其の四十六、正否
早足で妖夢が先導し、閻魔もその事を無闇に詮索しないまま、黙々と付いていく。
しかし、妖夢は唐突に足を止めた。勢い余って肩にぶつかる閻魔を抑えつつ、慎重に数歩だけ後ろへと下がる。
「どうしました?」
「あの、そこに……」
閻魔が丁寧に訊ねると、困惑しながらも妖夢は目の前の床を指し示した。
そこには落とし穴のように大きなスキマが口を開けていた。
そのスキマが起き上がり、垂直になって妖夢達の行く手を塞ぐと、その中から紫が悠然と姿を現した。
妨害の意図がある事は明らかだった。
顔を険しく変化させた閻魔が妖夢を押し退け、紫と相対する。
「またしても邪魔をしますか」
「愚問ですわ」
静かに両者は憤りを滲ませる。
妖夢はただ戦々恐々としていた。
ここで暴れられでもしたら、妖夢にはどうする事も出来ない。無事に話が纏まる事を祈りながら見守っていると、閻魔が溜め息を吐いた。
「全く遺憾に思います。私の邪魔をしても貴女には何の益もありませんよ」
「無益かどうかを決めるのは私がしますわ。それに、私は伝言を伝えに出向いたまで。事を荒立てる気はありませんし、手短に済ませましょう」
紫が妖夢を一瞥し、閻魔へ戻す。
「本日は都合が悪い為、日を改めて頂きたいとの事です。閻魔様は御存知無いかもしれませんが、彼の娘が風邪を引いてしまい、それが治るまでは看病に専念したいのだそうで」
「……ああ、そういう事ですか」
凛華が閻魔を刺した事が妖夢達に伝わると、白玉楼から追い出されかねない。その為、凛華には部屋から出ていないというアリバイが必要なのだ。
紫の工作により、物理的な痕跡は何一つ残っていない。後は閻魔が隠せば成立する事だ。
「しかし、私も多忙な身です。いつまた時間を取れるか分からない以上、出来れば今日中に話をしておかなければなりません」
その事情を汲んだ上で、閻魔は答えた。
嘘は言っていない。今日が無理なら今度は数ヵ月先となるかもしれないのだ。首尾よく説得し、龍泉を聖人にする事が出来たのなら、その間に何人でも救済するだろう。その機会を見逃す気は毛頭無い。
「伝言ならば私が承りましょう。直接話すのは御遠慮願いますわ」
「別に少し離れるだけなら大丈夫だと思いますが。その間は貴女が看病していれば問題ありませんよ。龍泉の頼みで仕方無く私への伝言を引き受けたのでしょう。それに比べたら、子供の看病なんて喜んでやりたいくらいな筈です」
「否定はしませんわ」
小さなスキマを開き、紫はそこから扇子を取り出して口許を隠す。
即席の仮面の裏で、確かな憤怒が刻まれた。
「しかし、閻魔様。凛華は妖精とは言え、龍泉の子供である事を望んでいます。龍泉もまた、凛華の親でありたいと望んでいます。それに水を差す真似は控えて頂けますか?」
「親でありたいのなら、ますます私の話を聞いてもらわなければ。今の龍泉では良い世話係にはなれても、良い親には程遠いのですから」
「それも貴女が決める事ではないでしょう」
「決めている訳ではありません。ただの事実です。彼が親となる事へ苦労している理由を知らないのですか」
「ええ。どうでもいいですもの」
過去が原因で苦労している事は知っている。しかし、龍泉は過去を言い訳に使わず、真剣に現実と向き合う事を選んだ。
それなら紫がわざわざ龍泉の過去を知る必要は無い。知ったところで龍泉に逃げ道を与えてしまうだけだ。それは龍泉が本当に諦め、一人ではどうにも出来なくなった時でいい。
「……そう。信用されていないんですね」
ただ、閻魔はその関係性を冷たく評する。
秘密を許し合う事は強い信頼を意味する場合もあるが、本来なら閻魔が評する通りのものが大半だろう。だから、彼女がそう判断しても仕方無い事ではある。
しかし、これこそ紫が閻魔を嫌う理由だった。
閻魔は自分の価値観が正しいと信じ切っている。どのような状況であろうと普遍的で尋常な価値観を示し、そうでないものを安易に無視する。
正確に死者の罪を測る為、不動の理で在り続けなければならない。それが閻魔の在り方なのだ。たとえ、その正しさが誰かを傷付ける事になろうとも。
閻魔は改めて告げる。
「紫、そこを通しなさい。龍泉には再び聖人となってもらいます。彼ならば清濁併せ飲む人格者となり、凛華を正しく導き、それどころか妖怪と人間の仲介役として幻想郷へ大いに貢献してくれる事でしょう。勿論、先の交渉にも応じます。それで何の問題も無い筈です」
「駄目ですわ。問題しかありません」
「何処が?」
質問は形だけ。
答えても意見は変えられない。
問答するだけの遊び心も失い、紫は最後通牒を突き付けた。
「二度は言いません。貴女が龍泉と話したいなら選択肢はただ二つ。私に伝言を頼んで去るか、日取りを改めるかだけです」
「もう一つ、邪魔な貴女を倒すという選択肢がありますが」
物騒な事を口走る閻魔の後ろで、今まで無言の警戒を続けていた妖夢は腰に提げた刀へ手を掛ける。
どちらを倒すべきか思案し、しかし、途中で無意味さを悟った妖夢は静かに手を離した。
紫は斬られても容易く治し、閻魔は平然と耐えてしまう。二人の前では鍛え上げた剣術は無力なのだ。
妖夢とは違い、紫は身構える事すらしなかった。
「無駄ですわ。私を倒せば龍泉は耳を貸しません」
「ふむ、それは何故でしょう? 隠し事をされている貴女に比べれば私の方が彼を理解していますし、信用もされると思いますが」
甚だしい勘違いだ。しかし、言うだけ無駄だろう。
呆れて話さずにいると、閻魔は肩を落とした。
「ハッタリですか。もう結構です。黙っていなさい」
閻魔が紫に歩み寄る。
それを妖夢は後ろから緊迫した面持ちで見詰めていた。
閻魔も紫も戦いに構えている様子はない。それが一層不気味だった。
閻魔はそのまま歩き続け、紫の隣を何事も無く通り過ぎた。立ち塞がるスキマに腕を潜り込ませ、感触を確かめるように何度も手を開閉させると、僅かに思案する。
そして、腕を引き抜き、扉を叩くように軽く手を振る。すると、スキマは閻魔の侵入を完全に阻んだ。
「ふむ、こんなところでしょうか」
閻魔は手を擦りながら踵を返す。
僅かに震えている紫の肩へ、無遠慮に知らせた。
「この辺り一帯の空間を不変のものと定めておきました。これで新しいスキマは暫く開けません。既に開いている場所は通れませんが、一本道しかないという事は多分無いでしょう」
わざとらしさが癪に触るが、紫は耐えた。
それを無視し、閻魔は来た道を戻り始める。案内はもう必要無いのか、追おうとする妖夢の気遣いは手の仕草だけで断った。
恐らく、龍泉の居所に憶測が立ったのだろう。龍泉は近付いてくる閻魔の動きをほぼ完全に察知していた。同じ事が閻魔に出来ても不思議ではない。
「待ちなさい」
そうであれば、黙って見逃す訳にはいかなかった。
境界は操れなくとも、妖力ならば不自由なく扱えるのだ。
一呼吸の間に紫は閻魔の行く手を阻む結界を張り、それを無数に重ね合わせて足止めする。
閻魔は首だけを振り返らせた。
「相変わらず、術の扱いは巧みですね。霊夢に教えただけの事はあります」
「褒められても嬉しくありませんわ」
「かつては博麗の巫女を幻想郷の単なる仕組みの一つとしていたのに、どういう訳か、ここ五十年程前から協力者として信頼するようになりましたね。今代の巫女には術まで教えて」
「……今までの会話とは全く関係無いと思いますけれど、それが何だと言うのかしら」
「術の師匠としてでも一応は人間を育てたのなら、私の行動が完全に間違っている訳ではない事に気付くと思いますけどね」
閻魔は紫から顔を背け、結界に手を当てる。
「そろそろ、次代の巫女を探す時期でしょうか。霊夢は天才ですが、十年と少しで出来た事を突き詰めればスペルカードルールの普及のみ。これからも、きっとそれだけでしょう。彼女には人間や妖怪の意識を改革する意思が無いのですから」
その手がするりと結界を透過し、肩も、頭も向こう側へと抜けていく。
たとえ目に見え、言葉を交わせても、閻魔とは人間や妖怪とは違う高みに位置する存在。頑丈であっても、ただ妖力を張り巡らしただけの結界では止められない。
「霊夢は大役を果たしました。しかし、彼女の時代もいずれ終わります。天才ですら成し得なかった、妖怪と人間の共存共栄。私はそれを見たいのです」
「幻想郷は妖怪の為の世界。人間は我々が存続する為に不可欠な存在。その中で人間がどうしようとも勝手ですが、共に栄える事だけは不可能ですわ」
妖力の壁越しに、映姫は紫の顔を確認する。
悔しげに表情を歪めているが、挑発の意思は感じられない。今の発言は本心から出たものだろう。
昔と同じだった。
幻想郷を拓く紫。幻想郷を担う映姫。
最初は同じ理想だと信じ、行動を共にした事もある。
幻想郷は衰退する妖怪達の為に創られた閉じた世界だ。人間の畏怖を糧とする妖怪は数の限られた人間を殺す事は出来ない。即ち、幻想郷は人間の安住の地ともなる筈だった。
しかし、そうはならなかった。
襲わない妖怪を人間は恐れなくなった。それが原因で妖怪達の衰退が始まった瞬間、彼等は生き残る為に人間を襲ったのだ。
その悲劇を繰り返さないようにスペルカードルールが普及されたが、全ての妖怪がそれに従った訳ではない。稀に訪れる外来人の犠牲が無ければ、仮初の平穏すら保てていない。
「……紫。幻想郷はもう、創始者である貴女個人の理想郷ではありません。幻想郷は全てを受け入れる。それなのに人間は妖怪に脅かされ続けている。始まりから見て、私は思ったのですよ。あの世界には全てを受け入れる者が必要なのだと。
何者にも左右されない霊夢では駄目です。私でも駄目です。そして、今の龍泉でも。それを成し得るのは、かつての龍泉ただ一人」
映姫には、結果として人間の屠殺場と化した幻想郷を創り上げてしまった罪の意識がある。どう足掻いても償い切れるものではなく、出来る事も不幸な霊魂に温情ある判決を下す程度だった。
しかし、その日々が終わるのかもしれないのだ。たった一人が善性を取り戻すだけで。
「これは私の贖い。邪魔立てする者は何人たりとて許されません」
再び振り向いた時、地蔵らしい温厚さは残っていなかった。
唇を結び、険しい目付きで周囲を威嚇する。
今の映姫は、まさに閻魔として相応しい姿であった。
「愚かな妖怪よ。今一度、閻魔の威光を身を以て知りなさい」
裁きが下される。
映姫の体から霊気が溢れ出し、白玉楼を震わせ、その余波だけで紫が作り上げた結界に罅を走らせた。
だが、これはまだ攻撃ではない。
映姫の腕が高々と掲げられる。
その背後で莫大な霊気がうねり、景色を歪ませる。
弾幕へと洗練するまでもない。
腕を振り下ろし、ありのままの霊気を紫目掛けて叩き付ける。
二人の間にあった結界は意味を為さず、暴風雨のような霊気の前に拮抗する事無く砕け去った。
単純な力比べでは太刀打ち出来ない事は明白。新たなスキマを開けない今では逸らす事も出来ない。逃げる事も既に不可能だ。
紫は自らの境界を操り、耐える事に賭けた。
しかし、それより早く妖夢が紫の前へと躍り出た。
死体の入った袋を床に転がし、背中と腰に帯びた二本の鞘から刀を素早く引き抜き、迫り来る霊気に構える。
「危険よ、下がりなさい!」
紫の警告を聞かず、妖夢は手に力を込めた。
第三者が紛れ込んだ程度で映姫は攻撃を止めようとしない。自らの正義を粛々と執行し続ける。
そして、刀の切っ先が霊気の波動に触れた。
凄まじい手応えが妖夢の両腕に伝わる。
莫大な霊気の一端が左右に分かれ、妖夢の両頬を掠めて掻き消える。
俄には信じ難い現象であった。
しかし、その離れ業を達成した妖夢の顔には焦りと痛みが色濃く浮き出ていた。
映姫の放った霊気は怒りを表すかのようにあらゆる部分が複雑に荒れ狂っており、刃筋を立てる事すら困難を極めている。物理的な力も尋常なものではなく、現に妖夢は最初の接触で左手首を挫かれ、殆ど力を入れられなくなっていた。
「斬れない、ものなど……!」
言葉で自らを奮い立たせ、妖夢は左手に持っていた刀を床に落とし、空いた左手を右手に添えた。
震える太刀筋が安定する。
だが、妖夢と映姫。この二人の間にある実力は、あまりにも掛け離れ過ぎていた。
「妖夢。これは裁きです。あなたが何をしようと意味はありません。手を引けば不問に処しましょう」
正視する事も困難な霊気の嵐の向こう側から映姫は諭してくる。
妖夢には言葉を発する余裕は無いが、明確に首を振った。
「そうですか。なら、仕方ありません」
名残惜しむ声に続いて、霊気の動きが変容する。
ぶつけるだけの直情的なものから、暗い技術が練り込まれたものへと。
右に左に揺れ動き、捻り上げ、叩き伏せ。
やがて、妖夢の腕から悍ましく湿った音が聞こえた。
幾星霜と剣技を磨き続けた達人の、その両腕の骨が折れ、腱が千切れた音だ。
激痛と喪失が妖夢の体を貫く。
武人としての矜持を守る為に悲鳴は噛み潰すも、呼吸が震えるのだけは誤魔化し切れなかった。
「妖夢!」
紫が呼び掛ける。今の妖夢に悲しみと痛みに蹲る時間は用意されていなかった。
腕から零れ落ちた刀が目の前で霊気の嵐に巻き上げられ、頭上の天井に突き刺さる。
妖夢の体も霊気に呑まれ、勢い良く後方へ吹き飛ばされた。
壁と化したスキマへ叩き付けられる前に紫が妖夢を受け止め、しかし、追い付いた霊気が即座に二人纏めて吹き飛ばす。紫と妖夢は僅かに浮遊した後、廊下を激しく跳ね転がった。
「っ、妖夢! 大丈夫!?」
回転が止まると直ぐ、紫は腕の中の妖夢の様子がおかしい事に気付いた。
床に叩き付けられる衝撃は全て、紫が体を張って庇っていた。だから、その痛みが原因ではない。
「紫様。私の、指が……」
歯を食い縛りながら、妖夢は両手を持ち上げた。
腕には濃い痣が浮かび、十本の指全てが小刻みに痙攣している。
紫はそれだけで察した。
怪我の状態だけではない。この怪我が妖夢からどれだけのものを奪ったかという事にも。
紫は優しく、妖夢の手に自らの手を重ねる。
「分かった。もう動かさなくていいわ。直ぐに繋いであげる」
「繋いで頂いても、剣の腕、きっと落ちてますよね?」
「……そうね。多分だけど」
付け足された一言が、いっそ残酷なまでに響いた。
多分ではない。絶対だ。
骨が折れただけなら良かった。しかし、腱が千切れていては、紫では元には戻せない。動かせるようには出来ても、違和感は必ず残ってしまう。
乾いた声で妖夢は笑った。
「はは……。それなら、また頑張りますよ。私が誇れるの、そのくらいですから」
「……妖夢」
「そんなに哀れんでくれなくても、私は大丈夫です。力不足って分かってました。危ないって分かってました。怪我がこんなに酷いとは思いませんでしたけど、それで泣き喚いたりなんて事、しませんよ」
「そう……。強いわね」
紫が治療を始める。妖夢の手首から肘に掛け、強く触れ過ぎないように気を付けながら表面を撫でた。
千切れた時に比べると弱いが、炙られるような痛みが妖夢の腕の中に生じる。
心の中で紫は詫びた。
もっと妖夢の事を詳しく知っていれば、治療中の痛みも治療後の不自由も軽減する事が出来たのだから。
「……危険だと知って、どうして割り込んだのですか?」
紫達へ近付きながら、映姫が訊ねた。
治療を続けつつ、紫は妖夢を抱えてスキマの近くまで後退する。
映姫はその場で立ち止まった。
「心配せずとも、これ以上の危害を加えるつもりはありません。閻魔は力の乱用を戒められていますから。無理をすれば使えますが、それで脅迫する気もありません」
「信用出来ないわ」
「最初から私を信用しない紫には話していませんよ。――それで、何が理由だったのですか、妖夢。あなたから糾弾されているように感じましたが」
映姫の眼差しが疑惑に染まる。
「もしや、妖夢も私の理想を否定するのですか。里の人間も妖怪と同じように幻想郷で自由に暮らして何が悪いのですか。彼等の殆どは幻想郷が成り立つ以前から暮らしていた民の子孫。先祖から受け継いだ土地を他所から集まった妖怪に分割され、その見返りとして与えられた筈の平穏は非常に不安定なもの。このあまりに不公平な体制を正そうとする私の何が間違っているというのです」
正しいと信じる理想を映姫は何度も主張する。
必要ならば、何千何万回とでも繰り返す事だろう。
「私は幻想郷の地蔵でした。幻想郷の民は私の子供も同然。彼等が守られる世界を完成させる事が今でも私の理想です」
「……閻魔のやる事ではないわ。それがしたかったなら、地蔵を続けていれば良かったのよ」
「生きる者より死ぬ者が増えれば、地蔵よりも閻魔のほうが救済に向いている事は自明の理です。この土地に妖怪が跋扈し過ぎなければ、私も地蔵のままで居たかもしれません」
紫に怒りを向けつつ、映姫はそれを堪えるように拳を握る。
「妖怪を思う気持ちが分からない訳ではありませんよ。彼等を救う為に幻想郷を作り上げた事だけは尊敬にさえ値します。ただ、人間が冷遇される今の幻想郷を私は見過ごせません」
だから、幻想郷の人間の為に龍泉を利用する。
人間を自殺に追い込んだ龍泉を、人間を救う為に用いる。
それは、おかしい事ではないか。
映姫の主張が不条理に満ちている事に、紫は気付いた。
「龍泉は里の人間を既に一人殺めている。閻魔である貴女がそれを知らない筈が無い。なのに、貴女は龍泉に人間の救済を期待している。……矛盾しているわ」
「それだけの価値があるのです。彼の過去は地蔵や鎮守神と同等の慈悲に彩られていました。当時の彼の意思が蘇れば、幻想郷には誰もが成し得なかった未来が訪れます。それに優るものなどありません」
優るものは無い。
一体、どの口がそれを言っているのだろう。
紫は絶句し、治療の終わった妖夢を下ろして立ち上がる。
「映姫。私には、大切な者を殺めた妖怪に期待を掛ける、その気持ちが分からないわ。一人の死と一人の功績を天秤に掛け、後者を選んだ貴女の判断は多分、私が思っているよりも合理的でしょう。けれど、正しくない。比べるべきではないのよ。分からないまま、何もせず、曖昧なままにしておかなければならない事だったのよ」
人間を重んじる。それが紫の知る映姫だ。かつての紫が手を結んだ、心根の優しい地蔵なのだ。
断じて、人の世の為に、人殺しを優先するような性格ではない。
「貴女は殺人を認めた。人間を傷付ける事を許した。幾ら崇高な目的を掲げても、それを犠牲で汚す事に厭わなくなった貴女に誰も応えたりなんかしないわ」
「人間を殺したのは今の彼。私が待ち望んでいるのは過去の彼。二人は違います」
「同じよ」
紫が堂々とした態度で阻む。
「私は認めない。人間を犠牲にした人間の為の世界。幻想郷をそんな矛盾に満ちた世界にはさせない」
その時初めて、映姫に後悔の感情が浮かんだ。
彼女も、本当は分かっていたのだ。
自分の行動がどれだけ間違っているのか。そんな事はずっと前から気付いていた。
「――それでも、犠牲を生み出し続け、何一つ改善される気配の無い今の幻想郷よりはずっといい」
天井に突き刺さった刀を映姫は引き抜いた。
そして、一切の躊躇いもなく、紫の喉元へと突き付ける。
「人間を救済する。それが絶対的な正義である以上、一つや二つの犠牲に心を痛める意味もありません」
「その犠牲に里の人間の命を含み、たった今、妖夢の剣術も奪い、その次は私の命かしら? それが終われば、今度は龍泉の未来と、凛華が縋り付く幻想を壊しに行くのでしょう? で、その次は?」
犠牲は積み重なる。已む無く生まれた犠牲ではなく、許容していた犠牲であれば、永遠に続くのだ。
映姫は目許を陰らせたが、直ぐに鋭い目付きで躙り寄り、刀の切っ先を紫の喉へ浅く食い込ませる。
痛みはない。そんな些事に囚われるには、紫に生まれた感情はあまりに巨大だった。
紫はただ、知りながらも過ちを重ねていこうとする、かつての友を許せなかった。
「いいわ、やりなさい。そうすれば貴女は永遠に悔い改める機会を失うだけよ。そして死者に正しい教えを説く度に、その正しさが貴女自身を苛み続ける。覚悟しなさい、四季映姫。ここで止めなければ、貴女は生きたまま地獄へ堕ちる事になる」
不遜な説教に映姫は奥歯を軋ませる。
紫は刀の峰を掴まなければ、刃に身を沈めもしなかった。ただ沈黙をもって、映姫に選択を強いていた。
最早、二人の間で交わす言葉は尽きている。
残された選択は、進むか、退くか。それだけだった。
「閻魔様」
どうにか動くようになった手で両腕の痣を擦りながら、妖夢が弱々しく声を発した。
「間違っているのは、閻魔様のほうです」
「……何がですか。何処だと言うのですか」
紫にのみ向けられていた怒りの矛先が妖夢にも向かう。
理不尽な振る舞いだと理解していても、それを正すだけの余裕は既に残っていなかった。
滾る神威に妖夢は身を竦ませるが、足元に転がっていた刀をたどたどしく手にした時に、動揺は完全に収められる。
妖夢は無邪気な笑顔で答えた。
「だって、閻魔様のほうが先に紫様へ手を出したじゃないですか」
その発言と態度に、思わず映姫の怒りは途切れる。
先に手を出したほうが悪い。そんな理由は子供同士の他愛無い喧嘩で持ち出すような稚拙な理屈だ。主張や結果ではなく、その経過の善悪を決める時期はとうの昔に過ぎ去っている。
憤りが緩やかに蘇る。
それが沸点まで高まり、映姫が理屈を叩き付けようとした時、不意を突くように妖夢は呟いた。
「……今、子供の言い訳みたいだ、って思ったでしょう?」
妖夢に思考を読まれるとは思いも寄らず、映姫は反論も言えないままに口を閉ざす。
腕を傷付けた相手に対して、妖夢は愛想良く、しかし、幾らかの不敵さを込めて笑った。
「その通りですよ。私は幻想郷がどうとか、そんな事は知りません。今の何が悪いかも、幻想郷で暮らした時間が無いから殆ど分かりません。でも、何も知らないから、無関係だから、見たまま聞いたままの事から考えて、判断します」
今一度、妖夢は刀を構える。
不完全な接合で腕力と握力が欠けた今の状態では、虫を潰す事すら叶わないだろう。
しかし、映姫に妖夢を脅威と認識させるには充分な意思表示だった。
映姫の切っ先が紫から妖夢へ揺れ動く。
何者にも揺らぐ事の無い価値観を持つ筈の閻魔が、他者の意見へ素直に耳を傾けようとしていた。
「子供の理屈すら守れない方法で変えられたものなんか、私は嫌です。やるからにはもっとちゃんとした方法じゃなきゃ、駄目です。そうしないと、自分にすら誇れないじゃないですか」
「……誇り、なんて――」
映姫の中の閻魔が否定しかける。
手段に拘ったまま救済する事は最早不可能。その事は既に経験が証明しているではないか、と。
しかし、そう発言する寸前で映姫は口を噤んだ。
誰かに口を塞がれた訳ではない。威圧された訳でもない。
そうさせたのは、紛れもなく映姫の意志だった。
正義を貫き、この意固地さを作り出した、かつての自分の輝きだった。
「そんなものを今更、どうしろと……」
持ち続けていては救済出来ない。
だから、捨てなければならない。
拠り所としてきた正義を犠牲にするくらい、人間の命を切り捨てた映姫に出来ない筈が無かった。
それでも。
……それでも。
映姫は苦悶の表情を浮かべると、刀を下ろし、床へと捨てた。
「もう、何も無駄には出来ません。最後までやらなければ、私は私を許せない」
「閻魔様」
「既に多くの人間が非業の死を遂げました。ここで止めてしまえば、その死が報われない。私には私を捨ててでも、貫き通す責任がある」
妖夢は、もう何も言える気がしなかった。
犠牲にした命の重みを捨てても良いと言える程の無謀さは持っていなかった。
刀を鞘へ納める。
踵を返す映姫へ、せめて、これだけは聞きたかった。
「私の腕を折ったの、必要、だったですか? 私は、閻魔様を追い詰めていましたか?」
「……ええ」
「そうですか。良かった」
自分の剣は神仏さえも脅かせた。
その事に満足を覚えた妖夢は手を合わせ、頭を下げる。
だが、犠牲とした少女からの感謝を映姫が見る事は無かった。受け取っていいものでも無いと理解していた。
「映姫」
足早に立ち去る映姫へ紫は言葉を投げ掛ける。
止まって聴く様子も返事をする様子も無かったが、紫は続けた。
「貴女のほうこそ、昔に戻るべきだわ。昔のほうが今よりもずっとマシだった」
その言葉が届いていたかは分からない。
映姫の足取りは紫の言葉から逃げるかのように更に早まり、引き止める間も無く、彼女の姿は廊下の曲がり角へと消えていった。




