其の四十九、錯綜
頭が疼く。
痛みが、目覚めを促す。
「――起きなさい!」
直ぐ近くで誰かが騒いでおり、その喧しさに耐えかね、龍泉は目を開く。
急な覚醒に体が付いていけなかったのか、視界が激しく明滅している。慣らすように何度か瞬きしながら、上体を起こした。
「……紫か。何が、どうなった」
声の主に訊ねつつ、龍泉も自分の目で周囲を見回した。
八畳の和室。布団で眠る凛華。使い魔の屍が入った袋。引き摺られた時に付けた畳の傷。見る限り、部屋の中で龍泉の知らない異常は無い。
だが、映姫が消えていた。幽々子も見えない。
「どうもこうも、映姫が暴れたみたいだったから急いで戻ってきたのよ。そして部屋に到着したらあなたが倒れていた」
「私だけか? 閻魔と幽々子は?」
「見ていないわ。この部屋に来る途中でもね。今は妖夢が二人の行方を探しに行っているけど……。一体、この部屋で何が起きたの?」
「少し待て。寝起きなんだ。記憶を整理する」
乾き切った唇を湿らし、こめかみを押さえる。
頭にあった疼痛が遠退いて暫くし、龍泉は戸惑いながらも言葉にした。
「説得に失敗し、閻魔に襲われ、私が拉致されそうになった所に幽々子が来て、彼女が閻魔を襲った。詳細は省くが、そんなところだ」
「色々と詳しく聞きたいところはあるけど……、幽々子が映姫を襲ったって、つまり、幽々子が龍泉を助けたという事?」
考えられる中で事実に近そうなものを一つ、紫は半信半疑に漏らした。
状況と結果だけを見るなら、そう考えるのも自然ではある。しかし、龍泉は幽々子へ嫌悪感を表明し、幽々子も龍泉に警戒心を持っていた経緯を考えれば話は変わる。
「いや、結果としてそうなっただけだろう。実際、私を完全に気絶させたのは幽々子のほうだ」
龍泉も紫と同じ発想には至っていたが、偶然だと判断した。
見えはしなかったが、龍泉は幽々子が連れていた霊魂の規模は尋常では無かった事なら把握している。
霊魂とは磁石へ引き寄せられる砂鉄のように、心得がある者なら集めようと思えば簡単に集められるものではある。幽々子なら霊魂に宿る微小な意思も捩じ伏せ、意のままに操る事すらも可能ではあるだろう。
だが、弱っていたとはいえ、閻魔を押さえ付けられる程の数を白玉楼だけでは賄えない。霊魂を集めに屋敷の外へ出て、それも計画的に動かなければ、あの数を揃える事は不可能だ。
そう考えれば、一つ辻褄が合う。
何故、映姫が紫と相対し、その霊気で白玉楼を揺るがした時に幽々子が動かなかったのか。それは恐らく、霊魂を集めに外出していたからだ。
「幽々子は閻魔を狙って、この部屋に訪れた事は間違い無い。ただ、そうする理由は見当も付かないが」
閻魔である映姫は強大だ。単純な力比べだけでなく、地位や発言力も並大抵のものではない。その閻魔に襲撃を仕掛けるのなら覚悟も準備も目的も、それ相応のものが求められる。失敗すれば破滅しか待っていないのだから。
龍泉は頬に手を当て、畳の跡が無い事を確認する。殆ど時間が経っていない事を確信すると、未だに痺れが残る体を引き摺って立ち上がった。
「目的は知らないが、放置する訳にはいかない。私を拉致しようとした閻魔が此処に居ないのなら、幽々子が連れ去ったという事だろう。助けにいかなければな」
「龍泉と凛華の関係を一度壊した上に、ついさっき襲われたばかりでしょう。助ける理由なんて何処にあるの」
紫は龍泉の正気を疑った。
どう考えても、龍泉の行動は合理的ではない。映姫を助けたところで、龍泉は彼女から人間の救済を前よりも強く願われるだけだろう。
凛華の元へ移動しながら、龍泉は答えた。
「あの閻魔は私を、私の過去の、しかも側面でしかなかったが、信仰していた。私は崇められた者として、その義務を果たさなければならない」
「……何を馬鹿げた事を。神様にでもなったつもり? そんな無茶苦茶な理由であなたは自分から面倒を被りに行くの?」
「そうか。……馬鹿、か」
紫の反応に新鮮な驚きを感じ、龍泉は呟いた。
信仰心一つで身を犠牲にする。それは所詮、崇められた者にしか通じない馬鹿げた理屈だ。
なまじ力があるなら、他者の為に力を使わなければならない。そうして他者に貢献する事で初めて存在を許される。
例外はあるだろう。しかし、龍泉が人間から得ていた信仰とは、この消極的な脅迫の一面があった。そして信仰は好意にも似ていた。好きになってくれた者を――それは錯覚であったのだが――龍泉は見捨てられず、いつの間にか信仰心には報いなければならないという価値観が根付いていたのだろう。
「そうだな。これが最後の神様ごっこだ。あの閻魔を助けて、十年前に始めたこの馬鹿な遊びは終わらせる」
それで初めて、龍泉は過去との決別を完了させられる。今よりも凛華に父親らしく振る舞う事が出来るようになるかもしれない。
希望を胸に龍泉は凛華の傍に座り、彼女の無事を確認すると、深く息を吐いた。
「紫、お前はどうする? 友達だからと幽々子に肩入れする事は否定しないが、一緒に閻魔へ歯向かうだけの義理が無ければ傍観した方が得策だと思うが」
幽々子が映姫を襲撃したと知らされてから、紫の顔色は優れていない。友人がそのような暴挙に出たのなら当然の反応ではあるが、顔色の割には紫は落ち着いて答えた。
「……動機が分からない事には下手に動けないわ。でも、動かないつもりはない。まずは幽々子を探して理由を聞き出すわ」
「そうか。どちらでも邪魔はしない。お前の事は信じている」
龍泉は凛華の傍に形見のナイフを並べ、凛華とも紫とも離れて、部屋の隅に立った。
「何をしているの? 映姫を助けに行くんじゃなかったの?」
「そうだが、子供がまだ眠っているからな。この部屋から少し頑張る事にする。お前は先に行け」
「だから、何をするのよ?」
「別に大した事じゃないぞ。昔の私なら出来た事だ。今ならどうか分からないが、冥界なら何とか出来るだろう」
意味深に呟き、紫の質問には答えない。
煮え切らない態度がまるでふざけているようにも思えたが、念の為、紫は黙って待った。
すると、暫くして答えがやってきた。
一体の霊魂が壁を擦り抜け、龍泉の手の上で漂う。
「よかった」
感じたのか、龍泉が安堵する。
その安堵に誘われるように次から次へと、壁を擦り抜け、床から湧き出て、天井から滴り落ち、夥しい数の霊魂が龍泉の周囲へ集まっていく。
先程の幽々子が引き連れていた程ではないが、瞬く間に集まった霊魂は異常なまでに多く、いつまでも増え続けている。龍泉の姿が霊魂に覆われて見えなくなるのも時間の問題だった。
「ちょっと、龍泉、それ……」
「ああ、近付くなよ。たまに祟られるぞ。だが、これで幽々子も手薄になった筈だ。さっさと先に行くといい」
「いや、でも、その数は結構……」
多少の異常現象には慣れている紫でさえも、龍泉が置かれている状況は不安視せざるをえない。
同じ霊魂の収集でも、龍泉と幽々子では雲泥の差がある。幽々子が全体を統率していたのに対し、龍泉は無秩序そのものだ。軽い口調で祟られた事もあると言っていたが、それも決して軽視していい問題ではない筈なのだ。
しかし、あくまでも龍泉は態度を覆さなかった。
「今まで見たから知っていると思うが、私の除霊、割と上手かっただろう。あれは昔、こういう事をたまにしていたからだ」
その証拠を示すように龍泉は正面の霊魂を払い除ける。元に戻ろうとする霊魂の勢いと龍泉の妖気が絶妙に拮抗し、平衡状態が見事に作り上げられた。
「ほらな。大丈夫だ」
自慢気に話す龍泉だが、体を張った危険な行動である事には変わらない。
だが、無意味でもない。これだけの霊魂が龍泉に引き付けられていれば、幽々子は映姫へ危害を加えるのに充分な霊魂をそう簡単には揃えられないだろう。少なくとも、紫が幽々子と話すだけの時間は充分に作られた。
紫は苛立たしげにこめかみを手で抑える。
「ああもう、分かったわ。分かったけど、あまり無茶はしないようにね」
「言われなくてもそうするよ。お前も頑張るんだな」
紫が何度も不安そうに振り返りつつ部屋から出ていくのを見送り、龍泉は霊魂の渦の中に引き篭もった。
目に見えているが、頭が理解を拒んでいる。龍泉の幽霊が見えない体質はそういう理屈である為か、霊魂の群れに包まれた途端、彼の目は光の所在を見失った。
色は無く、光源が何処にあるかも分からない。まるで白い繭の中に閉じ込められたかのような景色が広がり、死霊の冷気によって肌には沸々と粟が立ち始める。
今の龍泉は霊魂達の気紛れ一つで容易く祟り殺される立場である。しかし、彼は恐れず、心安らかに見えない者達と向き合った。
「さあ、話を始めよう」
龍泉の昔話を終わらせる為に。
それに踊らされた、哀れな少女を助ける為に。
今一度、最後と決めて、龍泉は過去に捨てた力を拾い上げた。
◆
映姫が目覚めた時、最初に出来た事は西行妖を仰ぎ見る事だった。
何がどうなっているのか分からず、映姫は素早く身を起こし、周囲を確かめる。
足下には雅な赤い布が地面に広く敷かれ、隣には机。その上には酒瓶が載せられており、霊魂が忙しなく宴の準備に追われている。
「あら、御目覚めになられましたね」
不意に背後から声を掛けられ、映姫は振り返ろうとするが、肩に手を当てられて止められる。
声の主は幽々子だった。
一分の隙も作らず、背後を取ったまま、幽々子は話し始めた。
「先程の事は覚えていますか?」
「……はい」
「では、今、身の回りから何が無くなっているかは御気付きですか?」
映姫ははっとし、服の上から手を当てた。
「浄玻璃の鏡は私の手元にありますわ。返して欲しければ、私の願いを叶えてくださいな。力付くとは考えなさらないように。鏡を叩き割る程度は造作もありません」
「幽々子。貴女は死者の身でありながら閻魔を脅迫するのですか……」
浄玻璃の鏡は閻魔の職務に必須とされる物だ。奪われたままでは最悪の場合、閻魔の地位を失う事になる。幻想郷の死者を救う為に閻魔となった映姫にとって、それは死に等しい厳罰である。
「そんな、畏れ多い。これは祈願ですわ。脅迫ではありません」
「私を拉致しておいて、何を今更」
「あれは閻魔様に不敬を行った居候に報いを与えただけですわ。迂闊にも巻き込んでしまった閻魔様を今まで介抱していたのは私ですし、今から始めようとしているのはその御詫びの酒宴で御座います」
「嘘です」
「建前としては成り立っておりますわ。それとも、私の本心をわざわざ暴き立てて偽善だと説法致しますか? 私が本当に何を考えているのか、絶対にお分かりになるのですか? もしかしたら私は発言した通りの事を考えているかもしれませんのに」
幽々子は自ら挑発的に仄めかし、冷静さを奪っていく。
浄玻璃の鏡という切り札を手にした事で優位に立った幽々子は、しかし慢心する事無く、映姫を自らの手の内で弄ぶ。
「……要求は何ですか。私に応えないという選択はどうせ存在しないのでしょう。勿体振らずに早く伝えなさい」
「話が早くて助かります」
背後から、その問題の浄玻璃の鏡が差し出された。
鏡面を通して、二人は互いの顔を視認する。
「死者の過去を映す浄玻璃の鏡。これを使えば私でも過去を見られるかと思いましたが、どうやら使い方が間違っているのか、それとも正当な持ち主で無いからか、私には普通の鏡としてしか使えませんでした。ですので、閻魔様にはこれを使い、私の生前の姿を映して頂きたいのです」
難色を示す映姫の表情が鏡に映った。
「私は貴女の過去を知っています。それを口伝する事では駄目ですか」
「勿論駄目ですわ。閻魔様とはいえ、嘘を言わない訳ではないでしょう? その点、浄玻璃の鏡は死者を裁く厳正な道具。嘘偽りを映す事は恐らくないでしょうから」
「使うには私が手にする必要があります。約束を反故にし、持ち逃げするかもしれませんよ」
「それは困りますわね。ですが、閻魔様。私が浄玻璃の鏡だけでこうも上から語りかけていると、本当に御考えになられているのですか?」
映姫の顔が驚愕に歪み、それを見て自らの策謀が成った事を知った幽々子が嗜虐的に笑う。
「優しい御方ですものね。見知らぬ無辜の民が死のうとも私は気に止めませんが、閻魔様ならばその慈悲深い心で必ず悲しまれる事でしょう」
「貴女は私が断れば、幻想郷の民を殺めるつもりですか……」
「いいえ。ただ、閻魔様が白玉楼を訪れて不快そうに立ち去ったのであれば、私はその原因である居候を咎めなければなりません。その際にあれが死んだとしても、それは仕方の無い事でしょう」
事態は映姫が想定していたよりも遥かに深刻だった。
もしも断れば、幽々子は映姫の希望であった龍泉を確実に殺めるつもりなのだ。紫が連れてきた龍泉を殺める事は幽々子にとって不都合な筈だが、それは目的に比べれば些細な犠牲だと完全に割り切っているらしい。
きつく目を閉じ、映姫は打開案を考える。
幽々子に生前の出来事を教えてはならない。そうすれば、要求を断った時よりも甚大な被害が幻想郷に発生してしまう。
その事情を知るのは、今の白玉楼に存在する者の中では映姫と紫だけ。映姫に状況を打破する力が無い以上、この場は紫に頼るしかない。しかし、紫は幽々子の企みにまだ気付いていない。
ならば、紫が来る事を祈りつつ、今は時間稼ぎに終始するしかない。来たところで紫が幽々子の要求を食い止められるのかは疑問だが、それ以外に望みは無かった。
「幽々子。貴女は生前の姿を見てどうしたいのです。先に伝えておきますが、生前の貴女は決して幸せではありませんでした。見ても不快になるだけでしかないと思いますよ」
「若くして死んだ、という事は今の私の姿から予想出来ます。短命だったからには何か大きな不幸が私を襲ったのでしょう。けれど、それは大した問題ではありません」
幽々子は意外にも饒舌に語り始めた。
今まで誰にも話さなかった秘密。それを心置きなく口に出来る事が愉快だったのかもしれない。
「赤子の頃に親から愛された記憶も、子供の頃に友人と戯れた記憶も、私には存在しません。不幸であったなら本当はそのような経験はしていなかったのかもしれません。ですが、幸福だろうと不幸だろうと、生前の記憶が無いせいで私には生きた実感が何一つ存在しないのですよ」
虚無的な笑みが自然と作られる。
あるいは、強がりの笑みか。
「この心に穴が開いたような感覚を抱えたまま、もう何百年も亡霊として永らえました。長い時間の中で得た愉快な出来事は穴をかなり塞いでくれましたが、それでも、穴は時折、私の中にどうしようもなく冷たい風を隙間から送り付け、根源の無い私を大きく揺るがすのです。これを無くすには、生前の記憶で穴を完全に埋め立てるしかないのでしょう」
言い切ると、幽々子は覗かせていた寂寥感を完全に消し、不遜な微笑みだけが残された。
「この不安も今では随分と慣れましたわ。でも、無くして困るという訳でもありません。さあ、時間稼ぎはもう宜しいでしょう。私の本意も伝えました。宴の用意もそろそろ整います――」
その時、近くで皿の割れる音がした。
幽々子の注意が僅かに逸れ、映姫は咄嗟に鏡へ手を伸ばす。しかし、肩に載せられた手から力を込められ、同時に鏡を高く持ち上げられた為に指先を掠めさせる事しか出来ない。
「取り返したところで結局は同じですわ。約束が果たされると分かるまで返すつもりもありません。油断や動揺も期待なさらないように」
牽制しつつ、幽々子は音の場所へ目を向けた。
その先に漂う霊魂の下では、やはり皿が割れており、料理が無惨にも地面に散らばっていた。
はじめ、幽々子は霊魂が何かに気を取られ、迂闊にも落としてしまったのかと考えた。けれども、その周囲でも皿を落とす者が次々と増え、そんな普遍的な事が原因ではない事に気付いた。
皿を落とした霊魂達は皆同じ方角を向き、片付けもせずに固まっている。
「これは、まさか……」
幽々子の制御下にある霊魂を硬直させる程の何かが、彼等の視線の先に存在しているという事だろうか。
そこでふと、幽々子は映姫が希望に目を輝かせている事に気付いた。
それで悟った。
「そう、これが閻魔様の願った、かつての龍泉という存在なのね。霊媒体質……、いえ、そんな受動的で生易しいものではないわね」
白玉楼の一室へ向け、霊魂が緩やかに、しかし途切れる事無く集まり続けている。
あの勢いが続けば祟られるどころでは済まない。霊魂はただの力の固まりではなく、薄弱ながらも意志と思考を持っており、それを剥き出しにしている存在だ。少なければさして害も無いが、密集すればその意思の奔流で人格を破壊する事も出来るのだ。
それを龍泉が分かっていない可能性はあるが、それは映姫の期待の眼差しから見て違うと考えていいだろう。先程の襲撃でも映姫より長く意識を保てていた事から、霊的な力への耐性は並外れているらしい。
「でも、これで私の力を削いだつもりなら、あの男の考えは実に浅はかだわ」
幾つかの霊魂が龍泉の元に去ってしまったが、幽々子はもう他の霊魂の力を必要としていなかった。
映姫を捕らえ、彼女から拒否権を奪った時点で、制御に気を取られる過剰な霊魂は寧ろ邪魔でしかなかったのだ。
遠目からでも深く観察すれば、龍泉に霊魂を上手く制御出来ている様子は無く、力として扱える程の技術を持たない事は明白であった。妨害を意図したものにせよ、彼は霊魂を集める事しか出来ていない。無視しても特に問題は無いだろう。
幽々子は周囲の霊魂を操り直し、掃除と準備を平行して進めさせる。
「閻魔様、宴の準備が終わるまでしか私は待ちません。決断は出来るだけ御早めに。貴女が龍泉の命を握っているようなものなのですからね」
幽々子が告げると、歓喜に包まれていた映姫は表情を暗くして黙りこんだ。
龍泉がかつての龍泉に戻ったのなら、映姫に龍泉を死なせてしまう選択は絶対に出来ない。最早、幽々子の願いは叶ったも同然である。
刻一刻と宴の準備は進んでいき、映姫の手では遅らせる事も不可能な事態に陥っていた。
進展を促すように、幽々子が映姫の目の前に浄玻璃の鏡を下ろしてくる。
映姫がそれに手を伸ばしかけ――。
「……幽々子」
物憂げな表情で紫が到着したのは、ちょうどその時だった。
◆
「あら、紫。どうしたの、暗い顔よ」
幽々子は目的の達成よりも紫との会話を選び、手にした鏡を背中へと隠した。
明らかに紫はそれを見ていたが、言い咎める事はせず、覚悟を決めるように目を閉じる。
「……幽々子。大方の予想は出来たわ。何をしたいのかも、状況から理解した」
「早いわね。それでどうするつもり? 私を倒して閻魔様を助ける? それとも一緒に宴を楽しむ? 私としては後者のほうが嬉しいわ。倉から良いお酒が見付かったのよ。一緒に楽しみましょう。昔話に花を咲かせながらね、どう?」
「悪くないわ。でも、今のままだとその両方になるかもしれないわね」
可能ならば争う事無く、何も知らないままで終わらせたい。
そう祈りつつ紫が返答すると、幽々子は不思議そうに首を傾げた。
「どうして二人とも私の生前の記憶を隠したがるのかしらねえ。私にとっては大事なものだけど、他人からすれば単なる記憶でしょう? それに益も害も無いと思うわ」
唇を尖らせ、まるで「冗談でした」と付け加えても不自然ではない軽い口調で、幽々子は紫に抗議する。
それを受けても沈黙したままの紫に、幽々子は分かっていたとばかりに首を振った。
「まあ、そんな事を言っても教えてくれないわよね。私は好奇心旺盛だもの。教えられたら余計に試したくなっちゃう」
「幽々子。思い出したとしても、それは貴女に不幸をもたらすだけよ。諦めて映姫に鏡を返しなさい」
「嫌よ。それに私は不幸になってもいいわ。不安よりはマシでしょうから」
「お願いだから我が儘を言わないで。昔の事がそんなに大事なの?」
「ええ、大事よ。当たり前じゃない。昔があるから今がある。それが当然なのよ。だから、昔が、生きた記憶が無い私には、生きている皆の事も生きていた皆の事もよく分からない。つまり私はね、死者なのよ。この冥界で誰よりも」
生きた記憶の無い幽々子に生者の理屈は一切通じない。
それは一種の孤独でもあった。
ある一つの価値観を共有出来ないという孤独。その価値観は人間でも妖怪でも幽霊でも、誰もが等しく持っているものなのに、生前の記憶を失った幽々子だけが持っていない。
「私にはね、死の恐怖とかも分からないし、親子の愛情とかもよく分からないの。ご飯の味とか、自然の美しさとか、そういうのは何となく分かるけど、それ以外の、もっと命の溢れるような感情が分からないのよ。これってね、意外と辛い事なのよ?」
「その辛さは、……分からなくもないわ。でも、それらは記憶を取り戻さなくても手に入れられる筈のものよ。何も知らない子供だって、色々な事を学んで、それから感情を増やしていくのだから。たとえ死者としてでも、何百年も過ごした今のあなたなら本当に何も分からないなんて事は無い筈だわ」
「そうね。そうかもしれないわ。でも、それは本当に少しよ。何百年も掛けて生者の理屈を少ししか得られなかった。時間が永遠にあっても、これだけの時間を掛けて、たった少しの成果しか上げられなかったのなら、それはもう、その方法では限界に達しているんじゃないかしら? それとも、まだ続けろって言うの? 既に私は普通の人間の何倍もの時間を費やしたのに」
幽々子の口調は終始軽いが、その内容は本来なら悲嘆や苦痛の中で語られるものだった。
紫は思った。
幽々子も龍泉と似ている。
娘との接し方が分からなかった龍泉と同じように、幽々子は自分以外の全てと接し方が分からなかったのかもしれない。
黙りこむ紫を見て、幽々子はくすくすと笑った。
「はい、紫の負けよ。面白い持論で私を納得させるかと思っていたけど、まあ、私に言えない動機で行動しているのだから、言い負かせられないのも当然の話ね」
映姫の目の前に鏡を置く。
「さあ、閻魔様。決断するには充分な時間が経ちましたわ。そろそろ答えて下さるかしら?」
握り締めた手を解き、幽々子は映姫に鏡を持たせた。
これでもう、映姫は後戻り出来ない。
映姫が逃げれば、映姫が望んだ「かつての龍泉」は幽々子の手によって葬られる。だが、映姫が幽々子の願いを叶えれば、幻想郷に未曾有の危機が訪れる。
救済を為すかもしれない一人を殺して今の世界を続けるか。世界を見捨てて、その一人を助けるか。
「駄目よ、映姫!」
揺れ動く映姫を止めようと紫が駆け出した。
しかし、横から刃が突き出され、紫は慌てて立ち止まる。
視線を巡らせれば、そこには妖夢が居た。
刀の重さに腕を震わせ、両手を使い、最早意地だけで保持している。
「申し訳ありません、紫様。恩を仇で返すような事をしてしまって」
「妖夢……」
「幽々子様の願いは真っ当なものです。振る舞いに非はありますが、今の時点では私が止める程の事はしていません。記憶の復活を阻止する理由を仰ってくれるなら考え直します」
「……どきなさい!」
一瞬逡巡したものの、紫は妖夢を力任せに突き飛ばし、強引に先へと進んだ。
妖夢の体が木の葉のように宙を舞い、料理を蹴散らしながら机の上に叩き付けられる。しかし、彼女はすぐさま凄まじい勢いで駆け抜け、再び紫の前へ立ち塞がった。
「何度倒されても構いません。誰かを裏切ろうと、私は私が正しいと思う信念の担い手であり続けます」
「この、頑固者!」
「理由を教えて下さい。隠さなければいい話です」
幽々子の生前の出来事を知ったところで誰も得をしない。生前の出来事を隠す理由も、その理由を隠す理由も、到底誰かへ伝えていいものではない。
黙っていれば通じるような察しの良さを妖夢は持たず、それがまた時間稼ぎに適していた。
その間、映姫は鏡を手に、いつ終わるかも分からない自問自答と葛藤に明け暮れる。
割り切れない映姫に業を煮やし、幽々子は残酷な微笑みを浮かべて次なる行動に出た。
「遅いですわ、閻魔様。ふざけた態度に見えるかもしれませんけど、これでも本気ですのよ。その証拠を見せてあげましょう」
幽々子の手の平に一羽の黒い蝶が現れる。
死を操る力。それを見える形で具現化させたものである。
それが天高く舞い上がり、霊魂の群れに紛れて、龍泉の元へ送られた。
あの死を止められるのは幽々子だけ。他の誰もが驚愕や絶望の眼差しで為す術無く蝶を見送る中、幽々子だけが平然としていた。
「ほらほら、急いでくださいな。あの蝶が届けば龍泉は死にますよ?」
「幽々子!」
今度ばかりは妖夢も紫を止めなかった。
憤りながら迫り来る紫の表情を直視し、幽々子が戸惑った。
「どうして? 別に式神くらい、また作ればいいじゃない。今のままでは幻想郷に置けない欠陥だらけの妖怪なんだし。それにあの式神も自分の使い魔を使い捨てたのだから、この程度は覚悟しているわよ」
「馬鹿な事を言わないで! 早く止めなさい! あの人は私の――」
「――それ以上は秘密だったんじゃなかったか、紫」
そこに突如、龍泉の言葉が届き、幽々子に詰め寄る紫の言葉を遮った。
紫は慌てて振り返る。いつの間にか現れた龍泉が霊魂の群れを引き連れ、廊下から庭に降りてくるところであった。
その目前に、死を告げる蝶が迫っている。
「龍泉、逃げて!」
「必要無い」
紫の叫びを無視し、龍泉は収集した霊魂を徐々に解き放ちながら自然体で歩いた。
「凛華が起きてな。すぐ戻るからと約束してからここにきた。嘘にはさせない」
そして、あろう事か立ち止まる。
「西行寺幽々子。私はお前が嫌いだ。自殺しておきながら、その後ものうのうと生者の真似事を続けるお前には同情心も湧かない」
「……自殺?」
「ああ、そうか。記憶が無いのか。自分の死因も分からないなら、私の敵意も理不尽にしか思えないだろう。しかし、理不尽でも私は自殺が嫌いだ。その行為も、それを選んだ者も、それを強いた環境も。その全てが幼い私に地獄の門を開かせたのだからな」
怨嗟の塊を吐き出すように龍泉が喋る。その迫力に負け、幽々子は蝶の動きを止めていた。
紫も妖夢も、龍泉の怒りの理由が分からない。映姫は理解しているが、何も出来ずに聞いている。
「だから、お前の望みは私が潰す。善悪など関係無い。記憶の復活が何を意味するかも関係無い。私は自殺が嫌いだから、それをしたお前に何かを成し遂げさせたくないだけだ」
龍泉が蝶を睨んだ。
直後、蝶は幽々子の制御を離れ、龍泉の周囲を、まるで自然の蝶であるかのように自由に飛び回る。
「え、な、嘘……」
龍泉に死を操る力が効かなかった。その事に驚き、幽々子は映姫から手を離して後退る。すかさず映姫が龍泉の元に逃げ出したが、そんな事は今の幽々子にとってどうでもいい事だった。
龍泉は不死者なのか。
その疑問が幽々子の頭を支配する。
「いや、不死ではない。実際に何度か死んでいる」
幽々子は疑問を口にしていない。しかし、龍泉はそれを読み取り、相応しい答えを返していた。
「これが人間に崇められ、恐れられた私の力の一部だ。集めた霊魂達はくれてやる。思う存分に全力を出すといい。その上でお前を、かつての私の力だけで相手してやろう」
集めた霊魂を全て解放し、龍泉は身構えた。幽々子も急いで周囲に撒かれた霊魂達を支配下に入れる。
争いが始まろうとしている。欠落した者同士が互いに壊しあう、不毛な争いが。
それを止めようと映姫が龍泉の袖を掴み、首を振った。
「駄目です。貴方が戻ったのなら、ここで命を使わないで下さい。お願いですから、逃げて、人間達を……」
浄玻璃の鏡に映る現実が歪み、ここではない何処かを描き始めていく。
それは遥か昔、幽々子が生きていた時代の光景である。
これを幽々子に見せれば、災厄が引き起こされる事は恐らく間違いない。けれど、過去の力を取り戻した龍泉なら、その災厄を抑えられる可能性がある。映姫は彼に人間の命を委ね、全てを明かそうとしていた。
龍泉は紫に目配せした。殆ど同時に浄玻璃の鏡を映姫の手から強引に預かり、鏡面に映る幽々子の過去を一瞥する。
映姫の手を離れた事で映像は霧に呑まれるように消えていく。その間に一瞬だけ明確に映された光景を見て、龍泉は憐れむように眼を閉じた。それから鏡を紫へ投げ渡し、映姫の背中も押し、紫の元へ向かわせる。
押し飛ばされながらも、縋るように映姫は龍泉を見た。
龍泉は、映姫を見なかった。
「私は龍泉です。もう、――ではありません」
映姫へ向けた言葉の一部は突然の風に掻き消され、映姫以外の者に届く事は無かった。
それは、人間に与えられた名前。恐れられる時も崇められる時もかつての龍泉と共にあり、かつての龍泉を表し続けた言葉。
幻想郷に辿り着いた時に捨て、そして今改めて、龍泉は過去の名前に決別を告げた。
それが意味する事を察し、絶望した映姫は膝を付く。
その肩を、紫が掴んだ。
「映姫。立つのよ。ここでは邪魔になる」
「紫は、任せるのですか。あの二人が争ったところで、誰かが救われる訳でもないのに」
「それでも任せるわよ。任されたのだから」
覚悟した表情で答え、紫は映姫を無理矢理立たせ、引き摺るようにして歩かせる。
「龍泉はね、あなたを救う気なのよ。娘を泣かせた相手だけど、訳の分からない理屈で救おうとしている」
「私の事は、どうでも……」
「救われたくないなら救われなくていいわ。勝手にしなさい。でも、誰も救われないとしても、この争いで何かが変わるのよ。大切な何かが、もっと大切な何かに」
紫は映姫を縁側へ突き飛ばした。倒れた映姫の隣に紫が腰掛け、不機嫌そうに足を組む。
「龍泉は死に物狂いで変わっていくわ。一人の父親になる為に。あなたからすれば理想の終焉かもしれないわね。だけど、最後まで見届けなさい。いい加減、眼を覚ましてもいい筈よ」
それきり紫は何も言わず、応援もせず、対峙する二人の姿を眺めた。
映姫も緩慢な動きで身を起こし、同じ光景を見る。
幽々子は龍泉を敵と見ていた。
しかし、龍泉は幽々子を敵と見ていない。
かつての自分を縛り付けた自殺という呪いを幽々子の奥にも見出だし、それこそを打倒すべき敵だと確信した龍泉は、過去を超越する為の疾走を開始した。




