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東方朧観簿  作者: 庶民
第二章
47/59

其の四十七、親子

 凛華の手を離さず、傍で見守る龍泉は子供の頃の記憶を辿っていた。

 風邪を引いた時、龍泉の伸ばした手を取る者は誰も居なかった。宙に浮かんだ手はふらふらと彷徨って、何も掴めぬまま、胸元に戻ってくるだけだった。

 誰にも移らなくて都合が良いと前向きに考え、一人で寝室の天井を何気無く眺め続け、それに飽きれば、自らの体温で温まった布団に頭まで潜り込み、命の温もりを思い出す。

 風邪の苦しみなど、些細なものだった。

 龍泉はただ、誰も居ない事だけが苦痛だった。


「……凛華」


 寂しさから、龍泉は娘の名前を呼んだ。

 つい、口から出てしまっていた。

 その小さな声でも聞こえたのか、凛華の手に力が籠る。もしかしたら、目覚めようとしているのかもしれない。


「起きなくていい。眠っていなさい」


 優しく握り返して、龍泉は呟いた。

 凛華の手から力が抜け、柔らかい、子供の手の感触が龍泉に訪れる。

 今は一人ではないと、その手が教えてくれた。

 目を閉じ、深く、息を吐く。

 眠っている子供にまで気を使わせては親として失格だろう。

 凛華の額に乗せた濡れ布巾を裏返し、龍泉はどうすれば凛華の心が癒せるのか思案する。


 閻魔の言う通り、生まれ変わりだと言って騙す事が最も簡単で、最も都合の良い手段ではあるだろう。

 しかし、それが最善だとは思えなかった。

 そうしたところで、凛華は前と同じ状態に戻るだけなのだ。

 龍泉を父と素直に呼べず、共に死んだ仲間達へ自分だけが生まれ変わった事を詫び続け、心に負担を強い続ける。

 その生活を続けて、今と同じように体調を崩して、それで凛華は幸せなのだろうか。

 今までも、幸せだったのだろうか。


「違うな」


 凛華に問う迄もなく、龍泉は確信していた。

 幸せである筈が無かった。

 傍に居られるだけで良いと凛華は言っていたが、今から思えば、それは諦めの言葉だったのかもしれない。

 傍に居る以上の事をきっと望んでいた筈なのに、不甲斐無い龍泉の姿と自分に課した責任の重さから、本来の願望をずっと我慢していたのだろう。

 子供らしい我が儘を龍泉は凛華から殆ど聞いていなかった。迷惑を掛けられた事も少ない。

 もっと早くに助けておくべきだったのだ。凛華の我慢には薄々気付いていたのに、どうして助けていなかったのか。紫に任せて、自分から何かをしなかったのは、何故だったのか。


「……助けたら良かった、か」


 頭に浮かんだ後悔に、龍泉は自嘲する。

 今まで、殺せば良かった、助けなければ良かった、という後悔は数限りなくしてきた龍泉だったが、今回のような後悔は初めてだった。


「助けて、裏切られるのが怖かったのか。あの化け物と同じように」


 薄の事を思い返す。

 故郷で目撃した龍泉の生きる希望と、よく似た存在。

 そして、幻想郷で龍泉の大切な者を虐殺した存在。

 命を取らず、それどころか、龍泉が薄を他の妖怪から守ってしまった事が巡りに巡って、メイド達は無惨にも彼女に食い殺された。

 凛華も同じような事をするのではないかと、杞憂とは知っていながら、龍泉は怯えていたのかもしれない。


 しかし、それは理由の一端でしかない事を龍泉は知っていた。

 殺せば良かった。助けなければ良かった。その後悔を無数に積み重ねた龍泉には、後悔すると知っていても、それだけで誰も助けずに居られる精神は持っていない。

 映姫が呼ぶように、かつての龍泉は聖人に近かった。今の龍泉はその残影とも呼べる存在である。当時の温もりは今でも龍泉の中で燻り続けており、少なくとも、後悔を怖れるという理由だけで、助けが必要な者を見捨てる真似は簡単には出来ないのだ。

 一番の原因は、やはり。


「……父と、呼ばれたくなかった」


 龍泉が愛する故郷から放逐される原因となった、龍泉の父親と呼ばれる人間。

 あらゆる手段を用いて、故郷で化け物と呼ばれた龍泉を殺害しようとした、故郷の英雄の一人。

 そして、愚かな人殺し。

 彼と同じ「父」という存在になる事を、龍泉は心の底から疎んでいた。




 龍泉の過去は如何様にも言い難い。

 映姫の言ったように聖人のようだったとも言えれば、龍泉が回顧するように化け物のようだったとも言える。ある者は家畜のようだと言い、ある者は悪魔のようだと、またある者は天使のようだと言い表すだろう。

 しかし、それらは一面に過ぎない。全て正しいが、それだけで龍泉を説明しきれているとは言えない。幾ら言葉を尽くしても、龍泉の過去を全て表現する事は最早不可能な域にまで達している。

 だが、これではない、というものなら一つ、確実なものを挙げられる。

 それは、普通の人間らしくない、という事だった。


 物心付いて暫くした龍泉を最初に殺めたのは、その父親だった。

 階段から突き落とし、蹲る幼い龍泉の体を踏み潰し、その後、壁へと蹴飛ばした。

 当時の龍泉は、テレビのほうがまだ重いような、小さな幼児だった。

 体の骨は砕けなかったものの、それらの衝撃で小さな心臓は停止した。

 死亡を確認した父親は居間へ向かい、酒を飲みつつ、テレビの電源を入れ、賑やかに笑った。

 辛うじて意識のあった龍泉は善悪も分からず、命の意味も分からず、死に行く体へ力を入れた。

 五歳を過ぎたばかりの子供に、夢も希望も、まだ形作られていない。

 それでも、死にたくないと思った。

 何も知らないまま、終わりたいと思わなかった。

 血混じりの痰を飲み、誰にも気付かれないように喘ぎ、龍泉は意識を研ぎ澄ませ、止まった鼓動を自らの意思で復活させた。


 この、人間の身に余る奇跡を起こした龍泉は。

 その日初めて、化け物と呼ばれた。



 それ以来、龍泉は命を狙われた。

 一人や二人では無い数の人間が、あらゆる手段で彼の殺害を試みた。

 そこまで人間達を突き動かした殺意の衝動が何処から生まれたのか、その明確な理由は不明だが、発端が彼の父親である事は明白だった。

 龍泉はその後、何度も殺められた。

 心臓死は言うに及ばず、脳死まで確認されたが、それでも龍泉は亡霊のように甦った。

 何度復活しても、しかし、龍泉の生存を望む者は居なかった。数々の奇跡も悍ましい怪異として扱われた。報復を企んでいると疑われ続けた。

 人間から愛情を受けず、友情も得られず、そんな龍泉の相手となる者は故郷の獣や自然。そして、人智では測れない霊妙の住人達だった。

 緑深く、急峻な彼の故郷に人間の科学や法は殆ど切り込めず、それらは弱々しくも多く存在し、人ならざる者とされた龍泉に優しく接していた。

 人間より、龍泉はそれらが好きだった。人間から離れ、それらと共に過ごす時間が自然と増えていった。

 だが、そんな龍泉にも、いつしか人間と関わる時が訪れた。


 年齢が十を越え、少しした頃であった。

 不意に虫の知らせを感じた龍泉は、潜り込んだ布団の中で目を覚ました。

 丑三つ時だった。辺りはしんと静まり返り、固いながらも厚みのある布団の中では光も音も届かない。

 しかし、獣と慣れ親しみ、彼等に近い耳の鋭さを持つ龍泉は、木材が軋む音を如実に感じ取っていた。

 また、誰かが殺しに来たのか。

 息を止めて布団の中で這いつくばり、龍泉は警戒を強めるが、暫く待っても誰も来ない。

 訝しみ、亀のように頭を出す。

 誰かが歩いている様子は無く、しかし、軋む音は続いている。

 その音は、どうやら上から聞こえているようだった。

 龍泉は慎重に体を返した。

 頭の上で、人間が天井から首を吊って、揺れていた。


 自殺と判断した龍泉は身を起こし、暗闇の中で揺れる人間を眺めていた。

 油断すれば命が奪われる世界で、その人間が自分から命を絶つ事をただ不思議に思った。

 見殺しにするかと考えたが、龍泉はこのままでは人殺しにさせられると思い、慌てて鋏を手にして、人間を支える紐を断ち切った。

 人間の体が落ち、重みを失った紐が反動で上下に跳ねた。

 龍泉は人間の顔を覗いた。

 生きていた。

 その時の安堵は、単に人を助けられた事から湧いたのか、見殺しにしたと言われない事から湧いたのか、判然とはしなかった。

 理由は何であれ、手に入れた少しばかりの安らぎに浸る中、自殺を図った者の唇が動き、掠れた声で人間は言葉を紡いだ。

 殺してくれ。

 感謝されるのかと期待した龍泉に、その言葉は泥のように汚ならしく浴びせかけられた。

 人間から人殺しになるように頼まれ、幼い龍泉はただ困惑し、やがては自殺という行為を憎んだ。

 生死を選ぶ贅沢を、命の責任を他者に委ねる愚行を、無力な龍泉は決して許せなかった。

 その夜、龍泉は人間の救済を誓った。

 殺し、死に。それらを龍泉の愛する故郷で連綿と繰り返す無知蒙昧な人間達をこの手で救わなければ、いずれ、その横暴さが人ならざる者の暮らす大地を道連れにすると確信したからだった。



 閻魔が尊いと呼ぶ龍泉の過去は、そこから始まった。

 孤立無援の救済だった。

 警察、政治家、教師。およそ人間を導くに相応しい職種の人間は、龍泉の言葉を戯言とするか、信じても被害が出るまで動こうとしなかった。

 誰かが死ねば動く。そう言われたように感じた龍泉は、宗教に頼る事を考えた。

 しかし、彼の故郷は精霊信仰の人間が多く、その解釈も独善なものばかりで、到底、龍泉と相容れるものではなかった。

 人間は頼れず、宗教も使えず。ならば、龍泉は自らがそれらを越える存在にならなければならないと思った。

 幸い、龍泉には数多の獣と霊妙の住人が傍らに居た。

 彼等の助力を受け、龍泉の精神は人間のそれとは異なる域に達し、人間を救うに足る存在と化した。

 心を読み、風を読み、予知にも等しい知覚能力を得た龍泉。獣も御霊も人間の救済に励む彼を支え、その磐石さは一部の人間達に彼を崇めさせる程のものだった。

 その体制を作り上げた事で、彼の故郷から死者は激減した。

 しかし、それは人間の更なる堕落を促しただけだった。

 龍泉は変わった。だが、人間は変わらなかった。

 龍泉が人間を救い続ければ、人間はそれを覆すように死を追い求めるようになった。

 依然にも増して人間は自他を問わず殺めようとし、龍泉の救済も辛うじて間に合うだけの暗黒に陥った。

 変わらず、龍泉も殺意の群れに晒され続けていた。獣と御霊も、人間を救うのではなく、龍泉を守る事に終始するようになり、それにも疲れ果てた者から、徐々に故郷を去っていった。

 遅蒔きながら、龍泉は遂に悟った。


 超越ではなかった。

 人間を救うには、革新させなければならなかった。

 生きる意思を、誇りを、尊さを、呼び起こさなければならなかったのだ。


 それらを得られないまま、人間に成りきれなかった龍泉に、それらを示せる筈が無かった。

 気付いたところで、手段を変える事も出来なかった。

 龍泉は人間の命を助け、彼等の生きる責任を全て背負わされていた。本当に守りたかった者を失い、枷にしかならない人間達が相手でも、龍泉は守護の義務を感じていた。今更、救われたいなら自ら変わるしかないと説く事は、無責任に思えていた。

 せめて、誰も死なない世界を続けようと、窮した龍泉は人間達へ次々と洗脳を施した。

 意思を蔑ろにする忌むべき行為ではあっても、最早、それをせずに人間を救う事は不可能だった。

 しかし、万全とはならず、龍泉が襲われた回数はいつしか百を越え、十余年と人間を守り続けた龍泉の魂も光を失っていった。

 人間の悪意を嘆くように山は枯れ、水は濁り、獣は飢え、守りたかった故郷は崩壊していく。



 そして、人間が死んだ。

 殺された。

 他ならぬ、龍泉の父親。最初に龍泉を化け物と呼び、最後まで龍泉を殺害しようとした人間。

 龍泉が疲れ果て、ふと油断した時を見逃さなかったように、それは人間を殺めた。

 死者が出た事で人間の司法が働き、彼が裁かれる姿を全て見届け、龍泉は思ってしまった。



 殺せば良かった。

 助けなければ良かった。

 そうすれば、この苦労は無かった。

 人間を守って、故郷を朽ちさせる事も無かったのだ。



 地に落ちる涙を、最後まで龍泉に付き添った獣が途中で受け止め、寄り添った。

 霊妙の住人が慰めるように嵐を呼び、龍泉はその中で風に守られ、救済に捧げた命の無意味さに暮れ、手に入れた多くの力を捨てた。

 無力に戻った龍泉は、もう大人を目前とした年齢であった。

 人間らしく生きる事の出来ない過去を刻まれ、それでも僅かばかりの友が残った事に感謝しながら、疲れを癒すように、龍泉は深い眠りに就いたのだった。





 嘆きを伝わらせない為に、龍泉は凛華から手を離した。

 知らせる訳には行かなかった。

 もう終わった事で、誰にもどうする事が出来ない以上、黙っておいたほうが良い事は明らかだった。

 それに、もしもこれが知られれば、凛華は永遠に龍泉を父と呼べなくなる。

 自らの苦痛を忌むあまり、子供に苦痛を与える。そんな事を龍泉はしたくかった。

 落ち着きを取り戻し、もう一度、龍泉は凛華の手を取る。


「呼んでいいよ、凛華。私の事をお父さんって、呼びたいなら呼んでくれていいんだ。慣れるように私のほうが頑張るから」


 龍泉は厳しさも辛さも無い、甘やかすような声音で話し出した。

 意識の無い凛華に聞こえる筈が無い。だからこそ、惜し気も無く、龍泉は親でしか言えない言葉を、親でしか使えない口調で使えていた。

 少しはにかんで、照れ臭そうに頭を掻いて、龍泉は続ける。


「それに、今までもたまに呼んでくれて、いつも辛かったけど、いつも嬉しかったんだ。いつか、その嬉しさが上回って、辛い顔を見せなくて済む日がきっと来ると思う。だから、我慢しなくていいんだ」


 龍泉は深く、凛華を我が子として愛していた。

 それを伝える事は、誰の子供にも成りきれなかった龍泉には至難の業だが、しかし、他の誰かでは絶対に不可能な事でもある。

 龍泉にしか、出来ない事なのだ。

 彼の表情が波を打ち、懸命に言葉を探り始める。

 話すべき言葉は、きっと龍泉が今までで一度も聞かされた事の無い類の言葉だ。

 そんな言葉を龍泉は思い付けるのか、自信は無かった。

 だが、告げる相手は凜華だ。

 龍泉に与えられた、掛け替えの無い命なのだ。

 彼は諦めなかった。

 苦しみながらもそれを見つけ出し、苦痛は唾と共に飲み、言葉だけを綺麗に磨き上げ、それから、龍泉は言った。


「凛華。お父さんに、我が儘を聞かせてよ」


 龍泉は自らの事を私でも僕でもなく、お父さんと、そう呼んだ。

 父という言葉が、龍泉を化け物と呼んで忌み嫌った一人の人間から、龍泉自身を指す言葉に変わっていく。

 同時に、龍泉の中で納得が広がっていく。

 そうだった。

 私ではなく、お父さんと名乗らなければ、そう呼んでくれる筈が無かったのだ。


 その言葉が、もしや聞こえていたのだろうか。

 凛華は願いを告げる為、眠りから覚めた。

 ずっと先送りにしてきた父娘の時間が、ようやく動き出そうとしていた。




 定まらない凛華の視線が天井の木目をなぞっていく。

 いつの間に、どうやって部屋へ戻ってきたのか、凛華は全く覚えていない。

 ただ、先程まで、いつも見る悪夢の中を彷徨っていた事だけは覚えている。

 凛華と同じ姿の誰かが、皆から可愛がられている様子をただ見るしかない夢。声を掛けても、冷たく無視される夢だ。

 もしも凛華が生まれ変わりでないのなら、その夢はいずれ訪れる未来の光景を写しているのだろう。

 いや、もしかしたら、その未来が必ず訪れると思っているから、その時になっても泣かずにいられるよう、何度も同じ夢を見て慣れようとしているのかもしれない。

 凛華も、その可能性が高い事は分かるようになっていた。

 閻魔から生まれ変わりではないと告げられたのでは、それを否定し続ける事には限界があった。


「……あの、何か、飲みたい物とかありますか?」


 少し言い淀み、龍泉は凛華の顔を覗きながらぎこちなく質問する。

 彼に手を握られている事に気付いて、凛華は何となく、その感触を確かめるように握り返してから、夢心地で答えた。


「いらない。……そばにいて」

「何も遠慮しなくていいんですよ」

「ううん。それだけしてくれたら、他に何もいらないから」


 一緒に居てくれる事だけが、凛華の心の底からの望みだった。

 決して遠慮ではなかった。

 凛華が望む一番の願いは、いつもそれだった。

 他の事は全て、それに比べれば取るに足らないものだった。


「なら、それが叶えば、凛華は次に何をしたいですか?」

「……次?」

「たった一つだけしか願わないなんて寂しいですよ。他にもきっとあるのでしょう?」


 無い訳では無い。けれども、凛華にとって、それらは素直に言える事ではなかった。

 言えばきっと、龍泉を困らせる。

 凛華は手を繋いだまま、顔を逸らした。


「言えないよ……」

「どうしてですか?」

「それも、言いたくない」


 言えば困らせる。言わない今も困らせている。

 凛華は早く、龍泉の意識が別の物事へ向かう事を祈ったが、それは無理な話だった。


「お願いですから聞かせて下さい。迷惑なんて思いませんから」

「やだ」


 凛華は逃げるように布団の中へ潜り込んだ。しかし、手は繋いだままである。

 その事がほんの少し、幼い記憶と重なって、龍泉は表情を綻ばせた。

 血の繋がりは無くとも、凛華を自分の子供だと強く意識し、彼は布団を少し捲り上げる。


「凛華」


 自分で付けた名前を愛おしく呼び、龍泉は腰回りに付けた形見のナイフを全て外して、同じ布団の中へ体を入れる。

 一人用の布団では逃げ場も無く、龍泉は繋いだままの手を辿るように凛華を引き寄せ、自らの腕で包み込んだ。

 特に抵抗する事なく、凛華はされるがままでいた。

 閻魔を刺した後の抱擁とは違う。ただ慈愛に満ちていて、痛ましさは何処にも無い。

 今度は凛華の前で聞こえるように、龍泉は言葉を変えた。


「もういいよ、凛華。お父さんもお父さんになるから、他人みたいな遠慮はしなくていい」


 求めていた言葉を耳にしながら、凛華は無言で、龍泉の体に身を寄せた。

 心の中は複雑だった。

 凛華にとって、生まれ変わりである事と、龍泉の娘である事は、必ずしも一致しない。両立が可能な要素だが、この二つの価値は龍泉には違いすぎる。だから、どちらでもあると認めてくれる事は無理だと分かっていた。


「……認めて、くれないんだね。生まれ変わりだって」


 顔を龍泉の胸に押し付けながら、凛華は呟いた。

 今日まで凛華は生まれ変わりであると自負して生きてきた。

 自分一人が生き返った事に負い目を感じ、記憶にある死の恐怖へ怯えても、それらから目を背けず、責任を果たそうとして生きてきた。

 この命は、龍泉へ捧げる為、彼を幸せへ導く為に取り戻されたのだと、そう信じていた。


「何が、違ったのかな。何が、足りなかったのかな。私、いい加減な気持ちじゃなかったのに……」

「……全部、足りていたよ」


 龍泉は凛華の頭を撫でる。


「姿も声も性格も、凛華は生まれ変わりと名乗るには充分なくらい似ていた。違うところなんて、私の事をお父さんと呼びたがるところだけ。それすらも多分、家族に憧れていたルチェも同じ事をしたがっていたのだと思う」

「閻魔様に言われたから、生まれ変わりじゃないって考えたの?」

「それもある。でも、それだけじゃないよ」


 龍泉は少し体を離し、凛華の頬に手を当て顔を向けさせると、諭すように言った。


「生まれ変わりだと信じて、一生懸命頑張って。だけど、それで苦しむ姿を私は見たくなかったんだ」

「なら、辛い顔やめる。だから、生まれ変わりだって認めて。私は龍泉さんの嬉しそうな顔を見たい」


 生まれ変わりである事を信じ、喜んだ龍泉の笑顔は、龍泉が父である事を始めても、いまだに凛華を強く縛り続けていた。

 娘である事より、生まれ変わりである事のほうが龍泉を喜ばせていると凛華は気付いていた。

 娘になって、今までよりも愛されなくなる事が怖かった。


「駄目だよ、凛華。姿や表情の問題じゃないんだ。そんな事は関係無しに分かる。我慢したって、お父さんには分かるんだ」

「龍泉さんが私の辛い顔を見たくないように、私だって龍泉さんの辛い顔を見たくない」

「お父さんと呼びなさい」

「やだ。だって、それが強がりな事、私にも分かるもん。自分で言ってるのに少し辛そうな顔してる。本当は嫌なのに、私の為に我慢してくれているって分かるから」


 気付かれていたと知り、龍泉は表情を隠し、真面目な顔付きへと切り替える。

 凛華は儚げに笑い掛けた。


「傷付くのは私でいいよ。苦しむのも。私が我慢するから、龍泉さんは我慢しなくていい」

「……凛華。その我慢は駄目だ。進歩も救済も無い、単なる自傷行為だ」

「なら、どうしたらいいの?」


 お父さんと呼べば、龍泉は傷付く。

 子供になれば、龍泉は傷付く。


「私は絶対に龍泉さんを苦しめなければならないの?」


 生まれ変わりだとして、今まで通りにしていけばいい。閻魔にしか気付かれなかったのだから、平穏に暮らしていれば誰も気付かない。

 それの何処が悪いのか。


「私が生まれ変わりでいいよ。それで誰が困るの? ルチェ? それは昔の私なんだよ?」


 龍泉は凛華との認識の違いに、ここで初めて気が付いた。

 生まれ変わりと名乗って、その居場所を奪う。それは許されない行為だと説いたところで、記憶さえも共有する凛華がルチェと別存在である事を認識するには、実際に二人が対面でもしない限り不可能なのだ。

 だが、龍泉にとって、凛華が生まれ変わりを名乗っていた事の是非は追及する程の問題ではなかった。凛華の身に降りかかった様々な事情を考えれば当然の行動なのだ。そして、その中でも最大の要因である龍泉に、凛華を責め立てる権利がある筈も無い。

 でも、やはり、このままでは駄目だ。

 少し前まで、凛華は龍泉の事を父と呼びたがっていた。混乱していた時には、実際に龍泉をお父さんと直接呼んでさえいたのだ。

 今後も同じように凛華を困らせる出来事は発生するだろう。その時、素直に龍泉の事を呼びたいように呼び、助けを求められるようにしていなければ、いつか凛華の心は壊れてしまう。

 そして、かつての龍泉のように、全てを失ってしまう。

 それだけは、駄目なのだ。


「凛華。君が私の娘になっても、今までよりも大切にしないなんて事は有り得ないよ」


 凛華は龍泉の顔を見上げ、しかし、よく確認もしないまま、直ぐに俯いた。


「……嘘つき」

「いいや、嘘じゃない」


 龍泉は再び凛華を抱き寄せる。

 苦しんでなどいない。

 龍泉は安らかな表情をしている。


「凛華はどうして、私を助けようとしてくれるんだい?」

「龍泉さんに生き返らせてもらったから」

「生き返らせたり、生まれさせたりしたから、それだけで私を助けようとしてくれているのかな? それなら、凛華は嫌いな人に助けられても、同じような事をするのかい?」

「…………」

「分からないよね。その時になっても嫌いなままなのかにもよるだろうし。でも、誰かを助けたいという気持ちは、絶対に好きから生まれると私は思うんだよ。それは必ずしも、その誰かが好きだから助けたいという訳では無いのだけどね」


 故郷が好きだから人間を助けた龍泉のように、例外は確かに存在する。お金が好きだから、名声が好きだから、自分が好きだから。そういった理由で誰かを助ける者も居るだろう。

 だから、龍泉は確かめる。


「凛華。君は私の事が好きかい?」


 疑いの音色は無く、それはただ、全幅の信頼を置いた上での、純粋な確認だった。

 慌てる事も、恥じらう事も無く、凛華は自然に答える。


「うん、好き」


 言った後で、それが真実である事を示すように、凛華は龍泉の体に抱き付いた。

 そして龍泉もまた、凛華の背中を優しく擦る。


「ありがとう。私も凛華の事が好きだよ」


 好意の宛先を図りかねた凛華は腕を緩め、反対に龍泉は力強く言葉を重ねる。


「生まれ変わりとしてじゃない。立場なんか関係無く、私は凛華の事が好きなんだ。君の親になれた事を嬉しく思っている」

「でも……」

「本当なんだ」


 親の愛情を言葉で証明する事は難しく、行動で証明する事も長い年月が必要だと、紫は言っていた。

 その通りである事を実感しても、龍泉はただ、言葉を繰り返すしかない。


「初めて出会った時、凛華が私の事を好きだと言ってくれて嬉しかった。私でも、誰かの親になれた事が本当に嬉しかったんだよ」


 紅魔館で今と同じように、龍泉に抱き付いた時の事を凛華は思い出す。

 それはルチェの記憶ではない。紛れも無く、凛華自身が得た、一番最初の思い出だ。

 急いで、凛華は龍泉の胸に顔を隠した。

 どれだけ、龍泉を父と呼びたかったのか。諦められないからこそ忘れてしまいたかったのに、その願いも一緒に呼び覚ましてしまった。


「凛華」


 優しい呼び掛けが、凛華の心に深く沁みていく。


「もう、我慢しなくていい」

「……本当に?」


 見上げる凛華の瞳は潤んでいた。

 甘える事を戒め続けた幼心が、本来の姿を覗かせていた。


「お父さんって、そう呼んでいいの?」

「そうだよ。ほら、よく見てごらん」


 龍泉は凛華の涙を指で掬い取ると、布団の中に篭る彼女を引き上げ、真正面から言った。


「君のお父さんは、ここに居るよ」


 そこには、憂いも悔いも無い、龍泉の笑顔があった。

 ずっと、凛華が待ち望んでいた表情があった。

 凛華の眼から拭われた筈の涙が溢れ出し、その光景を覆い隠そうとする。

 止めようと凛華は目を擦り、しかし、龍泉がその手を掴み止めた。


「凛華が私を呼んでくれたら、いつでも笑顔で応えるから。これが最初で最後じゃないんだ。だから、思う存分泣きなさい。我慢していた事、全部吐き出しなさい」


 優しさに導かれ、凛華の頬に涙が伝った。

 表情を歪めながら、凛華は龍泉の首に抱き付く。

 そこで初めて、凛華は龍泉の娘として泣いた。子供として当然のように、親へ縋り付いて泣いた。

 辛かった。苦しかった。

 涙の中で途切れ途切れに訴える凛華に心を痛めながら、龍泉もまた、親として当然のように、子供の背中を優しく擦り続けていた。

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