で頷いた。


「そうだ、お前のせいだ。我々がこんなに苦しまなければならないのは、全てお前のせいだ」

「ふざけるな。信念を持たない肉塊風情が」


 ルチェを片腕に抱えたまま、龍泉は棚から新たに引き出しを抜き取った。

 そして容赦なく、それを怪物へ向けて投擲した。

 引き出しの角が怪物の目に直撃し、血溜まりの中で悶えさせる。

 それを横目に龍泉はルチェに上着を頭から被せ、棚の傍に座らせた。


「すぐに終わらせます」


 伝えるが、反応は希薄だ。恐らく言葉を理解していない。眼の焦点はあっておらず、龍泉が被せた上着がずれ落ちそうになっても無関心だ。


「本当に、すぐ終わらせます。これが最後の我慢です。ですから、気を確かに」


 上着の袖を結び、頭巾のようにして、龍泉はルチェの頬に手を添えた。茫然としながらルチェは龍泉の手に触れ、かくりと項垂れる。

 まだ息が続いている事を確認し、龍泉は毅然とした態度で怪物に向き直る。

 痛い。苦しい。そう喚いてのたうち回る怪物の姿と、今まさに苦しんでいるルチェの姿は対照的だ。

 耐え切れない怒りが喉を焼き、罵倒の言葉さえ出てこない。

 しかし、怒りに身を任せては先程の狂気に陥りかねない。そうなればルチェを助ける事は出来ないだろう。龍泉は火を消すように息を吐いた。


「忌まわしき人間め」


 拳を鳴らし、龍泉は悶える怪物へ歩みを進める。

 痛みに苦しんでいた怪物は、歓迎するように腕を広げた。


「誰が殺してやるものか」


 龍泉は唾を吐き捨て、血みどろの怪物の脳天に掌底を打ち据える。怪物の体が倒れ、怨念の籠った血が龍泉の手に付着する。

 他者の狂気が精神を苛む。しかし、龍泉は耐え抜いた。数千体もの霊魂に取り憑かれても固有の人格を保持している時点で規格外なのだ。血の池に落ちるならまだしも、体の一部が血に触れた程度なら最初から問題にならない。

 龍泉は悶え苦しむ怪物から鋏をもぎ取ろうとするも、怪物はそれを抱え込んで蹲った。

 ならばと横腹を蹴飛ばして裏返そうとしたが、怪物は蹴りの衝撃を利用し、龍泉を弄ぶように横向きに一回転。再び同じ体勢に戻る。


「鬱陶しい」


 今度は頭部を蹴り付けた。耳の穴に爪先を捩じ込ませ、怪物の鼓膜を無惨に破壊すれば、怪物は激しい耳鳴りに耐えかねて血溜まりの中をのたうち回る。

 龍泉はそれを足で止めた。無傷の耳を上に向かせ、見下げ果てた態度で告げる。


「早く鋏を渡せ。知っているだろうが、死なせない事なら私は得意だ。もし渡してくれるなら、あの子を助けた後で殺してやる」

「死なせてくれ、辛い、痛いぃ……」

「……やはり、言葉は無駄か」


 生きていた頃から、そうだった。それが死んでも直らなかったのであれば、龍泉はもう躊躇わない。  

 怪物に片足を乗せたまま、龍泉は地面に触れていた足を浮かせた。怪物の体に全体重を押し付け、跳躍。衝撃で体を硬直させた怪物の頭部へ、無遠慮に龍泉は着地する。

 喉が潰れ、骨が折れる。首の皮膚が裂け、白い筋が僅かに覗いた。

 龍泉は素早く屈み込み、意識の無い怪物の頭部を持った。それを力任せに捻って真後ろへ向かせる。暫く痙攣する怪物を抑え込み、それが終わると龍泉は一息ついた。


「死んだな」


 念の為に怪物の頭を更に半回転させた後で、それの腕へと視線を走らせる。

 力を無くした手の傍らに、握られていた鋏が無造作に落ちていた。

 思わず、引き締めていた表情が綻んだ。

 これでルチェを助けられる。

 龍泉は鋏を拾い、付着した様々な血を服の端で拭いながら、ルチェの元へと駆け足で向かう。

 しかし、龍泉は気付くべきだった。

 相手は単なる人間ではなく、怪物だった事。そして、切り落とされた筈の怪物の指がいつの間にか再生していた事に。


「――死にたい」


 突如、龍泉は背後から伸びた無数の手に掴まれ、体中を雁字搦めにされた。

 驚愕しつつ、龍泉は唯一身動きの取れる首で振り返る。

 彼を絡めとる手は倒れたままの怪物の皮膚に彫られた手形から伸びていた。至るところから手を伸ばす怪物の形は既に人間のそれではなかった。


「貴様、蘇生したな!?」

「……死にたい」


 一回転していた首の捻じれを元に戻しながら、怪物は絶望した様子で立ち上がる。

 その光景を目の当たりにして、龍泉は奥歯を噛み締めた。

 この怪物は死にたがりでありながら不死なのだ。

 過去を再現した龍泉ならば、山を崩落させ、怪物を生き埋めにして封じる事も出来るが、この状態ではルチェまで巻き込んでしまう。

 考えている内に、龍泉の体は力任せに怪物の元へと引き寄せられた。


「お前が、殺してくれ……」


 怪物は呟き、龍泉の体を無数の手で強引に操る。

 龍泉の手にある鋏を開かせ、その鈍い刃を胸へと突き立たさせる。心臓を貫いたらしい。血が噴水のようにあふれ出し、龍泉の手を赤く染めた。それだけでは死ねないと思ったのか、怪物は刃を捻らせて傷口を広げ、龍泉は飛び散る鮮血を頭から被る羽目になる。

 狂気が精神を蝕み、今度はさしもの龍泉でも厳しく、激しく呼吸を乱した。

 怪物は出血で意識を失ったが、拘束は解かれなかった。血を枯らした傷口が塞がっていき、再び怪物は意識を取り戻す。


「死にたい……」


 状況が繰り返されようとしていた。

 怪物は龍泉に殺させ、龍泉に血を浴びせ、そして蘇る。

 終わりなどない。このまま続けば龍泉は狂気に呑まれ、ルチェは死ぬ。しかし、怪物は死なない。正気を失った龍泉を操り続け、他者を用いた自殺を何度でも繰り返すのだ。

 最悪の組み合わせだった。怪物に攻撃の意思は無い。だが、人間の魂によって刷り込まれた死への渇望が、この悪夢においては単なる殺戮よりも凶悪な行動を招いている。


「離せ! 貴様は死ねないんだ! 諦めて隅で生きていろ!」

「嫌だ。生きたくない。生きたくない」

「ふざけやがって!」


 鋏が再び怪物の胸に沈む。龍泉の意識が更なる狂気に苛まれ、怪物は三度目の死を迎えた。そして、四度目の生が始まる。

 このままでは駄目だと龍泉は理解していた。しかし、四肢は力任せに操られてしまっている。振り解く事は出来ない。

 血に耐えられる限界も近かった。後一度だけなら耐えられるが、本当に耐えられるだけだ。

 だから、龍泉は勝負に出た。

 真っ向から龍泉は怪物に抗う。全身全霊を込め、鋏を持つ手を怪物から離し、刃に身を寄せる怪物の体を片方の手で食い止める。

 一瞬の均衡。しかし、一人の力と複数人の力。満足な時間稼ぎが出来ない事は明らかだった。徐々に刃は怪物へと近付いていく。


「なんだよ、お前……! 死ぬなら勝手に死ね! 私に殺させようとするんじゃねぇよ!」


 怒鳴り散らしたところで状況は変わらない。

 怪物の胸に刃が沈もうとする。

 龍泉は咄嗟に怪物を押さえていた手をずらし、そこに刃を突き立てた。痩せ細った手だが、刃が貫通しないように拳を作り、骨に当てて食い止める。

 怪物を殺さない為の、破れかぶれの行動だった。特に策があった訳ではない。後が無いからこそ、自らを犠牲にした無謀な遅延行為。

 しかし、それは劇的な反応を引き起こした。


「あっ、あああっ!」


 悲鳴を上げた怪物は龍泉を無茶苦茶に投げ飛ばし、無数の手で血溜まりの血を掬い上げ、掻き毟るように擦り付けていく。

 龍泉は壁に打ち付けられ、痛みで暫く動けなかったが、この怪物の異常な振る舞いを見逃さなかった。

 手に刺さる鋏を引き抜き、ふらふらと立ち上がる。静脈が引き裂かれており、血が滴り落ちた。龍泉はその傷を押さえ、ルチェの元へと体を引き摺っていき――、そして気付いた。


 血だ。

 自分の体にも、血が流れているのだ。

 それなら、どうして狂気に呑まれていないのか。

 龍泉は試しに、自らの血に濡れた手で頬を撫でる。

 何も、起こらない。


「……そうか」


 故郷の人間は龍泉への怨恨に染まっていた。龍泉に協力し、共に人間を助けた獣達も怨まれていた。だからこそ、彼らの血は精神的な毒として働いた。

 ならば、自分の血はどうだ。

 生きる上で発生する様々な責任を故郷の人間達に負わされた龍泉の、その血はどう働くのか。


「あれだけ私を殺そうとしてきた貴様らが、この世界では手を汚そうとしない理由がよく分かった」


 龍泉は腕を垂らし、その指先に血を溜めていく。

 この悪夢において血は武器となる。

 龍泉を怨む人間達の血は精神を蝕む毒となった。ならば、人間達に重荷を背負わされた龍泉の血は。


「返すぞ、人間共」


 腕を振るった龍泉の指先から飛散する血は狙い違わず、怪物の顔を打った。

 与えるのは、生きる苦しみ。

 誰もが背負い、誰もが果たす、当然の痛みだ。

 それから逃避し続けた魂が宿る怪物は、数滴の龍泉の血を浴びただけで絶叫した。そして、背負わなければならなかった幾つもの人生の重みが、その精神を完膚なきまでに打ち砕く。

 失神し、倒れ伏した怪物へ向け、龍泉は中指を立てた。


「今度は自分で生きやがれ」


 疎ましい過去の因縁に唾を吐き捨て、龍泉は清々しい気分で、ルチェの傍へと駆け戻っていった。

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