其の四十八、宣告
いつしか、泣き疲れた凛華は龍泉に抱き付いたまま眠りに落ちていた。
龍泉は凛華の風邪が悪化しないように布団を掛け直し、抱き付かれたまま、一緒に横たわっていた。
近くから見る凛華の顔は、涙で歪んだ顔ではなく、まるで憑き物が落ちたかのような安らいだ寝顔である。
龍泉は完璧な父親になれた自信が無かったが、これで初めて、父親としての一歩を踏み出せた気がした。
出来る事なら、龍泉はこのまま凛華の傍で、たった二人の静かな時間を続けていたかった。
しかし、まだ問題が残っている。
龍泉は凛華の手を優しく解き、布団から起き上がって、通路へ繋がる障子を見詰めた。
「もういい。……静かに入ってこい」
呼び掛けると、所在無く佇んでいた紫が慎ましく障子を開けた。
泣き声を聴き、親子の時間を妨げないよう、呼ばれるのを待っていたのだ。
その紫の背後から、妖夢が恐る恐る現れた。
重みに震える彼女の手には、龍泉の使い魔の屍が入った袋が掴まれている。
龍泉は呆れて溜め息を吐いた。
「殺したのをわざわざ持ってくるとは律儀だな。騒がせてしまった私の言える事ではないが」
「あの、これは……」
「その辺に置いといてくれ。それは凛華の為に命を使った。報いるだけの事はしなければならないからな」
言われるがまま、妖夢は部屋の片隅に袋を置いた。
慎重に龍泉の様子を窺うが、殺めた事にはあまり関心を持たないようで、妖夢には一瞥もくれずに紫と話し出す。
「閻魔はどうした? 暴れたのは気付いていたが」
「説得は失敗したわ。場所は知らないままだけれど、そう遠くない内に探し当てるでしょう」
「そうか」
紫が深刻な面持ちで告げても、龍泉は淡白な納得しか見せなかった。
凛華と二人だけで話し合える時間が作られただけで、紫は龍泉からすれば充分過ぎる事をしたのだ。感謝こそすれど、非難すべき落ち度は無い。
龍泉は閻魔への対応を思案しつつ、畳に置いていた形見のナイフを再び身に付ける。
数は五本。それらには今まで凛華に渡していたものも含まれている。
「そっちは何とかなったみたいね」
「まあ、一応だけどな」
「良かったわね」
事情を察した紫が今度は微笑み掛けてきたが、龍泉は身嗜みを整えながら視線を反らす。
「まだ安心するには早いだろう。閻魔が暴力沙汰を起こしてまで私を探しているんだ。何かろくでもない事を仕掛けてくるつもりらしい」
「その事なら、昔の龍泉に戻して人間達を救わせる、と言っていたわ」
「下らない話だな」
半ば憤慨しつつ、龍泉は吐き捨てた。
閻魔が龍泉の過去をどういう感性で見ていたのか定かではないが、当時の龍泉は人間を死なせなかっただけであり、本質は決して聖者と言い切れるものではなかった。
恐らく、閻魔は龍泉を過大評価しているのだ。
仮に過去の行動を網羅していたとしても、思考は一つも理解していないのだろう。
「でも、あれは本気よ。あなたが要求を拒めば何をしでかすか分からないわ」
「だとしても、受け入れる訳にはいかない。何に利用されるとしても昔の私は役に立たないからな」
「昔の龍泉、ね。閻魔は固執していたけど、そこまで価値のあるものなのかしら?」
「さあな」
紫の探りを躱し、龍泉は意識を研ぎ澄ませて閻魔の位置を探るが、何故か上手く捉えられない。
立ち止まって気配を押し殺しているか、遠い場所に移動したか。理由は分からないが、作戦を練る時間はあるだろう。
「何であれ、閻魔と直接争うのは面倒な事になる。私の考えに納得してくれればいいが……。それが望めるなら最初からこの状況にはならないか」
「話し合うつもり? 龍泉なら襲われる事は無いでしょうけど、彼女が求めているのは過去の龍泉でしかないのだから、今のあなたの言葉には耳を貸さないと思うわよ」
「それでも、それ以外の手段は無い」
戦えば負ける。逃げれば掴まる。
神仏は世界の摂理を司る一方で、斯様に理不尽の塊でもあるのだ。
弱まっているならばともかく、万全の閻魔が全力を出した場合、今の龍泉に対抗しうる術は無い。
紫の術を解かれ、幻想郷で得た力を自由に使えれば。もしくは白玉楼中の霊魂の力を借りられれば、対抗は可能なのかもしれない。しかし、仮にそうしたところで根本的に解決する話でもないのである。
龍泉はもう、どうでもいい人物まで助けたくない。それを閻魔に理解させない限り、この話は永遠に終わらないのだ。
「ところで、紫。お前、あの閻魔の過去を知っているか?」
「どうしたの、急に」
「私の過去を散々言い出して私に執着している以上、あの閻魔と私には幾つか共通点があるのだろう。互いに理解出来る部分が一ヶ所でもあるなら、そこから切り崩せるかと思ってな」
確かに紫はあの閻魔、四季映姫の過去を知っている。幻想郷創立の前後に限れば、当人の次に知っていると言えるかもしれない。
人間と妖怪が共存する幻想郷という新世界。それが机上の空論と知りながらも、紫は滅び行く妖怪達の為に喧伝した。それに人間側の立場として賛同したのが、当時は地蔵の映姫だった。
幻想郷が完成し、その後、想定されながらも阻止されずに生まれた悲劇を映姫が嘆き、紫と袂を分かつまで、映姫は紫の協力者だった。当時から天敵として嫌いつつも、その事件が起きるまでなら友人と呼べる程度に仲が良かった。
「確かに、知っていると言えば知っているわ。だけど、教えるのは無理ね」
「何でだ?」
「映姫とは互いに裏切ったような関係なのよ。価値観の違いをどちらも理解し、互いの正当性も理解した上で、どちらも妥協しきれなかった。殺し合わなかった事が奇跡なくらいよ」
「……単純な犬猿の仲という訳ではなさそうだな」
「そうね。複雑なのよ」
嫌いである事は一致している。けれども、互いの理想の崇高さは知っている。
神妙な顔付きになる龍泉に対し、紫は疲れたとでも言うかのように大袈裟に肩を竦めた。
「仲直りしたいとは思っていないから、変に気を使わなくていいわ。最初から苦手だったもの」
「別に気を使うつもりはない」
「嘘が下手ね」
「喧しい」
龍泉は紫の過去を深く追及せず、二人の会話を意外そうに聞いている妖夢へ視線を投げ掛けた。
「何か気になったか?」
「え、いやあの……。紫様の式神にしては紫様に率直な態度を取りますし、紫様も見過ごしている事が少し――」
「待て」
腕を擦りながら、ぼそぼそと話す妖夢を龍泉は遮った。
その仕草のぎこちなさから、龍泉は妖夢の怪我を目敏く発見していた。
「その腕はどうした」
「……稽古中の事故ですよ」
「両腕を同時に痛めるのは相当稀に思えるが」
「少し、気持ちが弛んでいたみたいで」
実際の事を口にすれば龍泉が憤るだろうと考え、それを面倒に思った妖夢は言葉を濁す。
閻魔の振る舞いを糺そうと手を出して、結果としては紫を守る事になったが、妖夢は龍泉と閻魔の間で起きている問題が自分の手に負える種類では無いと判断していた。
「……嘘か。別に信用される気も無いが」
しかし、妖夢が剣術に直向きであると確信していた龍泉に、その未熟な嘘は通用しなかった。
帯刀した人物の両腕を痛め付けられる相手も自然と限られる。閻魔の動静を探っていた龍泉は容易く真実に辿り着き、苛立ちを感じて額を掻いた。
「紫、治療は?」
「施したわ」
「それであれか。自分の体以外にはそこまで効果が無いんだな」
「無意識にも認識している自分の体と、五感を共有出来ない他人の体ではどうしても差が生まれるのよ。見た目とある程度の機能は治せても、感覚や筋力を元通りにするのは無理よ」
「贅沢は出来ない訳か。歯痒いな」
龍泉には妖夢の剣術が何処まで上り詰めるか期待していた節がある。妖夢の太刀筋は正に妖夢の誇りを体現していた。かつて人間達から見出だす事が出来なかった生きる誇りを、龍泉はそれに重ねていたのだ。
そこで暫く、龍泉は思案する。
紫の力は表面に対する作用が主体で本質に対しては副次的にしか作用しない。その反対で、龍泉の封印されている力は本質に対する作用が主体で表面に対して副次的だ。
もしかすると、力が自由に使えるようになれば妖夢の傷を完全に癒す事が可能なのではないか。
しかし、それは愚考だと無言で切り捨てる。
龍泉は人間が人間の力のみで培った誇りを見たいのだ。そこへ無闇に介入すれば、それはもう人間だけのものでは無くなってしまう。
「とにかく、リハビリ頑張れよ。最初から飛ばすと壊すだけだから慎重にな」
「ああ、はい。……頑張ります」
無責任に聞こえる龍泉の忠告を聞き流しつつ、妖夢は頷いた。
その態度を龍泉は不服に感じたものの、無闇に掘り返しはしない。二度と剣が振れなくなったとしたら、それはただ、妖夢もその他大勢と同じ、龍泉が望んだ人間の理想形ではなかったというだけの話だ。
龍泉は目の前の事から意識を逸らし、再び閻魔の気配を探り始める。
今度は察知した。
もう近くまで来ている。
焦燥感に駈られながら、龍泉は紫を見た。彼女も龍泉の様子から大体の事は察しているようだった。
「紫、妖夢を連れて部屋から出ていけ。閻魔は部屋へ入れる」
「……凛華は?」
「そのままだ。傍に居て欲しいと頼まれたしな。閻魔と再会させるのは気が進まないが、上手く行けば眠っている間に終わるだろう」
「何か策でもあるの?」
一瞬、龍泉は苦い顔をした。
「無い。だが、子供の願いに応える情けは私にもある。だから早く行け。お前達が居ると話し合いの邪魔だ」
「……分かったわ」
妖夢を連れ、紫は渋々部屋から出る。
腕を痛め付けられた妖夢も、因縁浅からぬ紫も、映姫と話し合う場に相応しい存在でない事は明白だった。
「心配させて済まないな」
障子が敷居を滑る音へ隠すように、龍泉が呟く。
呆れて言葉も出ない紫だったが、歩きながら、励ますように小さく手を振った。
◆
一人静かに心を落ち着かせ、平静を装える程度に回復した映姫が龍泉の居室を発見したのは、紫達が去ってから直ぐの事だった。
目の前の部屋に、救済の鍵となる人物が居る。逸る気持ちを抑えきれず、映姫は声も掛けずに障子を勢いよく開けた。
そこには、布団で眠る凛華を背に、自然な居住まいで胡座を組む龍泉の姿があった。
部屋の中で全てが完結しているような、不思議な調和があった。
映姫は息を呑む。
今、目の前に居る龍泉は先程までの龍泉とは違う。かつて人間の為に命を捧げ、崇められた存在なのだ。
やがて、龍泉の伏せた目が上げられ、立ち竦む映姫を捉えた。
穏やかな視線が深く、映姫の姿を洞察する。
まるで大いなる自然を目の前にしたような畏敬の念が、閻魔である映姫の心にも沸き起こった。
龍泉が口を開いた。
「何をしておられるのですか。閻魔様のほうが私よりも遥かに高位の存在であらせられるのですよ」
「川上龍泉、貴方は……」
「勘違いなされているようですが、今の私は過去の力を失った抜け殻です。どうか気になさらず」
龍泉の冷静な対応に映姫も動揺を辛うじて抑え込み、彼の前で正座を組んだ。
「成る程、まさか紫の言葉通りとは。過去と現在で貴方は連続した存在なのですね。もしや似た姿をした別人なのではと少し懸念しておりました」
「何度か死に、名前を変え、顔や声も幾らか変えました。そう思われても無理はありません」
やや俗らしさを含ませた微笑の裏で、龍泉は急場凌ぎに拵えた策が成功した事を確信していた。
映姫は昔の龍泉を偶像として信仰している節があった。ならば、過去の面影を演出すれば話を聞くのではないかと考えて試してみれば、案の定である。
「ここまで御出になったからには、閻魔様はどうしても私に人間を救済させたいのですね」
「はい」
「しかし、私の心は最初から決まっています。私は人間を救いません」
「それは貴方の過去が理由ですか? 人間に殺められ、捨てられた。その程度の事は覚悟していた筈です。聖者は誰もが必ず害意に晒される。暗殺された者も人間の法に裁かれた者も少なくない。その事を、貴方は誰よりも理解していた筈です。あの地で暮らしていたのなら」
映姫は龍泉が故郷の人間達に何度襲われ、何度殺されたか、その全てを把握している。そして、その害意に触れても、人間達を何年も助け続けた龍泉の清廉さを知っている。
思わず奥歯を噛み締めそうになりながら、龍泉は悲哀を含んだ笑みを張り付かせた。
「確かに、覚悟はしていました。ですが、何度も繰り返されれば嫌気が差してきましてね。私が簡単に死に切れる存在ではなかった事も、それに拍車を掛けていました」
息を入れ、龍泉は悲哀の気配を消し飛ばす。
「ただ、それは理由のほんの一端にしか過ぎません。一番の理由は別にあります」
「人間に殺められる以上の理由があるのですか?」
「私は物心付く頃から襲われましたから、それで特別辛くなる事はありませんでした。この異端な価値観を植え付けられた事には今でも苦しむ時がありますが……」
龍泉の胸中に様々な想い人の姿が浮かび上がる。
恩師も友人も、そして娘でさえも龍泉は幻想郷で授かった。彼女達に対する愛情が、青春を失った痛みを優しく癒していく。
「幸い、幻想郷に来てからは恵まれております。やはり大した事ではありませんよ」
「……では、何故?」
映姫の追及に龍泉は諭すように微笑んだ。
「私は人間の救済自体を望んでいた訳ではありません。故郷を悪意で腐敗させる愚かな人間達を飼い殺そうとしていただけです」
傲りに満ちた発言。
しかし、映姫は龍泉の過去を知るばかりに、咄嗟に咎める事が出来ず、ただ俯くしかなかった。
殺され、恨んで、助けて、殺され。
その輪廻の中で延々と人間を助けるという矛盾を積み重ね、ただの一度も報われる事無く、生き地獄の果てに人間達から捨てられた。
その龍泉が人間を軽蔑する事を咎めるには、犠牲を許容した今の映姫は相応しくない。それを映姫自身は誰よりも理解していた。
「閻魔様、どうして否定されないのですか? たとえ私の事情を知っていたとしても、貴女は今の私の発言を咎めなければなりません。そうあるべき存在の筈です」
笑顔から一転し、龍泉は真剣な表情で映姫を叱咤する。
「私が人間から惨い仕打ちを受けていたとしても、人間の道理から見て、私は邪悪です。閻魔である貴女は私を糾弾しなさい。人間達に信仰されているなら、それは義務です」
「……義務で、貴方を殺そうとした人間達の肩を持たなければならないのですか?」
「肩を持てとは申しませんが、人間全てを救済したいのならば、彼等を善悪で区別すべきではありません。罪を見定め、過ちを裁き、罰を与え、善に目覚める機会を与える。それも救済です。閻魔だけが悪人すら救えるのです。疑問に思う点は何処にも――」
異変に気付き、龍泉は気不味そうに口を噤んだ。
映姫は泣いていた。
正しさを欠いた閻魔に、人殺しが説く救済論は酷く滲みすぎたのだ。
嗚咽を抑えるように、映姫は手で口を覆い隠す。
「私はもう、それが出来る程、正しくありません……」
指の隙間から聞こえる懺悔が痛ましく、龍泉は映姫から目を逸らした。
涙する閻魔に何と言葉を掛けたら良いのか分からず、ただ、罪悪感ばかりが背中を焦がしていく。
「……閻魔様。先の言葉の手前、もう信用性の無い話になりますが、私は人間全員を恨んでいませんし、暗愚だと罵る気もありません。理想や誇りを掲げた人間の美しさを私は知っています。未来へ残すべき大切な者達が世界の何処かに必ず存在している事を信じています」
諦めとも開き直りとも取れる仕草で龍泉は首を振った。
「けれども、私はもう、人間の救済は出来ません。何年か続けて、私は悟りました。私に人間の救済は決して成し得ないと」
龍泉は故郷を守る為に人間を超越した。映姫が望むように、人間達を救い続けた。
それでも、人間は変わらなかった。
だから、龍泉は断言する。
「人間達に救世主は不要なのです。彼等に必要なのは自らの手で行う革新であり、運命を委ねられる救世主は停滞を助長させるだけです」
「では、私達は間違っていたというのですか?」
面を上げた映姫は激しく動揺していた。
いずれ現れる救世主が人間達を苦しみから完全に解放する。それを信じて、映姫は彼等を果てしない時間の中で助け続けていたのだ。
映姫だけでは無い。仏教における地蔵だけでも無い。救世主伝説のある宗教の神々や精霊ならば、誰もが救世主の登場こそが人間達を救う方法だと信じているだろう。
「いいえ。私が信じる救済の道がそうあるだけの事です。時代が移ろい、多様な人種が存在する世界で、正解が一つであってはなりません」
龍泉は映姫の救済論を認めた上で、やはり首を横に振る。
「私の考えは閻魔様の考えとは離れ過ぎています。少数の善人や超人によって大衆が救済された世界より、私は大衆が個々の意思で他者を傷付けなくなった世界のほうが望ましい。その世界は閻魔様が考える理想の世界よりもずっと遠いものでしょう。それを実現するのに人間ではない私が関与する余地はありませんし、積極的に行動するだけの気力も残っていません」
「ですが、それなら、人間の善性を呼び起こすくらいならば……」
縋るように映姫は訊ねるが、それは龍泉の瞳に諦めと疲労を浮かばせるだけでしかなかった。
「もう、私は疲れ果てました。故郷が人間の悪意によって腐敗した時に、私の役目は失敗に終わったのです。人間に望まれ、人間を守る事が役目だった貴女には分からない事でしょう。人間に恨まれる事も、襲われる事も平気でした。しかし、故郷の山と水を穢し、人間同士で争い、人災を霊魂や精霊や獣による災いだと決め付ける人間達を……。私はどうして、友を脅かす人間達を……」
唇を噛み締め、だが、その気力も直ぐに失い、龍泉は生気を吐き出すかのように虚ろに口を開けた。
人間達に対する怒りと悲しみと憐れみが複雑に絡み合い、それらが痛みとなって龍泉を苛む。
数々の人外と親しかった龍泉にとって、人間は本当に守るべき相手ではなかった。祟りを恐れた人間が荒ぶる神を鎮める為に奉るのと同じく、人間の悪意によって故郷が腐敗する事を恐れた龍泉が、その悪意を封じる為に人間を助けていただけに過ぎなかった。
人類愛の無い救済。龍泉が辿った不幸も、その動機から考えれば因果応報と呼べるものかもしれない。
「……失礼。取り乱しました」
深い絶望の淵から龍泉は立ち戻り、その姿に平静さを纏わせる。だが、映姫は龍泉の絶望に巻き込まれたらしく、暗い表情をしていた。
「とにかく私は人間を助けません。私が愛せる人間なら助けますが、それだけです。私には悪人を救えないと証明された以上、無差別に全員を助けるような事はもうしません」
「貴方、なら……」
犠牲を生み出してまで到達した筈の希望が遠退いていく。
それでも、映姫は龍泉に希望を求め続けるしかなかった。そうしなければ、妖怪に殺められた人間の死が無意味なものと化してしまう。
じっと、映姫は龍泉の瞳を見た。
龍泉もまた、何も言わずに映姫の瞳を見詰め返した。
言葉は交わさなかった。
視線の中に、言葉よりも深く、言葉に出来ない感情が色濃く、込められていた。
やがて、映姫が動いた。
涙に震えながら、その手を龍泉へ伸ばした。
「……閻魔様」
慈悲深く、龍泉は胸先まで届いた手を見て、そして瞑目する。
「申し訳、ありません」
絶望的な宣告を聞き、映姫は手を力無く垂らし、腰を折り、床に伏せた。
伏せたまま、またも動かなくなった。
だが、龍泉が立ち上がって傍に寄り、慰めるように背を撫でると、映姫の体は一瞬跳ね、ただただ涙を流し続けた。
この優しさに身を委ねれば良いのか、それともこれが人間へ向けられない事を恨めば良いのか。映姫には何も分からず、龍泉の慈悲はこの場において、ひたすらに残酷に過ぎるものであった。
◆
時が経ち、映姫は身を起こした。
隣で片膝に屈み込む龍泉も映姫の動きに伴い、彼女の背中から手を離す。
「落ち着かれましたか?」
訊ねる龍泉の所作は慈愛に満ちており、それが人間へ向けられない事に映姫は未だに納得がいかなかった。
だが、事実だ。龍泉は決して人間を救済しない。今まで信じてきた希望を完全に打ち砕かれた感触が映姫の中に存在していた。
「貴方は優しい。こんなにも優しいのに、どうして……」
「それはもう、どうしても、としか」
映姫はそんな事を聞きたいのではなかった。
頭の奥で、怒りに似た感情が弾けた。
「人間に脅かされた事を恨むなら、どうして、貴方を利用しようとした私には優しいのですか! 私に優しくするのなら、それを人間へ向けてもいいではありませんか!」
眠る凛華への配慮も無ければ、龍泉へ助けを乞うには見合わない振る舞いであると自覚する余裕も残っていなかった。
龍泉は顔を顰めた。
一度凛華を眺め、彼女が眠り続けている事を確認すると、険しさの無い表情で応えた。
「それは閻魔様が理想へと進んでおられるからです。人間を救済するという願いで無ければ、及ぶ限りの力は尽くしていたでしょう」
「ならば、人間にとって災いに等しくなった貴方の死を願えば、貴方は死ぬのですか!」
「……災いをもたらさないように尽力致しますが、死ぬ事は致しません。私にも、私の愛する者を幸せにする権利があります。もしもここで暗殺を企てるのなら、閻魔様とて私の全霊を賭して殺めてみせましょう」
凄む龍泉に怒りは無く、映姫から距離を取りもしない。
脅迫ではなかった。説得だった。
道を踏み違えないよう、厳しく棘のある言葉で釘を刺されたのだ。
それを理解し、映姫は項垂れる。
行き過ぎた暴論を唱えた事を、今更になって後悔していた。
「もう、お帰りになっては如何でしょうか? 娘もどうにか落ち着きました。一度休まれて、少し御心を整理なさってから、また御越し下さい。人間の救済に協力する事は致しかねますが、悩み事の相談くらいでしたら、いつでも構いませんので」
若者の狭い見識ではあまり役に立たないでしょうが――。そう付け加えて、龍泉は映姫の振る舞いに気を悪くした様子も無く、苦笑した。
映姫は何も答えず、彼の提案を受け入れたかのように素直に立ち上がった。
無様な姿をこれ以上晒す事は恥ずべき事だった。
だが、立った先で、映姫は身を硬直させた。
帰って、職務に励み、救われなかった人間の過去を何度も見続け、閻魔としてその魂に判決を下す。
その日々の終わりが遥か未来に遠退いて、映姫は途方に暮れた。
これから先、何時になるのだろう。
何年、何十年、何百年。仏の教えでは何十億年も先の事だと言われている。それまで、不幸に落としてしまった一族の末裔を、ずっと看取り続けなければならないのか。
「……いや、です」
自分が犯した罪が膨れ上がり、最早、映姫だけでは抑える事が出来ないものとなっていた。
掛け違ってしまった些細な狂いが、全てを歪ませていた。
映姫は龍泉の腕を掴もうとし、しかし、不穏さを察知していた龍泉が身を翻らせた事で空振りに終わる。
警戒しつつ、龍泉は凛華を背にして屈み込んだ。
「何をなさるのですか」
「貴方を連れて行きます。救われなかった数々の魂を見れば、貴方も必ずや救済の意思に目覚める筈です」
「無理だと申し上げました。それに今の私に霊魂は見えませんし、仮に見えたところで何かが変わる筈もありません。死者と生者は違います。閻魔様が救いたいと願ったのは死者ではなく、今を生きる人々ではなかったのですか」
「彼等もかつては生きていた!」
全てを凌駕する霊気が吹き荒れた。
龍泉は凛華を庇う為、それを正面から受け止める。
過剰に神聖な力は、数多の性質を内包する龍泉にとってすら、身を蝕む毒であった。
嵐が過ぎた。
意識が朦朧とし、全身を麻痺が覆い、辛うじて倒れる事だけは耐え切った龍泉がその場に残された。
その龍泉に映姫が歩み寄る。
逃がさないよう、慎重に。
龍泉は動かない体で視線を巡らし、凛華の無事を確認する。
映姫が叫び散らした今も、凛華はあどけない顔で眠り続けている。
守り通せた事に、龍泉は唇を歪めた。
その不遜な笑みを中心に、体を縛り付ける霊気の残滓が徐々に剥がれ落ちていく。
だが、それは映姫から逃げるには、絶望的なまでに遅い回復だった。
今度こそ、映姫は龍泉の腕をしっかりと掴む。
「さあ、来なさい」
引き摺られる。
拒むように龍泉は畳に手の爪を立てるも、それは藺草を削り、跡を残していくだけである。
このまま連れて行かれて、どうなるのだろうか。
きっと、死者の魂を見るだけでは済まされない。それだけで何かが変わる筈も無いのだ。最悪、閻魔達に取り囲まれ、人々の救済を望むように洗脳を施される事も充分に有り得るのだろう。
怖くはない。龍泉も人間達に同じような事をしてきた。今の映姫よりは穏便な方法だが、死を望む彼等へ生を強いた事と、救済を拒む龍泉へ救済を強いる事に大した差など無いのだ。
けれども、怖くなくとも、一切良くなかった。
龍泉は映姫の脚を掴んだ。片腕と片足が封じられ、映姫の動きが格段に鈍る。
守るべき者を残している。
愛すべき者を待たせている。
人間から捨てられた龍泉を命懸けで守った。生きる価値を与えてくれた。その者達の為だけに、龍泉は生きる事を選んだのだ。
拙い足掻きは貧弱で、しかし、込められた意思は途方も無く重く、映姫は僅かに逡巡した。
――そして、その一瞬が運命の分かれ目だった。
「これはこれは、一体どうした事でしょう?」
数え切れない程の霊魂を引き連れた幽々子が、障子を開いた映姫の前に立ち塞がっていた。
そして何の前触れも無く、幽々子は淑やかに頭を下げる。
「とりあえず、先に謝りますわ。申し訳ありません」
「何を――」
疑問を口にしようとする映姫へ、問答無用に霊魂の大群が、いや、冥界に存在するほぼ全ての霊魂が押し寄せた。
突然の愚行に戸惑いながらも、映姫はそれを捌いていく。閻魔としての権能を振るえば、辛うじて対応出来る規模ではあったのだ。しかし、捕まえていた龍泉から意識を逸らしてしまった。
それが間違いだった。
図らずも自由を取り戻して、龍泉は映姫の後ろで這い上がる。そして、彼女の腰へ腕を回すと、力任せに押し倒した。
そこまでされれば、映姫でさえも為す術が無い。実体を持たない霊魂の海に映姫は呑まれ、溺れていく。捕らえていた龍泉もまた、同じように。
意識が薄れる。
体が軋む。
龍泉より先に霊魂の津波を受け止めた映姫が気を失い、龍泉の視界にも暗闇が迫る。
その中で、龍泉は映姫の傍に屈み、衣服の隙間を漁る幽々子を見た。しかし、その目的が分かる前に龍泉の意識は途切れ出す。
「凛華には、手を……」
潰される感覚に全身が包まれ、懸命に娘の助命を乞うた龍泉は、そこで意識を失った。
まだ話せた事が意外だったのか、幽々子は龍泉を見て少し目を見開き、やがて細める。
「ええ、良いでしょう。あなた方には感謝したいくらいですもの」
再び物色に戻った幽々子は間も無く目的の物を見付け、それを掲げた。
一点の曇りもない、澄みきった鏡面を持つ手鏡。
死者の生前を映し出す、閻魔の法具。浄玻璃の鏡。
「これで思い出せる。私の死から、私の生を取り戻せる。ああ、待ち遠しかった……」
記憶を取り戻せる可能性を示した凛華と、鏡を奪う為に隙を作り出した龍泉には感謝してもしきれない。
過去を知る紫に訊ねてもはぐらかされ、映姫に鏡を見る事を頼んでも拒まれていたが、これで漸く、幽々子は過去の記憶に辿り着けるのだ。
切望していた訳ではない。
しかし、飢えた時、手の届く場所に熟れた果実が垂れ下がっていれば、誰もが齧り付く衝動に襲われる。それと同じような事だ。そして、幽々子はそれを一切我慢しなかっただけなのだ。
「宴を始めましょう」
幽々子は過剰な霊魂を散らす。手元に残したのは白玉楼で幽々子に昔から仕えていた霊魂達。
「西行妖の下で華やかに」
枯れ木に見える妖怪桜。しかし、あれは生きている。この死の世界で、幽々子が亡霊として目覚めたその時から。
生き証人として最も長く幽々子の死を見守り続けた、あの桜の下でこそ祝われるべきなのだ。
「今日が私の、新しい誕生日よ」
朗らかに、戯れであるかのように、幽々子は鏡を抱いて宣言する。
死の克服を。生の奪還を。記憶の復活を。
紫と映姫が隠した、その理由も分からぬままに。




