其の四十四、狭間
いつからか、凛華は疑問に思っていた。
自分は生まれ変わりではなく、成り済ました別人ではないか。この記憶は本当に自分のものなのか。
最初は本物である自信があった。しかし、それは疑われる度に削られていき、今では殆ど失っていた。
それでも生まれ変わりだと言い続けたのは、やはり龍泉の存在が大きかった。
龍泉が喜んでくれたからこそ、凛華は生まれ変わりを続けられた。記憶と同じように「龍泉さん」と呼ぶだけで、彼の優しい笑顔に迎えられる事が嬉しかった。
けれど、その笑顔を見るといつも考えさせられる。
龍泉にとって自分は生まれ変わりとしての価値しかないのかもしれない。もしも生前の記憶が無くなれば、もしくは生まれ変わりではないと明らかに示す証拠が現れれば、自分は龍泉に嫌われるのではないか。
凛華は龍泉の妖精でもある。娘のようなものでもある。紅魔館の皆も、紫も、幽々子や妖夢でさえも、そう認識してくれている。なのに、龍泉は少し違う。彼も事実として認識し、受け止めてこそいるが、決して喜んではいない。どちらかと言えば、迷惑だと思われているのだろう。
凛華が龍泉を「お父さん」と呼ぶと、彼はいつも複雑な表情を覗かせる。
だから、凛華は恐かった。
自分がただの龍泉の妖精となった時、あの辛そうな表情をずっと向けられるのかもしれない。そう考えると恐ろしかった。
凛華が布団に入り、目を閉じていると、龍泉は慮るように額を優しく撫でてから部屋を出ていった。
風邪が悪くなったのか、時折咳き込みながら、凛華は布団の中で閻魔について考えていた。
地獄の最高裁判長である閻魔は死者の魂を裁き、それらを何処へ向かわせるか決める存在だ。
凛華の記憶に魂だけだった頃の記憶は無い。いつ死んで、いつ生まれたのか。その前後も抜けている。それについては有り得る事だとして深く考えていなかったが、閻魔の存在を思い出した時、それすらも疑問に変化した。
死んだのなら閻魔と出会った筈なのに、それを全く覚えていない。また、死んで三日と経たずに魂が新たな体に宿るのは俄には信じ難い出来事である。閻魔が選んだ正しい輪廻の結果だと楽観的に考えるのは難しかった。
「……会わなきゃ」
閻魔と会って、直接確かめる。
その決心を口にし、熱で浮かされた頭を支えながら、凛華は布団から這い出た。
耳を澄まし、部屋の外にいる龍泉と紫の様子を窺い、ふと罪悪感に苛まれる。
「大人しく寝てなかったら叱られるかな。もしかして嫌われるかな。それは嫌だけど……」
唇を噛んで、その意識を追い払う。
本物か偽物か分からないまま、どちらの苦しみも背負って生きる事は耐えられそうになかった。
忍び足で部屋を抜け出した凛華は幽霊達にも見付からないよう、屋根上へ飛ぶと、そこから這うようにして飛行を始めた。
閻魔の居場所は妖夢の発言から想像出来ている。龍泉が使い魔とした烏が止まっている建物だ。
凛華はあの烏が不思議だった。
外で散歩をしているときは後ろから飛び跳ねて追い掛けてくるだけで、話し掛けても何も反応しなかったのに、白玉楼に入った途端に突然大騒ぎをした。それなのに、龍泉が来てからは嘘だったかのように静けさを取り戻した。
主人の前だから大人しくしよう、という思考が働いたのかもしれない。しかし、凛華が見た印象では、あの使い魔は何かに慌てて、龍泉を呼び寄せたようにも見えた。凛華が風邪を引いた事よりも、余程重大な何かの為に。
その時、凛華は佇む烏と目が合った。
無関心な素振りを見せていた烏がとんとんと二回に分けて体を回し、嘴を凛華へ向けて沈黙する。
威圧されているような気がして、凛華は思わず動きを止めた。
「あ、えっと、……何?」
訊ねても、烏は動かない。
「と、通ってもいい、かな?」
烏は動かない。
じっと、小さな黒い瞳で凛華を睨み続けている。
駄目と言われているのだと、凛華には何となく伝わった。
「どうしてなの?」
この烏とは出会って半日も経っていない。凛華の事情は殆ど知らないし、龍泉から全てを知らされている訳でも無いだろう。烏にとって凛華は一時の護衛対象に過ぎない筈で、しかも、その役割も龍泉の元に帰した時点で終わっている。今はもう護衛対象でも何でもなくなっている筈なのだ。
なのに、烏は動かない。
首を時折巡らせるが、その視線は常に凛華へ固定されている。
それがまるで今まで向けられ続けた疑惑の目と同じに見えて、凛華は身を縮ませた。
「こわいよ、見ないで……」
凛華が視線を逸らし、顔を手で隠すと、烏は心情を察したらしく、明後日の方向に体を回した。
凛華は手を下ろして烏の様子を窺いつつ、屋根の下に居るだろう閻魔に意識を向ける。
龍泉か紫に脱走を気付かれれば叱られる。その前に閻魔と話をして、何事も無かったかのように部屋へ戻らなければならない。そんな幼稚な焦りが気持ちの悪い汗と共に溢れてくる。
忍び足で凛華は動き出す。
それを烏は見逃さなかった。鋭敏に振り返ると、勢いよく飛び立ちながら突進し、凛華の眼前で急上昇。驚いて尻餅を付いた凛華の頭に、黒い羽が何枚も降り積もる。
「うぅ~っ!」
手で羽を払い落とすと、凛華は着地した烏を涙ぐんだ目で睨み、それとは反対の屋根の端へ猛然と走る。
いくら邪魔をしてきても、強引に動けば一羽の烏を振り切るくらい簡単なのだ。嘴で頭を突つかれるかもしれないが、その程度は覚悟しての行動だった。
しかし、今度は追ってこなかった。
烏は夕暮れ時の悲しげな声音で、全てを諦めたかのように細く、長く鳴いた。
その行為も空しく、凛華が屋根の下に消えていく。
凛華と閻魔を会わせる事が危険だと察知していたにも拘わらず、それを自力では防ぎきれない事を確信した烏は、悠然と翼を広げた。
こうなった以上、烏に出来るのは騒ぎを起こして龍泉に止めさせる事くらいだ。しかし、それは自らの処分に繋がりかねない危険な行為。躊躇いが無い訳ではない。
とは言え、今の主である龍泉と彼の妖精である凛華に烏は不思議な憧憬を抱いていた。単なる使い魔としての契約を越えた繋がり。漠然とした、愛情のような何か。
だから、烏は微力を振り絞り、喉を震わせ、白玉楼に一時の混乱を与える。
「――うるさい」
そして、鋼が命を絶った。
龍泉達が悼む事すら期待出来ない中での死。
しかし、烏は誰も恨まなかった。その意識は龍泉達の行く末に幸福がある事を淡く望みつつ、穏やかに薄れていった。
◆
慌てて飛び降りた為か、凛華は着地に失敗した。
庭の芝生の上で四つん這いに倒れ込み、擦り傷を体のあちこちに作ってしまう。
しかし、その痛みを堪えて立ち上がり、烏が襲って来ると警戒して頭を手で庇いながら建物の中へ駆け込んだ。
すぐさま障子を閉じ、そこで一息入れる。
「騒がしいですね」
そして思いの外、近くで聞こえた声に凛華は肩を跳ね上げる。
恐る恐る振り返ると、手を伸ばせば届きそうな距離から、閻魔が地蔵のように柔和な笑みを浮かべて、凛華を見下ろしていた。
「妖精が冥界にいるとは珍しい。迷いこみましたか?」
「いえ、あの……、違います」
「でしたら、――おや?」
閻魔は目を軽く見開いた。
烏が騒いでいる事とは、また異なる事に驚いたらしい。そもそも、白玉楼に撒き散らされている混乱から二人は殆ど隔離されている状態にあった。凛華が障子や襖に挟まれないよう、その部屋だけは何も動かされていなかったのだ。
遠くに聞こえる騒音の中、閻魔は暫し黙考し、言葉を選ぶ。
「失礼ですが、お名前は?」
「あ、えと、名前ですか……?」
そして放たれた単純な質問に、凛華は素早く答える事が出来なかった。
凛華が閻魔と話をしに来たのは、自分が生まれ変わりかどうなのかを知る為だ。もしも生まれ変わりであるのなら、閻魔は以前の名前を知っている可能性がある。最初は、その名前を出そうと考えた。
しかし、生まれ変わりではないという可能性が頭をよぎる。閻魔に嘘や偽りは通じない。その気が無くても、本来とは違う名前を告げれば激怒させてしまいそうな予感があった。
「凛華と言います。川上凛華」
「川上……。だとすると、あなたは川上龍泉の関係者ですか」
「はい。原理とかはよく分かりませんけど、あの人の妖精です。あと、娘だとか……」
「娘とは」
またも閻魔は驚いたようだった。彼女は丸くした目を今度は細めて、凛華を慈悲深く見詰める。
「……成る程。彼は因果な事をしたものです」
「それはどういう意味ですか?」
訊ねる凛華に対し、閻魔は逡巡を見せた。
「その前に一つ訊ねますが、その娘というのは龍泉から言われた事ですか?」
「私から言いましたが……。龍泉さんも最初から覚悟はしてくれていたみたいです」
「覚悟、ですか。それはさぞ辛い決断を選んだものです。英断とも呼べますが」
妖精であって娘ではない。龍泉はそう言う事も出来たのに、あえて選ばなかったのだ。それがどれだけの苦痛を龍泉に与えたのか、彼の過去を知る閻魔にはある程度察せられた。
「あなたは龍泉から何か聞いていますか? 彼の生まれ育ちやあなた自身の事とか」
「いえ、何も聞いていません」
「父親が昔の思い出話を語るのはそう珍しくないと思いますが」
「それでも、あまり……」
紅魔館に居た時に少し聞いた記憶があるが、故郷から人間達に追われた妖怪、としか龍泉は言わなかった。幻想郷に流れてくる妖怪として特に珍しくない境遇であり、あまり問い詰めても良い顔をしないだろうと分かったので、それ以上の事を凛華は聞かないようにしていた。
閻魔は歯切れの悪い返答を聞いて感付いたようだ。無念を含んだ吐息が微かに漏れる。
「そうですか……。そこまで割り切っている訳ではなさそうですね」
「あの、閻魔様は龍泉さんの事を御存知なのですか?」
「ええ、勿論です。過去から現在において、彼は非常に様々な功罪を果たした存在ですから。その動向には私や他の閻魔達も多くの関心を払っています」
「では、龍泉さんが何をしてきたのか教えて頂けませんか?」
「それは出来ませんよ。彼が言わないという選択をしたのなら、私はそれを尊重したいと思います。知りたいのならば彼からの発言を待ちなさい。いいですね?」
言い聞かせるような話し方に凛華は素直に頷きそうになったが、すんでのところで思い留まる。
閻魔が龍泉の事を尊重するとは奇妙な話だ。凛華が覚えている限り、龍泉は閻魔に誉められる事を殆どしていない。寧ろ、人間を見殺した事も考えれば罪人として扱われてもおかしくない筈なのだ。
「えっと、閻魔様ですよね?」
「そうですよ。まあ、信じられないのも無理がありませんね。普段は地獄で裁判をしている姿を見て納得して頂けるのですが、そうでもなければ閻魔に女性が就いているなんて、普通は誰も信じませんから」
「……あの、私はもしかして」
その次の言葉を出そうとするが、喉が乾いて出てこない。風邪のせいなのか、頭が酷く眩み出す。
しかし、それは風邪のせいではない。ただ、心と体が真実を知る事を拒否しているのだ。
荒れ狂う内面。それを知らず、閻魔がにこやかに会釈する。
「申し遅れました。私は四季映姫。幻想郷の閻魔です。初めまして、川上凛華さん」
閻魔と、初対面。
生まれ変わりであるなら、そんな事は有り得ない筈。
矛盾に気付いた事で、凛華の中で何かが瓦解していく。
笑顔が記憶から消えていく。
龍泉の笑顔も、自分の笑顔も。
「そんな……、違います。だって、私は死んだんですよ? 腕を千切られて、羽を毟られて……」
「それは別人です。ルチェと言う名前のね」
茫然としていた自我に感情が甦る。
髪を振り乱し、凛華は叫んだ。
「いいえ! それも私です! 私が龍泉さんの腕の中で、そこで確かに死んだんです!」
「彼女の魂は私が先日裁いたばかりです。あなたが彼女と同一である事は有り得ません」
「嘘つき!」
肌身離さず、服の下に隠し持っていた形見のナイフを、凛華は鞘から引き抜いた。
閻魔の理屈を聞き続ける事が出来なかった。
凛華には記憶がある。その記憶を信じて、龍泉は凛華を生まれ変わりと認めてくれた。このナイフを、その証として渡してくれたのだ。
「おやめなさい、凛華さん。閻魔の私を傷付ける事も黙らせる事もあなたには出来ません」
怯えも恐れも無く、閻魔は毅然とした振る舞いで応じる。
「後戻りしなさい。あなたに罪を犯して欲しくありません。龍泉もそれを望むでしょう」
威圧どころか、身を案じる言葉に凛華は怯み、後ろへ一歩下がる。
同じだった。龍泉も今の閻魔と同じ事を確かに言っていた。
だが、もう無理だった。
凛華の背後。障子の後ろに誰か居る。
きっと、全てが聞かれている。
閻魔に刃を向けたという事実が知り渡れば、もう龍泉から愛される事は有り得ない。
それならば、いっそ――。
龍泉がやめろと言った時、既に凛華はナイフを閻魔目掛けて投げ付けた後だった。
誰もが、全て、手遅れだった。
閻魔と凛華を交互に見やる龍泉は何も言えず、障子を開けた姿勢のまま固まっていた。
声で気付いたのか、恐れるように固い動きで凛華は振り返る。
「おとう、さん……?」
その瞳に浮かぶ涙が、龍泉の激しい苦悩をありありと写し取り、ぽたりと畳に染み込んでいった。




