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東方朧観簿  作者: 庶民
第二章
45/59

其の四十五、葛藤

 凛華の中で世界が揺れる。

 音も光も、まるで自分とは程遠いものに感じる。

 何が起きたのか。誰が来たのか。

 それすらも分からなくなりかけ、しかし、龍泉に抱き締められる事で凛華は認識を取り戻した。

 龍泉の荒い呼吸が凛華の髪を揺らし、激しい鼓動が体を揺する。


「大丈夫。大丈夫ですよ」


 様々な感情が入り乱れ、龍泉は言葉を上手く操る事すらも出来ていなかった。ただ必死に凛華を抱き締め、宥めすかそうと懸命に頭を撫で続ける。

 状況を見れば、危険なのは凛華のほうで、助けに行かなければならないのは閻魔のほうだろう。しかし、龍泉は凛華を守るように抱き締めたまま、閻魔とは目を合わせようともしない。


「お父さん、話、どこから……」


 縋るように訊ねる凛華。龍泉はそれに答えない。しかし、全てを聞かれたという確信が凛華にはあった。


「違う、違うの……! 私、生まれ変わりだよ。ちゃんと、記憶だってあるんだよ……」

「凛華」

「私、私……」

「心配させてすみません。もう我慢しなくていいんです。楽になって、いいんです」


 龍泉は深呼吸する。彼の内面で渦巻く葛藤は、もしかすれば凛華よりも激しいものであるかもしれない。それでも、精一杯に冷静であろうとする。


「凛華の為なら、父でも兄でも、赤の他人にでもなります。だから、お願いです。もう苦しまないで下さい」


 痛い程に強い抱擁の中で、凛華は何とか龍泉の顔を見ようとする。

 もしかしたら、あの辛そうな顔を浮かべていないのかもしれない。思う存分、お父さんと呼んでも大丈夫なのかもしれない。そう呼んでも嫌われないのかもしれない。

 この世界で一人だけ。何の疑いもなく認めてくれた龍泉の顔は、しかし凛華には見えなかった。

 凛華の頭を強く胸に抱き、苦悶の表情を必死に隠す。それが今の龍泉に出来る、最大限の思い遣りだった。


「余計なお世話でしたか? 川上龍泉」


 それを眺めながら、事も無げに閻魔は肩に突き刺さったナイフを引き抜いた。

 人体であれば動脈を引き裂き、辺り一面を血の海としていた傷だが、閻魔には関係無い。血は流れたものの、その量は驚く程に少なく、服の切れ目に滲むだけである。


「私としては、騙る事があまり好ましくなかったのですよ。本来の――ルチェさんの魂は正常な輪廻の流れに乗りました。いつか彼女が転生し、貴方の元へ向かったとき、別の誰かが前世の名前でそこに居ては彼女が不憫ではありませんか」


 閻魔はポケットからハンカチを出し、ナイフに付いた血を丁寧に拭き取る。そして、綺麗にナイフをハンカチで包み、龍泉達に歩み寄る。


「凛華さんを偽者だと糾弾する気はありません。彼女にルチェさんの記憶があったのは、他ならぬルチェさんの意思によるものですから」


 龍泉の顔が跳ね上がり、閻魔を捉えて瞠目する。


「記憶を写す事、作り出す事、それ自体は簡単な事です。龍泉さんも実行した事があるでしょう。外の世界で言葉を用い、人間達を助ける為に」

「……確かにあります。しかし、私の罪をこの子の前で勝手に暴かないで下さい。あれは過ちでした。私が故郷から追いやられた理由の一つにもなりました」

「もとより、貴方の過去を詳しく語る気はありませんよ」


 閻魔はナイフを両手で持って龍泉に差し出すが、凛華を懸命に抱き寄せている龍泉に持てる筈も無い。

 諦めて手元に戻してから、閻魔は続ける。


「ルチェさんは龍泉さんの将来を強く憂い、死後、霊魂となって現世を漂う僅かな合間に、近くで見付けた無垢な魂に自らの記憶を語り聞かせました。恐らく記憶を書き換える事までは考えておらず、単に情へ訴えたかっただけでしょう。本来なら、そのような単純な形で与えられた記憶は直ぐに風化します。しかし、それが偶然にも龍泉さんの妖精として発生し、姿形がルチェさんと同一であった為に、希薄になる筈の記憶は殆ど薄れませんでした」


 龍泉の体が強張る。彼には凛華の姿をそうなるように決定した自覚があった。

 いまだに生まれ変わりでない事を認めない凛華が龍泉の胸元で首を横に振る。そんな彼女を一層強く抱き締めて、龍泉は深刻な面持ちで閻魔の言葉に耳を傾け続けた。


「記憶が同じ、姿も同じ。恐らく、凛華さんは酷く混乱した筈です。実感が無いのに生前の記憶があり、その記憶の中心人物が自分と同じ姿をしているのですからね。その状況で一番自然に思える答えが生まれ変わりだったのでしょう。死ぬ直前、生まれ変わると約束した記憶もあったのですから」

「……そして、それを聞いた私が喜んだから、凛華は頑なに生まれ変わりだと言い続けたのか」


 びくり、と凛華の体が震える。

 生まれ変わりだと、もう龍泉にすら認められていない。


「お父さん、違うの。私、嘘なんて言ってない。私はルチェなの。本当なの……」

「そう言ってくれると、私は本当に嬉しくなります。事実がどちらにしても、凛華は私を喜ばせようとして言ってくれているのですから。でも」

「――でも、じゃないよ! 私を信じてよ!」


 凛華は泣き叫び、龍泉の胸を拳で叩く。

 しかし、長くは続かない。激しく咳き込み、凛華は龍泉の体へ凭れ掛かる。

 体が燃えるように熱く、意識も朦朧としている。それでも譫言のように凛華は言い続けた。


「私、生まれ変わったんだよ。お父さんの側に、ずっとずっと居たくて……」

「凛華」

「お願い、見捨てないで……」


 凛華の意識が途切れ、龍泉は彼女の体を抱き止める。

 そして、彼の顔に一抹の悲しみが滲み出た。

 それを隠し、愛情を示すように、龍泉は凛華の頬に口付けする。


「言われなくても見捨てませんよ。最初から、私もずっとそう言い続けてきましたのに」


 生まれ変わりでない可能性も、龍泉は凛華と出会った頃から既に考えていた。形見のナイフを渡す時も、心の底から認めていた訳ではなかった。凛華とルチェが別人だと考えて、それがルチェに対する申し訳無さに繋がった事も少なくない。

 しかし、その疑念や罪悪感が親心を越える事は今まで一度たりとも無かった。そして、これからも無いと龍泉は断言出来る。


「嬉しかったんですよ、凛華。こんな私にも家族が出来た事が、何よりも嬉しかったんです」


 呟き、龍泉は優しく凛華を抱き上げる。

 高熱と心労で意識を失い、極めて危険な状態なのだ。妖精だから死んでも大丈夫という理屈は龍泉には通じない。早く休ませようと自分達の部屋へ向かう。


「別に、私を悪人にしても構いませんよ」


 その背中へ、閻魔は言った。


「私が嘘を言ったとでも教えて、凛華さんに生まれ変わりだと主張させ続けても、それを罪だと呼ぶ者は殆ど居ないでしょう。魂が違う事と龍泉さんの妖精である事を除けば、凛華さんはルチェさんと殆ど同じ。生まれ変わりを名乗れるだけの要素は充分に兼ね備えているのかもしれません」


 龍泉は歩みを止めた。前言を撤回するような話を怪訝に思って振り返ると、閻魔が形見のナイフを持って近付いてきていた。


「個を構成する要素として魂がどれだけを占めているのか、それは人によって違います。魂が同じでも姿が異なれば生まれ変わりだと認めない者は少なくありません。魂が同じなら、性格が同じなら、姿が同じなら、声が同じなら……。どこまで同じならば生まれ変わりなのか。閻魔である私には明確な基準がありますが、その基準を生きる者達の指針にするのは独善というものです」


 近くに来た閻魔は腕に抱かれる凛華を見詰める。


「凛華さんには基準がありません。否定する理由も材料も証拠も持っていません。生まれ変わりでない可能性を思い浮かべる事はあっても、その通りだと認める事は不可能でしょう。大人びて見えますが、彼女はまだ生まれたばかりの妖精なのですから」


 慈愛の眼差しを閉ざし、彼女は形見のナイフを龍泉へ差し出した。


「だからこそ、唯一、親である貴方だけが基準となり、良き指針ともなりうるのです。その務めを果たす事を、私は切に望みます」


 その閻魔の姿を、龍泉は呆然と眺めた。

 今の彼女はまるで、自らの信じる神に願いを託す少女のようである。


「……何故、ここまで気にして頂けるのですか。私は人間を殺めるだけでなく、幻想郷の摂理をも乱した罪人です。外の世界でも多くの命を助けきれず、結果として人間に人間を殺めさせてしまった事もあるというのに」


 茫洋とした声で訊ねると、閻魔はナイフを下げ、思いを馳せるように頬に手を当てて答えた。


「かつての貴方は救世主にも等しい存在でした。死を選ぶ者に希望を説き、いかなる暴力にも服従せずに立ち向かい、虐げられる弱者を守護してきました。しかし、当時の非力な貴方ではそれらを未然に防ぐ事と克服させる事が出来ませんでした。私は知っていますよ、川上龍泉。その非力さを克服する為に多くの力を手に入れた事。思考を読み、未来を知り、獣や霊魂、時にはそれ以上の存在とも心を通わせた事。人間と故郷を守る。その意思によって高まった当時の貴方は精神の極致を体現していました」


 あるいは、それは人間の理想の一つと呼べるのかもしれない。

 追い求めたものに一度は辿り着いていた過去を挙げられ、龍泉は気不味さから目を逸らした。


「……そんな事、私以外にも出来た者は大勢居るでしょう」

「その中でも貴方は特殊なのです。清浄で強靭な精神を獲得していながら貴方は挫折し、それどころか手にしていた多くの力を自ら手放したのですから」

「……」

「何があったのかは知っています。しかし、私にはそれが貴方の意思を砕く程の事だったとは思えません。その程度の覚悟なら、あの神聖な境地に至る事は不可能なのです」


 言葉の一つ一つに、龍泉に過去の清廉さを取り戻させたいという意思が込められている。

 煩わしさは不思議と感じない。それは閻魔の中に悪意が一切無いからだろう。

 龍泉は凛華の容態を確認する。顔が赤く、呼吸が早い。早く休ませてやりたいが、ここで閻魔と決着を付けておかなければ、延々と付き纏われる予感があった。


「閻魔様。貴方は人間だった事がありますか?」

「遥か昔に。その後は解脱して地蔵となり、次に現在のような閻魔となりました」

「地蔵、ですか。ならば過去の私を救世主等と呼んで気に掛けるのは地蔵が果たす役目が理由ですか」

「釈尊の入滅後、救世主とも言われる弥勒菩薩が現れるまでの五十六億七千万年の無仏の時代に苦しむ衆生の教化救済。確かに仏教での地蔵、かつての私はその役目を持っていましたね」

「莫大な時間です。救世主の出現を期待していなければ続けられません。それに、その話が正しいのなら、地蔵の力では完全に世を救えない事も意味しています」

「その通りですね。しかし、私はその無力さを嘆いた事はありません。世の中全てを救えずとも、近隣の村や人はある程度救えてきましたから」


 閻魔は屈託の無い笑顔で微笑み、対照的に龍泉は不快さから顔を翳らせる。

 それは要するに、閻魔も龍泉と同じ事をしてきたという事だ。


「……では、私が挫折を選んだ理由はお分かりにならないでしょう」


 似た境遇を味わったというのに、それでも全く分からないのなら、何を言っても無駄なのだ。

 溜め息を吐き、龍泉は凛華を抱いたまま、器用に腕を伸ばして閻魔から形見のナイフを取り戻す。

 その拍子に、ナイフに巻かれていた血の付いたハンカチが滑り落ちた。

 拾おうと閻魔は身を屈め、そのハンカチが突如床に開いたスキマから伸びた手に摘ままれて消え行くのを見て、温厚な顔を僅かに顰める。

 何処からともなく、声がした。


「龍泉、幽霊達と妖夢が閻魔の安全を確認しにそちらへ向かっているわ。一緒に居るところを見られると問題よ。早く戻ってきなさい」


 紫の声だ。閻魔が素早く部屋の中で首を巡らせて言った。


「紫。あなたは何かあれば私の邪魔をしますね。今すぐ窃盗で裁いてあげましょうか」

「御免遊ばせ閻魔様。私はただ綺麗にして差し上げたいと思っただけですわ」

「嘘をおっしゃい。血痕のある品は私を刺した証拠になるから隠蔽しただけでしょう。私がナイフの血を拭き取った時点で誰にも訴える意思が無い事に気付きなさい」

「血痕なんて、もう何処にも御座いませんよ?」


 天井に開いたスキマから新品のように綺麗になったハンカチが落ちてくる。

 虚仮にされた事へ憤りを覚えながら空中のそれを手に掴み、閻魔は龍泉と話を続ける為に向き直る。

 しかし、そこに彼は居ない。

 閉じる寸前のスキマだけが残っていたが、それも一秒と経たずに消え失せた。


「紫!」


 叱り付けるように声を張り上げるが、返答は無い。聞いていて返事をしていないのでは無い。既に聞こえない場所へ逃げたらしく、部屋の中は何処までも透き通るように静かだ。

 しかし、その静けさも長くは続かない。すぐ近くの場所から足音が聞こえてくる。

 閻魔は刺された傷を隠す為、咄嗟に廊下から背を向けた。

 間も無く、龍泉が開けたままの障子の向こうに、妖夢が幽霊を引き連れて大慌てで現れた。


「閻魔様、御無事ですか!?」

「はい。ですが、何事です。そこまで慌てて」


 言いながら、さりげなく肩に手を宛てる。

 龍泉に気を取られていた瞬間にでも紫に直されたのか、血の汚れも服の傷も完全に消されていた。体の傷を治していないのは紫の力では治せなかったからだろうが、仮に治せたとしても治さなかっただろう事を考えると何処か腹立たしい。


「へ? いや、あの、閻魔様は先程の騒ぎを御存知ないのですか? 真上で烏が騒がしかったと思いますが」

「烏が騒ぐくらい、そこまで珍しくないでしょう」

「それなら障子や襖が勝手に動いたりしませんでした?」

「見ていません。そんな事があったのですか?」

「そうですけど……。あれ、おかしいな……」


 首を傾げて妖夢は不思議がった。その手には一部が血で赤く染まった袋が握られている。

 言うまでも無く、その中身は先程まで暴れていた龍泉の使い魔の死骸である。放置するには危険過ぎると妖夢は判断して仕留めたのだが、今の白玉楼で最も重要な一人が何とも思っていないのなら、本当は手を出さなくてもよかったのかもしれない。

 閻魔が人知れず傷口を綺麗なハンカチで服の裏から押さえ付け、妖夢へ顔を向けると、彼女は乾いた笑顔で取り繕いながら袋を背中に隠した。

 善良な閻魔の事だ。無益な殺生だと咎められでもすれば面倒である。


「なんだか、此処だけ別だったみたいですね。お騒がせしてしまって申し訳ありませんでした」

「待ちなさい」


 そのまま、そそくさと逃げ去ろうとする妖夢を閻魔は強めの口調で呼び止めた。

 厄介事に巻き込まれたくない幽霊達が次々と逃げていく中、妖夢はぽつんと納得のいかない顔で取り残される。

 妖夢には幾つか予定があるのだ。今は騒動で白玉楼にどれだけの被害が出たのか調べている途中であるし、それが終われば隠れて龍泉に使い魔の死骸を渡し、自分勝手に殺めた事を謝罪しなければならない。


「龍泉に用があります。彼が居る部屋まで私を案内しなさい」


 表情は可能な限りの笑顔のまま、妖夢は都合の悪い頼みに内心で悪態を吐いた。

 勿論、断る事は出来ない。妖夢と閻魔では格が違い過ぎるのだ。


「それは、えっと、別に構いませんけど、向こうから来させる事も多分出来ると思いますよ?」

「こちらから向かわなければ私の誠意や熱意が伝わらないでしょう。無理に来させても本心を見せてくれるとは思えません」


 閻魔は襟首を正し、既に出向く姿勢となっている。何を言っても無駄なのだと、妖夢はすぐに察した。

 白玉楼の被害は幽霊達が調べて収拾を付けてくれるだろうし、死体袋の事は何とか誤魔化せば良い。具体的な根拠が著しく欠けている事は自覚しているが、無理矢理そう考える事で妖夢は自分を納得させる。


「分かりました。それでは案内しますので、ついてきて下さい」

「ええ」


 不審なところを見せないように指先まで細心の注意を払って歩く妖夢のすぐ後ろを、閻魔は粛々とした態度で殆ど妖夢を見ずに追い掛ける。

 彼女が考えている事は、ただ一つだけ。

 今一度、龍泉に聖人として振る舞ってもらう。その為に、どう諭すべきかという事だけだった。





「……記憶、ね」


 それぞれがそれぞれの事に集中していたからか、幽々子が自室で意味深に呟いた事に誰も気付かなかった。

 所々ではあるが、彼女は壁越しに聞こえた声から会話の内容をおおよそ理解していた。

 ルチェという妖怪が死に、その記憶を受け継いだ凛華が、魂と種族以外の全てが同じ状態で、龍泉の妖精として発生した。

 聞こえてきた話の中でも、特にその情報が強く頭に刻まれている。

 幽々子はそっと、自らの胸に手を当てる。

 心臓が脈を打っている。

 一度は止まり、亡霊となる事で再び動き出した鼓動である。

 かつて身の上を通り過ぎた死に多くを奪われたものの、そうして戻ってきたものもまた多かった。

 しかし、まだ戻らないものもある。

 その一つが生前の記憶。何百年も前に十数年ばかり生きた記憶だ。

 亡霊として悠久の時間を過ごした幽々子からすれば、生前の時間は瞬きの間とでも例えられる僅かなものである。

 だが、それでもそれは幽々子の大切な原点なのだ。覚えていなくとも、その事には変わりない。


「もしかして、取り戻せるの?」


 そう呟いた幽々子は直ぐに立ち上がり、当時の資料が残る書物庫へと足早に向かった。





 凛華を寝かし付ける龍泉の姿は、紫から見ても、言い様の無い悲しみに包まれているかのようだった。


「私は、どれだけこの子に信用されていないんだろうな」


 頑なに生まれ変わりである事を主張する理由は単なる妖精だと愛されないと凛華が思い込んでいるからだと、龍泉は先程の懇願で気付いていた。

 それは、親として大切にすると何度も繰り返して言ってきた事を、凛華が全く信じていない証拠でもある。

 伝わらない愛情。その苦悩に龍泉は深く項垂れる。


「思えば親らしい事を一度もしていなかった。父とも呼ばせず、食事を作りもせず、添い寝してやる事もしなかった。いくら触る事を禁じられていたとしても、もう少し近くに居てあげるべきだっただろうか」


 独り言だと気付いていた紫は何も答えなかった。

 相応しい答えが思い浮かばず、加えて未練がましい龍泉の態度に神経を掻かれ、気分が悪かった。

 凛華の額に濡れた布巾を載せながら、龍泉は続けた。


「死んだメイドにも同じ事をしていたのにな。あの時も後悔したのに、どうして繰り返しているんだろう。我ながら呆れるよ」

「……だったら、今からでもしたらどうなの? あなたがやっている事は医療行為でしかないわ。親ならそれ以外にもやれる事があるんじゃないの?」


 堪らず、紫は声を上げた。これ以上の泣き言は惨めすぎて聞いていられなかったのだ。

 俯いていた龍泉がゆっくりと顔を上げる。

 目的を突然見失ったかのように、その表情は激しい動揺を示していた。


「何を、すればいいんだ?」

「そんな事……。さっき、自分から言っていたじゃない」

「どれをすればいい。分からないんだよ、私には。初めての子供で何をすればいいのか分からない。誰も教えてくれない。自分でやっていた事が間違いだと気付いたら、何をやるにも自信が持てなくなってしまった」

「自分が親にしてもらった事をすれば――」

「そんなもの、居なかった。誰も私を育ててくれなかった」


 首を振ってまで激しく否定し、龍泉は自らの手を見詰める。 


「私は愛しかたを知らない。家族の温もりを知らない。私が他人を愛そうとしてやっている事は、私を諭してくれた上白沢先生の手の模倣でしかない」


 今は遠い恩師の手が龍泉の視界に残像として現れ、龍泉の手と重なり、消えていく。

 細く整えられた手とは違う、枯れ木のように痩せて節のある手だけが残る。

 その手を額に押し当て、握り、龍泉は呻いた。

 思わぬところで出た名前に狼狽える紫の様子に気付けないほど、龍泉の苦痛は深刻だった。


「愛情は持っているのに、それを示す方法を殆ど知らないんだよ。嬉しければ笑えばいい。悲しければ泣けばいい。それは分かるのに、愛しければ何をすればいいのか、私にはまだよく分からないんだ」


 別れを惜しむレミリアの顔が思い出される。

 彼女に愛を伝える為に、龍泉は生まれて初めてキスをした。今までにした人工呼吸や薬の口移しとは違う、伝える為だけの口付けだ。

 涙ながらに納得してくれたのだから、あの時はそれで正しかったのだろう。しかし、凛華は自分の子供だ。わが子に向けるべき愛情とは、何なのか。それが龍泉には分からない。


「抱き締めたらいいのか。キスをすればいいのか。そんな事が親の愛情の証明になるのか。

 この子を大切にしているのは生まれ変わりだからではなく、私の子供だからだと、どうやって知らせればいい。同じ愛情なんだぞ。何を変えたらいい」


 繰り返される質問は針のように鋭く紫の胸を刺す。

 額から手を離し、幾らか冷静さを取り戻した声で龍泉は言った。


「紫。お前、この子を守っていただろう。それなら親らしい事がどんな事か分かるんじゃないのか?」

「……それは、違うわ」


 言えば何をされるのか分からない。

 今の不安定な龍泉がどのような反応をするのか、紫には予想も出来ない。

 しかし、嘘は言えない。黙る事も出来ない。

 せめて姿勢を正し、紫は堂々と答えた。


「妖精を助けられなかった事に対する私なりの償いと、凛華と仲良くなればあなたを簡単に扱えると思ったからやっていただけよ。あなたの思うような愛情なんかが理由じゃないわ」

「……打算か」

「ええ」

「そうか。……打算だったのか」


 感情の機微に鋭い自信があった龍泉には、あれらが愛情で無かったと言われても素直に納得出来なかった。

 そんな筈が無いと思う部分もあるが、親の愛情が分からない龍泉には区別が付かない。

 紫が目を逸らし、龍泉もまた、視線を凛華に戻した。


「打算でも、まあいいさ。この子を守ってくれた事には変わりない。出来れば続けてくれ」

「……怒らないのね」

「ただし、その事を凛華に教えたら殴るからな。この子は私以上にお前へ心を許している。騙すのはいい。でも、好意だけは裏切らないでやってほしい」

「もとから教える気なんて無かったわ。ただ、無償の愛ではない事には薄々気付かれていたみたいだけど。最近になってますます遠慮するようになったのは、多分そういう事でしょう」

「何でもいい。この子はお前の事が好きなんだ。それを忘れるな」

「……そうね」


 紫は視線を落とし、凛華が不安がるとよく袖を掴んできた事を思い出す。

 小さな手で縋り付いて、守ってもらえるように懐へ入り込む凛華の姿に庇護欲や愛情を持たなかったと言えば嘘になる。寝付きの悪い彼女が何とか眠りへ落ちた時に見せた健やかな寝顔に安堵した事もある。

 しかし、それは全て龍泉が行うべき事を代理として果たしただけの事。その時に感じた温かみも、本来なら龍泉が手にしていたであろうものだ。

 いつまでもその権利を奪い続けている事は、龍泉にも凛華にも良くないだろう。


「龍泉。年上として、教えておくわ」


 紫は龍泉と向き合う。そして、気持ちを整えるように少しの呼吸を挟んでから言った。


「親の愛なんて、言葉で簡単に伝わるものではないわよ。何年も何十年も積み重ねて、それで伝わるのを待つしかないの」

「……しかし、凛華には今必要だ」

「いいえ、今じゃないわ。ずっと前から必要としていたのよ。凛華はずっと親の愛情を探していたの。そのくらい気付いているでしょう。あなたの言い付けを何度も破って、あなたをお父さんと呼んでいたのだから」


 息を詰まらせ、龍泉は沈黙する。


「その時にあなたはどうしてた? 辛そうな顔して俯いていたわよね。何があったか知らないけど、そんな事、生まれたばかりの凛華は知らないし、関係無い事なのよ。勝手に過去へ巻き込むのはやめなさい」

「……分かっていた。分かっていたから、言わないで、何も気にさせずに育ててあげたかったんだ」

「それなら上手く隠しなさいよ。それが出来ないのなら、せめて私に打ち明けてくれても――」


 はっとして、紫は口を噤んだ。

 どうして龍泉にここまで入れ込んでしまったのか。意見をぶつけて、後は放置する気でいたというのに。

 仮にも殺しあった仲なのだ。過度な詮索は当時の敵対関係を甦らせるだけの愚行でしかないと、少し考えたら分かる事ではないか。

 その時、紫は龍泉と殺しあった過去を忘れていた自分に気付いた。そんな間抜けな事に気付いていなかった自分に驚いた。

 普段から気安く会話していたが、その時も意識にはあった。無かった事のように振る舞って、龍泉を必要以上に警戒させないようにしていただけだ。

 しかし、今回は違う。

 完全に心を許していた。それも無意識に。

 その困惑に気付かぬまま、龍泉は力無く首を振った。


「お前にも凛華にも、私が不幸だったと知らせたくなかった。私を助けてくれた者達に、私が愛する者達に、私はもっと酷い目にあっていた、なんて口が裂けても言える訳ないんだ」


 もしも言ってしまえば、それは最も卑屈な形での救助要請になる。子供でもないのに最後まで面倒を見て欲しいという、最低な我が儘だ。


「遠慮なんかじゃない。これは私の意地だ。子供を育てる親となった今、どうしても譲れない意地なんだ。どうか訊かないでくれ。私は他人に憐れまれる情けない親にだけはなりたくない」


 打って変わって、今度は言葉に力が籠っていた。

 拳を握り締め、歯を食い縛り、その意地を携えて記憶の根幹に巣食う苦痛の元凶と対峙する。

 今までは向き合って、その悪辣さに何度も膝を屈していた。

 しかし、今は違う。紫が言ってくれた、子供は関係無いという言葉が何度も頭の中で反響している。

 そうだ。凛華は関係無い。だから、いつまでも過去に意識を囚われてはならない。

 だが、無かった事にはしない。

 終わらせる。

 そうでなければ、苦痛に耐えた意味が無い。

 いつしか、龍泉の体からは強張りが消えていた。

 そこから紫へ向ける眼差しは今までに無い程に澄んでいる。

 覚悟を決めた声で、龍泉は答えた。


「確かに、私の過去は凛華には何の関係も無いな。ありがとう、紫。お前に言われて、ようやく本当の意味で凛華に親として向き合う決心がついた」

「出来るの?」

「簡単じゃない。だが、それが子育てというものなんだろう」


 それなら出来ない理由は無い。

 今こそ、龍泉は理解する。

 過去に何があろうと、歪な関係であろうと。

 自分は子供を持つ、ありふれた親の一人なのだと。


「頼みがある」


 その証明をするには様々な障害がある。まずはそれらを片付けなければならない。

 目を閉じ、耳を澄まし、龍泉は周囲に感覚を張り巡らせる。

 龍泉には死者の姿どころか、それらが発する音や匂いも殆ど届かない。だからこそ、生者の気配には誰よりも敏感になれる。

 龍泉は廊下を歩く何者かの気配を察知する。

 誰なのかは、考えるまでもなく分かっていた。


「既に紫も気付いているかもしれないが、閻魔がこの部屋へ近付いてきている。嫌だとは思うが、日を改めるように伝えてきてくれ」

「……私の話を聞くとは思えないわよ」

「凛華に会わせなければいい。恐らく私に用事があるのだろうから、もし来てしまっても私が部屋の外で話をすればいいだろう。だが――」


 龍泉の手が眠る凛華の頬に触れ、起こさないように優しく撫でる。

 熱が伝わる。

 愛しさが溢れる。

 言葉も何も無くとも、龍泉は凛華が何を求めているのかが分かった。


「この子が起きたとき、私が一番傍に居てやりたい」


 それを凛華も望んでいる筈だ。

 手を離すと、無意識だろうが、追い掛けるように凛華が腕を持ち上げた。

 その腕を取り、龍泉は静かに元の場所へ下ろす。


「頼む、紫。私を父親にさせてくれ」


 それ以上の言葉は、不要だった。

 紫は唾と共に閻魔へ対する忌避感も不意に抱いた困惑も呑み込み、龍泉へ頷きを返す。

 個人間の諍いも、龍泉が凛華へ向ける愛情に比べれば些細なものである。迷わず、そう思えた。


「……凛華が目を覚ましたら、好きな食べ物を訊いておいて。今の事が落ち着いたら、一緒にその子の誕生を祝いましょう」

「そうだな。そうしよう」

「閻魔は任せなさい。その代わり、凛華は任せるわ。大丈夫よね」

「当然だ」

「そう。それなら安心ね」


 素直な笑みを最後に、紫はスキマの中へ姿を消す。

 残された龍泉は懐から形見のナイフを取り出し、それを凛華の枕元に添えた。

 初めて出会った時に渡し、今まで凛華が生まれ変わりだと主張してきた要因の一つでもある。

 あの時の判断が正しかったのか、今となっては分からない。少なくとも、我が子可愛さに目が眩んだ、浅はかな行動ではあったのだろう。

 結果として、龍泉は凛華を苦しめ続けた。その事だけは確かな現実として、目の前に横たわっている。

 龍泉は溜め息を溢し、ゆっくりと頭を振る。

 それを考えるより、もっと他にやる事があるではないか。

 ナイフを懐に仕舞い、龍泉は凛華の手を取る。

 幼い手が指に絡み付いてくる。

 それがまるで赤子と同じ行動である事に気付き、閻魔が言った生まれたばかりという言葉の意味を深く噛み締めながら、龍泉はその手を両手で優しく包み込んでいた。

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